◆ことばの話1205「スーチーさん」

6月1日の朝刊各紙に、ミャンマーの民主化運動のリーダーでノーベル平和賞受賞者でもある、アウン・サン・スー・チー女史が、再び軟禁されたというニュースを伝えていました。そのスー・チーさんの名前の表記と敬称が、微妙に違いました。

  (見出し) (本文)
(読売) スー・チーさん アウン・サン・スー・チーさん
(朝日) スー・チーさん アウン・サン・スー・チー・書記長
(毎日) スーチー氏 アウンサンスーチー書記長
(産経) スー・チーさん アウン・サン・スー・チーさん
(日経) スー・チー書記長 アウン・サン・スー・チー国民民主連盟
(NLD)書記長

見出しで、読売・朝日・産経は「スー・チーさん」、毎日は「スーチー氏」、日経は「スー・チー書記長」と3通りに分かれました。
私が不思議に思ったのは、職名をあげた日経は別にして、毎日新聞が「スーチー氏」と、女性のスー・チーさんに「氏」を使ったことです。と言うのも、毎日新聞は訃報欄で他紙に先駆けて、
「男性は"氏"、女性は"さん"とするのはおかしい」
と、男性女性の区別なく「さん」の敬称を使っているのに、なぜ今回、スー・チーさんに「さん」を使わずに「氏」を使ったのでしょうかね。
「『さん』は二文字かかかるけど、『氏』は一文字なので、見出しはスペースの問題だろう」という意見もあるかもしれませんが、でも読売などは「さん」を普通の文字の半分の大きさにして、斜めに一文字分のスペースに「さん」を載せています。だから「さん」で出来ないことはないのです。スペースの問題ではありません。
なんでだろうなあ???

2003/6/6




◆ことばの話1204「たなびくとなびく」

5月の「こいのぼり」の季節のニュース原稿。
「こいのぼりが気持ちよさそうに、たなびいていました」
という一文が。この「たなびく」が気になったのが、報道局のFデスクです。
「道浦さん、こいのぼりは『たなびく』でいいんですかねえ?」
どうなんでしょう。「たなびく」は、「なびく」に「た」が付いた形かな?でも「た」って何でしょう?辞書を引いてみましょう。『日本国語大辞典』。
「たなびく(棚引)」=(「たな」は接頭語か)雲やかすみが薄く層をなして横に長く引く。とのびく。
とあります。「た+なびく」ではなく「たな+びく」なのかあ。
『新潮現代国語辞典』でも同じような言葉の説明がありましたが、漢字表記は「棚引く」のほかに「雲偏に愛」と「雲偏に逮」に「く」と書いて「たなびく」と読ませる漢字も書いてありました。
語句説明の意味で見ると、「たなびく」のは「煙」や「霞」といった期待で、「こいのぼり」のようなものに「たなびく」は使いにくいようです。では似た言葉の「なびく」はどうなんでしょうか?同じく『日本国語大辞典』。
「なびく(靡)」=(1)風・水などの力により、それに流されるような形になる。
(2)人の威力や魅力、周囲の状況などに引かれてそれに従う。人の意向に従う。特に、女が男に言い寄られて承知する。




おりょ。これだと、こいのぼりは「なびく」で良いのかな。なんとなく「なびく」は、(2)の「人に『なびく』」で使われるようなイメージが強かったんだけどな。
結局、Fデスクは、
「こいのぼりが気持ちよさそうに泳いでる」
に原稿を変えたのでした。それで私も「気持ちよさそうに」原稿を読むことができましたとさ。

2003/6/2

(追記)

あれから4か月。またチェックしてみました(10月2日)。
(読売)スー・チーさん
(朝日)スー・チー氏
(毎日)スーチー氏
(産経)スー・チーさん
(日経)スー・チー氏

ということで、朝日新聞が6月の「スー・チーさん」から「スー・チー氏」に、日経が「スー・チー書記長」から「スー・チー氏」に変化していました。これで「氏」を使うのは朝日・毎日・日経の3紙、読売・産経の2紙は「さん」ですね。
女性に「氏」を使うのは、男女の区別をなくすという方向性なのでしょうかね。なぜ朝日は「さん」から「氏」にしたのでしょうか。また聞いておきます。

