日本国内で起きた連続強盗事件の指令役が、実はフィリピンの収容所にいるという、何とも驚くべきグローバルな展開になってきています。
その「フィリピン」の国名について、1月28日の「日本経済新聞」に連載されている佐藤賢一さんのコラム、
「王の綽名(あだな)」
に書かれていました。それによると、絶対王政の絶頂期を作ったスペインの、
「フェリペ2世(1556-98)」
の名前「フェリペ」の由来は、古代マケドニアのアレキサンドロス大王の父親が、
「フィリッポス2世」
といったことにちなんだ、元々はギリシャ文化圏の名前だったそうです。それが11世紀にギリシャ文化圏のキーウから大公女アンナがフランスに嫁入りしたことで伝わり、その息子は東方風の名前、
「フィリップ1世」
になり、13世紀には、
「フランス王・フィリップ2世」
が名君だったので、人気の名前となったと。
それを15世紀に「美男公」と呼ばれ「フワナ1世」の夫だった「ブールゴーニュ公フィリップ」が、スペインに持ち込んだといいます。つまり彼が、
「スペイン王(カスティーリャ王)フェリペ1世」
とすると、名前を譲られた「孫」は、
「フェリペ2世」
になるとのことです。
1543年にアジアに到達したスペインの探検家ビリャロボスが、レイテ島とサマール島を、まだ皇太子(王太子)だった「フェリペ」に因んで、
「フィリピナス諸島」
と呼んだことが、現在の国名である、
「フィリピン」
の由来になったというのです。
そうだったのか。
ちなみにこの「フェリペ2世」の「綽名」は、スペイン語で「エル・プリュデンテ」、日本語では、
「慎重王」
だそうですが、本当は、ただ慎重なのではなく、
「熟慮王」
と呼ばれるべき名君だったのだそうです。
このコラムでは、トルコに勝った、
「レパントの海戦」(1571年)
や、イギリスにスペインの「無敵艦隊」が敗れた、
「アルマダの海戦」(1588年)
も出てきて、むかーし、高校時代に習った「世界史」の記憶が、少しよみがえりました。


