先日活動中止を発表した「嵐」の楽曲が「オリコンランキング」で上位独占したというニュースが、きょう(5月15日)流れていました。中でもトップに立ったのは、
「感謝カンゲキ雨嵐」
という曲でした。この曲名は当然、
「感謝感激雨あられ」
を基にした「パロディー」というか「語呂合わせ」なのですが、そもそも、その「感謝感激雨あられ」も、元になった言葉があったことをご存じでしょうか?
『ことば遊びコレクション』(織田正吉、講談社:1986年)によると、それは、
「乱射乱撃雨霰(あられ)」
という言葉で、意味は、
「撃って撃って撃ちまくる」(あるいは逆に「撃ちまくられる」)
状態、つまり
「激しい銃撃戦」
の表現で、戦時中はよく使われたのだそうです。そこから生まれた「感謝感激雨あられ」は「嵐」の曲名に変化し、“総本家”の「乱射乱撃雨霰(あられ)」は忘れられてしまったのです。その“総本家”が作られたのは、
「日露戦争」(1904―05年)
の際でした。露西亜(ロシア)の艦隊から「乱射乱撃雨霰」の砲撃を受けて撃沈された「常陸丸」
という船の悲劇がその舞台でした。
「常陸丸」(6172トン)は元々、日本郵船が欧州航路用に発注した、国産初の外国航路用大型船でしたが、陸軍の兵員を輸送するために用いられたのです。
一方ロシアは、ウラジオストックを基地とした、戦艦級の「一等巡洋艦」3隻(ロシーヤ、グロモボイ、リューイク)と、「二等巡洋艦」1隻(ボガツイリ)、「仮装巡洋艦」1隻(レーナ)及び「水雷艇」17隻からなる「浦塩(ウラジオ)艦隊」を保有。この内、
「一等巡洋艦」3隻が稼働し、日本と朝鮮・満州の戦場へと陸軍部隊を輸送するために徴用された商船を、一方的に攻撃していました。中でも最大の被害を出したのが「常陸丸」だったのです。
明治37(1904)年6月14日夜、「常陸丸」は、近衛歩兵第一連隊の将兵963名を乗せて広島県宇品港を出港。その夜は部埼沖で停泊し夜が明けてから出発。15日午前9時半、同様の任務を帯びた「佐渡丸」(6219トン)が「常陸丸」に追いつきました。午前9時50分、玄界灘・沖ノ島附近、左舷前方に「ウラジオ艦隊」の3隻を発見。午前10時、「常陸丸」は「佐渡丸」に「怪シキ船見ユ」との信号を発し右舷に回頭。この時、既に「ウラジオ艦隊」は約3里に迫っていました。監督官予備役・山村彌四郎中佐は、イギリス人ジョン・キャンベル船長に全速力で方向転換を命じましたが、時すでに遅し。戦闘設備を持たない「輸送船」は、スピードの速い艦船の攻撃から逃れられず、第一連隊は小銃で対抗したが及ぶはずもなく集中砲火を浴び、指揮をしていた山村中佐は敵弾に倒れました。砲撃したのは「グロモボイ」と見られます。
午後3時「常陸丸」は轟沈。もはやこれまでと、監督将校以下、日本の軍人たちは切腹、あるいは海に飛び込んで戦死。キャンベル船長以下乗組員132名と海陸軍兵を合わせて1000人以上が亡くなる大惨事となったのでした。
輸送指揮官の須知順次郎中佐の最期は、軍旗を焼いたあと笑顔を見せつつ割腹し、船とともに没したといわれています。また、陸軍下士卒133名、海軍水兵1名、船員17名、船内仲仕1名の計152名が、九死に一生を得たと記録されています。(『明治三十七八年海戦史・第二冊』)
「常陸丸」とともに航行していた「佐渡丸」も両舷に水雷を受けて大きく傾き、航行不能に陥りましたが、沈没だけは免れました。そして翌明治38年(1905年)の「日本海海戦」に「仮装巡洋艦」として参加。平和が戻ってからは、昭和8年(1933年)まで、再び欧州航路やシアトル航路・ボンベイ航路で活躍したそうです。
砲弾によって大きく穴の開いた「佐渡丸」の外板は、修理を行った三菱長崎造船所(現・三菱重工業(株)長崎造船所)によって大切に保管され、同社の長崎造船所史料館で、当時の様子を伝えているそうです。
この事件は日本国民を激昂させ、怒りの矛先は、
「ウラジオ艦隊を、撃破するか威嚇して釘付けにせよ」
という命令を帯びていた、第二艦隊司令長官・上村彦之丞中将に向けられました。上村艦隊は、何度もウラジオ艦隊を取り逃がしていたからです。特に、
「濃霧があり取り逃がしてしまった」
という事情が報道されると、議会で代議士が、
「“濃霧濃霧”といいわけをするが、さかさに読めば“無能”なり」
と演説し、上村中将の自宅まで投石されたと言われています。
そして、池辺義象(よしかた)という国文学者が『常陸丸』という琵琶歌を作って、その悲壮な最期を称えました。これが「筑前琵琶」の名曲として人口に膾炙するようになり、その中の、敵の砲弾が「常陸丸」目がけて飛んでくるところが、
「乱射乱撃雨霰」
と表現されたのです。それを誰かがシャレで、
「感謝感激雨霰」
と言ったところから、現代に残る表現となったというのは、金田一春彦『ホンモノの日本語を話していますか?』(角川書店、2001年)に記されています。
明治末年には、学生の間で「琵琶歌」が流行っていて、学生の会合などでは余興で必ず、誰かの「琵琶歌」が出たそうです。(『日本古書通信・第227号』1963年3月15日付)。「琵琶歌」は現在「団塊の世代」がロックやフォークソングにはまり、昨今の若者は「アカペラ」や「ラップ」「K-POP」にはまったようなものですかねえ?
これらは、2007年に出た拙著『スープのさめない距離~辞書に載らない言い回し56』(小学館)の中に書いたのです。
「嵐」のニュースを聞いて思い出し、少し手を加えました。


