特 集

2020/08/08

特集 01

【特集】75年目の夏 「旧広島陸軍被服支廠」保存か解体か 被爆建物が伝える“あの日の記憶”

 広島市で旧日本軍兵士の被服類を製造していた「旧広島陸軍被服支廠(ひふくししょう)」。

爆心地から南東へ2.7キロの近さにありながら倒壊を免れ、戦後は倉庫や学生寮として活用されたてきたこの“歴史的建造物”がいま、解体の危機にさらされている。所有者の広島県は去年12月、耐震問題などを理由に一部の解体案を発表したが、被爆者は「原爆の悲惨さを後世に語り継ぐ貴重な存在だ」などと存続を求めている。背景には、過去の記憶の継承と現在の住民の安全確保をどう両立させるかという問題があり、‟物言わぬ証言者“の行く末を巡って地元は揺れる。原爆投下から75年。被爆地が抱える新たな課題に、解決の道はあるのか。

■「旧広島陸軍被服支廠」とは

「ここで兵隊さんの服とか靴とか作っていたんです。原材料を運び入れたり、完成品を倉庫に入れたり発送したり、運搬作業をしていた。」

当時の記憶を語るのは、広島県呉市の中西巌さん(90)。15歳だった中西さんはあの日、勤労動員学徒として「輸送班」に所属し「旧広島陸軍被服支廠」に出入りしていた。

被服支廠は爆心地から2.7キロの位置にあるレンガ造りの4棟の建物で、1913(大正2)年に竣工。多数の施設を構え、数千人が勤務する“軍都・広島”軍需産業の拠点だった。現在隣接する県立広島皆実高や広島工業高も戦後、「旧支廠」の跡地に建設されている。

■1945年8月6日 中西さんが見た“地獄のような光景”

「トラックが来るのをここで待っていた。クラスメートと一緒に」

暑い日差しが降り注ぐ8月上旬、中西さんは被服支廠前で75年前の出来事を語り始めた。

あの日も、いつも通りの朝を迎えたはずだった。しかし、午前8時15分…。

「もう突然だったんです。ピカ―っと光って、目もくらむような光だった。『あっ』と思った瞬間、よく分からないけどスーッと吸い上げられた気がした。目を恐る恐る開けたけど、周りは真っ暗で、きのこ雲の根本の中だった」(中西さん)

中西さんは幸運にも建物の影に隠れていたため無傷だった。爆風により被服支廠の屋根や窓は大きな損傷を受けたが、火災は免れた。被爆直後から建物は臨時救護所として使用され、その様子は“地獄絵図”だったという。

「真っ暗な中に人がいっぱい倒れて鳴き声やうめき声、そして『水をくれ』という声がこだましていた。血の匂いた漂い、下痢をした人もいた。いろんな臭いが混じり、ひどい臭いだった」(中西さん)

多くの人が助けを求めてこの場所にたどり着いたが、満足な治療を受けることなく息を引き取った。

中西さんは、建物を残す意義をこう強調する。

「国と県と市と我々一般市民が総力を上げて建物を保存し、ここで亡くなった人々の魂の“声無き声”に答えていかなければならない」


■「旧広島陸軍被服支廠」解体案の理由は安全対策

凄惨な歴史を背負った被服支廠。戦後は大手運送会社の倉庫や広島大学の学生寮として使用され、1995年に役目を終えるまで、平和の街の復興・発展を支えてきた。その“物言わぬ証言者”はいま、解体の危機に立たされている。

広島市は爆心地から5キロ以内に残る建物を「被爆建物」として登録しており、被服支廠もその一つだ。現存する4棟のうち3棟は広島県、1棟は国が所有している。3棟を所有する広島県は去年12月、建物の耐震強度不足を理由に「1棟保存2棟解体案」を発表した。2017年に耐震診断を行ったところ「震度6強以上の地震で倒壊する恐れがある」と診断されたのだ。県の試算では、耐震化工事に必要な経費は、1棟あたり33億円とされている。

解体案について、広島県経営企画チームの三島史雄政策監は「地域住民の安全対策を踏まえた苦渋の判判断だ」と説明する。きっかけとなったのは2018年の大阪北部地震。通学路のブロック塀が倒れて小学生が死亡した事案を踏まえての対応という。

「(れんが造りの旧)被服支廠も(幅員)4メートルの市道を挟んで住宅が近接している。安全対策をいかに早期にやるかという中での苦渋の判断」(広島県経営企画チーム 三島史雄政策監)

