特 集

2019/09/21

特集 01

“日本を想い、イラクを翔けた” ラガー外交官・奥克彦の生涯

東京・霞が関。
外務省の一角に立つ、キンモクセイの木。

傍らには、
二人の外交官の名前が刻まれている。

外交官、奥克彦。
荒廃したイラクの地で、人々のために奮闘した。

(外務省同期 山田彰氏)
「イラクの人に喜ばれて、日本の為にもなって…
 これは面白い仕事だ、と。幸せだ、と。」

(元総理秘書官 岡本行夫氏)
「奥は、英雄だったと思います。
 死んだから英雄になったのではなくてね、
 英雄が死んだのだ、と思いますよ。」

テロリストによって、突如、奪われた命―。

(小泉総理 2003年当時)
「私たちは…あなた方の熱い想いと、
 その功績を、決して忘れません。」

愛するラグビーで培った「ノーサイド」の精神。
世界中を駆け回りながら、日本でのラグビーW杯を夢見た。
 
(日本ラグビー協会副会長 清宮克幸氏)
「奥さんが常々、口にしていたのが
 ラグビーW杯を日本でやろうよ!できるよ絶対!って…」

(森元総理)
 何を言ったら彼の慰霊になるのかな、と考えたら…
 (日本での)W杯を取るしかないじゃないか!とね…」

ラガー外交官、奥克彦。
日本を想い、イラクを翔けた。

熱く、強く、駆け抜けた、その生涯を追った。

兵庫県伊丹市・伊丹高等学校。通称「ケンイタ」。
1973年、15歳の奥克彦はこの学び舎の門をくぐった。

入部したのは「ラグビー部」。
砂埃の舞う土のグラウンド。コンクリート造りの部室は奥がいた当時のままだ。

(奥の一つ上の先輩 阪本真一氏)
「造りそのものは何も変わっていませんね。
 落書きの部分は我々の時代のは少し消えてたりするけど…」

奥の一つ上の先輩、阪本真一。
幼馴染の奥をラグビー部に誘った。
しかし、当時「ケンイタラグビー部」は存続の危機に瀕していた。


(阪本氏)
「(壁に)“破竹の13連敗”と書いてあったんですよ。
 自分が1年生の時に本当に13連敗しまして…背中にスパイクの跡が残るほど(惨敗)やったんですけど…」

しかし、奥の入学から1年後、主将となった阪本が率いる「ケンイタラグビー部」は、
猛練習で培った運動量とチームワークで躍進を遂げる。


(阪本氏)
「身長も低いし足も遅いし…ただね、
 全員がものすごい真面目だったんです。
 これだけ努力するんだったら(花園に)行けるんじゃないか?
 という感覚は僕にはありました。」

チームのキーマンは攻守の要である、2年生の奥。

(阪本氏)
「奥足は速いし、180cmは越えていた思いますけど…
 大きくて、体にバネがある」

全国高校ラグビー兵庫県予選。 
快進撃を続けたケンイタラグビー部は、
ついに、決勝まで駒を進める。そして…。

12番の奥の同点トライからの劇的な逆転勝利。
見事、花園への切符を掴んだ「ケンイタ」ラグビー部。

ラグビーに燃えた青春時代。
一方で、奥はこの頃から「外交官」という将来の目標を見据えていた。

(阪本氏)
「外交官という言葉を使っていた気がするんですけど。
 国際的に役に立ちたい、みたいな話はしていました。」

浪人生活を経て早稲田大学に入学した奥は、
名門・ラグビー部に入部。2年になると、
「大型フルバック」としての素質が開花。
名将・大西鐡之佑をして、
「将来日本代表になれる逸材」と太鼓判を押された。

奥の同期で日本代表でもプレーした
奥脇教の目にも、その才能は際立っていた。

(元早稲田ラグビー部 奥脇教氏)
「(当時)180cm以上あるプレイヤーはそんなにはいなかったのでね。
 しかもフルバックだったので(OBに)
 植山さんという大型フルバックの方がおられて
 (奥氏は)「植山2世」みたいな呼び声が高かったので。
 もちろんそうなるんだろうなと思っていたんですけど」

しかし、大学2年の夏、
奥脇は合宿先の菅平で奥から「意外な言葉」を告げられる。

(奥脇氏)
「(奥氏が)「山を下りる」と…えっ!?て思ったんだけど…
 「下りる」ということは「辞める」という事ですから」

打ち込んできたラグビーか目標である外交官への道か。
先輩である阪本は、当時の奥の葛藤を知る。

(阪本氏)
「(阪本氏の下宿先に)手紙が突然置いてあって‥
 「外交官になるかラグビーを続けるかで悩んで寄った」
 という内容の手紙だったので…
 すぐにその晩に(奥氏に会いに)東京に行った。
 昔からの気持ちは、最終的に「外交官になりたい」という事だった。
 だったらそっちを目指したら?という話をしましたね。」

