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特 集

2018/07/28

特集01

南北分断の歴史 在日の思い

(題名:ゆらめいて八月)
(金時鐘さん) 
<日差しも光も炎天にゆらめいて
 陽炎になり うだる記憶のかげろうになり―>

詩人・金時鐘さん、89歳。
これまで日本国内の賞を多数受賞。

ことし、詩や評論をまとめた、全12巻の「コレクション」の刊行が始まった。
この日は、出版記念のイベント。

(参加者)
「言葉に重みがある」
「現実に対するなれ合わない言葉を生み出してくる力、それが魅力です」

(京都大学(ドイツ思想・詩人)細見和之教授)
「20世紀という時代を決定的な体験を背負って
 生きてきた方なんですよね
 それが詩の形で書かれていて
 同時代で生きていられるのはほとんど奇跡に近いことだと思っている」

祖国の分断に異議を唱え詩を刻んできた時鐘さん。
1929年釜山で生まれ青年期まで済州島で育った。

当時は、日本統治下、皇国少年だった。

(金時鐘さん)
「小学3年になる時には朝鮮語を使ってはならないと 
 神風特攻隊になることを当然のように思っていました。
 アメリカが(済州島に)上がってきたら
 刺し違えてもやってやろうと」

しかし、1945年8月訪れたのは、日本の敗戦だった。
朝鮮の人々にとって36年に及ぶ日本統治からの「解放」のはずだったが―

(金時鐘さん)
(題名:ゆらめいて八月)
<八月の夢、とどろいた歌、
 こぞる思いも つのるまま
 氷晶をかかえた黒雲になり―>

(金時鐘さん)
「同胞たちは万歳 万歳で町に出ていましたけれどね 
 私は逆に地にのめり込んで行くように何の希望もない敗戦でしたね。
 日本語が闇の言葉になった 
 真黒く黒ずんでしまった  
 つまり言葉を持たない人間になった」

敗戦をきっかけに自身の存在を問い直す苦悩が始まった。

(金時鐘さん)
(題名:四月よ遠い日よ)
<4(サ).3(サム)の血よ。耳底の松風となって
 うすれる記憶を糾せ、揺らせ>

この日、朗読した詩の半数が「済州島4.3事件」について。

韓国最大のタブーとされてきた「4.3事件」。
ことし4月、文大統領が国家の罪を認め謝罪したが、
事件の全貌は今も明らかになっていない。

韓国と北朝鮮がまだ存在していなかった1948年。
米ソが38度線を境ににらみ合う中、
アメリカ軍政側は南朝鮮の単独選挙を画策。
これに済州島の民衆が抗議、
「南北が分断さてしまう」として4月3日に蜂起した。
時鐘青年も加わった。

(金時鐘さん)
「南だけが選挙するとうちの国は分断が固定化するのは
 もう誰にも分かることなので、
 南だけの単独選挙に反対する抗争が起きました
 農民一揆みたいなものですよ」

蜂起したのは、わずか300人あまり。
これを鎮圧しようと済州島に送り込まれた警察や右翼団体らが島民を虐殺。
3万人あまりの島民が犠牲となった。

(金時鐘さん)
「村ごと燃しちゃう 
 見せしめで虐殺体を並べたり大根みたいに吊るしておく
 その匂いは とてもたまったものではありませんよ」

弾圧が熾烈を極める過程で単独選挙は強行され、
南に大韓民国が樹立。
その翌月、北に朝鮮民主主義人民共和国が生まれた。

2年後、朝鮮戦争が勃発すると、南北の対立は決定的に。

(金時鐘さん)
「自分は何から解放されたのだろうかといつも思います」

事件から70周年のことし時鐘さんは、新しい詩を送った。

(金時鐘さん)
(題名:死者には時がない)
<風化は日常の俗化がもたらすものだ。
 生きている者たちが普段にも見すごしている不実な歴史の繰り返しだ。
 記憶が褪せない限り私たちが怠らないかぎり
 四・三の死者はかたわらで生きている>

連絡係だった時鐘さんも命を狙われていた。
父親は、息子を日本に逃がすため、カネの工面に奔走した。

(金時鐘さん)
「こちらがお父さんでキムチャングっといいます
 母はキムヨンチュンといます
 いい酒を開ける時は一杯おいて飲む」

(金時鐘さん)
「お父さんが、漁船に乗る段になって
 <たとえ死んでも目の届くところだけでは死んでくれるな>といって
 プイと横向いて帰っていった。
 その言葉がいまも70年近くこびりついています」

