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特 集

2017/07/08

特集01

日本人が見た朝鮮戦争

"こんぴらさん"の愛称で知られる香川県の金刀比羅宮。
船の守り神をまつるこの境内で、
毎年、海上自衛隊が追悼式を行っている。

慰霊碑には「掃海殉職者」の文字。
日本近海に撒かれた機雷を取り除く作業で、
戦後、亡くなった隊員、79人を追悼している。

その中にひとりだけ、朝鮮戦争に動員され、犠牲になった隊員がいる。
中谷坂太郎さん、当時21歳。

大阪から参列した兄の藤市さん。
弟の死の意味を今も問い続けている。

(中谷藤市さん)
「朝鮮戦争でのたった一人の殉職者
 弟に対する思いが頭をよぎって悲しい思い、やるせない気持ちが
 いつまでも続いています」

その理由は、
アメリカの将校から発せられた、
弟の死を隠すようにとの言葉―。

(中谷藤市さん)
「米軍から厳しい箝口令が敷かれまして
 ”一切口外しないでくれ”ということでした」

なぜ、坂太郎さんは朝鮮戦争に駆り出され、犠牲になったのか。
そして、なぜ、その死は隠されなければならなかったのか。

戦後の冷戦時代、
世界は、東の共産主義陣営、西の自由主義陣営に分かれていた。
朝鮮半島も、38度線を境に、
南北に分断され、睨み合っていた。

その均衡が崩れたのが、
1950年6月25日未明。
北朝鮮軍が突如、韓国へ砲撃。
38度線を越えて進撃し、わずか3日でソウルを陥落させた。

朝鮮戦争の始まりだった。

(三宮克己さん)
「朝鮮戦争が始まったから至急帰って横浜ドッグに入れと」

戦後、戦地から兵隊を引き揚げる船で働いていた三宮克己さん。

アメリカ軍から直接、朝鮮戦争への協力を要請された。
当時はGHQの占領下、命令は絶対で極秘だった。

(三宮克己さん)
「とにかく朝鮮に向かって出ろということで 
 ジープに機関銃乗せ兵隊200人乗せて行ったんです。
 このあたりまで北朝鮮軍がぎっしり追い詰めて大混乱でした」

国連は、軍の投入を決めたが
破竹の勢いで進む北朝鮮軍に後退を余儀なくされ、
韓国南部プサンの一角まで追い込まれた。

韓国が消滅してしまうかもしれない危機の中、
三宮さんに新たな命令が。

(三宮克己さん)
「アップル地点に行けと。
 そこにいくと今度は手旗で無線 全部封鎖していますから、
 手旗でアップからオレンジに行けと。
 オレンジ行ったらパイナップルに行けと 
 指示によって着いたところが仁川の沖だった。
 そこではじめて俺たちは、敵前上陸だと(分かった)
 全部合流すると数百隻200隻くらい 大船団になるんですよ」

それは、マッカーサー元帥が指揮をとった
仁川(インチョン)上陸作戦だった。

北朝鮮軍の補給路を側面から断ち切る電撃作戦。
しかし仁川の海は、干満の差が激しく、危険だった。
そのため統治時代からこの海域を熟知していた日本の船員たちを、
水先案内人に用いたという。

(三宮克己さん)
「後ろの方から、戦艦ミズーリやニュージャージーが
 はるか沖から仁川に向かって撃つわけですよ。
(米艦船が)撃つたびに着ている服がフワッフワッとなるんですよ」

作戦は成功し、ソウルを奪還。
形勢は逆転した。
三宮さんはそこで
生涯忘れられない風景を目の当たりにした。

(三宮克己さん)
「丘に上がってみたんですよ 
 戦車が通ったところ見たら 
 人間の形をした真っ黒いにものがいるわけですよ。
 なんだとみたら唇だけ赤いんですが
 真っ黒で 人間が死んでいるんですね。
 私は初めて あっ、俺は人殺しの手伝いをしているんだと」

国連軍はその後、日本海から元山(ウォンサン)に上陸し、
平壌へ一気に攻める作戦を立てた。
だが、北朝鮮軍は、付近の海に機雷を撒き、抵抗。
そこでアメリカ軍は経験豊かな日本に機雷掃海を求めた。

機雷掃海の方法は
まず並行する2隻の船がワイヤーを引いて走る。
そこに機雷がかかれば、機雷と重りとをつなぐ係維索(けいいさく)を切断、
水上に浮上した機雷を爆破処理する。


