特 集

2020/03/14

特集 01

震災特集 「福島から世界へ!」~被災地に寄り添い、発信する医師たち~

福島県・相馬市。
この日、明かりの消えた病院の一室で、
ミーティングが行われていた。

メンバーは「浜通り」と呼ばれる
沿岸部の病院に勤務する医師たち。
週に一度、診療を終えた後、ここに集まっている。

(坪倉正治医師)
「原発事故後のこの地域で起こっている
 健康問題を網羅的に調べたりすることをやっているチーム。
 それぞれが担当の自分の一番思い入れのある、
 調べるべきタスクを持っていて…」

チームのリーダーを務める坪倉正治(38)。
メンバーの多くは30代。皆、震災を機に、
ここ浜通りで医師としてのキャリアを積み上げてきた。 

(メンバー同士の議論…)

チームの目的は、単なる議論ではない。
被災地の様々な課題について、集めたデータを多角的に分析。
学術的な「論文」にまとめ、世界へと発信している。

(坪倉正治医師)
「(被災地で)なんとなくこんなことがあったよね?
 なんとなく大変だったよね?だけだと
 何があったかを(後で)どうやって振り返ります…? 
 一個ずつちゃんと(論文に)残しておくことが僕らの義務」

福島のいまを「形」に残す意味。
そこには、医師としての「信念」があった。

2011年3月11日。
激しい揺れとともに、沿岸部に巨大な津波が押し寄せた。

そして、翌日の3月12日。福島第一原発の水素爆発。
かつて誰も経験したことのない原発事故は起きた。
被ばくから身を守るため、
住民達は着の身着のままでの避難を余儀なくされた。
都内の病院から南相馬市に応援に入った坪倉。
現場は…混乱を極めていた。

(坪倉正治医師)
「ものすごく皆さん不安だし、怒りの感情とか
 悲しみの感情とかいろんな感情がごちゃまぜになっていて…
 落ち着かない状況だったなぁと思いますね。」

目に見えない、放射能の恐怖。
医師としてできることは、限られていた。

そんな状況に変化が訪れたのは、事故から半年後のことだった。
 
(坪倉正治医師)
「ホールボディカウンターと言って、
 内部被ばく、体の中に放射性物質が
 どれだけ入ってしまっているかを調べるための検査機。
 この検査機が来てからいろんな検査がかなりまともに、
 ある程度の正確性をもってできるようになった。」

病院に設置された検査機で、
連日、住民たちの内部被ばく量を調査した坪倉。
のべ1万人以上のデータを詳細に分析した結果、
「ある事実」が見えてきた。

(坪倉正治医師)
「結果としては、被ばくはある程度あったけれど、
 無茶苦茶な量を被ばくはしていない。
 それを証明するような形になっていったんです。」

坪倉が調査結果についてまとめた論文は、
国際的に権威ある医学専門誌に掲載された。
事故後初となる、住民の内部被ばく量についての
貴重な資料として、海外メディアからも大きな注目を集めた。

その後、診療の合間を縫い、
住民に調査結果についての説明会を繰り返し開いた坪倉。
 
(坪倉正治医師)
「事故後1年以内の南相馬市民の被ばく量に関しては
 1960年代の日本人の平均を95%以上の方は下回っています。
 (予想されたよりも)明確にけた違い(低い)です。
 ぜひチェルノブイリと同じだ、みたいな誤解は解いて下さい」

住民の疑問や不安に一つ一つ耳を傾け、
「対話」を重ねるごとに、
放射線への知識と理解が徐々に深まっていった。

♪病院での診療 ノイズ…

現在も継続して、南相馬市での診療を続けている坪倉。
現場での日々の診療があって初めて、
取り組むべき課題が見えてくるという。

(坪倉正治医師)
「研究があって診療があるわけではなくて…
 こっち(診療)があってその延長として
 データをまとめたりするのがある。逆では決してない。」

そんな坪倉の背中を追いかけ、
後輩医師たちが次々と坪倉の元に集まっていった。
メンバーがこれまでに発表した
被災地についての論文はのべ100本を超える。
その継続した活動が評価され、
おととし、国内の優れた調査研究を行う団体に贈られる
「KAIKAアワード」を受賞した。

(澤野豊明医師)
「最初は議論なんか全然できるレベルじゃ
 なかったんですけど僕なんかは。
 でもだんだん意見が言えるようになって、
 論文の数も増えていって…みんなで成長してきた。
 たぶん僕の医者としての人生は
 めちゃくちゃ変わっていると思います。
 坪倉先生と出会って。」

坪倉とともに、チームのまとめ役を担う尾崎章彦(35)。
尾崎もまた、震災を機に福島に根を張った一人だ。

震災当時、研修医として千葉県内の病院に勤務していた尾崎。
沿岸部にあった病院には津波にのまれた患者が次々と運ばれてきていた。

(尾崎章彦医師)
「皆さん溺れていらっしゃって、呼吸管理が必要になった方も
 けっこういて…なかなかうまくいかなくて…
 上の先生に「お前どけ!」みたいな感じになって…
 あまり役に立たなかったな、と覚えてますね。」

