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龍谷大学 李相哲教授

【独占直撃】中国で生まれ北朝鮮のラジオで育ち文革を経て共産党員に…朝鮮半島の解説でおなじみ李相哲教授の知られざる凄絶半生①

 朝鮮半島の専門家として、情報番組や報道番組で連日のように解説をしている龍谷大学・李相哲教授。そのルーツは複雑で、実は中国生まれで元共産党員だったことや、現在は日本国籍を取得していることなどはあまり知られていません。李教授はどのような半生を経て、現在のような「朝鮮半島の専門家」になったのでしょうか。読売テレビ「ミヤネ屋」のプロデューサーが聞きました。(全4回の第1回)

李相哲教授と「ミヤネ屋」高井プロデューサー

―李教授のご出身はどちらですか?
(李教授)
「1959年、中国で生まれて、中国の大学を卒業。そのまま新聞社に5年間勤めた後、日本に来ました。詳しい出身地は、中国のシベリアに近い、黒竜江省の北の方です。中ソ紛争が起きたときには、大砲の音も聞こえました。お父さんとお母さんが韓国南部のテグの近くの出身なので、私は中国の韓国二世です。幼少期は、家の中では100%韓国語、しかし一歩外に出れば中国、という世界でした」

―黒竜江省での幼少期の暮らしは、どのようなものでしたか?
(李教授)
「当時、テレビはありませんでした。北朝鮮のラジオ放送が、私が住んでいる町まで届いていたので、朝から晩まで12時間以上ずっと北朝鮮のラジオを聞いていました。音楽、ニュース、連続ドラマやラジオドラマなどです。だから今でも、北朝鮮の古い歌や金日成氏の言葉などは、頭にたくさん残っています。中国は当時、貧富の差はなく、社会主義なので平等な社会でした。私が生まれた場所は、日本時代に開拓された肥沃な大地が広がっていて、稲を植えたら豊作というような地域でした。だから食べ物がとても豊富。一時、中国でも飢え死にする住民がいましたが、私が生まれた地域では『おなかを空かせた』という記憶はありません」

―文化大革命も経験されましたか?
(李教授)
「ちょうど私が小学校一年生になるときに、文革が始まりました。だからほとんどの学校が、もう崩壊状態。授業なし、という状態が10年続きました。私の場合は小学校3年生くらいまで通って、3階級飛び級して中学校に入り、15歳で社会に出て、映画技師を3年やりました。1976年に文革が終わり、そこから受験準備をして、北京に受験にいきました」

 厳しい受験を勝ち抜き、北京の大学に進学した李教授。卒業後は新聞社に就職しました。

(李教授)
「新聞社は当時、花形の職業でした。社会主義なので、給料はどこも同じ。また、当時は一生懸命働いても給料は同じだったので、周りはみんなあまり働かない印象でした。しかし、『お金を稼いだら自分のものになる』という政策に転換して以降、中国人は一生懸命働くようになりました」

―新聞社ということは、共産党員だったのですか?
(李教授)
「大学時代に、訳もわからなく共産党員になりました。共産党員でなくても記者にはなれるのですが、中国では共産党員でなければ編集会議に出られないし、かなり大きな差別を受けます。出世もできません。当時は、共産党に入るのはとても難しい時代でした。一方、当時の中国共産党は改革解放を進めていた時期でもあるので、別に悪い印象はありませんでした」

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 Youtubeチャンネル「読売テレビニュース」では、李教授へのインタビュー動画全編を公開しています。第2回は、日本帰化や日本名についてなど、李教授の日本への思いに迫ります。

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