2003/10/2



◆ことばの話1203「フリーター2」

平成ことば事情967で「フリーター」のことについて書きました。その関連の話です。
5月30日の読売新聞夕刊には、竹中経済財政・金融相が30日の閣議に、
「デフレと生活―若年フリーターの現在」と題した「2003年度の国民生活白書」を提出した、とあります。
それによると、「派遣を含むパート・アルバイトに、働く意思のある無職の人を加えた15歳から34歳の人」を、いわゆる「フリーター」と呼び、1990年には183万人だったフリーターが2001年には417万人となったそうです。
フリーターは金銭的に余裕がなく経済的自立が難しいため、親と同居を続けるケースが増え、結婚しない理由の一つとなっていると分析。フリーターの増加が続けば、「今後の日本経済を支える若者の職業能力が高まらず、経済全体の生産性が低下して、成長の制約になる恐れがある」と懸念を強調しています。
実はこれに先立つ4月5日の日経新聞に「フリーター、定職に就いて〜若者就職支援、国に相談窓口、労省が設置へ」という見出しの記事が出ました。厚生労働省が若年層の就職を支援するために「ヤングジョブスポット」という施設を2004年3月末までに全国で15か所に設置するんだそうです。国もフリーターが増えている現状をよく思っていないということでしょう。まあ、試みは良しとしても、ネーミングがねえ・・・・いかにもお役所的。しょうがないか、お役所だもん。若者の就職への意欲が、これで湧いてくれるといいんですが。減退したりして。
また、4月17日の朝日新聞、日経新聞でも「フリーターの増加、経済成長の制約に」という記事がありました。内閣府が今年1月に全国の20〜34歳の3000人を対象に実施した調査で、フリーターが正社員に比べて就業意欲が低く、パソコンの操作能力が正社員に比べて低いことがわかった、とあります。そして回答者の2割弱がフリーターで、その7割は正社員を希望していると記されています。ここから読み取れるのは、ジョブトレーニングが課せられないために、フリーターが正社員に比べてパソコンの操作能力が劣る、ということでしょう。そういったことの原因は、フリーターの若者側にあるのではなく、企業側の新規採用の抑制にあり、フリーターの増加の大きな要因も、結局は企業側にあるということでしょう。
5月16日の産経新聞の曽野綾子さんのコラム「透明な歳月の光」の58回のテーマは、ズバリ、「フリーター」。サブタイトルは「自由とは義務を果たすこと」とあります。本文には「昨今増えつつあるフリーターを寛大に容認することは、いささかの問題もある。 」「一定の年になったら、自分の将来を設計し、親の晩年の生活をみるのが義務だろう。」
たしかにおっしゃることはごもっともなのですが、曽野さんの認識は現状と少しずれている、遅れているように感じました。つまり、今のフリーターは「なりたくてなっている人が大半ではない」ということです。「なりたくないけど仕方がなくてなっている人が多い」と言うことです。これが初期のフリーターと決定的に違う点です。
5月30日の日経新聞朝刊には、ドイツの雇用事情が載っていました。これまでドイツの熟練を支えた「マイスター制度」が28日、実質的に廃止されたという記事です。ドイツではこれまで手工業についてマイスター資格がなければ開業できず、「見習」を雇って指導も出来なかったそうです。しかし新法案は、厳しい資格制度による起業や就業への制限をなくすことがねらいだそうで、マイスター94職種のうち65職種で、資格なしでの開業や従業員採用が出来る環境を作ることによって、深刻な失業問題を緩和しようとしているそうです。少し不安なのは、就業の機会は増えてもそれによって、手工業全体のレベルダウンにつながらないか、という点です。誰もが考えることは同じで、その点に関して憂慮するドイツの人もいるようですが、「高度に教育された人材ならばマイスターでなくてもよい」とする立場の人たちもいるとのことです。どいつも試行錯誤の中にあるということでしょう。