それが両親との永久の別れとなった。
 
(金時鐘さん)
(題名:あなたはもうわたしを 差配できない 1955年)
 <父と子を割き 母と私を割き私と私を割いた38度線よ、
 あなたをただの紙の上の線に返してあげよう>


史上初の米朝首脳会談。

(金時鐘さん)
「はーっ(ため息)
 北朝鮮という ああいう国家体制には少しも賛同するものを持たないけど
 何しろ同胞同士が行き来できれば
 実質的なもう統一ですからね
 そういう機運がもっと高まって
 実際、そういう具体的なことができることを願うね」

(映画「焼肉ドラゴン」より)
(井上真央)
「私らは頭の先からつま先まで
 韓国人 日本人と同じ顔してたかて中身はキムチ」
(大泉洋)
「俺は瓶詰のキムチや ちょっと高級や」
(井上真央)
「キムチはキムチ」

これは1969年の関西を舞台に、
在日コリアンの家族を描いた公開中の映画、『焼肉ドラゴン』。

(オモニ9
「カゼ薬 持ったか 北はここより随分寒いらしい
 ばらばらになったかてうちら家族はつながっている」

(梁英姫さん)
「この神社は子供のときよく来た懐かしい」

在日コリアンが多く住む大阪・鶴橋に生まれた
在日2世の映画監督、梁英姫さん。

(梁英姫さん)
「今 コリアタウンって横断幕ありますが
 昔は<北にだまされるな><韓国籍を取得しよう>
 <南にだまされるな> 政治的な横断幕がばんばんあって」

南北の対立は、在日社会にも影響を及ぼした。

(梁英姫さん)
「一件の家族の中でも意見が分かれていたり
 親戚が集まると南だ北だと喧嘩になったり口論になったりもあったので」
「もう 別物ですね 観光地になっちゃって」

これは梁英姫さんが、家族を撮影した、
ドキュメンタリー映画『ディア・ピョンヤン』。

(ディア・ピョンヤンより)
<私は帰国という言葉の意味も分からなかった
ただ兄たちが遠くへ行ってしまうことだけはわかった>

ヨンヒさんの父親は北を支持する朝鮮総連の幹部。
帰国事業の旗振り役だった。

英姫さんの兄3人も新潟から万景峰号で北朝鮮に渡った。

1959年から25年にわたり行われた帰国事業。
「地上の楽園」と宣伝され北朝鮮に9万人以上が渡った。

兄たちを北朝鮮に送ったことについて、父親は―

(梁公善さん)
「Q.3人行かして後悔している?
 もう行ってしまったのはしかたないけど
 行かさなくてももっと良かったなと考えているさ
 自分たちもよく知らなかったというのはちょっとあるけれど
 早かったなと」

ピョンヤンで再会したのは11年後。
 
次男と三男は夢を追い、望んで平壌に渡ったが、
長男コノさんは、総連上層部の命令だった。
日本での生活との違いもあり次第に精神を病んでいった。

(梁英姫さん)
「(長男は)日本にいる時にクラシック音楽が好きで、
 日本からレコードとか持って行ったんですよね
 しかし全部没収されて革命の邪魔だとすごく責められて
 だんだん兄がノイローゼになり
 躁鬱になりだいぶひどくなっていった」

この映画をきっかけに梁英姫さんは北への入国が禁止に。
しかし、その後も表現活動を続けている。

(梁英姫さん)
「こんなにお兄ちゃんは壊れちゃったんだって
 私が自分の家族の話にこだわるのは
 そのトラウマが一番大きいと思います
 この人の人生は何だったんだって」

ことし3月、自身の体験をもとに、
青春小説『朝鮮大学校物語』を執筆。
さらに母親に焦点を当てたドキュメンタリー映画の制作を進めている。

今、北朝鮮情勢について思うこと―

(梁英姫さん)
「悲観も過剰な期待もせず見守る平和に向かって欲しい
 それだけですよね
 それは日本にとってもとても大事なことだと思います」

金時鐘さんは南北をつなげる役目が在日コリアンにあるという。

(金時鐘さん)
「38度線という亀裂は 個々人の心の中にすでに壁を作っているんです
 南北を1つの視野におさめる立地条件を生きている私たちには
 (価値観の)違いが分かるんですよ
 うちの国が統一をした時に、国家的統一が成り立った時
 ”一番 有力な存在体”が在日朝鮮人なんです」

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