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『道浦TIME』

新・ことば事情

4767「深野」

 

深夜の関西ローカルのニュースを見ていたら、大阪の大東市で自動車事故が起きたというニュースを放送していました。その大東市の地名がスーパーでは、

「深野」

と書いてあったのですが、アナウンサーの読みは、「ふかの」ではなく、

「ふこの」

でした。一瞬、聞き間違いかな?とも思ったのですが、

「そういえば、そういう難しい読み方の地名があったな」

と、かすかな記憶で思い出し、あとで調べたらやはり正解は「ふこの」でした。翌日の新聞記事を見たら「深野(ふこの)」ルビを振ってある記事もありました。

こういう「一見、簡単そうに見えて実は難しい読み方の地名」は、特に気をつけなければなりません。これを読み間違えると、その記事全体の信頼性が揺るぎます。特に地元の人の信用は「ガタ落ち」です。

先日「平成ことば事情4743」で書いた、

「吉田(よした)」

も、そういった地名の一つです。市町村名の下の地名は全部を覚えることは難しいけれども、少なくとも原稿を読む前に、地名辞典でチェックすることを怠らないことですね。

一方で、関西のアナウンサーは、関西の「市町村名」に関しては、ちゃんと(地名辞典を引かなくても)読めるようにしておかなければなりません。「丹波篠山」の「篠山」を、

「しのやま」

などと読んでいるようではダメなのです、当たり前だけど。まず「デカンショ節」が歌えるようにならないといけない、次にデカルト・カント・ショーペンハウエルについて語れるようにならないといけない・・・と、そこまでは求めませんが。

あ、「篠山」は「ささやま」です。書くまでもないことですが。

 

 

 

(2012、6、27)

2012年6月29日 11:06 | コメント (0)

新・読書日記 2012_110

『深夜の赤信号は渡ってもいいか?~いま使える哲学スキル』(富増章成、さくら舎:2012、3、8)

 

キャッチーなタイトル。サブタイトルは「いま使える哲学スキル」ですが、なかなかすぐには「哲学スキル」は使えません。マニュアルではないから。でも「考えるきっかけ」になる一冊。著者のペンネーム(だと思うが)、富増章成は、「とみます」さんかと思ったら「とます・あきなり」

だと。当然これは、

「トーマス・アキナス」

をもじったのだな、と。

小学校のときに読んだ哲学の入門本の名前が、たしか『デモクリトスから素粒子まで』というものでした。本書を読んでいるとそんな名前が次々に出てきて、なんだか懐かしい感じの一冊でした。

え?赤信号は渡ってもいいのかって?自分で考えなさい!!

 

 


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(2012、6、21読了)

2012年6月28日 18:01 | コメント (0)

新・読書日記 2012_109

『宇宙兄弟18』(小山宙哉、講談社:2012、6、22第1刷)

 

ちょっと間が開いてしまって、「宇宙兄弟」熱がややさめたところ。こういうものは一気に読みたい。しかもその飢餓感(なかなか単行本を読めないという)を埋めようと、連載されている漫画誌を2回ほど買って読んだりしたので、この巻の後半は「既に読んだ」ものであったのだが。

しかし「新たな物語」が始まっている。この物語における主人公・兄のムッタは、「独白」が多い。それが、作者や読者の気持ちを代弁しているように思える。

 

 

 


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(2012、6、25読了)

2012年6月28日 11:59 | コメント (0)

新・読書日記 2012_108

『「すみません」の国』(榎本博明、日経プレミアシリーズ:2012、4、9)

 

日本はホンネとタテマエの国である。「察する文化」だ。それに対して欧米は「タテマエ」で押し通そうとする国である。日米で「わかる」の意味は違う。「意味のない会話に重要な意味がある」「日本で暴動が起こらない理由」などの章を読むと、日本人が暴動を起こさない慎み深さを兼ね備えているのは「戦国時代から」かと、つい思ってします。

「空気」が国を支配する日本においては、「タテマエ」は大変重要なのだと説く。若者はたいてい「タテマエ」に反抗する。それは、タテマエの裏に隠された「ホンネ」の胡散臭さを、敏感に感じ取るからだ。しかし、実は大人のみんなはそんなことは分かった上でたいおうしているのだよ、と。でも、なあ・・・。

 

 

 


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(2012、5、9読了)

2012年6月27日 16:58 | コメント (0)

新・ことば事情

4766「UFO」

 

6月6日の「すっきり!!」「ギャル語」などを紹介していました。それによると、

 

UFO」=うまくフェードアウト。

KY」=恋の予感。

「チョッパズ」=超恥ずかしい。

TMG」=大変申し訳ございません。

YMO」=やだもうおじさん。

 

「UFO」は「謎の円盤」ではなかったのか!(もしくは、焼きそば)

「UFO」するのって難しいんだよねえ・・・。

 

「KY」は「空気が読めない」じゃなかったのか!それはもう、数年前のはやり言葉か。

 

でもローマ字(アルファベット)で略語を暗号のように表すやり方は、まだ続いているようですね。

「YMO」なんて、

「イエローマジックオーケストラ」

としか思えないのに、そんな引っ掛け問題(?)を作っておいて、

「やだもうおじさん」

って、なんだか詐欺的な"落ち"だなあ・・・。どうも「TMG」。

 

(2012、6、25)

2012年6月27日 11:47 | コメント (0)

新・ことば事情

4765「肩引き、傘かしげ」

 

「道浦さん、狭い道を歩いていてすれ違うときに、ちょっと半身になって道を譲るようなしぐさを、なんと言うんでしたっけ?」

と質問を受けました。

傘をさして歩いていて前から来る人とすれ違うときに、傘をちょっと斜めにしてすれ違いやすくする動作は、「江戸しぐさ」では、

「傘かしげ」

と言うことは、たしか林えり子さんのエッセイで読んだ覚えがありますが、(「傘から落ちるしずくで、すれ違う相手を濡らさないように、 傘をお互いに外側にかたむけるしぐさ」だそうです)、傘を差さずに普通に歩いていてすれ違うときは、なんと言うのでしょうか?

まず「傘かしげ」を辞書で引きましたが、載っていないようです。

ネット検索すると、「傘かしげ」は載っていました。(Google・6月22日)

「傘かしげ」      =3万4500

「傘かしげ、江戸しぐさ」=  9500

その中に、解答がありました。どうやら、

「肩引き」

と言うそうです。これも「江戸しぐさ」なのだそうです。Google検索・6月22日「肩引き、江戸しぐさ」=4070件)

最近、こういったエチケットと言うかマナーを知らない人が増えている気がします。こう言った「エチケット」の名前は知らなくても良いけれど、「気遣い」として必要ではないのかなあ?道を譲らない人に会うと腹が立ちますが、相手もきっと同じことを考えているのでしょう。(もしかしたら「譲ったら負けだ」と考えているのかもしれない。)そこで、

「これはサッカーの試合中で、相手のディフェンスをかわしてゴールを目指しているのだ」

と思えば、気持ちよくすり抜けていきます。「相手のディフェンス(前から来る人)がよけないから腹が立つ・・・」とは、サッカーの試合中は考えないですね。フェイントで、あるいはスピードで抜いていくのが当然ですから。これは練習、練習!と、気の持ちようで、全然見え方は変わってきます。

でも、イヤホンで音楽を聴きながら道の真ん中を歩いて譲らない若者を見ると、腹が立つのは腹が立つ。自分も若いときはそうだったのだろうか?とちょっと振り返ってみますが、どうだったのだろうか?

 

(2012、6、22)

2012年6月26日 17:38 | コメント (0)

新・ことば事情

4764「『1年あまり』と『1年強』」

 

妻からの言葉の質問。

「『一年あまり』という表現は、『一年強』と同じ意味でしょうか?」

私の返事。

「私の感覚ですが、『一年あまり』のほうが『一年強』より、やや長い。『一年強』はあくまで『一年、プラス1か月まで』。『一年あまり』は、そもそもアバウトな感覚だから『一年と2、3か月までオーケー』という語感です、個人的には。たとえば、1095円は『千円強』、1200円は『千円あまり』。『強』は『本体の1割増し以内か未満か』という感じ。」

と答えましたが、それでよかったのかなあ。辞書も引かずに答えたけど。

実際のところ、皆さんの感覚はいかがですか?