ラグビー部を去り、退路を絶った奥は、
猛勉強の末、超難関である「外務公務員上級試験」に見事合格する。

(奥脇氏)
「奥が外交官試験を突破したというのを聞いて…えっ!て。
 とてつもない試験なのでね、それも現役でということだったので、
 「凄えな、やっぱりヤツは凄かったんだよなぁ」とね。」

イギリス、ロンドン。オックスフォード大学。
外務省に入省した奥は、語学や外交の基礎を学ぶため、
この名門大学で2年間の研修生活を送った。

ラグビー発祥の地で、奥の「楕円球への想い」が再び、蘇る。

(レジ・クラーク氏)
「コンニチワー。」

奥の留学時代の同級生のレジ・クラーク。
 
1869年創立。
150年の伝統を誇るオックスフォード大ラグビークラブ。
1軍の公式戦に出場した選手はユニフォームのカラーにちなみ、
ブルーと呼ばれ、最高の栄誉とされる。

クラブハウスのメインロビーの一角には、
今も、奥の写真が大切に掲げられていた。

(レジ・クラーク氏)
「彼は日本人として最初にプレーした選手でした。
 だから、とても特別な人です。それ以前にそんな人はいなかったですからね。」

ウィングとして、レギュラーを掴み取った奥は、
公式戦に出場した初の日本人となった。

(レジ・クラーク氏)
「奥は素晴らしい人物でした。クラブでは今も尊敬される存在です。
 親しみやすく活発でとてもしっかりした人でした。
 彼はイギリスと日本のラグビーの橋渡し役でした。」

一度は諦めたラグビーに、ラグビーの母国で、再び巡り逢えた喜び。

その後、外交官として世界中を飛び回る間にも培った人脈を生かし、 
協会の国際委員を務めるなど心にはいつも日本ラグビーへの愛があった。
     
(日本ラグビー協会副会長 清宮克幸氏)
「(セレモニーでは)英語でベラベラベラ~と話して、
 会場をドッカンドッカン笑わせて…凄くバイタリティがあって…
 早稲田ラグビーの先輩であんな人がいるんだ!というのが出会いですね。」

現在、日本ラグビー協会・副会長を務める清宮克幸も
先輩である奥の「存在感」に魅了された一人だ。

33歳の若さで母校・早稲田ラグビー部の監督に就任した清宮。
奥からのアドバイスは一貫していた。

(清宮氏)
「できないって言うな!やろう!常にそういう感じなんですよね。
 できないって言うな!まず動け!と。
 (奥氏の)バイタリティーがいろいろなものを動かしていく、
 ということを目の当たりにして
 リーダーとはこうでなきゃいけない、と本当に僕は奥さんから学んだ。」

そしてもう一つ、奥が熱く語った夢がある。

(清宮氏)
「ラグビーのW杯を日本でやろうよ!
できるよ絶対!みたいなことを口にしていた。」

早稲田大学ラグビー部OBで内閣総理大臣を務めた森元総理大臣。
奥は、森の元に何度も足を運び、W杯への夢を訴えた。

(森元総理)
「先輩!ラグビーW杯を日本でやりましょう!
 取りましょう!なんとかしてやりましょうよ!
 私も手伝えることがあったら手伝いますから!と。
 自分は外国に行ってイギリスにもいるし、
 色んな人とコンタクトできるから
 (関係者に)できるだけのアプローチをしておくから
 ぜひ先輩も手伝って一緒にやりましょう!とね。」

(9.11NYテロ)

2001年、世界を震撼させた「アメリカ同時多発テロ」。
2003年3月、米・ブッシュ政権は、イラクへの先制攻撃に踏み切る。
バグダッドの国連本部で自爆テロが発生するなど
テロの台頭と中東を巡る緊張は悪化の一途を辿っていた。

奥は、奮起した。
英国大使館からイラク入りした奥は、
国連による「復興人道支援局」の一員として、
イラクの人々に対し 日本が協力できることはないか草の根の活動に奔走する。

