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特 集

2017/12/16

特集01

紫綬褒章を受章 宮川大助・花子”夫婦の絆”

(大助)
「ご苦労さまです」
(花子)
「おはようございます」

師走の京都。
やってきたのは、
夫婦漫才コンビ・宮川大助・花子。

(花子)
「おはようございまーす」

(花子)
「どうもーこんにちは花子です
 こちらは 辛坊治郎です
 いろんなことあったけど何とか
 元気に年超せそうですわ」
(大助)
「ことしは腰痛の手術から入りまして」
(花子)
「というのは大助さん野球とか頑張りすぎてたからね」
(大助)
「小さいころから野球が好きだったから」
(花子)
「自慢じゃないですけど高校2年の時に
 鳥取県代表で甲子園まで行っているんです。
 ホームベースやりに」

大助はことし3月、7時間に及ぶ手術をした。
腰の「脊柱管」が変形し、神経を圧迫する狭窄症だった。
感染症も起こし、この1年で3度入院した。

(大助) 
「狭窄症ってつま先が浮くんですよ
 へそから上はしっかりしています」

(花子)
「よくがんばりました。
(握手)舞台が一番の休憩場所だから」
(大助)
「ありがとうございます」

夫の相次ぐ病気に秋口まで落ち込んでいた花子。
そんな中届いたのが紫綬褒章受章の知らせだった。

(花子) 
「最初、マネージャーになんでいただけた?って。
 わからないでしょ。答えが「夫婦漫才」って言っていただいて」
(大助)
「うちの奥さんに僕はおめでとうといってあげたい」

紫綬褒章は芸術や学術などで功績を残した人に国が与える賞。
宮川大助・花子は
今回唯一、夫婦そろっての受賞となった。

(花子)<先月の紫綬褒章会見>
「たくさんの"しょう"を今年はいただきました。
 (大助が)まず最初に頂いたのが脊柱管狭窄症、
 そして、感染症、並びに グラム陽性菌敗血症と。
 最初、紫綬褒章と聞いたとき
 また新しい感染症になったのかなと思ってしまいました」

授賞会見で、花子がどうしても伝えたかったこと―

(花子)
「私はいつか夫に言わないといかんなと思っていた言葉ですけど、
 この場を借りて言わせていただこうと思います。
 まだ何も言っていないのに。
 あのーえー漫才に誘っていただいて本当にありがとうございました」

(大助)「どうも」

「漫才に誘ってくれてありがとう」。

この言葉の裏には、
これまで何度も漫才を憎み漫才師を辞めたいとまで思った、
花子の葛藤があった。

(花子)
「病気した時も早く辞めたいと思っていましたし
 いつか辞めようと思っていた」

1976年、ふたりは大恋愛の末、結婚。

結婚3年目、大助の強い求めで漫才コンビを結成した。  
すでに、1歳の娘がいた。

当初の大助花子は怒涛のしゃべくりに、
激しい突っ込みを入れるどつき漫才。

ネタを覚え、突っ込みの「間」を身に付けるため、
毎晩遅くまで稽古を繰り返した。
その分、愛娘と過ごす時間が失われていった。

(大助) 
「(花子が)舞台で3回ほど失神した
 むちゃくちゃしていますね。
 子供がいてのスタートなので人の何十倍稽古しないと
 とてもじゃないけど最下位の自分たちがついていけないだろうというのがあった」

(花子) 
「それだけやりたかったら自分でやったら?
 何も嫁を誘うことはないでしょという感覚で
 自分のライバルは子供つれて学校に行っている。
 幼稚園の弁当作っている奥さんが自分のライバルだった。年齢的には」

当時、漫才の名だたる賞を総なめにしたものの、
主婦でいたかった花子は素直に喜べなかった。

(花子)
「トロフィーみながら いつか殴ったろと思っていた。
 これがほしかったんか」

追い詰められた花子は
次第に自律神経のバランスを崩し、入院。
1988年には胃がんが見つかった。

満身創痍の花子を前に大助は、肩を落とした。
花子を「漫才の相方」としてしか見ていなかった自分を責めた。

当時、後悔の思いをこう口にしていた。

(大助・1989年)
「いままで がむしゃらに漫才が売れることを目指して進んできて
 何か間違いだったのではないかなとふと思って 
 嫁の体を悪くしてまで命がけで
 漫才やる価値があるのだろうかなと思った」