 

 

 

 

(2012、6、25)

2012年6月26日 11:36 | コメント (0)

新・読書日記 2012_108

『「すみません」の国』(榎本博明、日経プレミアシリーズ:2012、4、9)

 

日本はホンネとタテマエの国である。「察する文化」だ。それに対して欧米は「タテマエ」で押し通そうとする国である。日米で「わかる」の意味は違う。「意味のない会話に重要な意味がある」「日本で暴動が起こらない理由」などの章を読むと、日本人が暴動を起こさない慎み深さを兼ね備えているのは「戦国時代から」かと、つい思ってします。

「空気」が国を支配する日本においては、「タテマエ」は大変重要なのだと説く。若者はたいてい「タテマエ」に反抗する。それは、タテマエの裏に隠された「ホンネ」の胡散臭さを、敏感に感じ取るからだ。しかし、実は大人のみんなはそんなことは分かった上でたいおうしているのだよ、と。でも、なあ・・・。

 

 

 


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(2012、5、9読了)

2012年6月25日 21:57 | コメント (0)

新・ことば事情

4763「一気通貫」

 

先日、駅に向かう通路ですれ違ったビジネスウーマン(30代ぐらいの女性)と男性の会話が耳に入りました。その中で、

「それは『一気通貫』で片付けないと・・・」

という言葉が耳に止まりました。「一気通貫」を、

「一気に」

の意味で使っています。「一気通貫」が「麻雀(マージャン)の役」だと知らずに使ってるんでしょうか?

実はついひと月ほど前、妻が、

「最初から最後まで通しで行う事を『いっきつうかん』って言わない?文字がわからないけど。リポートに使おうと思ってるんだけど」

と聞いてきたので、

「それは麻雀の役の名前だよ!」

と返事をしたら、

「そういうような感じの言葉が、ほかになかったっけ?」

と聞いてきたので、ちょっと辞書を調べて

「終始一貫、一部始終、首尾一貫、初志貫徹、徹頭徹尾」

と返事しましたが、もしかしたら、「一気通貫」が、そういった意味で使われ始めているのかもしれないなと思いました。マージャン、やらないから知らないんだね・・・って、私もほとんど知らないのですが・・・。

 

(2012、6、25)

2012年6月25日 17:33 | コメント (0)

新・ことば事情

4762「173年ぶり」

 

5月21日、首都圏ではなんと173年ぶりに「金環日食」が見られるということで、当日まで3週間を切って盛り上がってきました。

「ミヤネ屋」でもこの「金環日食」の特集を5月1日に放送しました。その際にふと、疑問に思ったのは、

「173年前って、江戸時代だけど、どんな時代だったのだろう?」

ということ。そこで、その頃の「年号」を調べることにしました。1800年ぐらいから「明治」まで。

1789-1801 寛政

1801-  04 享和

04-  18 文化

18-  30 文政

30-  44 天保

44-  48 弘化

48-  54 嘉永

54-  60 安政

60―  61 万延

61-  64 文久

64-  65 元治

65-  68 慶応

68-1912 明治

聞いたことがある元号も有れば聞いたことがないのもありますね。でも1801年の「享和」から1868年の「明治」までの67年で元号は「13」ありますから、一つの元号は意外なほど短い。平均5年ほどしかないのですね。文化・文政・天保は3つ合わせて40ですが、その後はかなり短い期間にころころと変わっている。1840年代後半からの20年で江戸幕府が解体されて明治維新を迎える。ただ、明治政府が整うのも明治15年ぐらいですから、この間、35年ぐらいは時代が変わるのにドタバタしていたわけです。

173年後は、もちろん私たちは生きていないわけですが、私たちの子孫は、どのような時代を過ごしているのでしょうか?

 

(2012、6、19)

2012年6月23日 18:06 | コメント (0)

新・ことば事情

4761「生きとし生けるもの」

 

地下鉄を待っていたら、急に疑問が浮かんできました。

 

「生きとし生けるもの」の「とし」って何?

 

おそらく「し」は強めの助詞でしょう。(平成ことば事情4682「『いつしか』の『し』」では、「『いつしか』の『し』は『過去』を表す助動詞なのではないか?」と思って辞書で「し」を引いたら、「強めの助詞」だったと。「えにし(えん+し)」「定めし」「果てし(ない)」などの「し」と同じという話でした。)

『精選版日本国語大辞典』を引くと、

「『し』は強めの助詞。『いき』は四段動詞『いく(生)』の連用形、『いけ』は命令形」

とありました。

そうすると「と」は何なのか?

うーん、「と」は分からないなあと思っていたら、読売新聞水曜日の連載、

「なぜなに日本語103」(523日)「意味を強める『し』」が載っていました。グッド・タイミング!それによると、

「『生きとし生けるもの』は、『この世に生きているすべての生き物』を指します。『と』にも強める意味があり、『し』にも強まる意味があり、『し』とともに『生き』を強調した表現です。」

とありました。

「と」も強めかあ。

 

 

(2012、6、21)

2012年6月23日 11:05 | コメント (0)

新・ことば事情

4760「台風の上陸はどの時点で言うか?」

 

201110月に書き始めました。当時は「平成ことば事情4485」でした>

2011年(去年)の9月は、日本に影響を及ぼす本当に台風が多かったです。そこで疑問が、

 

「台風が上陸した」

 

という場合、

 

「台風のどの部分が『陸』の上に来たら『上陸』と言うのか?」

 

ということです。

答えは?ウエザーニューズの人に尋ねたところ、

 

「台風の中心気圧が一番低いところが陸地にかかった時点で『上陸』と言います。ただ、沖縄とか島(島嶼部分)の場合は『上陸』とは言わず『通過』と言います。」

 

という答えが返ってきました。つまり「上陸」するより前に、その周辺部分の「強風域」や「暴風域」が影響を及ぼすということになります。

2012年は、8年ぶりに6月に台風(4号)が上陸。今年もこれからまた台風が来そうですが、注目していきます。

 

(2012、6、21)

2012年6月22日 17:04 | コメント (0)

新・ことば事情

4759「シャーシン」

 

最近の若者言葉に関して甲南大学の学生に書かせたところ、

「シャーシン」

という言葉が出てきました。何だと思いますか?正解は、

 

「シャーペンの芯」

 

のことだそうです。ちょっとだけ略しているのね。

そういえばこの言葉、うちの中学3年の息子も使っているな。

Google検索したら(618日)

「シャー芯」=164000

もありました。使われているんだア!おじさんはよく知りませんでした。

 

(2012、6、18)

2012年6月22日 12:13 | コメント (0)

新・ことば事情

4758「やんだり降ったり」

 

617日の夜遅くのフジテレビのニュースを見ていたら、アメリカのマッキンリーで日本人が行方不明になっているニュースを、現地の女性記者がリポートしていました。その中で現地の天気に触れて、

「雨もやんだり降ったりしていて」

と話していました。え?「やんだりふったり」?それは普通、

「降ったりやんだり」

ではないのでしょうか?なぜ語順が逆なの?と気になりました。現地リポートだから、直しようがなかったのでしょうか?確かに状況は同じかもしれませんが。

あ、ダルマさんは、

「七転び八起き」

で、転んでから起きてる。しかも、転んだ回数より起きる回数の方が一回多い。ま、転ばないと起きられないから、これはいいのか。

ちなみにこの話をN部長にしたら、

「その記者は、帰国子女と違うか?ABB&Aも同じと考えていたのでは?」

という感想が返ってきました。

平成ことば事情4757のように「~たり、~たり」とペアで使っても順番が違うとダメなんて、日本語は難しいですね。

 

(2012、6、18)

2012年6月21日 17:52 | コメント (0)

新・ことば事情

4757「~たり~するなど」

20111127日に書きかけました。当時のナンバーは平成ことば事情4525>

 

最近よく目にする間違いの文型に、

「~たり~するなど」

があります。そもそもこれは、

「~たり~たり」

とするのが定型。つまり似たようなものを2つ例示するということなのですが、最近、1つしか例示しないで、2度目の「たり」の代わりに「するなど」を使うことが増えている気がします。つまり、こんな感じ。

【誤】バスの走行中は窓から顔を出したり立ち上がると危険だ。

【正】バスの走行中は、窓から顔を出したり立ち上がったりすると危険だ。

 

「たり」はペアで使いましょう!

<例>雨が降ったりやんだり 株価が上がったり下がったり

 

 

(2012、6、18)

2012年6月21日 11:52 | コメント (0)

新・読書日記 2012_107

『神の雫 33』(作・亜樹直、画・オキモトシュウ、講談社:2012、5、25第1刷)

 

ついに来ましたブルゴーニュ。そのなかで 次なる「使徒」は!?

ワインを飲みながら推理しましょう・・・って、読んだけどもう内容、忘れちゃったあ!

なんてこった・・・(もう一回見直す)・・・ハイ!わかりました!思い出しました。

ワイン対決、いよいよ「第十の使途」は「ブルゴーニュ」。

「グロ・フレール・エ・スール」「ドメーヌ・モンジャール・ミュニュレ」など、私にとっては憧れでおなじみのエチケット(ラベル)が登場!主人公・雫のケータイが、いつのまにかスマホに!

話は代わりますが、「ブルゴーニュ」を英語で言うと「バーガンディ」というのは、なんだかイメージが違って野蛮な感じが・・・「ガルガンチュア」とか「バーバリアン」とか、野蛮でしょ、音が。やっぱり「ブルゴーニュ」は「ブルゴーニュ」だな。「ニュ」がいいですよね。

 


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(2012、5、26読了)

2012年6月20日 16:44 | コメント (0)

新・ことば事情

4756「ガリ股」

 

オウムの高橋克也容疑者が逮捕された際に、歩き方が、

「ガニ股」

だったことも、容疑者特定の一つになったそうです。その話をしていたときに「ミヤネ屋」の川田アナウンサーが小声で、

「あれって、『ガリ股』ですか?それとも『ガニ股』ですか?」

と言ったので、みんな「ドッシェー!!」とずっこけました。

「そりゃ、『ガニ股』しかないやろ!」

「私ずっとどっちか分からなくて、『ガリ股』と『ガニ股』の中間の音で発音していたんです・・・」

そ、そんなヤツがおるんか!?