また6月1日の読売新聞朝刊の「顔」欄には、「フリーターの就労支援を進める、工藤定次さん(52)」が紹介されていました。記事によると、ひきこもり経験者の訪問指導などに取り組んで25年の工藤さんは、「大人になりきれない社会性が足りない点で(ひきこもり指導とフリーターの就労支援は)同じ」と考えているようです。工藤さんは、「家族の心配は自力で飯が食えるかに尽きる。若者が働く力をつけないと、社会に多大なコスト増をもたらす」と主張してきたとのことです。
小杉礼子著『フリーターという生き方』(頚草書房:2003、3、15)という本を読みました。
「まず事実を正しくつかもう。議論はそれからだ。」
と帯にありますが、確かに細かいデータをいろいろ詳しく分析しています。
第一章「フリーターとは」によると、『「フリーター」という言葉は、一九八0年代後半、アルバイト情報誌『フロム・エー』によって造られ、広められた言葉である。当初は「フリーアルバイター」といったが、映画製作を契機に略して「フリーター」としたという。』とありました。
また「大卒無業・フリーターの増加」や「インターネット時代の落とし穴」=エントリーシートもすべてネットで手に入れる形は、一見、誰にでも門戸が開いているように見えるが、誰でも応募できるということは「狭き門」になっているということを見逃しているとも指摘しています。
そして、「夢追い型」のフリーターには(1)求めた夢に向かってそれなりに着実に歩みの見られるケースと(2)プロとしての可能性に疑問を持ち迷っているケース、そして(3)「夢」は語るものの実現に向けて歩みがなく、ある意味で カッコイイから持っていると言っているファッションとしての「夢」を語っているに過ぎないのではないかと思われるケースがあると言います。
また、「フリーター生活」の末にあるものはと言うと、フリーター生活で「就きたい仕事がはっきりした」とする者わずか13%、フリーターを止めるきっかけは「やりたいことが見つかったから」という者は少なく(19%)、「正社員の方がトク」(54%)、「年齢的に落ち着いた方がよい」(41%)が多いという結果も出ています。実態としては、フリーター経験がキャリア探索に有効だったとは言えないケースが多いようです。
「フリーターになりやすい層とフリーターから離脱しにくい層の存在」という項では、「東京都内の若者調査でも、フリーターと正社員では生家の豊かさへの認識に違いがあることが確認された。すなわち、フリーターのほうが家計が豊かでないと思っているケースが多い。」「女性は明らかにフリーターから離脱しにくい。」というような指摘のほか、「高校生がフリーターを選ぶ理由は、<大人になることからの逃避>とも言える」「学歴が低く若い者が正社員市場から締め出されている事態がある」「フリーターの年齢層が、次第に20歳代後半から30歳代へと広がっている状況が捉えられている。」「正社員になる前のアルバイト・パートの仕事は低技能の労働である可能性が高く、この時期の職業能力開発が十分に行われていない可能性がある」「キャアリア探索期間としても有効ではないことが多い」「就業機会が当初から正社員になった者に比べて、相対的に条件が悪い」「フリーターになる背景に学歴が低く、家計の厳しい家庭状況が考えられること、フリーター後の正社員への移動には性別の壁があることなど、社会的な不平等の問題が潜んでいる」といった重要な指摘をしています。また、もっと大きな背景として、短大を除く大学進学者は、1990年には高校卒業者の18%だったが、2001年には36%と2倍になっていること、進学者がこれほど増えたのは、大学が入りやすくなったのに対して、高卒での就職は求人が大幅に減って非常に難しくなったからだとしています。
大学進学者がこの10年で2倍になっていると言うのは驚きました。それなら、学力の低下というのもうなずけます。
就職できないというのは社会的な制度や経済情勢の問題ですが、学力の低下もまた、教育制度のもたらした結果です。教育の成果は10年後20年後に出るものです。つまり、現在の「結果」の原因は10年前、20年前にあるということです。なってしまったものは仕方がありません。なんとか、少しでも今の時点でよくする努力をするしかありません。それとともに10年、20年後のしっかりした若者を作り出すための教育を、今、しっかり築かなくてはならないと、強く思います。それが現在の「フリーター増加」に歯止めをかける唯一の方法ではないでしょうか。「急がば回れ」です。

