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『道浦TIME』

新・読書日記 2016_077

『ワールドサッカーダイジェスト5月28日号増刊~ヨハン・クライフ追悼号』(編集人・吉田治良、日本スポーツ企画出版社)

ことし3月24日、ヨハン・クライフが亡くなった。

これはひとつの事件である。

と言っても、サッカーファン、それもリアルタイムでクライフのプレーを目にすることができた世代以外にとっては「誰それ?」「何それ?」というものかも、しれないが・・・。

そうだなあ、野球がさかんな日本では、「王」「長嶋」みたいな感じかなあ。「王」の背番号が「1」、長嶋の背番号が「3」っていうのは常識でしょ。それと同じく、サッカーファンにとっては、クライフの背番号が「14」というのは、ペレの背番号が「10」というのと同じぐらい常識なんです。あとは知らない。頭に焼き付いている「1974年西ドイツワールドカップ」でのプレーの数々・・・。

そのクライフが、亡くなった。68歳という若さ・・・。

いつまでもオレンジ、あるいは白のユニフォームの背番号「14」の印象が。オランダ代表のユニフォームは「アディダスの3本線」のユニフォームなのに、クライフだけは「2本線」。それは「プーマ」と契約していたから。そんなわがままが許されたのも、クライフが本当の「スーパースター」だったから。なんか、サッカー界のスーパースターは「わがまま」というイメージが強いけど(マラドーナとか、さ)、本当にそうなんです。そのプレーを見た時の衝撃は忘れられません。「フライング・ダッチマン=空飛ぶオランダ人」。ワーグナーは「さまよえるオランダ人」を作曲したけど、クライフも実はいろんなチームを「さまよって」いたなあ。でも、故郷・オランダの「アヤックス」と、師と慕ったリヌス・ミケルス監督率いるスペイン「バルセロナ」は、やはり格別のチームだったろう。まだフランコ統治下のスペインで、カタルーニャのバルセロナが、マドリードに勝ったのだ。そして、その後の監督時代の栄光も凄い。第二の故郷と言っていいでしょうね、バルセロナ。この本には、そんなクライフの傲慢で、かつ天才の証明である「名言の数々」や、カンプノウでの追悼の写真も載っている。そのカンプノウの建て替え、なんと日本の日建設計が手掛けるそうだ。きょう(5月10日)の夕刊に載っていた。合掌。


star5

(2016、5、9読了)

2016年5月12日 19:44 | コメント (0)