Google検索してみましょう。(618日)

「ガニ股」=800000

「ガリ股」=   5540

当然ですが、圧倒的に「ガニ股」です。でも、5000件以上も「ガリ股」があるんだな。例のYahoo智恵袋」で見ると、「ガリ股」の語源を聞いていて、その「ベストアンサー」では、

「蟹の歩き方に似ているから蟹股(がにまた)ですが、東京では『がりまた』とも言う」

とあるではないですか!じゃあ、「ガリ股」は「東京方言」なの?と思って別の「がり股」について書かれたものを見ると、今度は、

「がり股って大阪では言うんだね~」

と書かれています。うーむ、これはいったいどういうこと?

辞書を引きましょう。

「がにまた(蟹股)」=両脚がO字型に曲がっていること。(広辞苑)

「がにまた(蟹股)」=両脚がひざのところで外向きに曲がっていること。また、その人。O脚。(明鏡国語辞典)

「がにまた(蟹股)」=両脚がO字形に曲がっていること。O脚。また、その人。(精選版日本国語大辞典)

「がにまた(蟹股)」=両足がひざのところで外側に曲がってO字状となっていること。(デジタル大字泉)

というように「がに股」は載っていても「がり股」は載っていません。

牧村史陽『大阪ことば事典』を久々に紐解くと、載っていました「がに股」。

「ガニマタ」=蟹股であろう。蟹の肢のようにひざの部分で左右に開いて垂直に伸びぬ脚をいう。

でも「がり股」は載っていませんでした。「大阪方言」というわけでもない。

こういう時には、これかな?と思って『新しい日本語』(井上史雄+鑓水兼貴)を引いてみましたが、これは若者の新しい表現に強いようで、こういったものはあまり載っていないみたい。じゃあ、これは?と思って『日本俗語大辞典』(米川明彦)を引くと、なんとビンゴ!載っていました!

 

「がりまた(がり股)」=(「がにまた」の変化した形)「がにまた」に同じ。「がにまた」の誤った形。◆『今年竹』かも・七(1919年)<里見弴>「内股が摺れるか、がり股に動(ゆる)ぎ出たのがこヽの女将で」

 

うーん、さすが米川先生!「がりまた」まだチェックしているとは!里見弴が1919年に使っていたのですね。白樺派の言葉か?

ウィキペディアによると、里見弴は横浜生まれですが、

「大阪の芸妓・山中まさと結婚、その経歴が『今年竹』『多情仏心』などの代表作に現れている」

というのですから、この「がり股」は、山中まさの、大阪の言葉なのかもしれません。

念のため平仮名も検索してみましょう。

「がに股」=614000

「がり股」=   5330

でした。

 

(2012、6、18)

2012年6月20日 10:30 | コメント (0)

新・ことば事情

4755「カンファレンスか?コンファレンスか?」

 

先日、早稲田大学非常勤講師の飯間浩明さんと話をしたときに、飯間さんから、

「これまで医者などが『カンファレンス』と言っていた言葉ですが、『コンファレンス』と書くようになってきているのかもしれません」

という話とともに、ご自分のiPadで撮影した、

「コンファレンス」

というも字がある看板の写真を見せてくれました。

そこで、家に帰ってから辞書を引くと、

「コンファレンス」=『精選版日本国語大辞典』『デジタル大字泉』

「カンファレンス」=『広辞苑・第6版』『三省堂国語辞典・第6版』

「両方見出しなし」=『明鏡国語辞典』『NHK日本語発音アクセント辞典』『岩波国語辞典・第9版』

このほか、『新選国語辞典・第9版』は、「カンファレンス」が空見出しで、「コンファレンス」が本見出し。その中の「参考」に、

「学術や医師らが行う治療方針などの事前打ち合わせでは、『カンファレンス』の形で使われることが多い」

とあり、『新明解国語辞典・第7版』も、「カンファレンス」は空見出し。「コンファレンス」を見ると、

「(学術的な)会議。『カンファレンス』とも」

となっていました。これまでは「学術・医術」といった専門分野でしか使われなかった「カンファレンス」が、一般的にも使われるようになってきたので、そこでは新しい「コンファレンス」を使っているのではないでしょうか?意味の分化が進んでいるのではないでしょうか?

でも、そもそも「コンファレンスルーム」なんてカタカナを使わなくても、

「会議室」

でいいではないですか。ええカッコ、してるんですよ。レンタルの「コンファレンスルーム」と「貸し会議室」の料金を比べて「コンファレンスルーム」の料金の方が高かったら、

「名称のカタカナ使用は、商業的動機・意図がある」

とみていいのではないでしょうか?

Google検索では(617日)

「カンファレンス」      1710000

「コンファレンス」      1040000

「カンファレンス・医学」= 616000

「コンファレンス・医学」=  43600

「カンファレンスルーム」= 106000

「コンファレンスルーム」=  46600

でした。医学界でも、

「スライドコンファレンス」(日本病理学会九州沖縄支部)、「東京ステーションコンファレンス」(会場名)、「国際ホメオパシーコンファレンス」(日本ホメオパシ医学協会)

などと出てきました。

 

(2012、6、17)

2012年6月19日 18:30 | コメント (0)

新・ことば事情

4754「ご支度か?お支度か?」

 

東京への出張帰りの新幹線の車内アナウンス。

「まもなく名古屋です。どなたさまもご支度をしてお待ちください」

あれ?これって、

「ご支度」

ではなく、

「お支度」

ではないのでしょうか?三木稔の『レクイエム』の歌詞では、

「どなたも お支度は 喪服に花束」

だったと思います。「したく(支度)」は和語なのでしょうか?漢語なのでしょうか?

「和語」であれば「お」、「漢語」ならば「ご」が付くのが原則です。(『NHKことばのハンドブック第2版』28ページ参照)

これを調べるには『新潮現代国語辞典』ですね。「漢語」であれば見出しが「カタカナ」で書かれているはずです。と思って引いてみると・・・。

「シタク」

あ、カタカナ・・・ということは「漢語」なのか!「ご支度」でいいのか!

Google検索してみました(617日)

「ご支度」=   4690

「お支度」=385000

圧倒的に「お支度」ですね。ネットの有名なYahoo智恵袋にも去年の1月に、

『「お支度」と「ご支度」、どっちが正しいんですか?』

投稿されています。それは、

「昨日、電車に乗った時、車掌が『お降りのお客さまはお支度をお願いします』と言ってるのを聞いて『お支度?ご支度じゃないの!?』違和感を覚えました。(中略)ちなみに帰りの電車の車掌は『ご支度』と言っていました、一体、どっちが正しいんでしょうか。それともどっちも正しいんでしょうか」

というものでした。この投稿した人は、私とは全く「逆」の感覚をお持ちなんですね。「ベストアンサー」に選ばれたのは、

「その場合、『お支度』のほうが正しいですね。身支度を整えてもらうようなことは『お支度』と言います。例えば、結婚披露宴なんかで、終了後、衣装なんかを元の姿に戻してもらうことを『ご引き上げ』とは言わないでしょ?普通は『お引き上げ』って言うから。」

というもの。うーん、どうなんでしょうか。あまり根拠がないような。

Weblio類語辞書」というサイトでは、「ご支度」と載っていて、

「前もって備えることを丁寧に言う語」

として、

「ご用意・ご支度・ご準備・お備え」

が出ていました。

うーん、でもいくら「漢語」でも、もう「和語化」したものは「お」でいいんじゃないでしょうか。

「お電話」

の例もあることだし。「したく」は「和語化」してるのではないでしょうか?

皆さんの感覚はいかがですか?

