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『道浦TIME』

新・読書日記 2011_094

『検証 東日本大震災の流言・デマ』(荻上チキ、光文社新書:2011、5、20)

 

「デマ・流言」というと思い出すのは「関東大震災」の際に「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などという流言蜚語が広まって、朝鮮人の虐殺につながったという話。もちろん私が生まれる前の話ではあるが、それは物の本で読んだりして記憶に強く残っていた。

1995年阪神大震災発生時、泊まり明けのアナウンサーとしてニュースを伝えるときに思ったことは、

「決して流言蜚語の原因になるような"不確かな情報"を伝えない」

ということであった。「早さ」よりも「正確さ」を大切にしたいと考えていた。

今回の東日本大震災に伴って、私のところにも「節電のお願い」というメールが知り合いから多数、舞い込んだ。また、妻のところにも子どものPTA関係の人からからそういったメールが届いた。しかし私は「これは怪しい」と思い、送ってきた人や、その人がCCで送った人たちに「このメールの内容は怪しいですよ」という内容のメールを送った。

全国で同じようなことが起きていたらしい。それも私が接した「節電メール」以外にも多数の流言・デマが広がっていたという。それを震災発生から2か月の時点で収集・分析したのが本書。著者は「ネット炎上」など、インターネットで「情報」についての分析などを行っている1981年生まれの評論家・編集者。救援を促す流言は、本当に助けを求めている人たちの声を消してしまうとか、注意喚起を促すメールが、かえって不安を増幅させるなどの分析はなるほどと思わせた。

 

 


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(2011、5、25読了)

2011年5月31日 22:16 | コメント (0)

新・読書日記 2011_093

『怒るヒント~善人になるのはおやめなさい』(ひろさちや、青春出版社:2011、5、15)

 

タイトルがいい!

以前、『怒らない○○』というような本を何冊か読みましたが、そこに書かれていたものは「そんなことが出来るのなら、既にやっている!」

と思うようなことばかりで、

「できないから怒るんじゃないかっ!」

とかえって怒りが爆発するようなものが多く、あまり参考にならなかったのです。

その点、この本は逆手に取ったのか、「怒るヒント」ですから、まずそこは受け入れられます。

「卑怯な人ほど怒りません」

に始まり、

「嫌なやつの『いいところ探し』なんてしなさんな」

「釈迦は『怒るな』なんていっていない!」

「『エライ人は怒ってよし。下々は怒るな』が日本社会の嫌らしさ」

など、うんうんとつい読んでしまう項目がズラリ。

そうやって「手なづけておいて」、第2章では「怒る技術」と称して、実は「怒らない」(あるいは、究極の「キレル」状態に至らないための小出しのガス抜きの)技術が書かれています。もって生き方がうまい気がします。第3章、第4章とだんだん深いところに引きずり込まれて、読み終わると、なんとなく怒りも収まっているような気が、少しだけ・・・。

 

 


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(2011、5、18読了)

2011年5月31日 20:15 | コメント (0)

新・読書日記 2011_092

『原発労働記』(堀江邦夫、講談社文庫:2011、5、13)

 

1978年9月から79年4月にかけて、福井県の美浜原発・敦賀原発、そして福島県の福島第一原発で「労働者」として働いた当時30歳の著者の「ルポ」。1979年に『原発ジプシー』というタイトルで単行本が出ているが、それが27年ぶりに復刊された。もちろん、「311日」東日本大震災で起きた福島第一原発の事故、という出来事によって復刊したのである。30年以上前ではあるが、まさにその福島第一原発でも働いていた著者。原発の「定期点検」の際に、現場の労働者がどういう状況で、どういう仕事をしていたかが、克明に分かる。放射能ももちろん怖いが、それより目の前の暑さ・息苦しさ・・・悪条件の職場の中で、ついついラクな方に行ってしまうのは仕方がないと思う。それは現在、「一時帰宅」に向かう福島の地元の皆さんの様子を見ていてもよくわかる。しかし、

「ただちに健康に異常がない」

という「ただちに」の「あと」、どうなるかを示してくれないと・・・・。

原発労働者として働いていた最後の月・1979年4月に、アメリカ・スリーマイル島での原発事故が起きる。その時に原発労働者の反応はどうであったか、も記されている。

具体的に現在、原子炉と闘っている現場の作業員の皆さんも、こんな悪条件の中で必死に頑張ってくれているのだということを考えると、一日も早く収束してくれと願うよりほかはない。

著者は、「あとがき」にあたる「跋にかえて」で、自身の現状について、

「死の淵を過去二度にわたって彷徨し、太い人工血管を全身に埋め込まれ、およそ考えつくかぎりの後遺症に次々と襲われ、そしていまでは『リハビリ難民』となってしまっている自分のからだのことを考えあわせますと、そんな長丁場の話など到底できそうもなく・・・・」

と記し、また、

「テレビに映ることも、人びとに感動を与えることも、賞賛されることもなく、コンクリートに囲まれた原子炉内の暗い暑い現場にはいりこみ、日々、放射能をその全身に浴びながら、ただひたすら黙々と働く下請け労働者たちがいることを、さらには、彼ら労働者たちの被ばく作業無くして原発は決して動かないのだ、との重い現実にも想いを寄せていただけたら、と思います。」

とも書いている。

 

 


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(2011、5、22読了)

2011年5月31日 18:33 | コメント (0)

新・読書日記 2011_091

『歌謡曲』(高護、岩波新書:2011、2、19)

 

シンプルなタイトル。「岩波新書から」というのもちょっと意外。

しかし、1995年にいたるまでの「歌謡曲」の大きな流れを、具体的な曲と歌手、プロダクションなどの流れを記しながら示している。中には、その曲のどういった節回し、歌詞が大きな歌謡曲の流れの中でどう特異であり、特徴的であるかなどを実証してみせている。こちらもつい、口ずさんでしまうほど「知ってる、知ってる!」という曲ばかり。うーん、懐かしい。こうやって見ると、やはり偉大な作詞家・作曲家たちがいた時代だったんだなあと、「昭和」を振り返ってしまう。

本書が「1995年」で終わっているのは、紙幅が尽きたためか、それとも「1995年」で「歌謡曲」の歴史が終わってしまったのか?たぶん前者だとは思うが、たしかに最近は「歌謡曲」という分類をあまり耳にしなくなったなあとは思う。ぜひ、続編を望む。

 

 


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(2011、5、28読了)

2011年5月31日 12:27 | コメント (0)

新・ことば事情

4370「スコップとシャベル」

 

2011年4月20日のデイリースポーツに、

「『震災の片付けしない』娘婿殴り逮捕」

という見出しがの記事が出ていました。

宮城県石巻市で18日、娘婿の頭をスコップで殴り、頭を7針縫うケガをさせたとして、宮城県警は78歳の男を傷害の疑いで逮捕したという記事です。

記事の内容も衝撃的ですが、私が問題にしたのはその凶器の、

「スコップ」

です。関西人の私の「スコップのイメージ」は、

「花の種や球根を植えるときに使う小さなもの

なのですが、どうやらこの凶器は、そんな小さなものではないようです。記事をさらに読み進めると、

「スコップは、家に流れ込んだ土砂などを片付けるために使っていた。」

「容疑者は、治安の悪化を心配して護身用にスコップを近くに置いていたという」

と書かれているので、やはりこの「スコップ」というのは、

「工事などに使う大きなもの

のようです。場所も東日本ですし。西日本出身の私などは「スコップで殴った」と聞くと「子供のケンカ」がちょっとエスカレートしたような感じで、

「大したケガもしないかな・・・」

と思ってしまいますが、実際はそうではありません。

と、ここまで読んで既にお気づきのように、

「『スコップ』は、西日本と東日本で、指すものが違う」

のです。

(西日本)(東日本)

「スコップ」  小   大

「シャベル」  大   小

というイメージです。私など西日本出身者に言わせると、

「じゃあ、シャベルカー(ショベルカー)のシャベルは小さいのか?大きいやんか!」

となります。「スコップカー」なんて聞いたことがありませんし。

ところで、辞書ではどう書かれているか。

『精選版日本国語大辞典』を引くと、

「スコップ」=小型のシャベル

とあるではないですか!え?ということは、

「スコップ < シャベル」

という「関西型」ですか?『広辞苑』は、

*「スコップ」=粉・土砂をすくい上げ、また混和するのに使う、大きな匙形(さじがた)の道具。シャベル。掬鍬(すくいぐわ)

*「シャベル」=砂・砂利・年度などやわらかい土質を掘削し、すくうのに用いる道具。匙(さじ)型鉄製で、木柄をつけたもの。シャブル。ショベル。スコップ。

うーん、どちらが大きいかはわからないなあ。

『三省堂国語辞典』は、

*「スコップ」=土・砂・雪などをすくったりするのに使う道具。足をかけられるものが多い。

*「シャベル」=園芸などに使う、片手に持って土をほる道具。移植ごて。

これは明らかに、

「スコップ > シャベル」

ですね。

『明鏡国語辞典』は、

*「スコップ」=小型のシャベル。また、シャベル。

*「シャベル」=土砂などをすくったり穴をほったりするのに使う、さじ状の道具。ショベル。

うーん、これは「関西型」の、

「スコップ < シャベル」

だなあ。

『新明解国語辞典』は、

*「スコップ」=柄の短い、シャベル形の器具。(シャベルと同義にも用いられる)。

*「シャベル」=土砂や石炭などをすくったり穴をほったりするのに使う道具。ショベル。(スコップと同義にも用いられる)

うーん、これも「関西型」の、

「スコップ < シャベル」

だなあ。

『新潮現代国語辞典』は、

*「スコップ」=さじ形の、土などを掘る器具。シャベル。

*「シャベル」=土・砂などを掘りすくうのに使う道具。ショベル。スコップ。(例)セメントに小砂利を混ぜたのを(略)シャベルでならしてゐる」(志賀直哉『暗夜行路(前)』)

これも「関西型」の、

「スコップ < シャベル」

のようですね。工事用が「シャベル」ですから。

『岩波国語辞典』は、

*「スコップ」=(1)土砂を掘ったりするのに使う、皿(さら)型の部分に柄がついた道具。▽「シャベル」(1)の意でも使う。(2)園芸で移植などに使う、片手で作業できる、小型のシャベル(1)。▽(オランダ)scop

*「シャベル」=(1)土・砂など物を(掘って)すくうのに使う匙(さじ)型の部分に柄がついた道具。▽スコップの意でも使う。(2)→ショベル▽shovel

うーん、両方書いてあるぞ。でも語源から言うと、

「スコップ」=オランダ語

「シャベル(ショベル)」=英語

ですから、「オランダ語」の方が古いのかな?

