フェイスブックのお友達が、
「見やなあきまへん」
と書いていました。それを見て思ったのは、この、
「や」
は何だろう?ということでした。「や」が入らない、
「見なあきまへん」
でも意味は通じるのに、なぜ「や」が入り、「や」がある時とない時で、意味合いはどう変わって来るのか?ということです。
この「や」は、どんな動詞でも入るわけではありません。例えば、
「行く」=○「行かなあかん」×「行かやなあん」
「遊ぶ」=○「遊ばなあかん」×「遊ばやなあかん」
「働く」=○「働かなあかん」×「働かやなあかん」
「走る」=○「走らなあかん」×「走らなやあかん」
というように「五段活用動詞」には「や」が入りません。逆に、
「見る」=○「見なあかん」○「見やなあかん」
「着る」=○「着なあかん」○「着やなあかん」
「食べる」=○「食べなあかん」○「食べやなあかん」
と、「上一段活用動詞」「下一段活用動詞」は「や」も入る。
「する」=○「しなあかん」○「しやなあかん」
「来る」=○「来(こ)なあかん」○「来(こ)やなあかん」
と「サ行変格活用動詞」「カ行変格活用動詞」も、「や」も入る。
つまり、
「五段活用だけ『や』が入らない」
のですね。つまり、発音で言うと、
「~やなあかん」
という「前」の「母音」は「イ・エ・オ」で、「ア」は入らないということですね。
そして「五段活用だが、別」という構図は、
「可能動詞」
と同じですよね。「五段活用動詞」は、「ら」が入らずに「可能」の意味を表す、
「遊べる」「働ける」「走れる」
ですが、それ以外の動詞は「可能」を表す場合は「ら」を入れて、
「見られる」「着られる」「食べられる」(「せられる」=「できる」)「来られる」
が「正しい形」とされ、「ら」が入らない、
「見れる」「着れる」「食べれる」「来(こ)れる」
は「ら抜き言葉」と言われて「正しくない形」と言われている。しかし、言葉の流れは「ら抜き」
に向かっている。
この傾向が、もし「や」にも言えるのであれば、今後は、
「や抜き言葉」
が進んでいって、
「見やなあかん」「着やなあかん」「食べやなあかん」「しやなあかん」「来(こ)やなあかん」
は滅んで行って、全て、
「見なあかん」「着なあかん」「食べなあかん」「しなあかん」「来(こ)なあかん」
になるのではないか?
という推測が成り立つのではないでしょうか?
どうかな?



(2025、7、4)
(追記)
いつもいくスペインバルのマスターのこの話をしたところ、
「『や』が入ると義務感が増える」
と言っていました。つまり、
「~しなあかん」
というのは「~し」に当たる「動詞」の行為を「義務」として行う必要が在る。英語で言うと、
「must」
になるのですが、
「見なあかん」
よりも、
「見やなあかん」
のほうが、その「義務感が強くなる」というのです。たしかに!
そうすると、「や」は、
「『~なあかん』の強調」
という役割があるのかもしれませんね!
マスター、ナイス!!
(2025、7、7)