 

 

 

(追記)

「皆さんの感覚はいかがですか?」と書いたところ、早速、NHK放送文化研究所の塩田雄大さんからメールが。参考資料として、去年12月に書かれた言葉のQ&Aが送られてきました。

http://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/term/148.html

タイトルは、

『Q「お返事」と「ご返事」とでは、どちらを使ったらよいのでしょうか。』

まさに、おんなじネタだ!アンサー(A)は、

『どちらも正しい言い方ですが、最近では「お返事」と言う人が多くなりつつあります。』

 

解説を見てみると、

 

『「お」と「ご」のどちらが付くかは、だいたい次のような傾向があります。

○やまとことば(和語)...「お」が付く。お金、お米、お餅など。

○漢字の音読みのことば(漢語)...「ご」が付くものが多い。ご親切、ご出演など。

○外来語...ふつう「お」も「ご」も付かない。

 

ただし漢語の場合には例外が多く、「お食事・お料理・お洗濯」など、「お」が付くものもかなりあります。漢語には少し堅苦しいことばが多いのですが、例外的に「お~」となっているものの多くは、漢語であっても私たちの生活に密着したものがほとんどです。

「返事」もその例外の一つです。これは、「かえりごと」というやまとことばに「返事」という漢字をあてて、そのあとに「へんじ」という音読みの漢語が出てきたものです。つまり、もともと「あまり漢語らしくない」ことばなのです(なお「大根(だいこん)」も「おおね」から生まれたことばです)。そのため、やまとことばとしてとらえた場合の「お返事」と、漢語として扱われたときの「ご返事」が、両方とも使われているのです。

ウェブ上でおこなったアンケートでは、「お返事と言う(ご返事とは言わない)」という回答(全体で63%)が、若い人になるほど多くなっていることがわかりました。また、特に女性はこの答えを選ぶ傾向が強く見られました(男性56%、女性68%)。

漢語のなかでなじんできたことばは、「ご~」から「お~」へと変化してゆくと言えそうです。最近では「お迷惑」「お連絡」というものも目にしますが、これはまだちょっと受け入れられにくいような気がします。どうでしょう、お理解いただけたでしょうか。』

 

はいはい、「"お"理解」しました。というかこれは「ご理解」ですね。しゃれています。

「お返事」「ご返事」でいうと、幼稚園などで子どもたちに先生が使うときは「お返事」、同窓会の出欠を先生に伺うときは「ご返事」と使い分けられる気がしますし、「話し言葉」と「書き言葉」でも分けられる、場面によって変えて使うこともあるのかもしれませんね。若いうちは話し言葉の使用の方が多いけれども、年齢が上がるほど、公私の使い分け場面が増えてくるのかもしれません。塩田さん、ありがとうございました。

(2012、6、20)

 

 

 

 

(2012,6、17)

2012年6月19日 12:29 | コメント (0)

新・ことば事情

4753「お父さんいつもありがとう」

 

先日、東京で早稲田大学非常勤講師の飯間浩明さんと会いました。その際に出た話。

「もうすぐ父の日ですが、道浦さんは『お父さん、いつもありがとう』というのは気になりませんか?」

「いえ、特に気になりませんが、何か?」

「この中の『いつも』が気になるんです。『お父さんありがとう』なら分かりますが、『いつも』というのは『会うたびにいつも』ということで、毎日一緒に住んでいるのなら、わざわざ『いつも』なって言う必要はない。たまにしか来なくて、その際に『いつも』と言うのなら分かりますが、それでは例の二股疑惑ではありませんが、お父さんがいつもは家にいないこのような感じではありませんか?」

「そ、そこまで考えたことはなかったなあ・・・。」

「最近のコマーシャルなんかでも『いつもありがとう』になっていて、気になります。以前はそんなことはなかったと思うのですが・・・」

 

さすが三省堂国語辞典の編者、観察が鋭いです。

 

Google検索をしてみたら(6月17日)

「お父さんいつもありがとう」 = 68200

「お父さんありがとう」    =316000

「おとうさんいつもありがとう」= 27200

「おとうさんありがとう」      38200

 

「お母さんいつもありがとう」  146000

「お母さんありがとう」        124000

「おかあさんいつもありがとう」= 78500

「おかあさんありがとう」      140000

 

ということで、「お父さん」に関しては「いつも」が付かないほうが多かったので、飯間さんもホッとされたのではないでしょうか。でも「お母さん」は「いつも」の方が22000件多い。ということは、もしかしたら、

「感謝の度合いが高いと『いつも』が付く」

のではないでしょうか?そんなことはないのかな?

「育児をするおとうさん=イクメン」が増えた昨今とはいえ、やはり、そこ(育児)はお母さんの牙城、そのへんは子どもたちはわかっているのではないでしょうか?

え?うちですか?「父の日」のきょうは、何か子どもたちから、あったかって?

一応、小2の娘からは「お手紙」をもらいました。中3の息子からは、

「あー、冷蔵庫にあったチョコボール、全部一人で食べたん?信じられへん!」

とお叱りを受けました。いいやん、父の日ぐらい、全部一人で食べても。おいしかってんもん。

 

(2012、6、17)

2012年6月18日 17:28 | コメント (0)

新・ことば事情

4752「『逃走』か?『逃亡』か?」

 

<※20091026日に書きかけたときは「平成ことば事情3892」でした>

*************************************

20091026日、酒井法子被告(当時)の初公判で、酒井被告の「空白の6日間」は、「逃走」か?「逃亡」か?

という疑問が出ました。その際は、

○「逃亡」 △「逃走」

という判断をしました。意味の違いは、

「逃走」=逃げること

「逃亡」=逃げて身を隠すこと

です。東京地裁前から中継した日本テレビの前野記者も、1回目は「逃亡」、2回目は「逃走」と混在していました。

私は個人的には、酒井被告が「東京・渋谷の現場から立ち去った」のは「逃走」、「6日間にわたって逃げ回った」のは「逃亡」だと思います。ただ、この時にややこしかったのは、6日間のうち前半は「失踪」で、途中から逮捕状が出たので、結果としてその全体が「逃亡」となってしまったことでしょうか。

その後、20091112日~13日に高知市の高知新阪急ホテルにおいて開かれた新聞用語懇談会秋季合同総会で、

「英国人教師殺害事件の市橋容疑者が送っていたのは『逃走生活』か?『逃亡生活』か?あるいは『逃走劇』か?『逃亡劇』か?」

という質問が出て、これに対して、産経新聞の委員が、

「逃げた瞬間は『逃走』だが、逃げ回ったら『逃亡』。『逃走』と『逃亡』は法律上も区別されている。」

と答えました。

さらに3年が経過。2012年6月6日、今度はオウム真理教最後の特別手配犯の高橋克也容疑者。彼の持っている金は、

「逃亡資金」か?「逃走資金」か?これは、

×「逃亡資金」→○「逃走資金」

だと思います。法律上の区別は分かりませんが、「資金」という言葉の前に付く言葉は「逃走」なのではないでしょうか?Google検索では(614日)、

「逃走資金」= 86500

「逃亡資金」=102000

で、「逃亡資金」の方が多かったです。私の感覚とは逆だなあ。

ちなみに「逃走資金」も「逃亡資金」も、検索して最初に出てきたのが、

「融資 銀行ローン」

「逃走資金」や「逃亡資金」でも、「融資」していただけるのでしょうか?ネットだと?

(2012、6、14)

(追記)

高橋容疑者は、2012年6月15日午前、東京・大田区蒲田で逮捕され、17年に及ぶ逃亡生活にピリオドを打ちました。

(2012、6、17)

 

 

(2012、6、14)

2012年6月18日 11:37 | コメント (0)

新・読書日記 2012_106

『棟梁~技を伝え、人を育てる』(小川三夫、聞き書き・塩野米松、文春文庫:2011、1、10第1刷・2011、5、15第2刷・単行本は2008、1)

 

著者(語り)は、日本を代表する宮大工の棟梁・西岡常一の最後の弟子。

ずっと繰り返し出てくるのは、「よく切れる刃物がいる」ということ。それを研ぐところから修業は始まると。

「その線を削り出す刃物が研げねえと、話にはならんのだ。俺が弟子たちに刃物を研げというのは、道具を作るというのもあるが、センスを磨くということもあるんだ」(170ページ)

これは「アナウンサー」でいうと、「発声」かな。いくら小器用にしゃべれても「発声」の基礎ができてないとダメ。本物ではない。それと同じかな。

 

*「道具と怪我と弁当は自分持ち」(46ページ)

厳しい世界だなあ。ケガも自分持ちとは・・・。公傷制度のない大相撲のような世界か?

*「重しをはずさないと下は伸びない」

そういうこともあるよな。

*「大工仕事は段取りが八割や。段取りさえうまくいけば、仕事はできたも同然や」(82ページ)

いや、何事もそうだと思います。段取りは大事。料理もそうでしょ。一緒ですよ「仕事」というものは。

*「木は強い。鉄やコンクリートより強い」

錆びるのは鉄が先でそれによって木が腐ってしまうと。木だけなら、そんなことはないのだと。また建築基準法でお寺の基礎をコンクリにしてから、一番弱いのは基礎かもしれないと。法律はたかだか何十年の歴史の中での基準だが、お寺は千三百年の伝統の中で育まれているのだと。どっちが正しいか?