こうやって見てくると、国語辞典は「関西型」の

「スコップ < シャベル」

が多いようですが、そんな中、

「スコップ > シャベル」

としている『三省堂国語辞典』の編纂にあたった、早稲田大学非常勤講師の飯間浩明さんに聞いてみました。

『「スコップ」「シャベル」の話ですが、私もどちらがどちらだか、ときどき分からなくなります。以前、auのコマーシャルで〈家族と、もっと、シャベる。〉というのがありましたが、あそこに出てきた移植ごては、私の感覚では「スコップ」でした。「シャベル」は、私にとっては大型の物です。

『三省堂国語辞典』では、現行第6版で、「シャベル」「スコップ」の説明を入れ替えました。これは、東京式に合わせたのです。東西の違いについて、もう少し説明してもよかったかな、と思います。次の7版での検討課題になりますね。

この2つのことばについて書いた本というと、真田信治先生の『脱・標準語の時代』(小学館文庫)141ページ以下に〈「スコップ」と「シャベル」〉の節があります。

 

 私の母方言では「スコップ」は大型のもの、そして「シャベル」は比較的新しい用語で、土いじりをする時などに使う小型のものを指した。この「スコップ」と「シャベル」の大型小型にかかわる意識は、おそらく東京あたりの人々の語感と同様であろう。

 ところが、関西では逆に、小型のものが「スコップ」で、大型のものが「シャベル」と呼ばれる傾向にある。「スコップ」は英語のscoopに対応し(ただし、直接的にはオランダ語のschopに由来する)、「シャベル」は英語のshovelに対応するものなので、その点からすると関西の方が原語の意味に近いと言えるわけである。確かに、いわゆるショベルカー(自動掘進車)のショベルは大きいではないか。

 

ではなぜこういう東西の違いが生まれたかというと――分かりません。染谷裕子さんに「シャベルとスコップ」(『調布日本文化』5 1995.03p.350-368)という論文があって、それはこの2語の歴史的なことにも触れています。しかし、なぜ今、東西の違いがあるかについては、あまり語っていないように見えます。むしろ、染谷さんは、両語の使用が「混用されている」ととらえていて、東西で傾向が分かれている、という点についてはあまり注

意を向けていないようです。

この論文は、下記でもご覧になれます。

http://ci.nii.ac.jp/naid/110000477447/

 

と、大変丁寧に教えていただきました。真田先生の本に書かれていましたか・・・以前読んだのに・・・コロッと忘れていました。家で確認したら、ちゃんと載っていました。

ということで、「スコップ」と「シャベル」は地域差もあり、揺れている言葉と言えるのではないでしょうか。

 

(2011、5、30)

2011年5月31日 09:36 | コメント (0)

新・読書日記 2011_090

『ことばから誤解が生まれる~「伝わらない日本語」見本集』(飯間浩明、中公新書ラクレ:2011、5、10)

 

年に1、2回は酒を酌み交わす中の飯間さんの最新刊。「できたら贈ります」と言われていたのだが、会社帰りに家の近くの書店で見つけた。

「少しは売り上げに貢献できるかも。早く読みたいし」

と購入、家に帰ると、ちょうど飯間さんからも届いていた。・・・1冊は後輩に読ませます!

本書では「聞き間違い」から生まれる誤解を最初に書いている。例えば、

「先生に『鍛え直しだ』と言われた」

と母に伝えると、

「良かったねえ、『期待の星だ』なんて」

と言われたとか、眼鏡屋さんで店員にいきなり、

「ムショクですか?」

と聞かれて、思わずムッとしながら、

「公務員です!」

と答えたら、

「いえ...レンズの色は"無色"ですか」

と言われたとか、手術に関する話題のときに「(手術を)しなくてもよい」の意味の大阪弁で、

「しんでもいいわ」

と言われて、

「死んでもいいわ」

の意味に聞こえてドキッとしたりという、具体的な例がどっさり!

私も甲南大学の授業(マスコミ言語研究)で、1,2年前から必ずやるようにしているのは、「言い間違い」について。糸井重里さんの『言いまつがい』の例を紹介したり、アナウンサーの失敗談を紹介したりし、また『言い間違いはなぜ起こるか』(寺尾康=静岡大学の先生)から、その原因を分析したりという感じですが、飯間さんのこの本の内容って、同じことの「ウラオモテ」みたいですね。

「聞き間違い」の方は、話している人は正しく言っているのに、それが同音異義語やらで正しく意味が伝わらないという側面が問題であると。

そういった「ディス(あるいはミス)コミュニケーション」を防ぐにはどうすればいいか?「言葉のコミュニケーション(伝達)度合いの効率」を上げるためには?ということを考えるのに、絶好の一冊ですね。こういったことを、常にこれだけ一生懸命に考えている飯間さんという人は、本当に「誠実」な人だと思いました。

 

 


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(2011、5、11読了)

2011年5月30日 18:25 | コメント (0)

新・読書日記 2011_089

『指揮者の仕事術』(伊東乾、光文社新書:2011、1、18)

 

2か月近く前、震災直後に読み終えて、あまりの感動にうちの合唱団の指揮者のFさんに「絶対おもしろいですよお!」

と薦めて貸してあげたら、なかなか戻ってこなかったので、感想を書くのが遅れました。ちょっと内容、忘れてしもた。もう一度読みながら思い出すことにしよう。

まず本書は「指揮者の仕事とは何か」「指揮者はなぜ必要なのか?」という、素人が誰しも思う質問に答えるところから始まる。

「休符を振る」というのは、実際に指揮者に振ってもらって歌う身としては、大変よくわかる。コンダクターの危機管理能力は3つ。

1、             何が正しい状態なのかをきちんと理解する。

2、             いま起きている事態が一体何なのか、瞬時に正確に判断する。

3、             最適の対処策を、演奏をストップせず直ちに実行する。

たしかに!いつもやっていることだし、これはほかの仕事にも共通している!

ブーレーズやバーンスタイン、小澤などの巨匠に接して観察したことなども記されていて、本当におもしろいし、「うん、うん」と思ってしまうことが満載!

ベートーベンの第九の歌詞の分析なども、私たちにとっては目からウロコの仕事であった。本当に勉強になりました!

 

 


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(2011、3、24読了)

2011年5月30日 12:32 | コメント (0)

新・読書日記 2011_088

『岳 第1・2・3・4巻』(石塚真、小学館)

 

いま、映画化されて公開されているものの原作に当たる山岳マンガ。私はおそらく、連載第1回から欠かさずに読んでいるが、映画化を機に「最初はどういうふうに始まったのか」をもう一度確認したくて読み始めた。今、単行本は13巻ぐらいまで出ていますが。もう連載から6年ぐらいになるのかな。

それとあわせて、今週号の『ビッグコミックオリジナル』で連載されている最新の「岳」を読んでいたら、なんと2巻で出てきた登場人物が、また出てきている!これは明らかに単行本を買わせようという魂胆?・・・はまってしまった!

でも、いい!!山に登らない私でも(富士山には、昔、夏に登りましたが)、ジンと胸に響きます。主人公の三歩がなぜ「岳」という漢字(この漫画のタイトルにも通じる)が書かれたキャップ(帽子)を被っているかを、長野県警の山岳救助隊員・クミちゃんに話すシーンが、第2巻に出てきますよ。居酒屋でバイトをしている山の友人ザックとの出会いとかも。こりゃあ、全巻読むしかないなあ・・・。

 

 


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(2011、5、24読了)

2011年5月29日 20:31 | コメント (0)

新・ことば事情

4369「NHKの『ギネス世界記録』」

 

5月22日の夜7時のNHKニュースを見ていたら、一番最後(エンディング)で京都府福知山市の世界一長いブランコというのを紹介していました。長さ(というか高さかな)が22、9メートルあるそうで、そのブランコの前で結婚式が行われたそうです。駐在カメラマンの映像リポートのような感じでした。その中で、

「この世界一長いブランコ、ギネス世界記録にも申請するのだそうです」

と言っているではないですか!

あれ?NHKさんは、こういった「商標登録」されているような名前は言わないんじゃなかった?(本当は民放も同じですが、NHKよりは基準が緩いためか「ギネス世界記録」という言葉は使っています)NHKさんは、

「世界一の記録を集めた本」

などと言い換えていたのでは?(そのあたりの事情については、平成ことば事情812「世界一の記録を集めた本」平成ことば事情1537「世界一の記録を集めたイギリスの本」もお読みください)

その後、夜9時前の関西ローカル(BK)のNHKニュースでも、

「ギネス世界記録」

と言っていました。もうNHKも「ギネス」解禁!なのでしょうか?

 

うん?・・・ちょっと待てよ、

「そういえばNHKの原田邦博さんから、以前これに関してメールをもらったような・・・」

と思い出して、前にもらったメールを捜ししてみると・・・。

あ、ありました!

2009年の7月14日に、もらってました!

 

『「世界一の記録を集めた本」ですが、実はNHKでは最近、

「ギネス世界記録(集)」「ギネス記録(集)」を「使用可」

と変更しました。ただし「ギネス」単独では「ビール名」になるため「使用不可」。

「ギネスブック」も旧名であるため、原則使用しない、という考え方です。』

 

そうなのか、もう2年ほど前から「ギネス世界記録」は解禁になってたんだ!

気付かなかったなあ、メールももらっていたのに!