2003/6/5


(追記)

日本テレビの土曜夜10時の番組「エンタの神様」に出てきた「だいたひかる」という女の子。つぶやき漫談のような形式なんですが、ジワッとおもしろい。その中にこんなのがありました。
「もし、本当に恋人がサンタクロースだったら。定職について欲しい。」
だって。これが若者の本音でしょう。

2003/6/9


(追記2)

6月12日に新聞に、フリーターに関する「意見」が載りました。朝日新聞の文化欄「ゼロサン時評」で作家の石田衣良氏が、
「自分が就職するころ、20年前は人並みに就職するのがいやでフリーターに走ったが、その気になればいつでも就職できるという余裕があったが、今はない。雇用の調整弁や人件費削減のために若い世代を使い捨てにするこの国に未来はない。」
と述べています。一方、産経新聞の投稿欄に投稿した39歳の国際機関の職員の方が「フリーター急増は時代の警鐘」という題で、
「フリーターは社会的コストも払わず、果実だけをねらうフリーライダーではないか。正社員でサービス残業でこき使われるより労働を切り売りして時給の高い仕事を選ぶのは当然。雇用さえ危うい正社員の相対的地位は確実に低下している。少子高齢化社会では社会保険は権利ではなく義務。世界的にも単純労働で時給千円を稼げる国はない。フリーターの温床。フリーターの高賃金が高コストをもたらし製造業を苦しめ、この結果、正社員がさらに減ると言うスパイラルを生む。」
と言うような、かなり厳しい口調の「フリーター否定論」を展開していました。しかし、現状は、昔のフリーターとは変わってきている上、社会的な構造によってフリーターが生む出されていることは間違いのないところで、この男性の主張には、同調できません。
日経新聞の「ゼミナール・若者たちと雇用(7)」には、
「大卒無業者(就職も大学院進学などもしない者)の割合が二割を超えた現在、『卒業即就職』が社会的常識ではなくなりつつあるのかもしれない。」「増加した大学生の相当割合が未就職のまま卒業し、フリーター予備軍となり、問題が先送りされている。」
という現状が、グラフとともに記されています。こういったデータを見ても、やはり本人たちよりも、社会的な問題の方が大きいと思うのです。

2003/6/12



◆ことばの話1202「頭部外傷」

NHKで放送しているアメリカのドラマ「ER〜救急救命室」。他局ですが、面白いんですわ、このドラマ。最初からずーっと見ています。見逃したらビデオを借りてきて見ています。吹き替えの人がまた俳優さんとイメージがピッタリ合っていて、ビデオで借りる時は字幕のも借りるんですが、どちらでもイメージが変わらない。これはスゴイ事だと思います。
今年の4月から第8シリーズの放送が始まっています。(アメリカでは1年前に第8シリーズが始まって半年で放送終了。そのあとの半年で、翻訳・吹き替え作業が行われているものだと思われます。)その4月14日の放送の中で出てきた医学用語に
「ズブガイショウ」
というのがありました。医学には「ズブの素人」である私には、すぐには意味が分りませんでした。3秒後に、
「ズブというのは『頭部』ではないか。つまり『頭部外傷』ではないか」
と気づきました。辞書には「とうぶ」と「ずぶ」、両方載っているのでしょうかね。
『新明解国語辞典』『新潮現代国語辞典』『広辞苑』には、「トウブ」は載っていましたが、「ズブ」は載っていませんでした。そして『日本国語大辞典』にも「ズブ」は載っていませんでした。(もちろん「トウブ」は載っていました。)
漢和辞典『漢語林』(大修館書店)を引くと、
「トウ」は漢音、「ズ」は呉音、そして唐音は「チュウ、ジュウ」
だそうです。
だからどうした。
知り合いの内科医に聞いたところ、
「人によって『とうぶ』と言う人と『ずぶ』と言う人がいます。私は『とうぶ』と言いますが。頭蓋骨も『ずがいこつ』と言う人と『とうがいこつ』と言う人がいます。医者は『ずぶ』でもわかりますが、『ずぶ』の素人は『とうぶ』の方がわかりやすいでしょう。」
ということでした。・・・私とおんなじ「だじゃれ」言ってますね。「おやじギャグ」の定番か。
もう一人、中学からの親友の内科医に聞いたところ、
「『頭部』は『とうぶ』で『ズブ』とは言いません。『頭蓋骨』も『とうがいこつ』と言います。これは解剖を習い始めた頃に教わりました。でも『頭痛』は『ずつう』で『とうつう』とは言わないんですが。」
そりゃ、そうだろう、「とうつう」と言うと疼く痛みの「疼痛」と間違っちゃうもん。
つまり、専門家用語として「ずぶ」という言い方はあるものの、医者の間でもみんながみんなそう言うわけではないということですね、「セカンド・オピニオン」によると。
それにしても、なんか「ER」の「PR」でしたね。