*「柱は隅の方を一鉋ずつ多く取っておく。そうすると真ん中がなんとなくふわっと見える」(156ページ)

つまり「エンタシス」と同じで、それはやはり理由のあることだったんだね。

*「親方に怒られて十年。この十年で基礎を学ぶんだ。次の十年は世の中を知り、他の職人を知り、自らに気づくんだ。この間も怒られ、叱られ、文句を言われながら自分を磨くんだ。叱るのはここまでや。」

*「叱るときは、気づいたときにその場で素直に言ってやることや。小利口に後になってとかいうのではあかん。一番染みこむのは失敗したその時や。」

*「褒めて伸ばすと言うが、俺はそんな気ないな。褒められたいというんなら、そういうところに行くんだな。いい気持ちになんかなってもらっても何もいいことはないわ。失敗して、叱られて、修正して、磨いていくもんや」(144ページ)

後輩の教育の参考にさせていただきます。

 

 


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(2012、6、15読了)

2012年6月17日 21:52 | コメント (0)

新・ことば事情

4751「告られた」

 

61日の「ミヤネ屋」で、俳優の高岡蒼佑の発言

「告られた」

という言葉をスーパーで出したところ、チェック係の読売新聞OBのFさんから、

「間違いではないか?」

と問い合わせがありました。つまり、

「告白された」

の「白」が脱落しているのではないか?というのです。そこで、

「これ、若者言葉なんです」

と答えたら、

「それは、知りませんでした」

とのこと。つまり、この言葉を知らない世代の方も、視聴者の中にはいるということですね。注意しましょう。

「告られた」→「告られた(告白された)

など、意味を補えば使えますよね。

 

 

(2012、6、12)

2012年6月17日 17:37 | コメント (0)

新・読書日記 2012_105

『辞書に載らない日本語』(大修館書店、北原保雄編:2012.4、25)

 

「みんなで日本語」シリーズの最新刊。

これをたまたま、最近はめったに行かない梅田の紀伊国屋書店で見つけて購入した翌日、読売新聞「編集手帳」が、早速取り上げていました。早い!

若者言葉と言うものは本当に、規範から離れて自由に遊ぶ言葉なんだなあと関心。クイズに使えるよね、この本。「辞書に載らない日本語の辞書」ってなんか矛盾してない?そういえば後攻のときに「試験に出る英単語」と言う参考書を「シケタン」と言っていましたが、「出るものばっかり勉強する事を潔しとしない」わたしは、自分で「試験に出ない英単語集」というノートを作って「シケタン」と読んでいました。そのころから、「へそ曲がり」というか「天邪鬼」だったのですね。だって、皆とおんなじことやってたら、試験には通らないのでは?資格試験ならともかく。

 

 


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(2012、5、19読了)

2012年6月17日 12:01 | コメント (0)

新・読書日記 2012_104

『ニッポンの国境』(西牟田靖、光文社新書:2011、7、20)

 

ルポルタージュの基本、取材の基本、現地へ行くということを忠実に守っている。著者は1970年生まれと、まだ若い。しかし、国境とはなにかを学術的に説いていき、その後、自分の足で北方領土や竹下、尖閣諸島といった国境の島を訪ね、自分の目で見た実態を記した貴重な書物。同じ題名で「日本」が漢字の山田昌彦先生の本と読み比べてみたい。

それにしても「尖閣」をはじめとした「境界線」の島々、本書によると、実は「外交」戦略上、"あえて"触れないで済ましてきた歴史もあるようだ。世知辛い世の中、海底資源だとかが問題になってくると、そんな悠長なことも言ってられない、というわけか。

 

 


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(2012、6、2読了)

2012年6月16日 12:00 | コメント (0)

新・ことば事情

4750「享年」

 

(※2008年9月15日に書きました。当時の番号は3251でした)

***************************************

突然ですが、スタッフの中から

「『享年』と言う言葉は、

 (1)外国人にも使えるのでしょうか?

 (2)死刑囚にも使えるのでしょうか?」

 という疑問が出てきました。たしかに「外国人」や「死刑囚」に使うのは、何となく違和感がありますよね。仏教用語ではないようなのですが。(仏教だと『行年』の方が使われるようです)

読売新聞の関根健一氏に伺ったところ、

「『享年』は、墓碑銘などで用いた古めかしい言い方で、コラム風の文章でちょっと気取って使うのはともかく、あまり一般的な言葉ではないのでは。外国人だから使えないという性質のものではないと思う。仏教用語だから外国人に使えないという議論はよく聞くが、古い翻訳では、ハムレットはオフェーリアに『尼寺へいけ』と言うし、カトリック長崎大司教区のホームページには『原爆忌』と出てくる。讃美歌には神道用語から転用したような語句もある。明らかに対立する用語・概念(神を仏と言うなど)はともかく、教理と関係ない、対応するものは流用できるのではないか。死刑囚に使うのも、違和感は持たないのだ。墓碑銘で使う用語なので、幕末に刑死した志士の墓碑銘なんかでも、『享年』は使っていそうな気がする。『天から享けた年齢』だから、死因とは関係ないのではないか。」

また早稲田大学非常勤講師の飯間浩明氏に伺ったら、

「これは(1)にも(2)にも使えるだろう。『天から享けた年』だが、用例からは自害しても『享年』です。『日本国語大辞典』の用例の、馬琴『椿説弓張月』では『為朝伊豆の大嶋において自害す。享年三十三才と見えたり』とある。また、中村正直訳『西国立志編』の例も出ていて、これは原典にあたるとザビエル(雑未耶)のこと。もちろん外国人だ。原文では「......瘧疾ヲ得テ、没セリ、一千五百五十二年(天文二十一年)享年四十有七ナリシト云

フ」とある。これは外国人にも使える『動かぬ証拠』だろう。」

とのことで、両方「使える」とのお答えです。

 

この件に関して、新聞用語懇談会放送分科会で、

「事故や事件の被害者となった場合でも使用可能なのか。最近番組で議論になった事例は、死刑執行囚の年齢表記。結論としては死亡年齢のみの表記にしたのだが、「享年」という表記は、どのような形で亡くなった方への言葉なのかが気になった。」

と議題に出したところ、各社の委員から出た意見は、

<NHK>死刑囚には「享年」は使わない。時代的には明治と江戸の間で線引き。ストレートニュースでも使わないが、番組では使いたがる。「享年」は天から与えられた命を全うした時に使うので、幼い時に殺された者に使うのはおかしい。外国人などわからない時には使わない。

<日本テレビ>ストレートニュースでは使わない。小さい子が亡くなった時に使うのは、遺族の側にはたまらない。

<TBS>使わないようにしている。「歳」も付けないようにしているが、『広辞苑』には「歳」を付けて載っている(「享年九十歳」)ので、困る。

<フジテレビ>OAでは使わないようにしているが、新潮社の校閲担当の方に聞いたら「ニュートラルなものなので、外国人などでも使えるのではないか」ということだった。

<テレビ朝日>「享年」の使い方を意識したことはない。

<テレビ東京>「歳」を付けるなということだけは注意している。

<共同通信>読み物で、有名人には「享年」を使うが、一般人には使わない。

<毎日放送>読みでは少ないがスーパーでは「享年」はよく出てくる。

<朝日放送>不慮の事故では使いにくい。

<関西テレビ>読みでは少ないがスーパーでは「享年」はよく出てくる。

<テレビ大阪>「死刑囚」に「享年」を使うのは違和感あり。

<静岡放送>事故で亡くなった場合は「○歳でした」としている。

とのことでした。

(2008、9、15)

 

(追記)

2010年7月23日、読売テレビ朝の番組『す・またん』を見ていたら

「マイケル・ジャクソン(享年50 )」

という字幕スーパーが。「マイケル」に「享年」は合わない感じがしました。

また、2011年3月、今度は、

「エリザベス・テーラー(享年80)」

「ミヤネ屋」のスーパーチェックで出てきたので、「享年」は外しました。

そして、2012年5月2日、競泳・北島選手のライバルの、ノルウェーのダーレオーエン選手が26歳で急死したニュースを受けて、「ミヤネ屋」のスタジオのマルチ画面で、

過去に急死したスポーツ選手」

を一覧表で列挙する際

「享年37

という表記はどうか?と質問を受けました。「享年」の「年」と「歳」は重複なので、(『広辞苑』の用例では「享年九十歳」が載っていますが)

「享年37」

とすべきだと答えたのですが、よく見るとそのリストには「外国人選手」も含まれていました。

「外国人に『享年』を使うのはそぐわない」

と答えた後、よく考えると「享年」は「天から授けられた寿命」なので、

「幼くしてなくなった場合や、不慮の事故で亡くなった場合には使わない」

ということを思い出し、結局「享年」は使わず、単にカッコ内に

○○○○選手(37)

のように示すことにしました。これで「亡くなったときの年齢」って、分かりますよね。

(2012、5、2)

(追記2)

先日(2012年5月18日)、世界的バリトン歌手のディートリッヒ・フィッシャーディスカウ氏(86)が亡くなった際の評伝記事(読売新聞:5月31日)で、音楽評論家の三宅幸夫さんという方が、

「享年86」

と、外国人ですが「享年」を使っていました。

(2012、6、12)

(2012、6、12)

2012年6月16日 11:09 | コメント (0)

新・ことば事情

4749「詠み人知らず」

 

大学のゼミの恩師で今年2月に亡くなった、早稲田大学名誉教授・河原宏先生の著書、

『秋の思想~かかる男の児ありき』(河原宏、幻戯書房:2012、6、3)