 

(2011、5、22)

2011年5月24日 12:49 | コメント (0)

新・ことば事情

4368「アシメ」

 

最近、「非対称」の髪型が流行っているという話を聞きました。

そのことについて「ミヤネ屋」の「ヨミ斬りタイムズ」のスタッフと話していたら、

「ああ、『アシメ』ですよね」

と、ファッションに詳しい若いスタッフが言いました。

「アシメ?何、それ?」

「アシンメトリー、非対称のことを略して『アシメ』って言うんです」

「へえー」

彼のアクセントは関西なので「3拍中高アクセント」で、

「ア/シ\メ」

「シ」が高い。そう、

「オ/シ\メ」

と同じアクセントパターンです。きっと東京では、「平板アクセント」か「頭高アクセント」で、

「ア/シメ」(平板)、「ア\シメ」(頭高)

と言うんでしょうね。

この「アシメ」、『現代用ジーニアス英和辞典』「アシンメトリー」を引くと、

asymmetric」「asymmetrical

という2語が出てきました。Google検索(5月22日)では、なんと、

「アシメ」=72万2000件

も出てきました!

「アシメのメンズ髪型カタログ」

なんてものも。それを見て、「あ、あれだ」と分かりました。「アシメ」とは、

「サイボーグ009」

の髪型、そして『巨人の星』の、

「花形 満」

の髪型だ!え?違う?そうかなあ。「髪型」を加えて検索したら、

「アシメ・髪型」=11万3000件

でした。

 

(2011、5、22)

2011年5月23日 22:49 | コメント (0)

新・ことば事情

4367「玉成」

 

 

5月18日のテレビ朝日系『報道ステーション』で、国産ジェット機「MRJ」完成への道の特集をしていました。
「MRJ」

とは、

「三菱リージョナルジェット(Mitsubishi Regional Jet)」

の頭文字を取ったものだそうです。中小企業の「技術」も貢献しているという、なかなか興味深い内容でした。

その中で耳に止まった言葉は、三菱重工の社長が着工式典のあいさつで話した、

MRJを玉成しましょう!」

という中の、

「玉成(ぎょくせい)」

という言葉。初めて耳にしました。辞書を引いて見ると、

「玉成」=玉のように立派にみがき上げること。また、立派にできあがること。転じて、完全な人物にしあげること。(精選版日本国語大辞典)

と載っていました。

『広辞苑』『新明快国語辞典』『デジタル大辞泉』『Goo辞書』(ネット)にも載っていましたが、『明鏡国語辞典』『三省堂国語辞典』『岩波国語辞典』『新潮現代国語辞典』には載っていませんでした。「ちょっと古い、格式ばった言葉」のようです。

Google検索・日本語のページでは(5月22日)、

「玉成」=10万7000件

も出てきました。学校の名前でも出てきたので、「人を磨き育てる」意味での「玉成」は、わりとよく使われているのでしょうね。

 

(2011、5、22)

2011年5月23日 16:48 | コメント (0)

新・ことば事情

4365「めっちゃ・むっちゃ・ばり」

 

 

甲南大学での「マスコミ言語研究」で、「若者語」について講義をした後、JR摂津本山駅まで歩きながら「若者の強調語」について考えていました。すでに定着している、

「め(っ)ちゃ・む(っ)ちゃ・ばり」

について考えていたのです。

「『ばり』は、濁音が力強いし中国地方の方言ということで、関西の若者にとっては耳あたりいい言葉なので、強調語として取り入れられたのだろう。『バリバリ』という強いメージの擬態語の連想も働く。これに対して『めっちゃ』『むっちゃ』は、なぜ定着し、今もそのまま『強調語』の王座に君臨しているのか?」

ということについてです。で、ふと思いつきました。発音面についてです。

「『ま行』と『ば行』は、ともに唇がくっつく。力を入れてしゃべるときは、ます唇を閉じて力を込めて爆発的に開く。音はその結果。『めっちゃ』も『むっちゃ』も『ま行』で始まり、『ばり』は『ば行』で始まる。やはり『強調する』という姿勢が、発音の仕方にも表れているので、表現しやすいのではないか?」

いかがでしょうか?

 

(2011、5、22)

2011年5月22日 23:09 | コメント (0)

新・ことば事情

4364「哄笑」

 

 

ブログの読書日記に、

「哄笑みたい」

と書いたところ、アメリカに住むI先輩からメールをもらいました。

 

()という表記、が「口偏に山書いて虫」の「わらい」みたい。哄笑というか・・・。」

とありますが、「哄笑」は、わっはっはと高笑い、大笑い、爆笑することだと思うので、

文意にはそぐわないのではないでしょうか。むしろ、「嘲笑」とか「失笑」のほうが適当ではないでしょうか。また、知りませんでしたが、「口偏に山書いて虫」に「笑」を続けて、「ししょう」という言葉もあるそうです。なんか、笑いがダブっているような気がしますが。

 

おお、なんとなく書いてしまったが・・・改めて「哄笑」の意味を辞書で引いて確かめてみました。

「哄笑」

=大口をあけて声高く笑うこと。大笑。おおわらい。(広辞苑)

=大口をあけてどっと笑うこと。(明鏡国語辞典)

=(大ぜいが)どっと笑うこと。たかわらい。(三省堂国語辞典)

=(「哄」は多くの人が一斉に発する声)その場に居合わせた人びとが無遠慮に笑う声。(新明解国語辞典)

=大声を上げて高らかにわらうこと。大笑(タイショウ)。(新潮現代国語辞典)

=大口をあけて笑うこと。大声で笑うこと。たかわらい。(精選版日本国語大辞典)

 

やはり「哄笑」は「大きな笑い声」だったのですね。意味を取り違えていました。すみません。よく考えたら「洪水」の「洪」ですから「大きな」イメージですよね。

なお、「笑っている人の人数」について触れているのは、『三省堂国語辞典』と『新明解国語辞典』だけでした。

 

しかし、こうして辞書を引いてみると「こうしょう」と読む単語(熟語)、多いですねえ。『広辞苑』では、49語も載っていました。ちなみに『明鏡国語辞典』は18語、『三省堂国語辞典』は21語、『新明解国語辞典』は22語、『新潮現代国語辞典』は23語でした。『精選版日本国語大辞典』はなんと68語ものっていました!なお『広辞苑』の49語は以下の通り。

 

口承・口誦・工匠・工商・工廠・公相・公称・公娼・公証・公傷・巧匠・巧笑・甲匠・

交床・交渉・交鈔・交睫・・考証好尚・行省・行粧・行障・行賞・厚相・厚賞・咬傷・

哄笑・後章・後証・洪鐘・紅晶・校章・降将・高声・高姓・高尚・高承・高昌・高商・

高唱・高(足へんに従の旧字体)、黄鐘・康正・康尚・鉱床・綱掌・講頌・講誦・

「皐羽翔」

 

という具合に、パソコンではなかなか出にくい字も含めて49語でした。こんなに同音異義語が多いと、変換ミスが増えるなあ・・・と言うより、知らない単語も多いなあ。

 

ところでその「口偏に山書いて虫」という漢字ですが、いま、「わらう」で変換したら・・・簡単に出ました。「嗤」です。なんでこの前は出なかったのだろう?

それからI先輩ご指摘の、

「ししょう(嗤笑)」

ですが、『精選版日本国語大辞典』に載っていました。

「ししょう(嗤笑)」=あざけり笑うこと。嘲笑(ちょうしょう)。冷笑。

「わらい」一つを取ってみても、色んな意味を含んだ笑いがあるものなのですねえ。

 

(2011、5、22)

2011年5月22日 21:02 | コメント (0)

新・ことば事情

4363「自治体の『治』」

 

 

「ミヤネ屋」で新聞を紹介する「ヨミ斬りタイムズ」のコーナーを担当しているYアナウンサー(横浜出身)が、

「自治体」

という言葉を言うときに、

「ジタイ」

と聞こえるのです。関西の年配の人の言い方のようです。本人は、

「しっかり、ジ『チ』タイと発音しています」

と言っているのですが、やはり「ジ」に近く聞こえる。

原因は何だろうか?と考えていたら、ピンポーン!と思いつきました。

本来「自治体」の「治(チ)」は「無声音」(=母音を伴わず、子音だけの音)なのですが、Yアナウンサーは「有声音」で「チ」と言っていたので濁って「ジ」に近い音になっていたのでした!つまり、しっかり力を込めて「チ」と言えば言うほど「ジ」に聞こえるという悪ュン環です。

しかしY君、関東出身なのに無声化、できないのかな。最近の若い人は、無声化を使っていないみたいですね。母音を大切にする関西の人のようなしゃべり方が定着しているからでしょうか。言葉の関西化が全国的に進んでいるようです。

『曲がり角の日本語』(岩波新書)を著した水谷静夫先生に言わせると、これも「曲がり角の日本語」の一例なのでしょうね?水谷先生は「発音」には踏み込んでらっしゃらなかったですけど。

 

(2011、5、17)

2011年5月22日 18:19 | コメント (0)

新・ことば事情

4362「すごいショックで」

 

 

よく耳にする言葉で、

「すごいショックで」

というものがあります。この「すごい」は、「形容詞の連体形」ですので、「名詞」を形容します。ですからこの「ショックで」が「名詞+助詞の『で』」なら「すごい」でOKです。

しかしもし、この「ショックで」が「ショックだ」という「形容動詞」なら「すごい」は使えません。「形容動詞」を修飾する場合には「連用形」でなくてはならない。つまり、

「すごく」

という形でないといけないのです。

これは判断がむずかしい!(どっちでもいいような気もしますが・・・。)

似たような例を挙げてみましょう。

(1)「すごい"バカ"」だった。

(2)「すごい」"バカだっ"た。

(1)は名詞の「バカ」を形容しているので「連体形」でOK。(2)は形容動詞の「バカだ」を形容しているので「連用形」になるはずなので間違い。正しくは「すごくバカだった」となるはずです。

発音のアクセント(1)の「すごい」は「す/ご\い」と「中高アクセント」。これは強調しやすいアクセントです。これに対して(2)の「すごく」は、本来は「頭高アクセント」で「す\ごく」だと思いますが、最近は「関西アクセントの浸透」と、「すごい」のアクセントパターンに引きずられて、「す/ご\く」というパターンが多いのではないでしょうか?

