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特 集

2019/04/20

特集01

あの日から8年 福島Jヴィレッジ 全面復活

福島・楢葉町と広野町にまたがる「Jヴィレッジ」。
自然豊かな丘の上に色鮮やかな緑のピッチが広がる。

真新しく張り替えられた
天然の芝と観客席は、この上でプレーする選手と声援を送る観客を
今や遅しと待っているかのようだ。

ここは、日本最大のサッカー専用トレーニング施設として、
1997年に開業。
ジュニア世代から日の丸を背負う日本代表までたくさんのプレーヤーが 
合宿やトレーニングを行ってきた。

2011年3月、
福島第一原発の水素爆発。
Jヴィレッジは国や東京電力の事故対応の拠点として使われることが決まった。
 
かつて、ボールを蹴る音が響いたグラウンドは
事故対応に従事する作業員達の駐車場やプレハブ住宅用地へとその姿を変えた。

あの日から8年。
「Jビレッジ」完全復活のこけら落としとして、
きょう、8年ぶりに開催される「なでしこリーグ」の公式戦。
この試合に特別な思いを持って臨む1人の選手がいる。
 
宮城・仙台市をホームタウンとする
なでしこリーグ1部のマイナビベガルタ仙台レディース。
背番号10を背負う浜田遥選手。
チームになくてはならない中心的存在だ。

(浜田遥選手)
「2年目、自分が10番になっていて
 すごく重みがある番号なんですけど。」

10代の頃から将来を嘱望されていた浜田さん。
日本サッカー協会が全国から有望な若手を集め 
英才教育を施す「JFAアカデミー福島」の1期生として、
中学2年の時に実家のある大阪から福島へと移った。
ジュニア世代の女子日本代表「ヤングなでしこ」にも選出された。

(浜田遥選手)
「(Jヴィレッジは)すごく環境が整っていてサッカーグラウンドも
 たくさんあってJヴィレッジに行くまで天然芝でサッカーをすることはなかった。」

小さい頃からの憧れの場所で青春時代の5年間をすごした浜田選手。
 
常に目標にしていたのは、Jヴィレッジを
ホームグラウンドにしていた
「東京電力女子サッカー部マリーゼ」の選手たち。

なでしこジャパンで活躍した丸山桂里奈選手も所属。
中学生の頃からマリーゼの練習に参加していた浜田さんにとって、
憧れ以上の存在だった。

(浜田遥選手)
「声をかけてくれたり本当に優しい先輩方という感じ。
 (マリーゼに入団して)一緒にサッカーをしたいなとずっと思っていました。」

そして2011年、その実力を認められ、
ついに憧れの「マリーゼ」に入団した浜田選手。

(浜田遥選手 当時)
「ずっと近くにマリーゼというチームがあって
 中学2年生の時から入りたいと思っていたのでうれしい。」

優勝を誓ったリーグ戦の開幕前。
宮崎県での合宿中に東日本大震災は起きた。

(浜田遥選手)
「福島の状況をテレビで改めて見て びっくりしました。
 『東京電力女子サッカー部マリーゼ』というチーム名なので
 この先どうなるのかなという不安はずっとありました。」

かつての景色が一変した福島。
この場所でサッカーを続けることは現実的ではなかった。

浜田選手は入団後一度もJヴィレッジでの公式戦を経験することがないまま、
マリーゼはチームを解散した。

(浜田遥選手)
「あの時初めてサッカーを止めようかなじゃないけど、
 そういう風に初めて思いました。」

原発事故は選手たちだけでなく、
Jヴィレッジのスタッフにも大きな影を落とした。

(山内正人さん)
「それまで見たことのない
 光景でしたので、非常にショックを受けました。」

Jヴィレッジ経営企画部、副部長の山内正人さん。
開業間もない1999年から敷地内のホテルに勤務し、
プレーヤーを裏方として支えてきた。
事故後、避難先から施設に戻って初めて目にした光景が忘れられないという。
 
