8260「超現代的?超近代的?未来的?」

2021 . 11 . 25

8260

 

 

2013年の9月17日にタイトルだけ、

「超現代的?超近代的?未来的?」

と書いてほったらかしになっていましたが、今朝の電車の中で考えていて、閃きました。

こないだ読んだ『モダン語の世界へ~流行語で探る近現代』(山室信一、岩波新書:2021420=「2021読書日記057」)が、きっかけになったかもしれません。

私の疑問は、

「近代と現代とモダンの違いについて」

で、具体的には、

「英語の『モダン(modern)』は、なぜを『近代』と訳されたり『現代』と訳されたりするのか」

ということでした。

「現代」

はまさに「今」ですよね。それに対して「近代」は「現代」よりは少し古い。でも「近い」。

「現代と近代の、社会的基盤は、原則として同じ」

なのです。だから「封建制度」だった「江戸時代」は「近代」ではなく、「明治時代以降」が「近代」です。つまり、

「思想的・社会制度的に同じ、過去の時点」

を「現代」から振り返って見て「近代」と呼ぶのです。

そうすると「未来」は「超現代」ですが「超」というのはある意味「理解を超える」わけですから、

「社会思想が変わっている」

かもしれない。それはもう「現代」ではない。その「超現代」である「未来」から「現代」を見ると、

「近代ではあり得ない」

のかもしれない。そう考えました。

そして英語の、

modern

を「近代」と訳したり「現代」と訳したりしてしまうのは、

「過去のある時点において現代的(modern)」

と呼んで「名前として定着」したものが、時間がたって、

「過去のものになって」

しまって、「現代」から見ると、

「現代ではない」

つまり、

「近代」

になってしまったということではないでしょうか?

「モダンジャズ」「モダンアート」

は、常に「時代の最先端」を行くわけですが、「最先端」はものすごいスピードで古くなっていく。「最先端」であればあるほど、古くなるスピードが速いのです。

その変化の中でも「土壌」のように残って積もっていくものが「古典」であり「クラシック」と呼ばれるようになると。つまり、いわゆる「モダンジャズ」としてつたわっている数十年前の音楽は、

「いまや、クラシックジャズ」

なのですが、それが、

「『モダン』と呼ばれた『歴史』をまとっている」

ということではないでしょうか?

「シン・ゴジラ」とか「シン・エヴンゲリオン」とかが、「new」の意味を持つ漢字の、

「新」

ではなく「カタカナ」で、

「シン」

としたのは、それを避けようとしたのではないのかなあ。

でも、逃れられない。「新」は「古」びるもの。「古」びるから「新」なのでしょう。

矛盾しているようでしていない。

朝から何を考えてるんだ?

 

(2021、11、24)