こんなことが「すごく気になる」のです。アナウンサーですから・・・。

 

(2011、5、17)

2011年5月22日 14:16 | コメント (0)

新・読書日記 2011_087

『キリスト教で見るもう一つのアメリカ』(石黒マリーローズ、日経プレミアシリーズ:2010、6、8)

著者はレバノン人で、夫が日本人。以前、キリスト教文化に関する著書を紹介したときに取材でお会いしたことがある。その後も連絡を取り合っていたのだが、ちょっとしたことがきっかけで、私から連絡を切るようなことをしてしまった。でも、欧米のキリスト教文化を日本人に伝える"伝道者"としては、一番興味深い存在であることは変わらない。

この本では、オバマ大統領が就任したときの言葉やその周辺の報道の言葉の中に出てくる「キリスト教的表現」、つまり「聖書の言葉」に基づく表現を解説してくれている。かなり専門的なので、難しく感じられるが、身近な映画やタレントも引用して、分かりやすく工夫を凝らしては、いる。

私は、この本の中に出てきた「スズメ」にハッとした。キリストが、スズメにさえも目をかけているというような聖書の中の表現があるそうなのだが、それを読んで「もしかしたら・・・」と思ったのは『コンドルは飛んでいく』の歌詞の中に出てくる、

「なれるものなら、カタツムリよりもスズメの方がいい」

という歌詞だ。中学生のときにこの歌詞を訳して、「『スズメ』も『カタツムリ』もすごく唐突だなあ」と思ったものだが、聖書の中の言葉を"下敷き"にしているのなら、それほど急な登場ではないのかもしれない。よくはわかりませんが。とにかく、知的な刺激を受けることができる本です。

 


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(2011、5、16読了)

2011年5月21日 17:18 | コメント (0)

新・ことば事情

4361「心臓がバクバクする」

 

アメリカ在住のI先輩から久々にメールが。

「最近、TVや映画の中のセリフ、特に若い人の間で、

『心臓が(胸が)バクバクする』

という表現を耳にします。胸や心臓は、『ドキドキする』ものだと思っていましたが、『バクバク』は、いつごろ、どういう経緯で発生し、広がったのか、そのへんをご教示いただければ幸いです。」

たしかに、もう何年も前から若者言葉としては、

「心臓がバクバクする」

という表現は聞いたことがあります。甲南大学で学生に聞いたところ、大体の学生は「ドキドキする」を使うとのことでしたが、2人ほど

「『心臓がバクバクする』を使う」

とのことでした。そこで「使い分け」について聞いてみると、

「『バクバク』の方が『ドキドキ』よりも程度が激しい場合に使う」

とのことでした。納得。

その後自分でも考えてみたところ、「バクバク」には、

「漢字のイメージの『爆(発)爆(発)』があるのでは?」

と思いました。つまり、「心臓が破裂しそうな感じ」その意味では「擬態語」ですね。一方の「ドキドキ」「擬音語」。実際に心臓の音は「ドクン、ドクン」と聞こえるし、それが早くなると「ドキドキ」って聞こえます。あまり「バクバク」とは聞こえません

「バクバク」で思い浮べるのは「大食い」です。「パクパク」よりも「勢いよく」「大量に早く食べる」イメージです。その一方で「行儀」は悪い。つまりその、

「掟破り的なイメージ」

も、「心臓がバクバクする」という表現にも付与されているのではないでしょうね?

54日にgoogle検索したところによると、

「心臓がバクバクする」=182000

「心臓がドキドキする」=311000

「心臓がバクバクした」= 68800

「心臓がドキドキした」=107000

で、まだ「ドキドキ」の方が「バクバク」よりも使われているようですが、両方、血行・・・いや、結構使われています。「体言止め」で見てみると、

「心臓がバクバク」=159万件

「心臓がドキドキ」=134万件

「心臓がドックンドックン」=14300

「心臓がバックンバックン」=23300

でした。「体言止め」だと「バクバク」の方が「ドキドキ」を上回っています。

今後の使用状況の推移に「胸がドキドキ」です。あ、「ときめく」場合は「ドキドキ」ですね。「バクバク」は胸がときめく場合には似合わないです。これも「程度問題」なのでしょうかね?

あ、結局「いつごろから、どういう経緯で広がったか」については、今後の課題ですね。(わかりませんでした。)すみません。乞うご期待!

 

                                               (2011、5、17)

 

 

(追記)

以前自分で調べて書いたものを読んでいたら、「胸がドキドキすること」を、

「だくめく」

とも言うそうです。この「めく」は接尾語なので、「だく」は「どきどき」でもなく「どくどく」でもく、

「だくだく」

するところから来ているのでしょうね。詳しくは「平成ことば事情4140 秋めくの『めく』」をお読みください。(あんまり詳しくないけど。)

(2011、6、3)

 

(追記2)

佐野洋子さんの『死ぬ気まんまん』(光文社:2011625に収録されている「知らなかった」(『婦人公論』19981022日号・117日号に掲載)を読んでいたら、

「心臓がバクバク」

が出てきました。

「心臓がバクバク動悸がしてしぼり上げるように痛くなり、立っていられなくなって息ができなくなる。いつもマラソンを走り終わった時のようなのである。」123ページ)

「ン、すっごく素敵なの。会うだけですーっと気持ちがグニャグニャにいい気持ちになるの。その時は、心臓バクバクしないんだから。それで、薬がすっごく効くの。」127ページ)

ということで、1998年には既に「心臓がバクバク」は使われていたようです。                   (2011、6、27)

 

 

(追記3)

映画化された『夜明けの街で』(東野圭吾、角川文庫:20107251刷・201191016刷・単行本は20076)。先日、主演の岸谷五朗さんが「ミヤネ屋」に出演してくれました。この原作の小説を読んでいたら、こんなシーンで、 

「心臓がばくばくし始めた」

と、平仮名の「ばくばく」が出てきました。それは主人公の男の元へ、不倫相手の父親・仲西から会社に外線の電話があり、「お尋ねしたいことがある。どこかで会えないか?」というシーンです。その電話を聞いて主人公は、

「心臓かばくばくし始めた。女性と付き合っている男にとって、相手の父親と会うというのは、出来るなら避けたい状況の一つに違いない。ましてや僕の場合は不倫なのだ。」

と独白しているところです。著者・東野圭吾の語彙に、

「心臓がばくばく」

があるということですね。「ドキドキ」は期待を込めた「プラス」感覚、「ばくばく」は不安な心理を表す「マイナス」の表現のように感じます。このシーンで「ドキドキ」を使うと、ニュアンスが変ってくるのではないでしょうか。

(2011、9、23)

(追記4)

『鉄の骨』(池井戸潤、講談社:20091071刷・2010107刷)を読んでいたら、「心臓がばくばく」が出てきました。

「緊張し、心臓がばくばく音を立てるほど興奮し、目の当たりにした初めての入札。」

心臓の音、「ばくばく」。

(2011、10、31)

(追記5)

『ビッグコミック・オリジナル』(2013年8月10日号)に連載されている「総務部総務課 山口九平太」(原作・林律雄、作画・髙井研一郎。これももう20年以上連載されているんじゃないですか?長いなあ。『島耕作』みたいに出世しないし、年も取らないよね、結婚もしないし。『サザエさん』のように時間が止まっている。)で、テーマは「電話」。その中で年配の「課長」が、

「そうそう、女の子に電話するときなんて、もう心臓がバクバクしちゃってね。」

と言うシーンがありました。え?この年代のおじさんでも「バクバク」を使う?と、ちょっと新鮮に感じました。「ドキドキ」じゃないんだ。

(2013、8、5)

(追記6)

『週刊文春』2013年8月1日号の65ページに載っている「ノイ・ホスロール」という薬の広告の見出しが、

「人前での発表...不安で胸がバクバク。」

とありました。「救心製薬株式会社」のお薬です。その効能というか、どういう時に飲めばいいかと言うと、

●人前で発表するとき 胸がバクバクする。

●プレゼンなどが 不安でドキドキする。

●神経が不安定で パニックになる。

そういった精神不安や動悸に優れた効き目を発揮するそうです。

(2013、10、13)

 

 

 

 

 

 

 

(2011、6、27)

2011年5月17日 02:06 | コメント (0)

新・読書日記 2011_086

『安全。でも、安心できない・・・~信頼をめぐる心理学』(中谷内一也、ちくま新書:2008、10、10)

「赤福」の事件が世に出たのは2007年の10月だった。「安全」だと言われても「安心」できない。あの"事件"では、たしかに誰も命を奪われることはなかった。その後も食品の「偽装」が相次いだ。それより前にも耐震偽装などが相次いで、実際に命を奪われるようなことがなくても「信用できない」「安全ではないのではないか」という気分が世の中に蔓延した。

この本では「安全」と客観的に保証されても「安心」できないのはなぜなのか?を「信頼を巡る心理学」の側面から探っていく。

「完全な安心は無理」「信頼を得るためのマネジメントとは」「価値観と信頼感の関係は?」「不安感情という要因」など、複合的に「安全と安心」の関係に切り込んでいく。

結局、人々の信頼を得て、人々の感情と向き合っていくことが大切なのだ、それは日々の行ないから現れるのだという"基本"に立ち返るのである。

いま、福島原発の放射能漏れ事故を前に、改めてこの本の内容をかみ締めてみる。

 


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(2011、5、12読了)

2011年5月21日 10:16 | コメント (0)

新・読書日記 2011_085

『切手百撰 昭和戦後』(内藤陽介、平凡社:2011、4、25)

 

