2013年の9月17日にタイトルだけ、
「超現代的?超近代的?未来的?」
と書いてほったらかしになっていましたが、今朝の電車の中で考えていて、閃きました。
こないだ読んだ『モダン語の世界へ~流行語で探る近現代』(山室信一、岩波新書:2021、4、20=「2021読書日記057」)が、きっかけになったかもしれません。
私の疑問は、
「近代と現代とモダンの違いについて」
で、具体的には、
「英語の『モダン(modern)』は、なぜを『近代』と訳されたり『現代』と訳されたりするのか」
ということでした。
「現代」
はまさに「今」ですよね。それに対して「近代」は「現代」よりは少し古い。でも「近い」。
「現代と近代の、社会的基盤は、原則として同じ」
なのです。だから「封建制度」だった「江戸時代」は「近代」ではなく、「明治時代以降」が「近代」です。つまり、
「思想的・社会制度的に同じ、過去の時点」
を「現代」から振り返って見て「近代」と呼ぶのです。
そうすると「未来」は「超現代」ですが「超」というのはある意味「理解を超える」わけですから、
「社会思想が変わっている」
かもしれない。それはもう「現代」ではない。その「超現代」である「未来」から「現代」を見ると、
「近代ではあり得ない」
のかもしれない。そう考えました。
そして英語の、
「modern」
を「近代」と訳したり「現代」と訳したりしてしまうのは、
「過去のある時点において現代的(modern)」
と呼んで「名前として定着」したものが、時間がたって、
「過去のものになって」
しまって、「現代」から見ると、
「現代ではない」
つまり、
「近代」
になってしまったということではないでしょうか?
「モダンジャズ」「モダンアート」
は、常に「時代の最先端」を行くわけですが、「最先端」はものすごいスピードで古くなっていく。「最先端」であればあるほど、古くなるスピードが速いのです。
その変化の中でも「土壌」のように残って積もっていくものが「古典」であり「クラシック」と呼ばれるようになると。つまり、いわゆる「モダンジャズ」としてつたわっている数十年前の音楽は、
「いまや、クラシックジャズ」
なのですが、それが、
「『モダン』と呼ばれた『歴史』をまとっている」
ということではないでしょうか?
「シン・ゴジラ」とか「シン・エヴンゲリオン」とかが、「new」の意味を持つ漢字の、
「新」
ではなく「カタカナ」で、
「シン」
としたのは、それを避けようとしたのではないのかなあ。
でも、逃れられない。「新」は「古」びるもの。「古」びるから「新」なのでしょう。
矛盾しているようでしていない。
朝から何を考えてるんだ?


