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#81712月14日(日) 10:25~放送
バリ島

 今回の配達先はインドネシアのバリ島。ここに嫁いで28年になる佐藤裕子さん(54)へ、愛知県で暮らす母・光子さん(82)、弟・光太郎さん(49)の想いを届ける。
 島民の9割がバリ・ヒンズー教を信仰しているバリ島。独自の風習が残る島には至る所に寺院が建ち並び、各家庭の敷地内にも「家寺(いえでら)」と呼ばれる先祖を祀る小さな寺院がある。裕子さんの住まいは州都・デンパサールから車で2時間、山あいにあるクルンクン県のベサン村。夫のワヤン セダナさん(54)と義母、息子家族の6人で暮らしている。裕子さんは23歳の時、旅行先のホテルで働いていたワヤンさんと恋におち、3年間の遠距離恋愛を経て結婚。そしてバリ島へ渡ったが、日本に帰ったのはたったの1回きりで、以来26年間一度も帰国していない。
 裕子さんの1日は朝7時、家族の朝食作りから始まる。朝食後は「グラメラ」と呼ばれる、ヤシの樹液を使った砂糖の生産に取り掛かかる。その合間には、お供え物作り。朝食で作った大量のおかずと、新たに炊き上げたご飯、さらに「チャナン」というヤシの葉で作った小さなカゴに花びらや線香をのせたお供え物を用意する。至る所に神が宿っていると考えるバリ・ヒンズー教では、敷地内のあらゆる場所に毎日お供え物をするのがしきたり。その数は実に40カ所にものぼる。バリ島に嫁いだときは何も知らない状態だったという裕子さんだが、お供え物と祈りを捧げるこの生活を365日、欠かすことなく28年間続けている。
 昼になると、グラメラの仕上げ。キャラメル状になった樹液をココナッツの殻に移し入れ、固まると完成となる。裕子さんのグラメラは地元の人たちにも人気で、わざわざ2時間かけて買いに来る菓子店の女性も。グラメラは1玉約450円で、ひと月の売り上げは3万円ほど。今はこのグラメラが家族の収入源だ。そんな多忙な毎日を送り、裕子さんは「日本に帰れる気がしない」というが、娘で一人暮らしをしているハナさん(23)が日本に行ってみたいと希望しているそうで、その約束は果たしたいと考えている。
 夕方、裕子さんは祭事のお供え物の買い出しで、ハナさんと市場へ向かった。祭事は年間100回近く行われるため、ほぼ毎日準備に追われ、収入もほとんどがお供え物で消える。そして家に帰ると休む間もなく、祭事用のチャナンを100個作った。
 嫁いだ当時、義理の父が難病を患っていたため、介護をしながら家事、育児、お供え物の準備と寝る間もない生活だった裕子さん。そんな頃、支えになっていたのは、日本の母の「自分の親だと思って、なんでもやってあげて」という言葉だった。10年介護し、裕子さんは義父を看取ったが、実はその3日後に日本の父が逝去。しかし、そのことを母は裕子さんに知らせなかったという。また過去に一度だけ、日本で働くために1人で帰りたいと言ったことがあったが、そのときにも母から「夫婦は離れているのはよくない」と止められ、帰国することはなかった。「大変だけどやらないとあかん。運命です」と裕子さんは言う。
 現地での暮らしを見て、弟の光太郎さんは「あれほどまで過密スケジュールな1日を送っているとは…」と驚きを隠せない様子。一方、母・光子さんは「かわいそうだなと思いました」と娘を気遣いながらも、「やっぱり、好きで行ったから仕方がないですね」と静かに話す。
 26年間、バリ島から帰国していない娘へ、母からの届け物は29年前、裕子さんが嫁ぐ前に撮った最後の家族写真。「あの頃のように、もう一度家族で集まりたいね」との想いが込められていた。そして母の手紙には、「バリに行くと言ったとき『もう帰ってこなくていい!』ときつく言いました。『帰りたい!もういやだ』ということが本当はあったかもしれません。近々、日本に来れるよう楽しみにしております」と綴られていた。それを読んだ裕子さんは目を潤ませ、「帰りたいと思ったことはしょっちゅうありました。でも全然帰れなかったですね。他の人にやらせるのはかわいそうで…」と思わず本音を漏らす。とはいえ、「自分がやれることはやりたい」ときっぱり言い切ると、日本の家族に向かって「甥っ子や姪っ子にも会ったことがないので、自己紹介がてら会いたいですね。帰ったときはみんな集まってね」と呼びかけるのだった。