<2014年2月12日にタイトルだけ書きました。>
「ミヤネ屋」の「お宝屋」のテロップ事前チェックをしていたときに、
「『黄門様』こと『水戸光圀』」
ゆかりの品が出てきて、その水戸光圀を紹介して、
「没年が西暦で記されて」
いました。ところが、ネットで検索すると、
「1700年」
と書かれたものと、
「1701年」
と書かれたものがあるのです。どちらが正しいのか?水戸光圀は、
「元禄13年12月6日」
に食道がんのため死去しました。享年73(満71歳没)。もちろんこれは、
「旧暦(太陰暦)」
ですね。「元禄13年」のほとんどは「西暦」では、
「1700年」
なのですが、光圀が亡くなった、「12月6日」は「西暦(新暦)」では、
「1701年」
と、年が変わってしまいます。つまり、「西暦」では、光圀が亡くなった日は、
「1701年1月14日」
になるのです。
これは「忠臣蔵」でおなじみの「赤穂浪士の討ち入り」でも同じことが言えます。あれも「元禄時代」で、同じ「旧暦の12月」。
ネットで検索したところ、「旧暦・新暦」と「討ち入り」に関して書かれたあるサイトが見つかりました。
「討ち入りは1月30日だった」
というものです。
http://sasakitakashi.biz/2013/12/14/chushingura-and-anniversary-marketing/
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それによると、
『12月14日は忠臣蔵の日。時に元禄十五年十二月十四日、吉良邸討ち入りといえば雪景色が付きもの。でも、この江戸・東京で12月に積もるほどの雪が降ることは珍しい。これは旧暦(天保暦・太陰太陽暦)から新暦(グレゴリオ暦・太陽暦)への変更が招いた食い違いの話である。元禄15年12月14日は「旧暦」の日付なので、これを「新暦」に置き換えると、西暦1703年1月30日で、これなら雪が降ってもおかしくない』
という内容でした。
光圀の亡くなった「2年後」に「討ち入り」が行われているのですね!
「太陽暦」に代わる前の「西暦表記」には注意が必要ですね。