を読みました。読書感想は「読書日記」に書きましたが、その最初に取り上げられた人物は、鎌倉幕府三代将軍、

「源実朝」

でした。歴史の教科書で名前だけ知っているぐらいの知識がなかったのですが、いかに実朝が、武人としても文人(歌人)としても、つまり「人」として優れていたかを、この本で初めて知りました。

また、平清盛の弟・平忠盛も、武勇にも和歌にも秀でていたそうです。朝廷から逆賊とされた忠盛は、追っ手から逃れる途中に、自作の歌集を藤原俊成に託したといいます。俊成は当時、勅撰の『千載和歌集』を編纂中だったので、そこに一首でも採用されることを、忠盛が望んだからだそうです。

和歌を託された俊成は、朝敵となった忠盛の歌、

「さざなみや 志賀の都はあれにしを 昔ながらの山桜かな」

を、「忠盛の名前を伏せて」、『千載和歌集』に載せたのだそうです。

「和歌への執念は命懸けだったのである」

河原先生は書いています。

これを読んで「あっ!」と思いました。私はこれまで、

「詠み人知らず」

というのは、本当に「誰が詠んだのか分からない」のだと思っていましたが、万葉集ならいざ知らず、それよりも現代に近い時点での和歌集での「詠み人知らず」は、

「詠んだ人の名前がわからないのではなく、あえて隠している」

ということがあるのですね!つまり「匿名」での投稿。インターネットでいうと、

「アノニマス」

ですね。当時の「和歌集」は「メディア」として機能していたと。そこで「名前」を出して和歌の形式で歌を詠むということが、単に文学的な意味合いだけでなく、政治的な意味合いがあるということも、当然あったのですね!

今「和歌集」というと「趣味」「文学」としてしか認識していなかったのですが、その時代、時代でのあり方・使われ方に対しても、意識を持つ必要があるのだなと思いました。

 

(2012、6、12)

2012年6月14日 15:09 | コメント (0)

新・ことば事情

4748「ご冥福をお祈りします」

 

2008612日に書きかけて途中になっていました。当時の番号は「平成ことば事情2753」。

*******************************

「ご冥福をお祈りします」

という表現を、むやみに使ってはいけない、と聞いたことがありました。

調べてみると、2003年12月のあるサイトに

「『冥福』は祈らない」

と題して、外交官殺害事件についての各種ブログに使われている「冥福」という言葉が心に引っかかったと記されていました。

「なにか痛ましい事件があると、メディア、とくにTVで『ご冥福をお祈りします』と言うが、いつからそういう風潮になったか?阪神大震災あたりから違和感があった。浄土真宗、つまり門徒は『冥福』という言葉を使わない。」

として、「浄土真宗の弔辞の例文」という文章を引いています。

「仏教でも浄土真宗でも、故人の冥福を祈りません。冥福とは、『冥土(冥途)で幸福になる』という意味です。そして、この『冥土(冥途)』とは、仏教以外のものの考え方なのです。つまりご遺族に『ご冥福をお祈りします』とご挨拶されることは『亡くなられた方は冥土(冥途)へ迷い込んだ』ということを意味し、『お浄土の故人を侮辱する無責任で心ない表現』と言えます。浄土真宗にご縁が深い方へのご挨拶なら『○○さんのご冥福をお祈りします』ではなく、『○○さんのご遺徳を偲び、哀悼の意を表します』と浄土真宗の教えにふさわしい言葉に言い換えましょう。」

また、こんな記述も載っていました。

「冥福とは死後の幸福のこと。仏教では、亡くなった人は49日間冥土をさまよい、生前の行いに対する裁きを受ける。生前の行いによって次に転生する世界が決まると言われている。『冥福を祈る』とは、冥土の旅を無事終えて良い世界に転生できるように祈ること。残された親族が一生懸命祈ることで魂が浄化されるという説に基づく。仏教用語であるため、神道やキリスト教など他宗教の人に対しては使わない方がよい。また浄土真宗でもこの言葉は使わないので注意が必要。<言い換え例>ご冥福をお祈りします→哀悼の意を表します」

 

また、2008年6月12日の「思いっきりイイテレビ」で、若い女性アナウンサーが、映画評論家の水野晴郎さん死去のニュースのあとに、

「ご冥福をお祈りします」

と言っていましたし、その前日は、「ミヤネ屋」で宮根誠司さんが、「ご冥福」を祈ってしまいました。ある女性アナウンサー自殺したというニュースの時にも宮根さんは「ご冥福」を祈っていました。「ご冥福」を使ってはいけないのはどういう場合なのか?日本テレビの用語担当者に聞いたところ、

「『冥福』はもう使っています。年に何度かこの質問がきますが、日本テレビでは一応、

『亡くなった方がキリスト教徒、神道、浄土真宗の場合は使わない』としています。その場合は、『追悼の意を表します』『お悔やみを申し上げます』などにしていますが、『放送では絶対に使わない』とは言えない言葉になっています。」

とのことでした。

新聞用語懇談会放送分科会で、参加各社の委員の意見を聞いてみました。

<NHK>OAでは原則「追悼」と言うが「冥福」も出てくる。8月15日の「終戦の日」の式典で、天皇陛下は絶対に「冥福」とはおっしゃらない。「冥福」は浄土真宗の用語集にはない。外国人には使わないが、スポーツ中継でイギリスのテロの犠牲者に祈る場面でアナウンサーが「冥福をお祈りします」と使ってしまったことはある。「冥福を祈っていました」の言い換えとしては「亡き人を偲んでいました」か。JR福知山線の事故関連でも「冥福を祈っていました」はダメ。コメントは「哀悼の意を示していました」か。個人レベルで「冥福を祈る」のは良いが、第三者には使わない。「黙祷をささげていました」は容認。

<日本テレビ>一般的な言葉。昔のニュースでは聞いた気がする。「ローマ法王ヨハネ・パウロ2世」が亡くなった時に、日本人の記者が「法王のご冥福を祈っていました」としゃべってしまったことがある。

<TBS>何でもかんでも「ご冥福をお祈りします」を使っているのが現状。キーワード(Qワード)的にCMに行きやすいからか?「やめなさい」とは言っているのだが・・・。

<フジテレビ>ニュースでは使わない。ワイドショーで使うことがある。

<テレビ朝日>面識のある人が亡くなった時には使っている。

<テレビ東京>CM前にキャスターがニュースの中で言った。深く考えなかったんだと思う。基本的には言わない方がいいんだろうなあと思う。

<共同通信>原稿の「地の文」には出てこないが、談話に出てきたら「冥福」と使っている。

<朝日放送>「冥福」を使ってはいけないと初めて知った。他に言いようがないので、使っている。

<毎日放送>「冥福」使っているが、特にこれまでに問題はなし。

<関西テレビ>原稿には書いていなくても、キャスターがコメントで使うことがある。

<静岡放送>社内に浄土真宗の者がいたので聞いてみたら、「死後の幸せを祈るのが失礼にあたる」とのことで、言い換えは「謹んで哀悼の意を表します」とのことだった。

<テレビ大阪>「気持ちを表す言葉なので、使っても良い」というのがアナウンス部で話し合った結果だったが・・・今日の話し合いの内容を持ち帰って、また論議したい。

 

このほか、日刊スポーツのサイトニュースアナウンサーの高橋圭三さんの訃報(2002年)の際には、

「安らかなご永眠をお祈りいたします」

と書かれていました。

 

以上は4年前の状況です。

しかし4年経っても「ご冥福をお祈りします」は使われているなあ・・・というのが実感です。

 

(2012、6、12)

2012年6月13日 14:06 | コメント (0)

新・ことば事情

4747「『起こる』か?『起きる』か?」

 

ことし(2012年)のゴールデンウイーク最終日の5月6日午後、茨城県つくば市などで、

「竜巻」と見られる突風が発生し、男子中学生1人が死亡、40人が重軽傷を負いました。

この「竜巻」ですが、「起こる」でしょうか?それとも「起きる」でしょうか?

私は、

「起こる」

だと思いました。理由は、「自然発生」は「起こる」。「人為的なもの」「人為的に起こす」ものは、それによって「起きる」のようなイメージです。

 

ついでに「どこででも起こる」か?「どこにでも起こる」か?

この場合は、「で」=「どこででも」。

「で」は「発生場所」を示しているのに対して、「に」は「移動」を伴う感じがします。「竜巻」という生き物がどこからかやってくるのではなく、気象状況に応じてその場所で発生するのだと考えれば「で」ですね。よそからやって来るなら「に」ですが。台風は「に」かな。感覚的なものですが。

ことしは「竜巻」の発生が多いように感じます。異常気象なのかな?