 「"昭和の(元)切手少年たち"には懐かしの、平成生まれの若者には昭和レトロがカッコいい、そんな切手100点のモノ語りをオールカラーで紹介する切手図鑑」

と紹介されている、カラー写真での切手がコンパクトに満載された一冊。少年の頃、切手を集めていた男の子=現在おじさん達には、たまらない一冊。

しかも、「現在のその切手の価値」を☆印で表示。これは今の切手カタログでの評価ですが、それが載っているので、ちょうど子供の頃にカタログを見てワクワクした気分も味わえる。しかし、額面10円の切手、10倍になっても100円だからなあ。今となっては利殖とは程遠いよなあ。でも切手趣味週間の「見返り美人」とか「月に雁」、国際文通週間の「蒲原」などは、今も数千円から1万円以上という高値だそうだ。今はそれほど高くはなくてもやはり切手趣味週間の浮世絵なんか、きれいだよな。上村松園の「序の舞」は、切手で覚えました。ここ数年、この年になって「日本画」の良さも少しわかるようになってきて、先日も上村松園展で初めて実物の「序の舞」を目にして、その絵の大きさに圧倒され、着物の裾模様の艶やかさ、見事さにうっとりしましたが、切手の図案で知らなかったら、こんな憧れの気持ち=特別感も持たなかったんだろうなと思うと、「文化教育機関としての切手」という視点も、国には必要ではないかと思いますね。漫画の切手もいいけれども。

 

この本、内藤さんから送っていただきました。いつもありがとうございます。

それにしてもいつもすごいペースで本を出されてますね。

 


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(2011、5、10読了)

2011年5月20日 18:55 | コメント (0)

新・読書日記 2011_084

『老いの才覚』(曽野綾子、ベスト新書:2010、9、20第1刷・2011、3、25第19刷)

 

この本、ものすごく売れている。100万部を超えたと新聞に出てた。私が買った時の帯には80万部突破と。それから1か月半で20万部も!ものすごい勢い。初版1刷が出たのは去年の秋なのに、ここに来てすごい加速が。

内容は、取り立ててすごくはないので、普通です。それなのになぜ、こんなに売れているか?考えました・・・・きっと、買った人が買ったことを忘れてもう1冊(あるいは更に2冊)買ってしまうからではないでしょうか?(冗談です。)当たり前の普通のことを言ってくれる人が、少なくなっているからではないでしょうか。

結構、自分にも人にも厳しいおばあさんです、曽野さんは。それが「当たり前」の時代に、女性として「作家」という職業婦人だったんだから、当然といえば当然。

曽野さんといえば"美人の誉れが高い"・・・と私でもそんなイメージがありますが、もう80歳なんですね。同年代のオピニオンリーダーですね。

 


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(2011、5、14読了)

2011年5月20日 12:32 | コメント (0)

新・読書日記 2011_083

『クレー』(大岡信・解説、新潮美術文庫50:1976、5、25第1刷・2007、5、15第18刷)

 

京都で開かれていた「クレー展」。5月15日までなのだが、4月の段階から「(観に)行きたい!」と思っていて、結局ギリギリになってやっと行けた。

そこで、これまであまり気にしていなかったクレーの生きた時代背景に付いて興味がわいて、ミュージアムショップで買った一冊。

スイスで生まれたクレーだが、ユダヤ人ということでナチス支配下のドイツから逃れ、スイス・ベルンでその生涯を閉じたのが、1940年だったのだ。まだ、ナチスの支配は終わっていなかった。

実際の展覧会は、ちょっと面白い展示の仕方であった。大きな油絵はあまりなく、水彩とかデッサンとか。中には、中国の「トンパ文字」に似た絵もあった。

 

展覧会に展示されていたものより、この本に載っている絵の方が、私にはなじみがある。

「パウル・クレー」という画家を知ったのは大学のとき、男声合唱で谷川俊太郎の詩による『クレーの絵本』という合唱曲を演奏してからだ。曲は難しかったが、クレーの絵は好きになった。谷川俊太郎の詩も。

 

 


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(2011、5、13読了)

2011年5月19日 18:29 | コメント (0)

新・読書日記 2011_082

『新訂 方丈記』(市古貞次校注、岩波文庫:1989、5、16第1刷・2011、3、15第37刷)

西暦1200年前後、今から800年ほど前の鴨長明の時代も地震や風水害が日本を襲っていた。

貴族の時代(平安)では治まりきらなくて武士の時代(鎌倉幕府)に移ったことの原因の一つに、「天変地異」や「疫病」の流行があったのではないかと、『方丈記』を読めば思う。しかも京都・奈良といった"都"ではない場所=鎌倉で。

そんな時代の片隅で不遇をかこち、「世捨て人」の目で写した世の中のよしなしごとを綴った『方丈記』。「方丈」の部屋は、まるでタイムマシンのように、平安・鎌倉の世の中の出来事を21世紀の現代に伝えてくれる。これを読んでおれば、「想定外」なんて言葉は出てこないはずだ。

高校の古文の教科書で読んだのは、ほんの最初の方だけだったが、全体でも47ページほどしかなく、すぐに読める。「古文」と意識することも、ほとんどなった。ただ、「注」が付いているのがほとんど「研究」のための文献紹介で、普通の読者への解説になっていないところ多いのが、悔やまれる。もっと分かりやすい「注」の『方丈記』を書けるのではないかと思いました。それにしても、「第37刷」ですよ。教科書として使われているのか?すごいな。ロングセラーです。

 


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(2011、5、4読了)

2011年5月19日 12:16 | コメント (0)

新・読書日記 2011_081

『夜のミッキー・マウス』(谷川俊太郎、新潮文庫:2006、7、1第1刷・2009、5、20第3刷)

谷川俊太郎はすごい。

偉ぶらないからすごい。

ずっと自分の道を行ってるからすごい。

80歳近くになっても表現行為ができているからすごい。

ミッキー・マウスの"うそ""孤独"を見抜いて、詩にするから、すごい。

 


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(2011、5、8読了)

2011年5月18日 19:58 | コメント (0)

新・読書日記 2011_080

『回文集・煙草止め薬も~禁煙止め薬も 禁煙永遠延期PartIII』(イブ薮医、文芸社:2010、12)

 

「煙草止め薬も」=「モクヤメ ヤクモ」

「禁煙永遠延期」=「キンエン エイエン エンキ」

そして、著者名の、

「イブ薮医」=「イブ ヤブイ」

と、タイトルから著者名まで、すべて「上から読んでもしたから読んでも同じ=回文」でできている。「回文集」という「怪文集」。

実は著者は・・・綿Ⓢ櫛もよく知っているお医者の先生。去年の年末に、

「また、出たんやけど・・・」

と進呈されました。ありがとうございます。私も嫌いじゃないモンで・・・。

それにしてもこの「回文」の分量、たしかに「ギネス級」ですなあ。


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(2011、5、10読了)

2011年5月18日 12:57 | コメント (0)

新・読書日記 2011_079

『金の言いまつがい』(糸井重里監修、ほぼ日刊イトイ新聞:2011、5、1)

「金」に続いてこちら(「銀」)も笑わせてもらいました。しかし「おもしろうて、やがてかなしき・・・」的に、少し笑い疲れた。

解説は、フリーアナウンサーの梶原しげるさんでした。

単に一つ一つのエピソードがおもしろいだけでなく、並べ方・編集によっておもしろさが際立っている気がしました。

それにしても「人」って、どうして「言いまつがって」しまうんだろうなあ。

いろいろ「言いまつがい」分析のための「データベース」にもなりそうです。


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(2011、5、9読了)

2011年5月17日 21:54 | コメント (0)

新・読書日記 2011_078

『銀の言いまつがい』(糸井重里監修、ほぼ日刊イトイ新聞:2011、5、1)

甲南大学の授業でここ数年、糸井さんの「言いまつがい」を取り上げている。その日も「言いまつがい」の講義を終えての帰り道。ふらっと本屋さんに入ったら、そこに平積みで並んでいたのがこの「金」と「銀」の「言いまつがい」。あ、続編が出ていたのか!

迷わず2冊とも購入。次の週、また大学で紹介しておきました。

投稿をまとめたという意味では「他人のふんどしで相撲をとっている」感じが、なきにしも・・・ですが、30年前の「萬流コピー塾」も同じ方式でしたから、この人にはそういったものを吸い寄せてまとめるという、オーラというかテクニックというか人望というか、そういうものがあるのでしょう。他人がまねても、たぶん上手くいかない。その意味ではこの投稿者たちは信者だな、イトイ教の。

たまたま今週の『週刊文春』の「阿川佐和子のこの人に会いたい」にも糸井さん、出ていました。「たまたま」か?販売戦略の一環か?分からないけど。

しかし、笑わせてもらいました。スッキリ!


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(2011、5、7読了)

2011年5月17日 18:49 | コメント (0)

新・読書日記 2011_077

『電子書籍を日本一売ってみたけれど、やっぱり紙の本が好き。』(日垣隆、講談社:2011、4、28)

おもしろいし、色々すごい人だなあと思うけど、なんか嫌だ。嫌なエキスがにじみ出てる感じがして...そう、「慇懃無礼」って言葉がピッタリです。魅力的だけど、偉そうな「上から目線」がうっとうしい感じ。確かにすごくて偉いですよ。でも、そういう人がこういう態度を取るのはどうなのよ?という感じ。()という表記、が「口偏に山書いて虫」の「わらい」みたい。「日本一売ってみた」というのも「日本一」がイヤらしい。謙虚さがない。たしかに客観的に「日本一」なのだろう。が、なかなか誰も「すごさ」を認めてくれない(信者的な読者は別)から、自分でアピールするしかない。

こんな魅力的なタイトルであり、一部、大変魅力的内容であるにもかかわらず、一般には、"教育的に"お薦めできない本だ。毒がきつすぎる。「おお!おもしろい!」という内容と、「人間(社会人・日本人)としていかがなものか」というものが分裂して散乱している。副作用がきつ過ぎる気がする(個人攻撃が過ぎる)ので、あまりお薦めできない。金を出して購入した読者として、("自分で選んで"買ったのだから)「金返せ」とは言わないが、その代わりの「感想」として1300円分の文句を言わせてもらいました。あ、影響受けて、嫌味な文章になってる気がする。まあ、しゃーないか。似たような気質を感じないでもないから。その意味では、私にとっては自己嫌悪状態を引き起こしかねない危ない書物なのです。テレビの字幕スーパーの誤りが、以前に比べると最近少し減ってる、これからそういう仕事が重要になる、というくだりは嬉しかった。