そして、イラクでの活動を日記にしたため、外務省のHPから毎日、日本に発信した。

当時の小泉政権で総理補佐官を務めた岡本行夫。
奥と共にイラク全土を歩き、その獅子奮迅の活躍を間近で見つめた一人だ。

(元総理補佐官 岡本行夫氏)
「彼はかけがえのないパートナーでしたね。
 彼は自分の情熱と信念を武器に(イラクの)人々の間に入っていきました。」

岡本が特に印象に残っているという一枚の写真。
病院を訪ねると…そこには古びた手術台が一台あるだけ。
薬は枯渇し、レントゲンは月に数枚しか撮影できない悲惨な状況だった。
奥は、その場で支援を申し出た。

(岡本氏)
「さすがに僕も奥にね、本省に報告しないで良いのか?と言ったら
 奥は笑って…いや岡本さん大丈夫ですよ、
 本省がお金を出すのにまた半年位かかる。
 その間に患者さん死んじゃうんですと。
 彼のそこまでの人々に対する愛情と思い切りの良さ、
 リスクを取る覚悟。そういう人間は滅多にいないと思います。」

奥とともに、イラクでの人道支援に携わった同期の山田彰。
人々の為に奮闘する奥は国連や米軍スタッフの心をも掴んでいたと話す。

(山田彰氏)
「アメリカの軍人の人が、
 「カツは俺の生涯の友人だ」みたいなことを言ったんです。
(イラクに着任して)わずか半年も経たないで
 そういうことを言わせるというのは…
 やはり本当に色々な所で人の心を開いて、
 自分も心を開いて友達にできる友達になる。そういう能力を持った人間だった。」

奥は相手の地位や立場で態度を変えなかった。
体を張り誰かの助けとなる為に動く。
それは、奥が愛した「ラグビー精神」そのものだった。

(「イラク便り」11月27日付)
『今日は11月の第4木曜日、といえば
 アメリカではサンクスギビングにの日にあたります。
 82空挺団の面々も、来年3月までには故郷に帰る目途がついたようで、
 「あと少しの辛抱で家族に会える」と
 皆、遠く離れた家族を思って、感謝祭の夜を過ごしていました。』

奥の「イラク便り」は…この日で、途絶えた。

2003年11月29日。
国連の会議に向かっていた奥と、
部下の井ノ上三等書記官の2人を乗せた四輪駆動車は、
突如現れたテロリスト達から機関銃での襲撃を受けた。

井ノ上書記官は即死。
奥は病院に搬送されたが、既に手の施しようがない状態だった。

無言の帰国となった2人の外交官。

葬儀の翌日、国立競技場で行われた伝統の「早明戦」。
奥の死を悼み、黙とうが捧げられた。

(会場アナウンス)
「黙祷―。」

早稲田フィフティーンは明治を圧倒。
対抗戦3連覇を達成し「先輩へのはなむけ」とした。
     
(試合後インタビュー 清宮監督・当時)
「奥さんがいつも言っていたことは…
 「今やらなければいつやるんだ」と。
 「今に精一杯、死力を尽くせ」といつも仰っていた。
 だからそのことを学生に一週間言い続けました。」

奥の死から6年後。
2009年7月、アイルランド・ダブリン。

(国際ラグビー協会・評議員)
「2019年W杯は…日本!」

アジア初となる、日本でのラグビーW杯が、決まった。

最前列でペンを取っていたスポーツライターの松瀬学。
最新の著書「ノーサイドに乾杯!」で、
W杯招致決定に至る経緯を詳細に綴っている。

(スポーツライター 松瀬学氏)
「奥克彦さんから始まった夢が森さんに繋がって、
 森さんがラグビーW杯の招致の先頭に立たれて…
 たくさんの人の思い、亡くなられた人の気持ち、
 想い、熱意、そういうものが実った瞬間ですから。」

森の執務室の卓上には、
奥とラグビーをする写真が、大切に飾られている。

(森元総理)
(Q.今、奥さんに声をかけるとしたら…?)
「君と一緒にビール飲みながら見たかったなぁ…なぁ奥君?と言いたいよ。
 まぁ喜んでるよ、先輩!やりましたね!と」

(清宮氏)
「僕はずっと語っていきますよ。奥克彦という男がいたことを。
 なんで日本にワールドカップが来たか知ってる?
 奥克彦さんという人が言い出したんだよ。って。」

かつて、奥が夢見た景色。
「日本でのW杯」が幕を開けた。

(ケンイタ円陣)

奥の母校、「ケンイタ」のグラウンド。
奥を偲ぶ記念碑と奥に似た背の高いフウの木が
きょうも、後輩達の練習を見つめている。
 
外交官・奥克彦。
 
日本を想い、イラクを翔けた。
その魂は、今も、未来も、人々の心に、生き続けている。

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