 

 

 

 

(追記)

NHK放送文化研究所の塩田雄大さんからメールを頂きました。既に2000年11月に、塩田さんがこれに関連したことを、NHK放送文化研究所のサイトの「最近気になる言葉」で書いてらっしゃいました。(以下、引用)

 

(Q)「津波が起きる」と「津波が起こる」とでは,どちらが正しいのでしょうか。

(A)「津波が起こる」というのが伝統的な言い方で、「津波が起きる」はどちらかというと新しい表現です。「津波」や「地震」の場合、現代ではどちらを使ってもかまいません。また、ニュアンスの違いもほとんどありません。 解説次の文を見てみましょう。

○ 早く起きる子ども

○ 偏食が原因で起こる病気

「起きる」は目を覚ますこと、また横になっている状態から立ち上がることが、もともとの意味です。つまり、主語は「人間か動物」です。

いっぽう「起こる」は、伝統的には、病気や災害などある状態・状況が発生するときに用いられてきました。つまり、主語は「出来事」です。

しかし、もともとは「起こる」と言っていたところに「起きる」を使う場合がたいへん多くなっています。たとえばさきほどの文では、

○ 偏食が原因で起きる病気

と言ってもほとんど抵抗は感じられません。いっぽうこの逆はだめで、

× 早く起こる子ども

とすると、何のことかよく分からない文になってしまいます。

いわば、人間・動物専用だった「起きる」が、出来事の領域にまで意味を広げてきて、「起こる」は劣勢に立たされている、と言ってもよいでしょう。この変化はかなり昔から始まっているので、いまさら「昔の使い分けをしっかり守れ」と言っても、やや無理があります。ただし、いまでも「起こる」しか使えない場合もあります。たとえば、「サッカーブームが巻き起こる」や「拍手がわき起こる」などは、「巻き起きる」「わき起きる」とは言えません。また「国が(産業が)おきる」とは言いません。この場合は必ず「おこる(興る)」です。 (メディア研究部・放送用語 塩田雄大)

 

 

分かりやすいですね。「起こる」のほうが古くて、のちに、人間に使っていた「起きる」を自然現象などにも使うようになったということでした。私の感覚も(どちらが古いかということは別にして)あながち間違ってなかったようですね。塩田さん、ありがとうございました!

(2012、6、14)

(2012、6、12)

2012年6月13日 01:05 | コメント (0)

新・読書日記 2012_103

『庶民は知らないデフレの真実』(森永卓郎、角川SSC新書 :2012、3、10)

 

ちょっと面白い試み。最初は「え?」と思うが、だんだん、森永さんのスタンスが分かってくる。これ以上、種明かしは出来ないけど。ま、読んでみてください。

興味深い主張としては、復興国債を50兆円売り出して日銀が全部引き受ける。「そんなことしてハイパーインフレになるのでは?」との疑問には、「アメリカもやったが、インフレにならなかった」と。そして福島県に首都機能を移転させる。それによって30兆円ぐらい使う、と。なんだか規模の大きな話だけど、これだけ動かない政治・経済を目の当たりにしていて、スペインへの融資が10兆円というニュースを見ると、「そのぐらいやらないといかんのかな・・・」という気になってくる。

森永さんは3億円、預金があるそうです。(書くかな、そんなこと、フツウ・・・。)

 

 


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(2012、6、8読了)

2012年6月15日 18:58 | コメント (0)

新・読書日記 2012_102

『気の持ちようの幸福論 』(小島慶子、集英社新書:2012、3、16)

 

語りおろし?書いたのじゃなくて、インタビューを構成者がまとめた本。

うーん、タイトルは悪くないのだけれど・・・ま、簡単に言うと、「勝間本」と同じように、私には合わない。「勝間」よりは、共感できるところが一部はあるが・・・。こういった主張は、男性より女性に受けるような気がする。ま、そういうふうに線引きをする気はないけどなんとなく。好き・嫌いはありますよね。好きな人は、猛烈に好きなんだろう。自己啓発とか、宗教とか、気の持ちよう」ですし「幸福論」だから。人それぞれの「幸福」があるのです。

 

 


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(2012、6、8読了)

2012年6月15日 13:57 | コメント (0)

新・読書日記 2012_101

『秋の思想~かかる男の児ありき』(河原宏、幻戯書房:2012、6、3)

 

「かかる男(お)の児(こ)ありき」・・・こういった男がいた。まさに「男の中の男」、時代に流されることなく、時代を超えて「人間とはいかに生きる(死ぬ)べきか」ということを問いかけ、実践した人たち。決してそういう意味では脚光を浴びてはいないが実は、そんな「男の児」であったと、著者は紹介する。それはすなわち、我々がこれからの世の中を生きていくための指針として、こういった「男の児」の生き方を参考にすべしという「人生の参考書」としての役割を本書は示している。「秋の思想」というタイトルの「秋」は、ホイジンガーの「中世の秋」の「秋」と同じだそうだ。絶頂期を過ぎた「時代」が向かう先、そこに至る下降線の時代の中で取るべき態度は?ということを考えさせられる。

著者は、私の大学のゼミの恩師である。今年2月、突如として83歳の生涯を終えた。83歳で「突如」?と思われるかもしれないが、本書を読めばその意味がわかる。昨年311日の「東日本大震災」とそれに伴う原発の事故。それらを受けて、著者はしっかりと本書を記しているのだ。まだまだ、あと10年以上はお元気でいられるのでは?という疑問が出るぐらい怜悧な文章である。

5月下旬に「お別れの会」が開かれ、過去のゼミ生100人ほどが参集した。

「当時、河原先生は結構お年(年配)に見えたけど、今の俺たちはもうその頃(30年前)の先生の年齢に近づいてるんだよなあ・・・」

と久々に会ったゼミ同期の連中と話していると、30年前に戻ったかのよう。先生の遺影も、とても80歳を越えているようには見えない。30年前のままのように見える。

本書で取り上げられた「男の児」は、源実朝・楠正行、近松門左衛門・伊藤若冲、小林清親・栗源鋤雲(島崎藤村)・成島柳北(永井荷風)、三島由紀夫・深沢七郎・遠藤周作。それぞれ時代ごとに、その時代を代表するような「男の児」である。

本書では「科学技術の発展とその行く末」「輪廻転生と臓器移植」「自然と人間」といったテーマも取り上げられているが、その、ここかしこで「東日本大震災」が出て来る。「3・11」を機に、「現代日本」は「それまでの日本」と決別させられたのだと。

著者の「現代社会」とその行く末に向けるまなざしの"方向性"が、決然と伝わってくる。「かかる男の児ありき」とのたまったサブタイトルは、「私もかくありたい」という意思表明であり、その希望のように、先生は人生を送られたように、本書は読めた。巻末に、京都大学の中野剛志氏が綴ったように、

「それは『死すべき者』としての人間を含め、生きるものすべてに対する哀れみとやさしさの心、死者に対しては『生くべかりし者』とみなす祈念と哀傷の心を身につけたこの国の文化を形成してゆくことから始まるであろう。」

という本書を結んだ言葉が、河原先生の遺言のように、私にも感じられた。

 

 

 


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(2012、6、11読了)

2012年6月14日 11:56 | コメント (0)

新・読書日記 2012_100

『わが心の史(ふみ)』(河原宏・「河原宏先生お別れの会」実行委員会編:2012、5、26・非売品)

 

さる2月28日に亡くなった早稲田大学名誉教授・河原宏氏の「お別れの会」で配布された冊子。河原先生は、私の大学のゼミの恩師だ。「はじめに」には「東日本大震災」が記されている。

 

「自然に対しては傲慢、歴史については軽蔑、人の世からは『情け』を排斥したこの国もついに千年に一度の大変革期を迎えた。しかし今の時点で天・地・人の三元を無視して起こった地震・津波・原発事故は、まだ災害の段階で経済、社会、政治の変革には達していない。大変革の兆候はこれから現れてくる」

 

この書き出しは、まるで「預言の書」である。その矛先は、国際関係にも向かう。

 

「今後、もしこの中東騒乱がサウジアラビアをはじめとする産油国やイランの動静とも絡まる事態になった時、アメリカ・イスラエルの直接介入を招くだろう。日本もその埒外に留まることはできない。それは十二、三世紀、キリスト教の聖地エルサレムをイスラムから取り戻そうとした十字軍の再来を思わせる世界的大紛争となり、その後の世界情勢と文明の形態に大変革をもたらすことになる。今が千年紀末の歴史的とば口にあるのかもしれないという予測は、この兆候の展開にかかっている」

 

どうだろう、この怜悧に研ぎ澄まされた目で見通す千年紀は。もしかしたら産油国を巻き込んだ戦いは、石油の時代の終わりを(もちろん原子力がその跡を継ぐという目は摘まれている)告げ、新たなるエネルギー時代の出現を後押しするのかもしれない。ほんの見開き2ページの「はじめに」を読むだけで、目からウロコが落ちる思いである。これを、ついこの間書いた83歳の先生が、逝ってしまった。これも信じられない・・・。

本書の「第一部」は、河原先生の自伝(未完、海軍機関学校時代まで)、第二部は、これまでに書かれた書評などを集めたものだ。印象的な文章を抜き書きしてみよう。

 

