9485「先住民か?原住民か?」

2024 . 7 . 11

9485

 

<2019年3月28日に書き始めました。>

「先住民」

「原住民」

という似たような言葉がありますが、どちらを使えばいいのか?という問題が、時々出て来ます。

「2019読書日記021」で書いた(読んだ)『もっと言ってはいけない』(橘玲、新潮新書)の中にはこんな記述がありました。

「日本では『原住民』は差別語で『先住民』に言い換えるべきだとの主張があるが、漢語として両者には明確なちがいがある。『原住民』は『かつて住んでいて、いまも暮らしているひとたち』で、『先住民』は『かつて住んでいたが、いまは絶滅してしまったひとたち』のことだ。日本の台湾統治時代に『高砂族』と呼ばれていたひとたちは『台湾原住民』で、『台湾先住民』とはぜったいにいわない。霧社事件を描いた台湾映画『セデック・バレ』(※道浦注:2011年、ウェイ・ダーション監督。「セデック語」で「真の人」の意味)でこのことを教えられたので、本書でも漢字本来の意味にのっとって『原住民』の表記を使っている。―――というような面倒な事情からわかるように、人種概念が『社会的構築物』であることはまちがいない。だがだからといって、科学的(遺伝学的)になんの意味もないと言い切れるだろうか。」

これによると、

「『原住民』は差別語で『先住民』と言い換えるべきだ」

という言説があるが、

「そもそも、意味が違うので使い分けるべきだ」

という主張になりますね。

また、『週刊文春』(2019年2月14日号)の町山智浩さんのコラム「言霊USA」の「Tomahawk Chop」(トマホーク・チョップ=トマホークを振り下ろす動作)の回では、

「先住民の老人」「先住民、アメリカ・インディアン」「先住民の斧・トマホーク」

というように、

「先住民」

が出て来ました。

また、『6才のボクが、大人になるまで。』(2014年)という映画のDVDを見ていたら、父子がテントを張ってキャンプした翌朝、テントから起きてきた息子への父の言葉が、

「ションベンか?たき火にかけろ。アメリカ先住民の習わしだ。」

というように、

「先住民」

が字幕で使われていました。

また、戦時中の『讀賣報知新聞』の「佛印の敵性勢力一掃に“断”」という「右→左」横書きの見出しの下の「真ん中・縦」の見出しには、

「原住民の独立」

という文字が見えます。「佛印」は、「フランス領インドシナ」ですね。この時代(第二次大戦中)は、

「原住民」

を使っていたのでしょうか。

さらに『村井邦彦のLA日記』(村井邦彦、2018年)という本では、

「先住民」

『鉄条網の世界史』(石 弘之・石 紀美子、2019年)という本でも、

「先住民」

を用いていました。

 

(2024、7、11)