2003/6/1


(追記)

そんなことを書いてたら、負ってしまいました、「頭部外傷」。6月8日、サッカーのマスコミリーグの試合で、開始2分、ヘデイングしようとしたところへ、相手が私の頭めがけて飛び込んで来て、まぶたの上を2針縫うケガ。血がドバッと出ました。目も腫れて、お岩さん状態です。生まれて初めて救急車に乗りました。。。乗り心地は・・・よう、揺れました。
局部麻酔を使わずに縫ったのですが、針で縫う時の痛みは、鼻毛を抜く時の痛みと同じでしたね。痛みの単位、1ハナゲ。

2003/6/9


(追記2)

昔、と言っても去年7月に書いたのを見ていたら、平成ことば事情735「2ケタ安打」の「追記」に、「あさイチ!」の番組中で、私が「頭骨」を「ずこつ」と読んだが「とうこつ」が正しい、と書いて謝っていました。なんだ、間違いというわけでもなかったんだ。
今回、「ER」を見て「ずぶ」に引っかかったのは、去年のこの出来事が、頭骨のどこかに引っかかっていたからかもしれませんね。

2003/6/21
(追記3)

『情報ライブミヤネ屋』火曜日のコメンテーターとしてもおなじみの、松尾貴史さんの新著『なぜ宇宙人は地球に来ない?〜笑う超常現象入門』(画・しりあがり寿、PHP新書)を読んでいたら、
「頭蓋骨〔とうがいこつ〕(ずがいこつと読むのは間違いだと、近所の医者が言っていたがどうだろうか)」(108ページ)
というくだりが出てきました。専門家はたしかに「とうがいこつ」と言うようですね。
2009/7/30


◆ことばの話1201「『元少年』か?『男性』か?」

日本テレビの用語担当のOさんからメールが来ました。例の神戸の小学生殺傷事件で少年院に収容中の「元少年」の件です。読売テレビでは、この5月のニュースで「元少年」という表現を使いました。それに付いて、私が『「ことばの雑学」放送局』(PHP文庫)に書いたもの(平成ことば事情744「元少年」)と同じ疑問を持たれたようなのです。
さっそく、お返事を書きました。以下は、そのメールに加筆したものです。



去年、少年が20歳になった時点でのYTVの表現は「少年」でした。新聞各社対応は私の本『「ことばの雑学」放送局』の30〜31ページに書いています。



また今年5月20日の時点での新聞各社(大阪版)の表現は読売新聞の見出しだけ「元少年」であとはみな「男性」でした。



うちの対応は報道のデスクが決めたようです。私はノータッチでした。



うちのキャスターとも、今、話し合ったのですが、「あの人」を表すのに一番適切なのは、
「元『少年』」
というカギカッコ付きの「少年」、つまり「あの少年」という特定の人物を指したものであろうと。でも、音声でカギカッコの「ある・なし」を明確に区別するのはまず無理です。文字表記ならともかく。
普通で考えれば「男性」で良いのでしょうが、あれほどのことをやった男に対して、法的には問題なくとも、「男性」という表現(=テレビ的にはプラスのイメージを持つ性別表現。ちなみに「男」はマイナスのイメージを持つ性別表現)を用いるのは、道義的・心情的に許したくない、というのがあるようです。 ニュースとして報じるのは、まさに「あんなひどいことをしたやつ」について報じているという意識があるのではないでしょうか。
杓子定規的に、
「20歳だから『少年』ではない」
と考えるべきなのか、また、
「『元少年』なんて言ったら、誰でも元は少年だ!」
と、そういう論を推し進めるべきなのか。。。
・・・どうも泥沼にはまっていきそうな気配です。



本に書いた「今後は『男性』で行く」と去年の7月に言ったのは報道部長でしたが、特に徹底されることもなく、今回の「元少年」という表現は、現場レベル(デスクレベル)で話し合って判断したようです。



放送各局の使用状況は、しっかりとはチェックしていないのですが、他局はどうなんでしょうか。「男性」でやっているのか、それとも「元少年」なのでしょうか?また調べておきます。

2003/5/30