脳裏に残る、あの日の記憶。

(尾崎章彦医師)
研修期間を終えた尾崎が、自らのフィールドに選んだのは
津波と原発事故の両方で甚大な被害を受けた
福島県の「浜通り」だった。

(尾崎章彦医師)
「現場に入って、困っている人のために自分ができることをやる。
 診療をしながら住民の方々と一緒になって
 データを出したりだとか、非常にやりがいがあった。」

2016年、双葉郡・広野町の高野病院で
たった一人の常勤医師だった高野院長が急死。
当時、双葉郡内で唯一、外来を受け入れていた病院は、
存続の危機に立たされた。

尾崎は坪倉と共に、
「病院を支援する会」を立ち上げ、存続に奔走。

そして、高野病院を巡る経緯や、震災で地域の医療体制に
どんな変化が起きたのかについて詳細な論文にまとめた。
被災地における課題は「ここだけのものではない」と感じたという。

(尾崎章彦医師)
「高齢化だとか過疎化が進んでいくスピード。
 それが原発事故によって加速した。思わぬペースで進んでいった。
 今後日本の起きることの縮図が
 ここ(被災地)に現れているのではないかと思う。」

長期の避難による住民の減少と慢性的な医師不足。
被災地の医療をとりまく環境は今も深刻だ。
地域の医療を支える次世代の医師を育てようと、
医学部の学生らを積極的に研修に受け入れている。

課題があるからこそ、
「医師としてのやりがい」を感じてくれたら、と願う。

(尾崎章彦医師)
「いろんな方にチャンスを頂いて
 ここで仕事ができているのは本当にありがたいことだし、
 それに対してなんとか報いたい。そういう気持ちはあります。」

(Q.南相馬という場所は尾崎さんにとってどんな場所?)
「一言で言うと…『人生が変わった場所』ですよね。自分にとっては。」

フランス・パリ。
エネルギー消費の7割を原発に依存するフランス。

中心部から30分ほどの郊外に
フランス政府が管轄する専門機関である「IRSN」はある。

(土屋悠哉・ディレクター)
「ここIRSNでは、フランスの原発政策における
 安全管理上のリスクや、緊急時の対応について
 専門家が研究を行っています。
 2011年の福島第一原発による事故は、
 ここ原発先進国のフランスにとっても
 大いなる教訓として今も注目を集めています。」

去年10月から4か月間、坪倉はフランス政府に招聘され、
この場所で現地の専門家や研究者とともに共同研究を行っていた。

(IRSN ドミニク・ローリエ博士)
「彼が福島で活躍していることは知っていました。
 原発事故だけではなく、その後住民たちに起きた
 健康被害について、彼の経験を活用したいと思ったのです。」

共同研究最終日のこの日。
IRSNの研究者たちや住民らを前に坪倉の講演が行われた。

(坪倉正治医師:講演)
「(原発事故での)避難区域についてお話ししたいと思います。
 画面の左側にあるような避難指示は、事故の直後に出されました。
 放射性物質は北西方向に広がっていきました」
「この数字は福島での「震災関連死」です。
 (津波や原発事故によるものではなく)
 原発事故後の社会構造の変化などによって
 亡くなられた方々です。福島の数字を見ると
 津波よりも原発事故による関連死の方が多くなっています。」
「私が皆さんに注目してもらいたいのは、
 原発事故による影響は、放射線の直接的な影響よりも、
(長期の避難生活での)社会や環境の変化によって
 引き起こされる間接的な影響の方がより大きい、ということなのです。」
           
海外の専門家にとっても、
坪倉たちの福島での活動は貴重な「知見」だ。
医師としての活躍の舞台は「福島から世界へ」と広がっている。
   
(IRSN エノラ・クレロ博士)
「マサハルから得られた情報は、本当に豊かなものです。
 いつかヨーロッパやフランスで原発事故が起きた時に備え、
 いま福島で起きていることから、
 私たちは「大切な教訓」を得ることができますから。」

先月、フランスから帰国した
坪倉が訪れたのは、福島県・川内村の小学校。
児童たちが放射線について学ぶ特別授業を毎年続けている。
 
(特別授業 児童とのやりとり)
「一つ目は何でしたっけ?放射線は?」
(児童:目に見えない光!)
「うん、放射線はどこにあるんだった?」
(児童:空気!食べ物!どこにでもある!)

(坪倉正治医師)
「8年9年前に事故があって、
 そこから、放射線っていうのがいっぱい漏れたの。
 だけど、川内村っていうのは、
 すごく放射線が高くならずに済んだ場所なの。
 学校に来る道を一個ずつ計って、
 みんなの体の中に放射線がないか一個ずつ計って、
 ということをしたの。わかるかな?」

児童の中には、「震災を知らない世代」も増えてきている。
震災の記憶が徐々に風化していく中で、
「福島の今」を見つめ、伝え続けることの意味。
 
(坪倉正治医師)
「基本的にはここに暮らしていらっしゃる多くの方々のため。
 将来のある子供たちが前に一歩踏み出せるような…
 それを後ろからちょっと後押しできればそれでいいのかなと。
 結局、患者さんに「ありがとう」と言われて、
 「明日もやるかぁ」みたいな…それがまわりまわって
 プラスにつながればありがたいなぁと」

福島に根ざし、住民に寄り添いながら、未来へと種をまく医師たち。

彼らの眼(まなざし)には、確固たる「信念」が、宿っている。

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