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特 集

2019/02/23

特集01

日韓の架け橋 皇室から朝鮮王室へ 李方子妃の激動の人生

平成が始まった1989年。
ひとりの女性がソウル中心部にある宮殿で息を引き取った。
旧姓を梨本宮といい
日本の皇族から唯一朝鮮王朝に嫁いだ、李方子妃。

結婚相手は朝鮮王朝最後の皇太子英親王・李垠殿下。
1910年の日韓併合後、日本の皇族に準じる地位を与えられ、
留学のため幼くして日本に連れて来られた。
2人の結婚は、政略だった。

(韓国市民)
「英親王の夫人で日本女性だ」

(韓国市民)
「韓国の母とよく言われています」

"韓国の母"と呼ばれ慕われている方子妃。
これは6年前、韓国で出版された伝記。
去年には書や画の作品集が作られた。
なぜ、韓国の人々の記憶の中に今も生きているのか?

(オペラ)「晋よ 私を許して」

日本でも、来月10日、方子妃を主人公にしたオペラ
「ザ・ラストクィーン」が大阪で初上演される。

企画・主演は在日コリアン2世のオペラ歌手、チョン・ウォルソンさん。

(オペラ歌手 田月仙さん)
「自ら運命を受け入れて困難に立ち向かい
 未来を切り開いて行く
 2つの国に対する故郷への思いは私自身の思いとも重なって
 魂の底から 歌わせていただいています」

方子妃が自分の「婚約」を知ったのは、新聞記事。
15歳の時だった。

当時のことを、晩年、こう振り返っている。

(李方子妃)
「新聞にご婚約のことが出たのが本当に大変な驚きだったわけですよね
 でもやっぱり こうなった以上は、一生懸命やりますと」

以来、髪型を朝鮮式に真ん中から分け、学習院に通学。
運命を潔く受け入れた。

結婚式は1919年1月に決まった。
ところが、式の4日前、垠殿下の父 高宗皇帝が急死。
婚儀は延期された。
日本側に毒殺されたのではという噂が朝鮮全土に広まり、
路上に人々があふれ”独立万歳”が叫ばれた。
いわゆる「3.1独立運動」だ。

これは、その渦中に方子妃が書いた日記。

(方子妃の日記)
「3月7日、殿下はどんなにしていらっしゃるかしら。
 朝鮮の人々の暴動はどんな風なのかしら。何だか心配である」

国家に強いられた結婚だったが、
次第に2人の間には本物の愛が芽生えていった。

(方子妃の日記)
「3月28日。今日は待ちに待った嬉しい日。
 久しぶりにお姿懐かしく、
 今日はお話しすることができてうれしかった」

ことしは、「3.1独立運動」から100年。
韓国ではさまざまな記念行事が行われている。

ソウル中心部の安国駅では―

(ディレクター)
「こちらは100年タワーです。100年前に起きた3.1運動の活動家たちの顔写真が並べられています」

多くの人が行き交う駅に当時の記憶を伝える資料が至る所に並ぶ。

さらに、若者で賑わうソウル・テハンノでは、
独立運動を題材にした現代舞踊が。
実話をもとに、これまで陽が当たらなかった当時の女性活動家に焦点をあてた。

(舞台を企画した芸術監督イ・ギヨンさん)
「加害者は覚えていなくても被害者の痛みは
 代々受け継がれ続いていくのです。
 日本と韓国が本当に一緒に心から手をつないでいける関係になることを望みます」

「3.1独立運動」は1919年3月1日、
この公園で、独立宣言書が読まれ、始まった。
いま、記念行事の一環としてこの公園と連携した国立記念館の建設が進められている。

なぜ、100年も前の出来事を現代に甦らせるのか。

(元韓国外務省アジア局長 金錫友氏)

「”反日”のために行うのではありません」

韓国の元外務省アジア局長、
キム・ソクウさんは今の日本への反発ではなく、
当時の日本統治への反発の意味合いだと説明する。

(元韓国外務省アジア局長 金錫友氏)
「3.1独立運動は韓国の民族的な誇りの源泉なのです。
 植民地の状態で全国民が平和的な方法 
 非暴力的な方法で独立しようと抵抗した運動だからです」

独立運動の起きた年に延期された方子妃と垠殿下の婚儀は、
3年後、京城(現在のソウル)で執り行われた。式に臨む方子妃の決意は固かった。

(方子著「流れのままに」より)
「たとえどんなに日鮮関係が悪化して、
 万一、危険が身に迫るような事態になっても、私は殿下と運命を共にしよう」

しかし、すぐに困難が。
生後8か月の晋王子が突然、亡くなった。
高宗皇帝と同様、「毒殺」という噂を聞いた方子妃は、
「なぜ、罪のない子が、日本人の血を理由に亡くならなければならないのか」と涙にくれたという。