機雷掃海に派遣された隊員のひとりが
朝鮮戦争の唯一の殉職者となった
中谷坂太郎さんだった。

坂太郎さんが家族に宛てた手紙。
アメリカから突然の命令が下されたと記されている。

中谷家は11人家族だった。
家計は、当時21歳の坂太郎さんが支えていた。

兄 藤市さんは職を探していたが、
敗戦直後で、仕事はすぐに見つからなかった。

(中谷藤市さん)
「食糧難の時代で大変なんです。
 その時に現金収入があるのは弟だけ 
 仕送りを弟がしてくれていた 
 家族思いの温かい気持ちを彼は持っていました」

派遣が決まった際も坂太郎さんは、
家族に仕送りする段取りをつけてから朝鮮半島に向かったという。

坂太郎さんの同僚、嶋田好孝さん。
掃海部隊の基地だった神戸で、
坂太郎さんと青春時代を過ごした。

出港直前のこと―。

(嶋田好孝さん)
「中谷(坂太郎)君が一杯やろうと
 今カジキが入ったから 一杯飲もうと 
 ブリッジで2人で飲んだ。それが最後だった」

坂太郎さんは、人懐っこく誰からも好かれていたという。

元山では、別々の船で掃海作業をしていた。

(嶋田好孝さん)
「100メートルあったかなかったか」

それは、突然だった。

(嶋田好孝さん)
「ドーンと水柱が上がったんです やられたと思いました」

坂太郎さんの乗った船が機雷に触れ、その機雷が爆発したのだ。

(嶋田好孝さん)
「あの人は調理の関係で倉庫に入っていたか 
 そうならば即死ですよ」 

船員のほとんどが甲板上にいて海に投げ出され助かったが、
坂太郎さんは、隊員の食事作りを担当していたため、
食糧倉庫にいたとみられている。

(嶋田好孝さん)
「ドーンときたらあおりで吹き飛ばされますから 
 狭いところですから、どこで頭を打ったか
 ただ唖然とするだけです」

坂太郎さんは脱出できず船とともに海に沈んでしまった。
その1週間後、
アメリカ兵2人が坂太郎さんの実家を訪れ
こう釘を刺したという。

(中谷藤市さん)
「絶対に口外しないでほしいと 
 日本に新しい憲法ができた 
 米軍の戦闘に日本の掃海艇を強制的に参加をしてもらって1名の戦死者が出た。
 これが世界的に問題になったときに大変なことになる」

この時、すでに戦争放棄をうたった
新憲法が施行されていた。
坂太郎さんの死は"あってはならないもの"として隠されたのだ。

藤市さんは納得できなかったが
父親からも諭され、口外することはなかった。

坂太郎さんの死をきっかけに
隊員の中からは、他国の戦争に参加することを疑問視する声が沸き、
命令に背いて、帰国する船も出た。

朝鮮戦争はその後、
国連軍が中国の国境付近にまで到達したが、
突如、中国軍が参戦し、38度線付近まで押し返された。

そして攻防開始から3年、休戦協定が結ばれた。

そこで決まった軍事境界線は
結局、戦争前の38度線とほぼ同じだった。

朝鮮戦争の死者は、
軍人と民間人合わせて150万人以上にのぼった。

坂太郎さんの死から29年後、
藤市さんのもとを
朝鮮戦争当時の海上保安庁長官が訪ねてきた。

(中谷藤市さん)
「ここに座って初めて(元長官が)
「戦没者叙勲ですと。いままで非常にご迷惑をおかけした」と 
 国に朝鮮戦争の戦没者として認めてもらった」

これで弟を公に追悼できると思った藤市さんは
靖国神社に合祀を求めた。

(中谷藤市さん)
「朝鮮戦争の戦死者として国から認めてもらっているんだから、
 殉職者だから、合祀できると靖国神社にお願いに行った」

これまでに2度、合祀を求めたが、
受け入れられることはなかった。

(中谷藤市さん)
「靖国から正式に通達 回答があった。
 ”現在は大東亜戦争までの戦没者を合祀するのが
 合祀の基準であって
 朝鮮戦争については今のところ合祀の対象になっておりません”。
 他国の戦闘については、合祀はないと」 

休戦状態が続く朝鮮戦争。
今も終わってはいない。

(中谷藤市さん)
「こういう岸壁に来ると弟がふと瞼をよぎる
 他国の戦争に巻き込まれてそこで戦死した時どうなるか。
 なんか、やるせない気持ちがいまだに残っています」

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