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#2477月7日(日)10:25~放送
アメリカ/ニューヨーク

今回の配達先はアメリカ・ニューヨーク。7年前にこの地に渡り、ピアノ・オルガン奏者として奮闘する中村豊さん(31)と、兵庫・三木市に住む父・宏巳さん(71)、母・登志江さん(69)をつなぐ。3年前に血液のガンであるリンパ腫を患った母は「豊の生活の方が大切。こっちに帰って来るのは大変。頑張っているのを邪魔してはいけないから…」と、息子を心配しながら見守り続けている。

 4年前、NYのジャズクラブでピアノを演奏していたとき、教会関係者の目に止まり、ブロンクス近くの教会の音楽監督に就任した豊さん。現在は、街の信者が集まって結成された聖歌隊の伴奏を始め、選曲や発声法の指導などを行っている。彼らが歌うゴスペルは、かつて奴隷としてアメリカに連れてこられたアフリカ人が、独自のリズムと賛美歌を融合させて作り出したもの。過酷な境遇を仲間と共に歌うことで堪え忍んだ“魂の音楽”だ。豊さんは「宗教の音楽なので最初、その教え方がまったく分からなかった。僕がここに居る理由は、教会の音楽的レベルを上げて、よりよいミサにすること。まだまだもっといい伝え方はあると思う」と、試行錯誤しながら指導を行っている。

 その一方で、音楽仲間からオファーを受け、小さなジャズバーで演奏も行っている。こうして本場の空気の中で演奏することは、豊さんにとって大きな喜びであり、大切な収入源のひとつにもなっているのだ。NYに来て7年。最初は清掃員などのアルバイトをいくつも掛け持ちしていたが、ここ数年ようやく音楽だけで生活できるようになったという。「音楽に割く時間がたくさんあって、その音楽でお金をいただき、それだけで生活させてもらっている。本当に感謝です」と豊さん。「ゴスペルもジャズも僕にとって区別はない。ぐるっと1つにくくって“音楽家”でありたい」と目指す理想を語る。

 子供の頃は練習が嫌いで、小学5年生でやめてしまったピアノ。中学時代は繊細な性格から学校に馴染めず不登校となり、家族の中でも孤立していた。そんな中で再び向き合うようになったピアノ。「自分に残されているのはもうピアノしかない」。そんな気持ちからピアノを勉強し直し、音楽の専門学校へ。神戸でジャズピアニストとして経験を積んだ後、本場の空気を肌で感じたいと、7年前にNYに渡ったのだ。

 以来、母からは2,3週間に1通のペースで手紙が届いたという。余白がないほどびっしりと書き込まれた手紙には、息子を心配する母の想いが溢れ、豊さんを支え続けた。だが3年前、母がリンパ腫を患っていることを手紙で知らされた。「それまでは親はずっと生きているものと思っていた。これでいなくなってしまうのかと思って…」。
ショックで落ち込んでいた豊さんを、そばで励ましてくれたのは聖歌隊のメンバーだった。その日から、みんなが母のために祈ってくれたという。「そのおかげでメンバーと近くなれた気がする」と豊さん。彼らの温かさに触れたことで、病と闘い続ける母を気にかけながらも、この街に留まって音楽の道を歩み続けることを誓ったという。彼らと共に奏でるゴスペルは、豊さんにとって母に捧げる祈りでもあるのだ。

 そんな母から届けられたのは、豊さんの大好物というおふくろの味・煮なます。“毎日忙しいだろうけど、体だけは大切にして欲しい”という母の想いが込められていた。「おいしいなぁ」と久しぶりの煮なますをしみじみ味わう豊さん。「いつも僕の体のことを気遣ってくれますが、ちゃんとやっているので、自分の体のこともちゃんとケアしてください」と母に感謝のメッセージを送るのだった。