 


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(2011、5、7)

2011年5月17日 16:47 | コメント (0)

新・読書日記 2011_076

『日本人の叡智』(磯田道史、新潮新書:2011、4、20)

著者は1970年生まれと若い。しかし、古くは慶長年間・西暦1600年の古文書から平成の現代の書に至るまで読み込んで、その中に出てくる珠玉の言葉の数々を、「知らせずにはいられない」という思いでまとめた一冊と言えよう。帯には、

「先達の言葉は海のごとく広く深い~心に刻むべき98人の思索」

とある。

いくつかご紹介したい。

「一己を安くせむとて、数千の人を損ずるは不仁の甚だしきなり」(徳川吉通)

「学問を致すに、知ると合点との異なる処(ところ)、ござ候」(横井小楠)

「衛生は猶(な)ほ火の用心を為(な)すが如く」(栗本鋤雲)

「ローマの滅びたるは中堅なくして貧富の懸隔甚しかりしが故なり。露帝国も然り」(秋山好古)

 

詳しくは、本書を読んでください。


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(2011、4、29読了)

2011年5月17日 12:45 | コメント (0)

新・読書日記 2011_075

『震災歌集』(長谷川櫂、中央公論新社:2011、4、2初版)

「俳人」である著者が、「俳句」ではなく「短歌」を読んだ。3・11の震災で、胸から吐き出された思いは「五・七・五」では収まりきらず、「七七」と続けてようやくその思いを吐き出すことができたのだと。「短歌」が「歌」であり「俳句」が「句」である。句を超えて歌でしか言えない心の内。歌でこそ言える心の裡。湧き上がる思いを心の底から述べるには、「歌」の形式がピッタリなのだと。

そんな思いが詰まってはいるが、なにぶん短歌は1ページに数首しかないので、

「え、これで1100円?・・・」

と思うと、つい「立ち読み」で済ませてしまいそうになるが・・・・。

「本書の印税は、東日本大震災で被災された方々への義援金として寄附されます」

という文字を見て、「えい!」と購入。

「震災の 思いを込めた 短歌集 定価1100円 印税は寄付」。


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(2011、5、4読了)

2011年5月16日 23:00 | コメント (0)

新・読書日記 2011_074

『曲がり角の日本語』(水谷静夫、岩波新書:2011、4、20)

 

著者の水谷静夫氏は、辞書などでお名前だけは存じていたが、お会いしたことはありません。結構ご高齢(今年85歳)だったのですね。

長きにわたり日本語をみつめてきたその水谷氏が、

「今、日本語は"曲がり角"である」

と論じる、その根拠は?「3・11」以来(本当はもっと前からだろうけど、決定的なのは「3・11」から)、日本という「国」が「曲がり角」に来ていると誰もが疑いなく感じている。その中で、日本人が話す根幹の「日本語」が曲がり角であるという水谷氏。

詳しくは第2章にあるように「七五調に崩れ」「敬語が使えない」「責任回避の婉曲表現」などに見られる、と。

そしてどうすればこの曲がり角=危機を乗り越えられるのか?については「文法論を作り直せ!」と第3章で述べている。そもそも日本語の文法は「あとづけ」ですから、どの文法も「パーフェクト」ではない。

私は第4章の「ゆらぐ格助詞」に大いに賛同。「文脈のねじれ」「『に』と『で』との混交」など、ここ数年、日々感じてきたことである。やっぱりね、と。

最後に著者は「言葉の自浄作用に期待しよう」と、「性善説」のような雰囲気だが、私は「ほうっておくと、大変なことになりますよ・・・・」と思わざるを得ない。

過去の日本人はどうやってその「曲がり角」を通り過ぎてきたのか?今後の「日本」と「日本語」の行方を知るためにも重要な一冊である。

 


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(2011、4、24読了)

2011年5月16日 18:16 | コメント (0)

新・読書日記 2011_073

『朽ちていった命~被曝治療83日間の記録』(NHK「東海村臨界事故」取材班、新潮文庫:2006、10、1第1刷・2011、4、15第9刷)

「瞬きもしないで読んだ」

と言っても、あながち大げさではない。息を呑みながら読んでしまう、そういったドキュメント。

1999930日、茨城県東海村で起きた臨界事故で被曝した大内久さん・35歳が、被曝から亡くなるまでの83日間を記録したNHKドキュメンタリーを文章化したもの。

今回の福島第一原発で、地元の人たちや作業に当たっている人たちが「今」置かれている状態とは少し違うかもしれないが、放射能が人間のコントロールを離れ、御し切れなくなったときにどういったことが起きるのか、放射線の大量被曝により、ヒトの体にどういう影響が出るのかを、冷静に見つめた「記録」。読んだら、息を飲み、瞬きもできない状況になる理由がわかると思う。こんなことを、二度と繰り返してはいけない・・のだが。


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(2011、5、3読了)

2011年5月15日 12:33 | コメント (0)

新・読書日記 2011_072

『江戸の卵は1個400円!~モノの値段で知る江戸の暮らし』(丸田勲、光文社新書:2011、4、20)

 

「物価の優等生」といわれる「卵」。

以前、私も少し調べたことがあるが、戦後すぐと21世紀の現在とでほとんど値段が変わっていない。たしかに「物価の優等生」だ。しかし「江戸時代」にはどうだったのか?タイトルには「1個400円」だったと!これは買って読まずにはいられない!いつもながら光文社の「週刊誌的・書名」につられて買いました。これもいつもの通り、「書名ほどはおもしろくない」という感じで・・・。でも十分に興味深い本でしたよ。

江戸の人々の「職業・稼ぎ」という「収入面」から入って、(およそ1文=20円で計算されています)、裏長屋の庶民の暮らしさん交通、床屋、"郵便"料金、湯屋、タバコ、葬儀費用まで「人びとの暮らし」に密着した「値段」が、そして「医は仁術」、お医者さんや薬のお値段は?更には食べ物、エンタメ=娯楽に至るまで、江戸時代にぐいぐい引き込まれる。いま、「3・11」以降、「江戸の智恵」も参考にすべき点もあるのではないか。そういう視点で読んでも、おもしろいと思う。


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(2011、4、29読了)

2011年5月14日 12:31 | コメント (0)

新・ことば事情

4360「『満足げに』は上から目線か?」

「ミヤネ屋」の新しいナレーターの男性から質問を受けました。

「『満足げな表情』というのは『上から目線』のことば、偉そうな表現に感じるのですが、どうでしょうか?」

私は特にそうは感じなかったのですが、気になるのなら・・・ということで、

「満足そうに表情」

に表現を変えて放送しました。

そのあたり「~げな」は、「上から目線」なのかどうか?これも早稲田大学講師で『三省堂国語辞典』(第6版)の編纂者・飯間浩明さんに伺いました。

 

「これは、個人の語感によるのでしょうね。

『先生は満足げな表情を浮かべておられた』

『先生は悲しげな表情をされた』

――私にとっては、敬意は十分感じられます。おそらく道浦さんもそうではないでしょうか?

では『満足げ』が『上から目線』と感じる人はなぜそう感じるのかですが、それはご当人の分析を待つしかありませんが、想像すれば――

1. 『満足そう』に比べて『満足げ』が古い言い方だから。『いと悲しげなり』は源氏物語の時代にも言いましたが、『悲しそう』はずっと後の言い方です。古い言い方には、荘重な感じがあります。その荘重な感じを『上から目線』ととらえたのではないでしょうか。

2. もうひとつは、『げ』が方言的であるから。古い言い方は、地方に残ります。『げ』は、たとえば群馬で『うまげだ』(うまそうだ)、宮崎で『登ったげなの』(登ったそうだね)など、共通語の「げ」よりも広い範囲につきます。私の郷里香川県でも『もう行っとるげな』(もう行っているようだ)と言いますが、これも共通語の用法ではありません。こういうところから、『悲しげだ』『満足げだ』にも方言的な、つまりくだけた色合いを感じたの

ではないでしょうか。

(ちょっと余談です)人の語感はさまざまで、いやだと思う人の語感を基準にしていると、どんどん使えることばが減ってしまうという面もあります。『ご苦労さま』などはその犠牲者の最たるもので、歴史的に全然失礼ではなかったのが、今では目上に使うと失礼、という雲行きになってきました。公的な重要な、または困難な仕事をした人に対しては、『ご苦労さま』というのが礼儀なのです。たとえば、

『原発の消火に当たった消防士の方々、まことにご苦労さまでした』

と言うのは、心のこもった言い方です。

(戻りまして)『満足げな表情』の前後の文脈が分からないのですが、もしかすると、文脈がかかわっているかもしれません。そもそも人の気持ちを察して『あの人は満足している』とか『あの人は○○したいのだ』とか言うのは、そもそも失礼な側面があります。「先生、もうお帰りになりますか」は失礼ではありませんが、『先生、もうお帰りになりたいですか』が失礼なのはそのためです。『満足げな』が、そういった、文脈的に失礼になる場面で使われたのであれば、『満足そうな』に言い換えても、あまり効果は変わりません。」

 

ということで、飯間さんによると、特に問題はなさそうなのですが、原稿の表現に「気を付ける」ということは大切だと思いました。

ま、どんなに気をつけていても、誰かの気に触る表現が出てしまうこともあるのですが・・・。

(2011、5、13)

2011年5月13日 19:25 | コメント (0)

新・読書日記 2011_071

『緊急改訂版<原子力事故>自衛マニュアル』(桜井準監修、事故・災害と生活を考える会著、青春出版:2011、4、14)

 

1999年刊の本をベースに、「2011、3、25現在」の情報を加えて「緊急改訂版」として出版された。今、本屋さんの店頭では「原子力コーナー」が作られている。これはそこに並んでいる一冊。この原子力コーナー、玉石混交のように思えるが、需要があるのはたしか。監修者は、理学博士・物理学者・技術評論家。1976年から日本原子力研究所で炉心安全解析に、84年から88年まで原子力発電機構・原子力安全解析所で原子力発電所の安全解析に従事したという。なぜ今回の地震・津波に伴う原発事故を防げなかったのかということに関しては、最初の方に書いてある。一言で言うと、

「冷却装置が稼動しなかったから」

・・・それは分かっています。そして「大きな教訓」として、

「いくら発電機の置き場所を工夫したり、建屋を頑丈にしても、万全には成りえません。重要なのは、トータルのシステムで考えること。ほんの些細な一部が壊れるだけでも、全体が機能しなくなるおそれは十分にあるのです」

と書いているが、その「発電機の置き場所に工夫」もしていなかったから、今回の事故は起きたのではないか?そのあたりはどう考えているのだろうか?