(山内正人さん)
「3月中旬ごろ、
 (Jヴィレッジに)戻って館内に入りましたら
 作業員たちであふれかえっていて非常に緊張感漂う、雰囲気でした。」

ホテルの正面エントランスには
物資が山のように積み上げられていた。
そして、最も大切なグラウンドは…

(山内正人さん)
「車で誘導される場所が駐車場ではなくてここ3番ピッチ。
 天然芝フィールドの上に誘導されて
 ここに車を駐車することになった。」

車のタイヤでピッチはえぐれ天然芝は無残な姿に。

(山内正人さん)
「当時のJヴィレッジスタッフは
 天然芝には芝の神様が住むと教育されてきましたので、
 車でフィールドに入るというのは入っていいのかと
 一度ブレーキを踏むくらい躊躇しました。」

復旧の道筋が見えない中、
数人を残し、従業員の多くは解雇された。
 
(山内正人さん)
「(私は)非常にありがたいことに
 東京の本社勤務を提案されたんですが、
 震災に苦しむこの地域のことがどうしても頭を離れなかった。」

思い入れのある福島の地を離れるという選択肢は、なかった。
退職届を出し、福島県内の別の会社に一時的に就職した山内さん。
将来、Jヴィレッジが再開された時、
いつでも戻れるようにするためだった。

(山内正人さん)
「『我々が諦めてしまったら誰がここを元に戻すんだ』と
 スタッフみんなと話をしていましたし、
 そういう強い思いを持って取り組んでいこうと」

少しでも早く再開できるようにと
震災の翌年、唯一残ったピッチの整備に取り掛かった山内さん。

(山内正人さん)
「草を刈っていくと地面が見えてくるんですね。
 それがうれしくてみんなで必死に刈ったことを覚えています。」

そんな中、再開に向けた機運が高まる出来事が…

(IOC ロゼ会長)
 「Tokyo。」

2013年、東京オリンピック開催が決定すると、
サッカー日本代表が直前合宿を行うことが決定。
 
「Jヴィレッジの復活を 復興のシンボルにする」。
プロジェクトチームが立ち上がり、
Jヴィレッジ復活の青写真が見えてきた。

(山内正人さん)
「徐々にですがJヴィレッジ再開に対して
 応援していただける声も届くようになりまして。」

おととし、災害拠点としての役割を完了し
東京電力から再び、Jヴィレッジに運営主体が戻されると、
本格的なサッカー施設としての復旧作業がスタート。
荒れ果てたピッチやホテルの改修など、
かつての姿を取り戻すための工事が進められた。

そして迎えた、きょうの全面再開。

(山内正人さん)
「今フィールドの上は
 0.078マイクロシーベルト。
 この地域以外の所と何ら変わらない数値ですね。
 このようにして医科学的に
 このピッチでプレーをしても問題ないということを確認した上で
 この施設を運営しています。」

今週月曜から始まった福島第一原発3号機の燃料回収。
廃炉に向けた作業は道半ばだ。
山内さんはJヴィレッジの安全性を 国内外に発信し続けることが重要だと話す。

(山内正人さん)
「保育園児から高齢の方まで
 本当にたくさんの方が集まって応援していた
 あの時のような賑わいをもう一度 復活させたい
 (Jヴィレッジに)多くの方に足を運んでいただいて、
 この地域全体の賑わいを取り戻す。活性化に貢献できれば。」

震災によって、所属する「マリーゼ」が解散した浜田選手。
一度は諦めかけたサッカーを続けようと決意したのはチームメートや
先輩たちの存在だったという。
 
(浜田遥選手)
「マリーゼの先輩たちが『若いからサッカーを続けなよ」と
 (大阪の)実家に帰る前すごく声をかけてくださったり、
 みんなに背中を押してもらってサッカーをやってもいいのかなって。」

大阪のチームを経て、2014年、マイナビベガルタ仙台に入団。
震災で解散したマリーゼを引き継ぐ形で立ち上がったチームだった。

マリーゼのユニフォームでは一度も立つことはできなかったヴィレッジでの公式戦。
あの日から8年、浜田さんはきょう、その胸にマリーゼの魂を秘めながら、
Jヴィレッジのピッチに立つ。

(浜田遥選手)
「ここで試合をしたいなと憧れてきたので、
 絶対、点を決めて勝ちたいなという強い思いはあります。」

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