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『道浦TIME』

新・読書日記 2012_153

『テレビ屋独白』(関口宏、文藝春秋:2012、6、30)

関口宏さん、なんと自身"初"の著作らしい。本、いっぱい書いていそうなのですが、意外でした。ご自身のイラストもふんだんに入っていて、それほど文字ばかりではなく、ゆるい感じの読みやすい本。テレビ界で50年=半世紀生きてこられた著者の、50年を概観しての感想をまとめた本ですね。テレビの特性、良い面・悪い面を書いているが、その中で呈された「苦言」に耳を傾けるべきものがあった。

『相手のコマーシャルタイムとずらして敵の客を引き込む。よく考えれば、そこで引き込んだ視聴者も、自分のところのコマーシャルタイムには、また敵にとられるという「結果チャラ」のはずだと私は思うのだが...そうせずにはいられないのが最近のテレビ屋であって、どこかゲーム感覚に似ているのかもしれないが、残念ながら、今ではこの戦法は常識化しつつある。』

『「内容よりもテクニック」に走る、今のテレビの「矛盾」が垣間見える』

『「瞬間構成力」。つまりこれは、「起」「承」「転」「結」とよく言われる文章の基本的な構成方法のことで、それを瞬時に判断する能力ということになる。』

『ヒットラーの右腕と言われたゲッペルスが、プロパガンダには、映画とラジオが最適だと見抜いて、盛んにこれを利用した。そしてゲッペルスはこうも言ったと伝えられる。「まずは女だ。女を取り込めば子供はそれに従う。その母子を見て、やがて男どももついてくる。」と』

『マクルーハンが盛んに指摘していたテレビの特質は「ハプニング」だ』

『いかにもあざとい、騙しに近い手は、使ってほしくない。ハプニングとは一寸ニュアンスが違うかもしれないが、「この後すぐ!」「この後すぐ!」と言って、視聴者を四時間も五時間も待たせるなんてことは、言語道断である。』

『テレビの本質をまとめておこう。それは端的に言って、「疑似」「生」「ハプニング」に集約できそうだ』

『過当な視聴率競争の中で、知らぬ間にテレビ屋が陥ってしまう罠のようなもので、一度取り込んだお客、視聴者を離さないように離さないように、これでもか、これでもかとテクニックを駆使する』演出術の愚かさであって、よりショッキングに、よりオーバーに表現する、慢性テレビ症候群とでも名付けたい。たとえば、なんでもない出来事を、オーバーなナレーションと大袈裟なBGM、つまり音楽の効果で、時にはなんでもない小さな出来事を、お涙頂戴物語り風に仕上げてしまう、安手のサギに近い手だ。』

『よく報道番組などでみられるカギ「 」(問題となっている本人が述べた言葉を、原稿上、「・・・」で表す手法で、業界では、カギカッコと読んでいる)に声優さんを使う演出法も、その範疇に含まれると私は思っている。つまり、上がってきた原稿にカギ「 」の言葉があると、今では自動的に、声優さん、もしくはAD、アシスタントディレクターあたりに、ドラマ仕立てに読ませてしまう演出法のことで、殺人事件の容疑者が、「私はやっていません」というカギ「 」の原稿を、声優さん、もしくはADの、ドラマ仕立てのセリフにしてしまった場合、どこまで真実に迫れるのかは疑問である。さらに言えば、セリフにしてしまうことによって、視聴者には断定的に伝わってしまい、真実とおよそかけ離れた判断を強いてしまあう場合も出てくるはずである。(中略)ただ、ナレーターが、感情を入れず、たんたんと「私はやっていません」と読めば良いのだ。そしてそのニュアン、受け取り方は、視聴者にお任せすれば良い。』

『字幕、スーパーの多用も、視聴者のイマジネーションを掻き消してしまう場合がある。(中略)娯楽番組ならともかく、正確を期すべき情報系の番組で、これでもか、これでもかと字幕を出されると、辟易してしまう視聴者もいることを忘れるべきではない。(中略)昔はここまでやらなかった。せいぜい聞き取り難い方言、訛りのフォロー、どうしても説明しておかねばならないメッセージ程度にしか使われなかったし、編集機が発達していなかったから、スーパー一枚一枚にコストがかかり、何とか予算を最低限に抑えようと頑張っていたのだが、それで充分事足りたし、画面にも、それこそ「品」のようなものが漂っていたように思われる。そもそもテレビとは映像メディアなのであって、絵が主役。それをフォローするのが音であり、スーパーはほんの付け足し程度のツール、つまり道具なのだ。それが字だらけとあっては、海老がどこにいるのか分からないコロモだらけの天婦羅になってしまうのである。』

なかなか辛辣な批判だが、「その通り!」思う部分と、「そうは言っても、ねえ・・・」という部分の両方があった、「テレビ屋」として。


star4

(2012、8、26読了)

2012年8月31日 15:44 | コメント (0)