ウェークアップ

毎週土曜 あさ8時〜

辛抱
ウェークアップ

特 集

2019/01/19

特集01

東大・安田講堂事件から50年

入試シーズンを迎えひっそりと静まり返った
東京大学・本郷キャンパス。

今から50年前…。

この場所は想像を絶する激しい戦いの舞台となっていた。

(当時のニュース)
「1月18日、東京大学安田講堂は
催涙ガスと火炎瓶の炎に包まれた。
上空からはヘリコプターが催涙液を混ぜた水を浴びせる。

東大・安田講堂事件。
 逮捕者五百十数人。

若者たちはなぜ、
  大学を闘いの場としたのか?
 あの日、
大学にたて籠った学生は
    何を目指していたのか?
 50年後のいま、思うことは…。

♪田尾陽一さん
「これが我々が手作りした
 放射能測定小屋。」

福島県飯舘村。
 特定NPO法人
「ふくしま再生の会」の
理事長を務める田尾陽一さんは
東京から移住し、
放射線計測などを行いながら、
住民たちの生活や
   農業の再生を支援している。

そんな田尾さんは50年前
大学院生としてあの闘いの中にいた。

(田尾陽一さん・77歳)
「全体的には当時の社会状況
 ベトナム戦争 僕らから言えば反戦闘争
 若い我々はどういう風に生きるのか
 日本という国がどう生きるのかが問われていた。」

"政治の季節"と言われた1960年代。
アメリカではベトナム反戦デモや公民権運動、
フランスのパリでは5月革命を通じて若者たちが時代の中心にいた。

中国では「文化大革命」が猛威を振るい、
既存の権威が次々と否定されていった。

高度経済成長の真っただ中にあった日本も、
そうした動きと無縁ではなかった。
在日米軍基地は、ベトナム戦争の重要な補給基地でもあったのだ。
学生たちに「革命」の機運が高まっていく。

東大紛争のきっかけは1件の"冤罪"だった。
医学部卒業生の待遇改善を求める運動の中で、
無実の学生が大学側に退学処分を受けたのだ。

(最首悟さん・82歳)
「あまりにも硬直した権威主義の組織。
 無実の者を処分したことを謝って処分を白紙に戻さないかが問題。
 東大闘争 大学闘争の根本はそこに尽きる。」

東大・教養学部の助手だった最首悟(さいしゅさとる)さん。
学生側でも教員側でもない立場で、
"大学の在り方"に疑問を持っていた。

(最首悟さん)
「それは日本の明治以来の
 歴史をずっと踏まえてしまうのですよ
 太平洋戦争勃発の時に東大教授たちがどういう態度だったかが問題。」

対立がエスカレートする中開かれた東大総長と学生たちとの大衆団交。
会場となった安田講堂には、3000人もの学生が詰めかけた。
しかし…。

(田尾陽一さん)
「大河内氏(総長)が何を弁解するのか
 そうしたら、ちょっと心臓がおかしくなったといって抱えられて退場して…」

総長の退席で対話は終了。
4日後、一部の学生が安田講堂を占拠した。
およそ半年間にわたる占拠の始まりだった。

1968年、秋。
東大安田講堂は闘争を続ける学生たちの拠点となった。

これは、バリケードの中に入ることを許された
唯一の写真家、渡辺眸さんが撮影した内部の様子。
東大以外の学生たちも集まり寝泊りをしながら議論を重ねた。

(田尾陽一さん)
「最初は非常に楽しかった。ピアノのジャズコンサートやったり。」
(最首悟さん)
「お祭り気分がいっぱいあってね開放的な。
 その中でゲバ棒にヘルメットというのは
 ノンセクト(党派に属さない学生)に
 とってはファッションみたいなところがあった。」

東大封鎖を主導したのは、新左翼主義グループ「東大全共闘」。

11月には大河内総長らが辞任。
多くのグループが紛争を離脱したが「全共闘」は東大の占拠を続けた。

そして、年が明けた1969年1月18日。
大学の要請で機動隊が投入された。

(当時のニュース)
「制服8000人、私服500人、合計8500人。
 ガス銃を肩にした機動隊員」

まずは、医学部、工学部での攻防が始まった。

(当時のニュース)
 「石油がまかれ、投げられた火炎瓶の炎が広がる。
 近所の人や学生もすさまじさに呆然。
 日本の財産と呼ばれる法学部の研究室は徹底的に壊された」

1月18日午後1時20分。
機動隊は安田講堂への攻撃に取り掛かる。

正面の入り口付近で一人の隊員が火だるまとなり、
放水車が水を浴びせる。硫酸や塩酸などの劇薬も投げつけられた。

学生たちはなぜ、違法な占拠を続けたのか…。

(田尾陽一さん)
「大衆は全然動かないなという気持ちがあるから
 自分たちがやりましょう抗議しましょうという気持ちだから
 僕らは(大学側の)回答を待って
 ずっと満足できる解がないから
 それを暴力的に排除する 排除しにきているから
 抵抗しているということ
 最初から手を上げていないということ」

1月19日、攻防戦は2日目に突入。

(当時のニュース)
「階段とバリケードの隙間から学生たちが石と火炎瓶を投げ…」

午後3時過ぎ、講堂の中で追い詰められた学生
およそ400人が検挙された。

残った学生たちは屋上で最後の集会。

(田尾陽一さん)
「最後は歌を歌って逮捕された肉弾戦までやる元気はない」

(当時のニュース)
「午後5時46分、実力行使以来、実に35時間。
講堂に立てこもっていた学生全員が検挙された。」

当時放送されたニュース映像はこんな言葉で終わっている…。

(当時のニュース)
「一体この2日間の騒ぎは
 何だったのだろうかこの疑問に答えてくれるものは何もない」

50年前に投げかけられた「問い」に
いま、答えはあるのだろうか?

「1968若者たちの叛乱とその背景」の著者で
 社会学者の小熊英二氏はこう分析する。

(慶應義塾大学 総合政策学部・小熊英二教授)
「(占拠を主導した)
 全共闘運動は色々な意味で高度経済成長のひずみが現れた運動だった。
 高度経済成長という社会が激変していく中で
 自分たちの生き方を問い直すという運動になっていった。」

東大紛争の後、学生運動の火は全国に波及したが、
国民的な運動につながることはなかった。

(慶應義塾大学 小熊英二教授)
「一番派手に衝突した部分だけが広く報道されて
 学生運動というものは最後は立てこもって 戦って、
 逮捕されて終わるのだという悪い印象を作り出したのは
 日本の学生運動や全共闘運動に良くなかった」

若者たちの行動や思想はより過激化し、
飛行機をハイジャックして北朝鮮に渡った「よど号」事件、
凄惨なリンチ殺人の挙句、山荘に閉じこもった「あさま山荘」事件へと続く。

日本社会が豊かになっていく中で、人々の支持は離れていった。

東大の助手として、紛争に向き合った最首さんは、
あの闘いの意味を今こう考えている。

(最首悟さん)
「全共闘は壮大なゼロと言われていて何の成果もなかったと言われるけど
 問題提起は大きかった。
 権威ということで人と人を分断してはいけないということは着実に
 その答えをみんな持ち続けている
 自分もその中で問題を未だに探っているわけなんで
 82歳になりましたけどね」

BACK NUMBER

btnTop