しかし、被爆者や市民などからは3棟すべての保存を求める声が上がっており、県は今年中の解体の見送りを決定した。今年度中に改めて結論を出すことにしている。
残りの1棟を所有する国は「県の取り組みを見守っている」(中国財務局)状況だ。

■「被爆建物」の課題 保存か解体か

広島市内ではかつて、民間所有のものも含めて98件の被爆建物が登録されていた。しかし老朽化などを理由に解体が進み、現在は86件まで減少。残る建物もさまざまな問題を抱えている。

被爆建物の1つである平和記念公園内のレストハウス。広島市が約9億円をかけて耐震工事を実施し、先月1日にリニューアルオープンした。建物は1929年に「大正屋呉服店」として完成。原爆で屋根が押しつぶされ、地下室を除いて全焼したが、建物の原型は留めた。1982年に地下室をレストハウスとして活用し始めた後も、被爆当時の生々しい状況を残そうと床のコンクリートはむき出しのままにしてきた。

ところが、耐震補強を目的とした今回の工事ではむき出しのコンクリートは床材によってほぼ姿を消した。被爆体験を伝える展示パネルを新設するなどの新たな取り組みも始まったが、空間が醸し出す雰囲気は様変わりした。

被爆建物に詳しい石丸紀興・元広島大教授は、こう指摘する。

「部分的にかつての被害の側面を露出させて見せるようにしているが、改修した面が目立ってしまう。保存をするにしてもどういう保存をするかという、内容や保存の理念みたいなものが、わかるような形で記録して伝えていく。そういうことが必要だったと思う」

広島市は「設置した新たな床材は取り外すことが可能。今後市民の意見を踏まえてより良い保存方法を考えていく」としている。

「被爆建物」を商売に直結 海外の取引先にとっては特別な意味も
広島市内で100年以上、金箔を使った壁紙などを製造している「歴清社」。同社が所有するコンクリート造りの倉庫も、被爆建物の一つだ。

当時は金箔や銀箔など“高級商品”を保管していた歴清社の倉庫。周囲は原爆で周囲は焼け野原になったが、倉庫と煙突だけが残された。多少の雨漏りがあるものの、今も現役の倉庫として使用されている。

同社の久永朋幸社長は、被爆建物を所有し続けることには営業上のメリットがあると指摘する。

「海外の会社と取引すると、被爆建物である倉庫を抱えている会社というのが“強み”になる。我々にはどちらかというと残すことに対してメリットがある」(久永社長)

海外の取引先には「被爆建物を所有すること」が企業ブランドになり得るという。保存と解体、どちらの道を選んでも費用はかかる。だとすればこの倉庫を活用することで、被爆建物を未来に残していきたいという。

■「あの日の記憶」若い世代が考えるべきこと

75年前の記憶をどう伝えていくのか。地元の高校生、髙垣慶太さん(18)は、学校の新聞部で平和問題の取材を担当していたことがきっかけで、旧被服支廠の保存に向けたイベント「被爆75年ユースラボ」を企画した。核廃絶を目指し、被爆体験者などを招き、意見を交換する会だ。

8月2日、オンラインで開かれた意見交換会には8人の若者が参加。当時被服支廠で働いていた広島市内在住の切明千枝子さん(90)の言葉に耳を傾けた。

「(被服支廠は)戦争の悲惨さ、戦前の軍国主義の走ってきた歴史をものすごく雄弁に物語っていると思う。全棟の迫力といい、あれをご覧になったら、戦争中の陸軍がどれだけ大きな力を持っていたかというのもわかります。被爆の悲惨さをあの倉庫は知っています…」

建物の“価値”を語った切明さん。

主催した高垣さんも、建物を残すべきだと考えている。

「被服支廠の問題は今年の県議会で方向性決まるかもしれず、危機感を持ってアクションした。若い世代で考えていかないといけない」

一方、参加者から、被服支廠の活用法を問われた切明さんは、建物を活用することの重要性を訴えた。実はこの建物、1995年以降はほとんど利用されずに今日に至っているのだ。

「建物としてただ残していくのではなくて、広大な空間があるので、そこで効果的な行事をやったり、色んな資料を展示したり…」(切明さん)

ことし、被爆者たちの平均年齢は83歳を超えた。軍都としての、被爆地としての記憶を思い起こさせる
“物言わぬ証言者”被服支廠。あの日の記憶を、私たちはどのように受け継いでいけるのだろうか。
(読売テレビ 「ウェークアップ」)

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