『銀の匙』(中勘助、岩波文庫:1935、11、30第1刷・1999、5、17改版第1刷・2018、12、25第36刷)

2020 . 6 . 25

2020_077

 

過去に2回は読んでいるはずが、内容は・・・忘れている。便利な脳である。初めて読むような感覚が味わえるから。

男声合唱曲でも2年前に「中勘助の詩から」の曲を歌っているので「中勘助の世界」にはなじみがある。

今回は「負けずぎらい」という言葉の「初出」として『銀の匙』が辞書に載っているので、それを捜すのが主たる目的である。捜しながら「中勘助の世界」を味わう。そうすると、いろいろ「今は、あまり見聞きしない言葉」にぶち当たる。

「万灯(まんどう)」(23ページ)=やっぱり「濁る」んだ。

「ブリッキ製の笛」(32ページ)=促音の「ッ」が入るのか。

そしてお目当ての「負けずぎらい」は「114ページ」に出て来ました。「前編」の「四十六」の1行目。

「そのようにして日増しに隔てがなくなるにしたがって負けずぎらいの私とくやしがりのお蕙ちゃんとのあいだにはときどきたわいもないいさかいがおこった。」

ふむ。確かに今使うのと同じ使い方ですね。これ(前編)が書かれたのは、

「大正元年」

と記されていますから、西暦で言うと、

「1912年」

ということですね。おおよそ100年前です。

夏目漱石はこれを絶賛した、とくに「後編」を、と解説で和辻哲郎が書いていますが、私は「前編」の方が好きだな。「前編」のほうが「子どもの心」をそのまま書けている。よくもこれだけ「子どもの心」を失わずにおられたものである。ほのかな恋心みたいなものも、甘酸っぱい。

でも「後編」で、小さい時にとても愛情を持って育ててくれた伯母さんを大阪に訪ねたところのシーンは、ちょっと涙が出そうだった。伯母さんはもう目もあまり見えず、耳も遠くなっていたが、主人公の来訪を喜んで、魚屋でカレイを何と21匹も買って来て「煮つけ」にして歓待してくれたという。年老いた伯母さんを見ることで、自分が大きくなったことを否応なしに知る。伯母さんは、それからほどなくして、亡くなったと・・・。私も亡くなった祖母を思い出した。「後編」もいいじゃん!太宰治の「津軽」でも、乳母を訪ねるシーンがあったことを思い出した。

 

 

(2020、6、25読了)