また、著者の「事故・災害と生活を考える会」って、一体誰?これは実名で書いてくれないとちょっとなあ。信用できないな、と読み終えてから改めて思った。

この本は「事故発生時」「退避の時」「避難所での生活」「被曝から身を守る」「事故に備えて」「原子力大国・日本に生きる」の6章からなり、一つ一つの質問に、(ほぼ)見開き2ページでコンパクトに答えが書かれている。希望を言えば「もう少し詳しく書いてあっても・・・」という気はするが。

 

 


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(2011、4、28読了)

2011年5月 9日 20:27 | コメント (0)

新・ことば事情

4359「絞り汁か?搾り汁か?」

「情報ライブミヤネ屋」の人気コーナー「愛のスパルタ料理塾」のレシピ「ミヤネ屋」のホームページに掲載しています。その原稿のチェックを行っています。

実は、「愛のスパルタ料理塾」のVTRは、外部の制作会社に「業務委託」をして作ってもらっていて、そのチェックには私は直接は、関わっていません。でも出来るだけ、「放送での表記のルール」などに従ってほしいなあと思って、折に付け意見を言っています。

先日、ホームページにUPするレシピを見ていたら、

「絞り汁」

という表記がありました。それを見て、

「うーん、これは『搾り汁』じゃないかな?」

と思って『新聞用語集2007年版』を引くと、

*「絞る」=(ねじって水分を取り除く、範囲を限定する)<例>油を絞る、音量を絞る、声を振り絞る、絞り上げる、絞り染め、絞るような汗、タオルを絞る、無い知恵を絞る、範囲を絞る

*「搾る」=(締め付けて液体をとる、無理に出させる)<例>油を搾る(製造)、牛乳を搾る、搾りかす、搾り汁、税金を搾り取る

 ほらね、

「搾り汁」

がありました。今回はこれで行きましょう。

と、ホームページの担当者に指示したところ、制作会社の担当のYディレクターから電話がかかってきました。

「私はこれまでずっと料理のコーナーを担当してきて、いろんな料理関係の本なんかも見ましたし、『スパルタ料理塾』の本も出しました。料理担当の先生にも聞いたことがありますが、すべて『絞り汁』でした。『搾』は使ったことがありません」

と言うのです。

うーん、そうかあ。それじゃあ、と読売新聞社の最新版『読売スタイルブック2011』も引いてみました。しかし、やはり『新聞用語集』と同じ解釈で、さらにこちらには、

「レモンの搾り汁」

そのものズバリの用例で「搾」が使われています。そう説明しても、Yディレクターは納得してくれません。

「搾る」と「絞る」の具体的な内容の違いはどうなのか?

考えてみると、

「絞る」は「ねじって」というのですから、「両手を使う」感じですね。「雑巾」や「タオル」を「絞る」には「両手」が必要です。ひねりを加える動きで「しぼる」のが「絞る」。それに対して「搾る」は、片手でグシャッとするようなイメージがあります。半分に切ったレモンを片手でぐしゃっと潰してグググググッと汁を「搾る」感じ。

あ、でも待てよ。たしかに「ひねり」は片手ではできないけど、レモンを「しぼる」時って大抵、真ん中が「山」になっている器具を使うな。その山の先っちょに、半分に切ったレモンの真ん中を当てて、ググッと押しながらひねって「しぼる」。あれは「ひねり」が入ってるから「絞っている」のかな。でも押し付けているところは「搾っている」のかな。

待てよ・・・もし、こういった液体(汁)を得るための「方法」の違いで「絞る」と「搾る」を使い分けるとしたら、その「製造方法」を知らされない場合の「しぼり汁」は、ニュートラルな立場で「絞り汁」なのか「搾り汁」なのか、汁すべが・・・いや、知るすべがないのではないか?ぶっちゃけ(あ、こんなはしたない言葉、使っちゃった!)、判断できないのでは?

イメージで言うと、「絞る」はタオルにせよ雑巾にせよ、

「絞ったあとのものに水分が残っている」

感じ。これに対して「搾る」は、

「絞ったあとのものはカスで、全く水分が残っていない状態」

のように感じています。私は。

あと、「絞る」の「絞」「絞める」という意味でも使いますから、

「ギューッと絞めてしぼる」

感じなのですかね。

つい先日出た『NHK漢字表記辞典』(NHK出版:2010、3、20)を引いてみると、

「絞る」=タオルを~、知恵を~、音量を~

「搾る」=油を~、乳を~

となっていて、『新聞用語集』『読売スタイルブック』と基本的に同じです。

うーん困った。『精選版日本国語大辞典』で「しぼる」を引いてみよう。

(1)締め付けて中の液を出す。またそのような動作をする。

(イ)  濡れた布類を強くにぎったりねじったりして水分を出す。

(ロ)強く押し付けたりねじったりして中の液を出す。

とありましたが、漢字の使い分けに付いては書かれていません。イメージでは、

(イ)=絞る

(ロ)=搾る

のような気がしますが。なんとも難しい。

結局今回は、Yディレクターの意見を尊重して、

「絞り汁」

にしました。もっと調べてみます。

(2011、5、3)

(追記)

調べる前に応援の要請を・・・。早稲田大学非常勤講師で『三省堂国語辞典』の編纂者でもある飯間浩明さんに、お尋ねしたところ、とっても丁寧なメールの返事が返ってきました。

****************************************

「しぼる」の用字についてですが、しぼる「方法」についての違いは、すでにご指摘のとおりだと思います。「絞=ねじる」「搾=しめつける」でしょう。さらに言えば「絞=ねじる/しごく」でしょう。

問題は〈その「製造方法」を知らされない場合の「しぼり汁」は、ニュートラルな立場で「絞り汁」なのか「搾り汁」なのか、汁すべが・・・いや、知るすべがないのではないか?〉という部分ですね。

 

区別するすべはあります。その液体がほしい場合は「搾る」、液体がほしいかどうかを問題にしない場合は「絞る」です。

『三国』第6版の編集の時に、「絞る」「搾る」の項目全体を見直しました。

5版では

〈絞る=①両はしを持って、強くねじ・る(って水分を出させる)。「手ぬ

ぐいを―」〉

〈搾る=①強くしめて液を出させる。「油を―・牛乳を―」〉

となっていました。

この説明では、「水分・液を出させる」ときには、どちらでも使えるような感じを与えます(ご疑問の点は、まさしくこの点ですね)。

 

漢字の使い分けは、訓読みでの用例を見ていても分かりません。そこで、音読みする熟語を考えます。「絞」の主な熟語は「絞殺・絞首」。一方、「搾」の主な熟語は「圧搾・搾取・搾乳・搾油」で、このうち液体に関するのは「搾乳・搾油」です。あまり聞きませんが「搾汁」もあります。これらは、液体がほしくてしぼっています(「搾取」も、その金がほしくてしぼっています)。一方、「絞」は、何かがほしくてしぼる場合には使いません。動作

に重点があります。

 

そこで、第6版では

〈絞る=強く ねじったり しごいたりして、水分などを出しつくす。「手ぬ

ぐいを―・チューブを―」〉

〈搾る=強く しめて、液体を得る。「油を―・牛乳を―」〉

としました(今見ると「絞る=出しつくす」は書きすぎでした。「出す」で十分です)。

「搾る」の語釈の「得る」が肝心です。ぞうきんのように、その液体を排出する場合は含まないことを明示しました。「絞る」で「水分→水分など」としたのは、「生クリーム・練り歯みがき・絵の具......」などもあることを踏まえました。「生クリームをしぼる」は、まだ得ていない生クリームがほしくてしぼるわけではないので、「絞る」でいいことになります(今考えると、ぞうきんをしぼる動作と、生クリームをしぼる動作とは、①と②とに分けたほうがいいような気も、分けなくてもいいような気も......)。

 

さて、「しぼり汁」はどうなのかというと、愛媛のみかん農家が「ポンジュース」を作るためにみかんをしぼっている場合は、「搾汁=汁を得ようとしてしぼる」という感じがし、「みかんの搾り汁」と書きたくなります。一方、「紅茶にレモンをしぼる」という場合は、「汁を得ようとする」というほど大げさなものではないので、「搾り汁」でも「絞り汁」でもいいような気がします。

 

ディレクターの方が「料理の本で『搾り汁』を見たことがない」と言われるのは興味深いところです。たしかに、「Googleブックス」で書籍の用字を調べると、 21世紀の出版物では「絞り汁」260件、「搾り汁」55件となっています。新聞などは「搾り汁」にほぼ統一ですから、一般の用字と新聞の用字とにはズレがあるということになります。こういう例は、よくあります。

短くお答えするつもりが、長くなってしまいました。いかがでしょうか。

 

飯間さん、ありがとうございました。そして、

(今考えると、ぞうきんをしぼる動作と、生クリームをしぼる動作とは、①と②とに分けたほうがいいような気も、分けなくてもいいような気も......)

のところは笑いました。たしかに、同じ意味を表す動作でも、

「何も、雑巾と生クリームを並べなくても・・・・」

と、たしかに思いますよね。

Google、私も検索してみました。(5月4日)

「搾り汁」=10万8000件

「絞り汁」=45万5000件

「レモンの搾り汁」= 5万2600件

「レモンの絞り汁」=23万3000件

でした。「絞り汁」の方が多いですね。ほかの「しぼり汁」では、

 

「ミカンの搾り汁」=  4850件

「ミカンの絞り汁」=1万4500件

 

「みかんの搾り汁」=1万2400件

「みかんの絞り汁」=3万6500件

 

「リンゴの搾り汁」=  6800件

「リンゴの絞り汁」=3万1000件

 

「りんごの搾り汁」=  6980件

「りんごの絞り汁」=4万5100件

 

ということで、たしかにどの果物も、

「搾り汁」<「絞り汁」

でした。今後の使い分け、どうしましょうねえ・・・?