(李方子妃)
「私の人生のいっとう最初に本当に大きなショックでしたから
 苦しゅうございました。
 前を向いて進もうという気持ちが
 その時から培われてきたと思うんでございます」

太平洋戦争が終わると日本での暮らしは一変。
皇族の身分と、国籍すら失った。
さらに朝鮮戦争で南北が分断。2人の居場所はどこにもなかった。
生活に困窮し都心の邸宅などを売り払った。

(オペラ)
「もっと強くならなくては
 戦うのも 私 守るのも 私」

方子妃を演じるオペラ歌手ウォルソンさん。
方子妃は戦後、ふるさとへの帰国を強く望む、
垠殿下の思いに応えたい一心だったという。

(オペラ歌手 田月仙さん)
「(初代)イスンマン大統領のころは
 政治的な思惑もあり受け入れを拒否され
 方子さんが頑張ってパクチョンヒ大統領の時に
 単独で韓国まで行き直接訴えて/やっと帰れることが可能になった。
 朝鮮王朝最後の皇太子妃という誇りも持っていたと思います。
 もちろんそれは日本人としての皇族出身だという誇りも持っていた」

そして韓国への帰国が実現。
夫の死後も方子妃は韓国に残り2人の念願だった、福祉活動に尽力する。

これは方子妃が作った「明暉園」。
障害者が自律して生きていけるよう職業教育を受けられる施設だ。

方子妃とともに障害者教育に取り組んできたキム・スンヒさん。

(キム・スンヒさん・88歳)
「(当時の韓国では)家にいる身体障害者を表に出さなかったんです。
 裏部屋に隠したい状態だったのに
 それを方子妃殿下が そういう人たちに教えて外に出して技術を教えるという目的で(障害児教育を)し始めた」

方子妃が支援し子供たちを無料で診察した、
当時の病院の院長パク・チャンオクさん。
方子妃を中心に多くの支援の輪が広がっていったという。

(パク・チャンオクさん・91歳)
「”いつも助けてくれてありがとう”といってくれました。
(方子妃により)私たちの障害者に対する認識がかなり変わりました。
 関係した人たち 皆が写真を撮りたいというほど人気がありました」 

今も生徒100人がバスで通い、
73人が施設に寝泊まりして様々な技術を磨いている。
学費は、無料。

(李方子妃)
「(韓国語)皆様たくさんお越しいただきありがとうございます」

事業費を捻出するため方子妃は
自ら書画をしたため、七宝焼きを作り日韓でバザーや作品展を開いた。
自ら宮廷衣装を着て、ファッションショーまで行った。利益はすべて福祉事業に注いだ。

両陛下も皇太子・皇太子妃時代、作品展に足を運ばれた。

(キム・スンヒさん・88歳)
「(方子妃は)本当に手先が器用 何でもできる。
 一番たくさん(書で)書いた文字は”寿”と”和”」

”日韓激動の時代”にあって「和」を求め続けた、方子妃。
そこには、垠殿下と交わした約束があった。

(方子妃)
「李方子妃 帰国の機会があったらば
 不幸な子供のための仕事を残したいと2人で語り合ったことがあるので 
 今 主人のわりに一緒の気持ちで 私が動かないといけないと思いまして」

方子妃の作品展を去年、開催した、チョン・ハグンさん。

(ギャラリー運営 チョン・ハグンさん)
「この作品は李方子さんの作品の中で秀作であると言えます。
 先に逝かれた英親王への恋しさからか
 仲良く一対の鳥が梅の木にとどまっている、
 こういう姿をとても愛おしく思っておられました」

方子妃の人柄と作品に長年、魅了され、現在200点を超える作品を所蔵。
方子妃の作品は”韓国の宝”だと話し、販売はしないという。

(ギャラリーを運営する チョン・ハグンさん)
「方子妃の素晴らしい志を韓国の国民は知るべきだし 尊敬し慕う気持ちを持たせるため
 自費で作品展を開催しています
 李方子さんを通じて日韓の交流が行われ、素晴らしい志をお互いが共有できるようになってほしい」

1989年、87歳で亡くなった方子妃。
葬儀は準国葬で行われ、多くの韓国国民が、列をなした。

ソウルに隣接する京畿道にある2人の陵墓「英園」。

墓碑には、揃って「ウィミン」と刻まれている。
意味するのは、「一生いばらの道を歩んだ人」。

逆境の中、運命を切り開いた"韓国の母"方子妃は、
垠殿下とともに静かに眠っている。

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