「あとがき」を書いたのが「7月17日」でつい最近。「奥付」は「8月30日」。「奥付」より先に読み終えた。
公共のルールを守らない人がいる。怪しからんと思う。私は守っているのに、他人のことを全然考えていない。ひどい奴だ。
みんながみんなのために考えて、譲り合い助け合える社会。素晴らしい!と思う。これこそが「新しい公共」だ。
いや、たしかにそうなんだけど、何かちょっと違う気がしていた。
「新型コロナウイルス」の流行で、その拡がりを抑えるために、国民すべてが「新しい日常」を築いていこう。そのためには、しばらくの間「個人の自由」はちょっと我慢してね、と国が言う。少しの間の我慢、これが終わったら的元通りの自由になるから。そうか、それはそうだよな、みんなのためには少しぐらい我慢しなくちゃ。わがままは言えない・・・。
心ある、「人が良い人」は、そう考えるのではないか?
私はそこまで「人が良くない」ので、少し疑っている。著者はこう書いている。
「国家はそんなに甘くはありません。前々から述べていますが、身体も含めた私的領域にいったん国家を踏み込ませてしまうと、危機的状況が終了した後であっても、そこから国家を退出させることは難しくなります。」(50ページ)
実際、「国策操作」で逮捕・勾留された人が言うのだから説得力がある。
今の「自粛警察」は、戦時下の「体制翼賛」の手口だという。(115ページ~)日本人は、学ばない、いや、「翼賛体制」に体質的に親近感があるのではないか。
ジョージ・オーウェルの『動物農場』の「豚の支配」の段階的浸透は、あの「さだまさし」の名曲『関白宣言』の有名なコミカルな歌詞、
「俺は浮気はしない!・・・多分しないと思う・・・しないんじゃないかな・・・・
ま、ちょっと覚悟はしておけ!!」
的に似ている。ゆっくり茹でられたカエルは、気付いた時には手遅れになっていると。
肝に銘じたい。
そしてきょう(8月28日)、安倍晋三首相が、辞任の意向を会見で表明した。
ついに安倍政権がピリオドを打つことによって、上に述べたような状態がストップするかと言うと、そう甘くはない。
実は「国民が」そういった手法を望んでいたのだと考えると、「次の首相」にも同じことを求めかねない。安心できるわけではないだろう。