この時から、漫才のスタイルが大きく変化。
花子が思ったことを自由に話す、
今につながる夫婦漫才がスタートした。

(大助)
「お互いの夫婦への健康の気遣いとか
 思いやりが漫才に出るようになって
 本当の夫婦のこころが漫才のなかに存在しだした
 というのがそのころから出だした」

ところが今度は大助が病に。
2007年番組のリハーサル中に突然、倒れたのだ。

脳内出血だった。
幸い手術には至らず一命を取り留めたが、
花子は毎日リハビリに付き添った。

この時、花子は初めて、ひとり舞台を経験した。

(花子・ことし3月) 
「あら、さみしい。一瞬にしてさみしくなった」

10年後のことしの春、
花子は再び、ひとりで舞台に。

(花子)
「今、大助師匠 手術中。私空いてたから
 確かに空いてるけど」

大助は、今年に入り腰の病が悪化。
この日はちょうど狭窄症の手術の日だった。

大助は、その症状について前日、こう話していた。

(大助)
「NGK劇場で漫才していて
 2回に1回は腰から下 つまさきまで
 完全に両足がまひ状態になりまして」

病院に来るのがもう少し遅れていたら、
寝たきり状態になる危険があった。

(大助)
「狭窄症は黙って立っていることが一番悪い
 ところが漫才の僕の役は黙って立っていること」

手術の成功を祈りながら花子はセンターマイクへ。
大助が回復し、すぐにでも
復帰できるよう舞台を守る役目を果たすためだ。

(花子)
「きょうみなさんびっくりしたんと違います? 
 今 大助は手術中なんです
 漫才って二人で一人なんですよ
 一人でしゃべったら・・・
 楽です もしやっている最中に大助の手術が終わったら
 みなさまに報告させていただきますので、お見舞金でも」

花子は、ひとりで15分間をしゃべりきった。

(花子)
「2007年に大助が倒れたときでも集中治療室で
 彼がひとりでやっておいで
 いっておいでよと。
 それで10年たった今回、何の躊躇もなく一人で行かせてくれている
 一人で行く力をものすごい与えてくれている 
 それはすごい感じましたね」

大助の手術は
予定より時間が延びたものの無事、成功した。

(花子)
「なんかむくんでいるような」
(医師)
「手術中ずっとうつぶせでしているので」

(花子)
「見て。こんなむくんでる顔が1.5倍になってる硬い
 足の裏やん 床ずれ」

手術から8日目、手術あとの消毒。
こうした病院での日常も
花子にとってネタの宝庫だという。

恒例となった、
東日本大震災被災地の慰問で早速ー。

(仮設住宅で漫才)
(花子)
「腰のせいでしゃべりが大変で本当に大変だったんですよ
 長い手術だったんです 
 背開きで、関西は腹開き
 大助くんは背開き。
 終わってから先生が消毒液塗って赤茶色のを塗って
 ウナギのたれかよく床ずれがおきるって下向いてたから
 起きたら可哀そうだなと思っていたら 顔ずれまだ残っている」

(被災者の女性)
「がんばってください」
(大助)
「ありがとうございます」
(被災者の女性)
「お互いにがんばりましょう」
(花子)
「ほんまやな。ありがとうございました。お世話になりました」

(大助)
「僕らも芸歴でいったら秋のシーズンに来ているので 
 秋の紅葉くらい 枯れる前にふわっと赤くなれたらいいなと」

(花子)
「漫才をやったがために夫婦がもめたり
 漫才のせいで病気になったとか
 勝手にずっと思っていました
 でも今回 本当に(紫綬褒章)いただきまして、
 漫才やっていたおかで いただけたということで
 過去に感謝いたします」

(大助)
(もし生まれ変わっても夫婦に?)
(花子)
「よく聞かれるんですけどね次はまた新しい違う…
 どうあんた?」
(大助)
「もういっぺん一緒になって今度は漫才をやらないで
 花子さんの漫談のマネージャーをやりたい」

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