 

(2011、5、4)

2011年5月 5日 11:33 | コメント (0)

新・ことば事情

4358「『凛凛と』か?『凜凜と』か?」

 

4月26日、俳優の田中実さん(44)が自宅マンションで首をつって死亡しているのが見つかりました。

このニュースで、夕刊各紙のが伝えた田中さんの1990年のデビュー作、NHKの朝の連続テレビ小説のタイトルの漢字が、微妙に違いました。

(読売)「凛凛(りんりん)と」

(朝日)「凛凛(りんりん)と」

(産経)「凜凜と」

(毎日)「凜凜と」

どこが違うか?ルビの「ある・なし」が、まず違います。次に「漢字の字体」が違います。

読売と朝日は「凛」の字のつくりの下の部分が「示」なのに対し、毎日と産経は、その同じ部分が「ノ+木」です。

この字体は、現在は両方とも「人名用漢字」で認められていますが、以前は「凜」しか認められていませんでした。(これについては、『平成ことば事情3646「凛か?凜か?」』に書きましたので、ご覧下さい。)

で、ドラマのタイトルとしてはどちらの字体が正しいのか?調べてみると、なんと、

「示」

だったのです。(NHKのホームページによる)

そもそも「人名用漢字」に「ノ+木」の「凜」が加わったのが、この連続テレビ小説が放送された1990年!しかしこの時点では、「示」の「凛」は、まだ人名用漢字に入っていなかったのです。(「示」の「凛」が入ったのは2004年!)

ということは、まだ「示」が認められていないうちから、ドラマタイトルは「示」の「凛」の方を使っていたんだなあと、なぜか感心しました。

しかし「ノ+木」の「凜」が人名用漢字に入った同じ年に「示」の「凛」の方を使うってのも、なんだかヘンだな。人名用漢字のことは全然、気にしてなかった(知らなかった)のかもしれませんが。どうなんでしょうね?

(2011、5、4)

2011年5月 4日 23:21 | コメント (0)

新・ことば事情

4357「午前3時20分前」

きょう(5月4日)の読売テレビのお昼のニュース(関西ローカル)を見ていたら、コンビニ強盗のニュースで、発生時刻を指して、

「きょう午前3時20分前」

という表現が出てきました。

これは、ニュースでは本来使わない表現です。なぜなら、この表現が指す具体的な時刻が、

<1>  午前2時40分

<2>  午前3時19分頃

の2種類の意味に取られかねないからです。

「前」が使えるのは「正時」(例:1時、2時、3時など長針が「12」を指す時刻)だけにすべきです。

ただし「正時」といっても「(午前・午後とも)0時」(=いわゆる12時)は避けましょう。以前、

「きょう午前0時前」

という原稿があって、

「それは『きょう』じゃなくて『きのう』やろ!』

と怒ったことがありました。

過去の例としては、平成ことば事情930「きょうの出来事」の「追記」で、2005415にこう書いていました。

****************************************

電車の中で、2004年12月16日に発行された「夕刊フジ」を読んでいた時のこと。

平沼拉致議連会長の私設秘書(41歳)が、

「12月13日深夜」

に、東京都港区の中華料理店に入り店員に暴力をふるい逮捕されたとのこと。それで暴力をふるったのは、

「翌14日午前零時前に」

と書かれていました。これはおそらく、

「13日午後11時55分頃」

のことなんでしょうね。コトが行われている間に日付が変わってくる、「足掛け2日」状態だということのようです。「14日」と書かれているけど「13日」の出来事です。  

****************************************

私自身は子どもの頃には、よく、

「9時10分前」(=9時8分頃のこと)

という表現を使っていましたが、両親に、

「それは違う!」

と直された覚えがあります。理由は、上に書いたのと同じでしょう。

「時刻」は、1つの表現で、聞いた人が間違いなく知る必要のある言葉ですので、ひとりよがりの表現はやめた方が無難です。

(2011、5、4)

2011年5月 4日 16:53 | コメント (0)

新・読書日記 2011_070

『原発事故残留汚染の危険性~われわれの健康は守られるのか』(武田邦彦、朝日新聞出版:2011、4、30)

 

武田先生がもともと原子力関連の学者であるとは、この本を読むまで知りませんでした。環境関係の人かと思ってた・・・。勉強不足です。

その武田先生、原子力関連の仕事をしていたけれども、「原子力発電推進派」ではなく、「安全な原子力発電推進派」なのだ、と力説されています。そういう立場だと「原発賛成派」からも「反対派」からも敵視されて"板ばさみ"になるそうですが、たしかに「安全性が担保されれば」(原発を)推進するという意見は、一本、筋が通っているように思えます。

今回の「事故」に関しても、武田先生はご自分のブログ上で、いろんな質問(初歩的なことから高等なものまで)に丁寧に答えてくれているし、その意味では「信頼するに足る」ように私には思えました。

 


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(2011、4、20読了)

2011年5月 4日 12:42 | コメント (0)

新・読書日記 2011_069

『はたしてイチローは本当に「一流」なのか』(江尻良文、双葉新書:2011、4、24)

タイトルが刺激的。野球選手としてのイチローは、紛れもなく「一流」であり、疑問の余地をはさむところはないと思う。では「ほんとうに"一流"なのか?」と疑問を挟む部分は、一体どこなのか?そのあたりに興味があって読みました。

著者は「夕刊フジ」の記者。それまでにもスポーツ新聞の記者として40年近いキャリアがある。

かつての国民的ヒーロー「長嶋」「王」と比べて、イチローがその域に達するかどうか?という視点でもって「一流」かどうかを述べようとしているように思える。その意味ではタイトルは、

『はたしてイチローは本当に「"超"一流」なのか』

の方が、実体には近いと思うのだが。

アンチ・イチローサイドからの一冊ではあるが、完全に「アンチ」というのではなく「イチロー」の素晴しさをわかっているからこそ「さらに大きな存在になってほしい」という気持ちも込められているように感じた。


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(2011、4、30読了)

2011年5月 3日 20:21 | コメント (0)

新・読書日記 2011_068

『僕はいかにして指揮者になったのか』(佐渡裕、新潮文庫:2010、9、1第1刷・2010、12、30第4刷・単行本は1995、7はまの出版・2001、6新潮社OH文庫)

こんなにおもしろい、興味深い本があるなんて、全然気付かなかった!文庫になってからも目にしなかったのはなぜだろう?たまたま入った楽器屋さんの「楽譜コーナー」で見つけて購入。今年読んだ本の中で1、2を争うおもしろい本。一気に読んだ。

佐渡さんは、私と同い年。とは思えないけど、同い年。しかも関西(京都)出身なので、共感できる部分が多い。こんな軽やかな関西弁の文体で書けるというのはすごいと思う。なんと言っても、かのバーンスタインが"関西弁"をしゃべってるんだから。(バーンスタインの英語を、佐渡さんは関西弁で訳しているのだ!)

佐渡さんが指揮者になるまでの「運命の糸」がどのように引っ張られていたのか、そのあたり「青春の書」として、若い人にも読んでもらいたい。我々おじさんから見ても「そうそう、そうだった」とワクワク・ドキドキするような感じの本だ。特に(クラシック)音楽好きな人にとっては!

ここに出てくる指揮者(既に亡くなっているが)岩城宏之さんや山田一雄さんの指揮で、私は大学時代合唱団の一員として歌ったことがあるので、親近感があった。書かれていることも「そうそう」とうなずけるところも多かった。また、バーンスタインには残念ながら会ったことはないが、1982年にアメリカの「シカゴ音楽祭」に出たときに、バーンスタイン作曲の曲を歌ったこともある。難しかったけど。

そのバーンスタインや、小澤征爾、山田一雄、岩城宏之といった超一流の指揮者のいろんなエピソードが楽しかったです。

最初の方に書かれていた、マーラーの「交響曲第5番」第4楽章を早速、聴いてみました。指揮はバーンスタインではなく、家にあったのはジェームズ・レバインでしたが。良かったです・・・。チャイコフスキーの「交響曲第5番」も、いいです。眠ってしまうぐらい・・・。

「マーラーが好き」という点で、佐渡さんと私は共通点があります。でもマーラーの5番で私が聴いていたのは、第1楽章冒頭のトランペットのソロの部分でした。第4楽章、とってもいいです。知りませんでした。ありがとう。

佐渡さんが指揮するコンサートを、聴きに行きたくなる一冊です。

 


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(2011、4、29読了)

2011年5月 3日 11:13 | コメント (0)

新・読書日記 2011_067

『10年後の日本』(『日本の論点』編集部編、文春新書:2005、11、20)

 

 

奥付を見ると、2005年、つまり今から6年前に出た本。そのときに買って、読まないままほったらかしになっていた。これは当時の『日本の論点』という本で指摘された問題点を集めたものであるが、ある意味、「予言の書」になっていると言えるであろう。

たまたま本段で目についてページを繰ってみると、そこには「地震」「津波」に関する記述が・・・。やっぱり三陸沖は「想定内」の地震・津波だったんだ。そうすると、それに対する備えを怠ったということか。特に原発。それを事前に指摘して策をとるように仕向けられなかったのは、マスコミにも責任はある・・・。もちろん、一番責任があるのは政治家だが、その政治家を選んだのは、われわれ国民・・・。

6年前という「近過去」から見た「近未来」の現在(=6年後)は、ある意味「予言が当たったか外れたか」を見ることができて、しかも、もしかしたらこういった「指摘」があったことで、実際の政策などに修正が加えられ、良い意味で「予想がはずれた」ものもある。タイムマシンで過去に行って修正するような感じでもあるが。(それはルール違反だが、これは全然ルール違反じゃない)


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(2011、4、25読了)

2011年5月 2日 20:12 | コメント (0)