9993「『見やなあきまへん』の『や』は何?」

2025 . 7 . 4

9993

 

 

フェイスブックのお友達が、

「見やなあきまへん」

と書いていました。それを見て思ったのは、この、

「や」

は何だろう?ということでした。「や」が入らない、

「見なあきまへん」

でも意味は通じるのに、なぜ「や」が入り、「や」がある時とない時で、意味合いはどう変わって来るのか?ということです。

この「や」は、どんな動詞でも入るわけではありません。例えば、

「行く」=○「行かなあかん」×「行かやなあん」

「遊ぶ」=○「遊ばなあかん」×「遊ばやなあかん」

「働く」=○「働かなあかん」×「働かやなあかん」

「走る」=○「走らなあかん」×「走らなやあかん」

というように「五段活用動詞」には「や」が入りません。逆に、

「見る」=○「見なあかん」○「見やなあかん」

「着る」=○「着なあかん」○「着やなあかん」

「食べる」=○「食べなあかん」○「食べやなあかん」

と、「上一段活用動詞」「下一段活用動詞」は「や」も入る。

「する」=○「しなあかん」○「しやなあかん」

「来る」=○「来(こ)なあかん」○「来(こ)やなあかん」

と「サ行変格活用動詞」「カ行変格活用動詞」も、「や」も入る。

つまり、

「五段活用だけ『や』が入らない」

のですね。つまり、発音で言うと、

「~やなあかん」

という「前」の「母音」は「イ・エ・オ」で、「ア」は入らないということですね。

そして「五段活用だが、別」という構図は、

「可能動詞」

と同じですよね。「五段活用動詞」は、「ら」が入らずに「可能」の意味を表す、

「遊べる」「働ける」「走れる」

ですが、それ以外の動詞は「可能」を表す場合は「ら」を入れて、

「見られる」「着られる」「食べられる」(「せられる」=「できる」)「来られる」

が「正しい形」とされ、「ら」が入らない、

「見れる」「着れる」「食べれる」「来(こ)れる」

は「ら抜き言葉」と言われて「正しくない形」と言われている。しかし、言葉の流れは「ら抜き」

に向かっている。

この傾向が、もし「や」にも言えるのであれば、今後は、

「や抜き言葉」

が進んでいって、

「見やなあかん」「着やなあかん」「食べやなあかん」「しやなあかん」「来(こ)やなあかん」

は滅んで行って、全て、

「見なあかん」「着なあかん」「食べなあかん」「しなあかん」「来(こ)なあかん」

になるのではないか?

という推測が成り立つのではないでしょうか?

どうかな?

 

(2025、7、4)

(2025、7、4)

(追記)

いつもいくスペインバルのマスターのこの話をしたところ、

「『や』が入ると義務感が増える」

と言っていました。つまり、

「~しなあかん」

というのは「~し」に当たる「動詞」の行為を「義務」として行う必要が在る。英語で言うと、

「must」

になるのですが、

「見なあかん」

よりも、

「見やなあかん」

のほうが、その「義務感が強くなる」というのです。たしかに!

そうすると、「や」は、

「『~なあかん』の強調」

という役割があるのかもしれませんね!

マスター、ナイス!!

(2025、7、7)