特 集

2020/01/18

特集 01

阪神・淡路大震災から25年 語り継ぐ記憶と教訓

(山本隆弥アナウンサー)
「神戸市の東遊園地には多くの人が訪れ、
 静かに祈りを捧げています。
 今年は竹灯篭によって『きざむ』という文字がかたどられました、
 これは25年間の人々の歩み、記憶をこれから先も刻んでいきたという
 気持ちが込められていいます」

(兵庫区で被災・娘を亡くした女性)
「昨日の事のように思い出しますね」
(兵庫区で長女を亡くした女性)
「ここに会いに来るような気持ちで来ます」
(両親が東灘区で被災)
「(震災を)知らない子は日付もわからないくらいなので、
 今は、伝えていきたいなと、
 きょうは震災の日やでと言っていきたい」

それぞれの胸に刻まれた、思い。

(時報)「黙とう」

神戸の東遊園地。
およそ7500人がことしも鎮魂の祈りを捧げた。
1995年1月17日。
震度7の激震は街の景色を一変させた。

(三浦隆志アナウンサー)
「もうこれは、神戸じゃないです」
(渡辺記者)
「建物は壁やガラスが落ち、
 火災と思われる煙も何か所かで立ち込めています」

死者6434人、住宅被害およそ64万棟。
大規模火災にも見舞われ被害は拡大した。

(被災者)
「これが3階やってん」
(辛坊キャスター)
「えっ!ここ3階やったんですか」

被災者は何を思い、年月を重ねてきたのか…
カメラには、それぞれの記憶が刻まれていた。

あの日、神戸市東灘区で取材班が出会った1人の男性。
自宅の前で、茫然と立ち尽くしていた。

(中田静男さん≪当時36≫・吉見高司さん≪当時34≫)
「大阪から仕事で(道路が)混んでいたので
 尼崎のあたりから歩いてきたんです」
「高司 お前 生きとったんか」
「おかんは?」
「ちゃんとしっかり聞いてよ」
「善之のあんちゃんは俺が助けた、お母さんは…」
「ここにおるん?」
「コタツと壁の間に…顔も見れる、見れるけど
 レスキューが来ないと出されへん」
「死んでもうたん」

同居していた母・秋子さんの死を聞き、
感情が溢れた中田静男さん。
今、横浜市内で助かった兄と暮らしている。

(中田静男さん)
「ギャップですよね。
 ほっとした瞬間、バンと突き落とされた感じですよね。
 蹴ってましたけど、あれも自然に出た。
 怒りじゃなくて、言葉では表現できない思いです」

当時、配送の仕事をしていた静男さんは
震災当日、揺れる15分前の朝5時半頃、自宅を出た。
前日の夜、母親からは、5時半に家を出るよう念押しされていた。

(中田静男さん)
「あの時トラックに乗っていて到着時間があるわけじゃないですか。
 それに間に合わないこともあり、寝坊(助)だったんです。
 それを母に指摘されて、あかんよ。
 明日からちゃんと行きよって。
 ほんなら行くわ。行ったるって。
 それが言うてみたら自分が助かったことにつながるわけです
 母の指摘がなければ完全に押しつぶされてあの世に行ってました」

バイクで駆け付け、中田さんに兄の生存と母の死を告げた吉見高司さん。
中田さんのいとこで、倒壊した家の中で3時間、
身動きが取れなかった。

(吉見高司さん)
「ここ。この中を映してもらったら僕らが寝とった
 雰囲気がわかるんですよ」
「たぶん死ぬまで忘れへんでしょうね。
 僕の年が、80になろうが90になろうが」

今、家族3世代で暮らす吉見さんは2年前、
バイクで事故にあい、九死に一生を得た。
脊髄を損傷し、手足のしびれを抱えながら、
リハビリに励んでいる。

(吉見高司さん)
「震災で助かったんやから、良くなると思います。 
 今度、震災30年が来た時、
 寄ってもらったら走っているかもしれません」

中田さんは25年前、がれきの中から引っ張り出した
洗濯機を、今も使い続けている。

(中田静男さん)
「洗濯機だけは地震が揺れる数日前に母に買ったんです。
 その時の喜んでる顔が忘れられなくて、
 兄とこれだけでも引き上げようかという感じで、
 普通壊れるで25年いうたら。
 母が宿っているかと思ったりもしてね」

形見となった洗濯機。
これからも共に、生きていく。

震災から25年。記憶をどう受け継ぐのか。

(女性27.25歳)
「すごいですね、これ」
「全然違いますね」
(女性22歳、22歳)
「めっちゃ崩れてる。」
「え、知らなかったです」

映像が語る復興への歩み。


(松崎太亮さん撮影 神戸市広報課≪当時≫)
「新長田駅西口の南側、ライト模型のあたりに来ています。
 若松町4丁目のあたりに来ています。
 まだ火の勢いは衰えておりません。」
「これは風呂場の後でしょうか。風呂場の窯ですね」

神戸市で広報を担当していた松崎太亮さん。
地震発生直後からビデオカメラを手に
神戸の街を駆け回り記録を取り続けた。

(松崎さん)
「当時は無我夢中で、仕事として撮ったわけで、
 兵庫県南部地震被災記録という形で
 テープに書いていたわけなんですけど。
「町の中でも何を撮っているんだと、
 助けんかいという話もありましたし」

買い物客でにぎわっていた商店街。
火災で9割の店舗が焼け落ちた。

(辛坊キャスター)
「神戸市の長田区です。
 この長田区は50万平方メートル灰になりました。
 全長田区の5%です。
 今まだ、所々白い煙が上がっています。
 ここにあった生活の全てが灰になりました」

再開発は、行政が主導し難航。
再出発までに9年の歳月がかかった。

(すし金店主)
「無事って確認したのを商店街で取って、
 ここに張っておいたら次、訪ねてきた人に分かるように」

(辛坊キャスタ)
「全員無事ですか。よかったですね」

被災した商店街の住民たち。
それぞれの安否を確認し
寿司金の店主が張り紙をして状況を知らせていた。

(寿司金店主)
「アーケードは無事なんですけど、
 家は全部ないですね。潰れて。」
(辛坊キャスター)
「全部だめですか?」
(店主)
「ほとんど潰れてますね」
(辛坊キャスター)
「商売は?」
(店主)
「今の所できません」

■助け合ってきた商店街。
辛坊キャスターと言葉を交わしたすし店の店主は
9年ほど前に亡くなり、
店舗は居酒屋になっていた。

(山本眞智子さん≪72≫)
「寿司金さんは亡くなられたけど、
 えらいなと思います。
 みんな家が潰れたり、半壊になったり、
 あの人どうした?この人どうした?という風に、
 思ったのはわかりますね」

25年が経ち、蘇ったまち。
復興を後押ししたのは人とのつながり」だった。

(松崎さん)
「なんちゅうことやこれ…須磨が長田が、無茶苦茶になっとる。
 なんちゅうことやほんま」

地震の発生直後からカメラを片手に記録を撮り続けた松崎さん。

(松崎さん)
「95年の1月17日にこういった形で
 映像記録を撮った人は少ないので、
 ある意味で生き証人になっているのかなと。
 どうしても時の流れで世代が交代していくのは仕方ないですし、
 今神戸で半分以上の方、6割くらいの方が震災を知らない。
 いつまで、体が動く間は伝えていくのが
 自分のミッションかなと思っています」

それぞれの胸に刻まれた記憶。
25年が経過しても薄れることはない。

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