「もう工場労働はこりごりという気持ちはあった。(中略)しかしそれ以上に痛切だったのはもっと本を読みたい、勉強したいという気持ちだった。軍学校以外には、通常中学を卒業すれば旧制高校か専門学校に入る。しかし彼らも、私の働く会社に勤労動員で働いていた、これでは同じじゃないか。それが機関学校を志望したもっとも大きな理由だった。戦後はこのような事を言っても、今になってキレイ事を並べているだけだと誰も信用しなかったろう。軍国主義のマインド・コントロールに罹っていたに違いないとして片づけられて終わりとなる。そこでは、当時の若者が軍学校へ、特に海軍兵学校に焦がれたのは、専らマスコミの煽動と軍国主義の洗脳だというイデオロギー論が一般的だった。確かに、その生徒の服装はカッコ良かった。(中略)この言説から考えさせられるのは、今われわれも新しいマインド・コントロールに捕らえられていないのかという疑念である。」(未完)

「一九四一年、当時の日本は石油事情の逼迫を最大の理由として対米開戦を決意する。だが、一国の運命を余り勝ち目のない戦争にふみきる所にまで追いつめた石油需要量はといえば、四、五00万キロリットルほどのものであった。それは現代日本の石油消費量、およそ三億キロリットルに比べて六0分の一、いいかえれば六日分相当のものである。この二つの数字のしめす意味をどのように読みとるかは、人それぞれの認識と判断によっている。(中略)歴史認識とは現代認識であり、現代認識とは歴史認識であるという一点は動かないところであろう。」(19794月)

「歴史を単なる昔噺とするのではなく、現代に引きつけてとらえ直すのが大切なことに間違いない。(中略)ゲーテは、歴史が与える最上のものは『情熱』であるといったが、それは人間にとって非情、仮借なき時の流れ、たとえば未曾有といわれる今日の繁栄をすら、やがて遠い昔噺としてしまう時の流れの中で、それでは流れに流されることのない人の生き方はなにかという、矛盾葛藤に答えることであろう。」(19877月)

 

そうか、「不易流行」だ!25年前に書かれたとは思えない。未来(=現在)を示唆している。それにしても、読めば読むほど美文だなあ。その分、ちょっと、わかりにくいかも。

 

「人間は、死に直面してかえって生を実感するという逆説がある。歴史も、ヘーゲルがいうように一つの時代の終わりにその全貌が見えてくる。あの『戦争』と現代は、それぞれに一つの時代の曲がり角に際会して、決して疎遠なものでなく、ある親縁関係で今も堅く結びついているのである。(中略)現代もまた、歴史の中の一コマにすぎない。そうだとすれば、あの戦争について考えること、考えないことは、そのまま現代日本の実態について考えること、考えないことにつながっている。」(1995年春)

 

「際会」という言葉、初めて知りました。

「際会」=事件、時期などにたまたま出会うこと。偶然の出会い。(精選版日本国語大辞典)

 

「私は、その人を知り、近づくだけで自由を感得できるような存在、つまりみずからの内的欲求に忠実に、自由に生きる人のあり方を『自在』と名づけた。能うる限り権力や金銭、世間的な名聞、つまりその時限りの刹那的価値から離れて生涯を『自在』に生きた人、そのような人こそが『人』であり、代表的な日本人なのである。」(199711月)

 

先生ご自身が「自在に生きた日本人」であったのではないか。

「敗戦」という経験、その前後で起きた「価値の大転換」が、先生のその後の人生を決めた。決して、うわべの流れには騙されない、本質を見抜こうとする目、時代の流れ・歴史の中での「現在」を客観的に見つめる目を大事にする生き方。そういったことを教わった気がします。

ゆっくりと、お休みください。

 

 


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(2012、5、30読了)

2012年6月13日 18:54 | コメント (0)

新・読書日記 2012_099

『非常事態の中の愉しみ』(小林信彦、文藝春秋:2012、5、10)

 

昨年(2011年)、『週刊文春』に連載した著者のコラムをまとめたもの。毎号、欠かさず楽しみに読んでいた、はずなのに、こうやってまとめて読むと覚えていないものもあった。読んでなかったのか、読んだのに忘れたのか、どちらか分からないが・・・。

「東日本大震災」後の著者の生き方・考え方が、きっちりと記録されていて、記録としても読める。

「大新聞」「大メディア」嫌いの著者は、現在を「戦前」に似ていると。「大本営発表」だと。そうならないように努力しているのに、そう感じられるのは、やはりそういう面があると言わざるを得ないのだろう。反省。

 

 


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(2012、5、27読了)

2012年6月13日 11:53 | コメント (0)

新・読書日記 2012_098

『参謀~落合監督を支えた右腕の「見守る力」』(森繁和、講談社:2012、4、11第1刷・2012、4、23第3刷)

 

はっきり言って、落合元監督は好きではない。(よく知らないからかもしれないが。)

その右腕として"名参謀"と言われた著者。この本の著者の写真は迫力あるよー。どう見ても・・・ねえ。いわゆる「カタギ」じゃない感じで・・・。

でもこの本は「指導者」としての「指導=教育」について考えさせられる本だ。落合監督とは全くタイプが違う著者が、コーチとしてどのようなに振る舞い、どのような実績を残してきたか?落合監督のスゴイところは?適材適所、人と人との"組み合わせの妙"というものを考えさせられた。表紙の写真、インパクトあるよお~

 

 


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(2012、5、5読了)

2012年6月12日 21:52 | コメント (0)

新・読書日記 2012_097

『日本語にとってカタカナとは何か』(山口謡司、河出ブックス:2012、4、30)

 

ひらがなもカタカナもなかった奈良時代、日本語は漢字で書くよりほかにも方法はなかった。しかし「五七調」の調べで書かれた和歌の音をひとつずつ漢字で宛てて書く「万葉仮名の歌」は、実はまるで「漢詩」を書いているように見せかける技でもあったのだ。(54ページ)

「表記」は「発音」を誘導する記号。ただし「言文一致」ではない。特に外来語。外国語に近い音の表記をすると、外国語に近い日本語とは違う音になってしまい、伝統的な日本語の音が崩れるのではないか?外国語として発音するのがよいなら、表記も原語表記すればよい。外来語として、日本語のカタカナ表記になった時点でもう日本語なのだから、日本語表記・日本語発音に従うべきではないか。読んでいてそう強く思った。

また、「五言絶句」と「七言絶句」は、日本語のリズムである「五七調」に影響を与えたのではないか?と言う風に感じた。

また、天才・空海と、秀才・最澄の関係、カタカナとの関係など大変勉強になった一冊であった。

 

 

 


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(2012、5、24読了)

2012年6月12日 18:27 | コメント (0)

新・読書日記 2012_096

『貧困の僻地』(曽野綾子、新潮文庫、:2011、11、1)

 

作家でありながら、そして今ではもう結構高齢(80歳近く)でありながら、日本財団の理事長を9年も務めた著者は、世界各地を見て歩いた。特に「貧困」の国の「僻地」を。実際に見てきた者だから言えること、体験したからこそ書けることを書いている。その意味ではこれもルポルタージュ。ここの夫婦も、絶対、奥さんの方が強いと思う。

 


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(2012、5、20読了)

2012年6月12日 11:27 | コメント (0)

新・読書日記 2012_095

『ベスト・オブ・映画欠席裁判』(町山智浩・柳下毅一郎、文春文庫:2012、3、10)

 

20025月から20073月に出た単行本3冊を再編集した文庫。550ページもあり、読みごたえ十分。二人の映画評論家の自由気ままな対談・漫談。なかなかの「ボケと突っ込み」。おもしろい。出てくる映画で知らないものもたくさんあるので、「見る」あるいは「見ない」参考に。それにしても、こんなに「言いたい放題」言っていいのかなあ・・・。

 

 

 


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(2012、4、20ごろ読了)

2012年6月11日 23:26 | コメント (0)

新・読書日記 2012_094

『大阪維新で日本は変わる!?』(福岡政行、ベスト新書:2012、5、20)

 

福岡政行先生が"緊急出版"。ということは、衆議院の解散が近いということ?

これから大阪維新が「できること」と「できないこと」、その意味などなど、これまで多くの政治の場面を、選挙を、そして政治家を見てきた福岡政行が斬る!

ちょっと途中から勢いが弱くなっちゃうけど、前半はフムフムと読み進みました。大変勉強になりました。

 

 


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(2012、5、25読了)

2012年6月11日 21:25 | コメント (0)

新・ことば事情

4746「奪還と奪回」

 

(※20012年3月8日に書きかけてほったらかし。3か月経過しました。オセロ・・・懐かしい)

 

「オセロ」関連で・・・中島さんを例の部屋から外に連れ出したことを指して、「ミヤネ屋」ではこれまで「奪回」は使わず、

「奪還」

としてきました。それは変わりませんが、きょう(3月8日)発売の『週刊文春』の特集の見出しでは、

「オセロ中島 奪回!」

「奪回」を使っていました。そこで念のため、意味の違いを書いておきます。

『広辞苑』では・・・

「奪還」=うばいかえすこと。 (例)選手権を奪還する

「奪回」=うばいかえすこと。奪還。(例)陣地を奪回する

ありゃ。意味は同じか!用例の違いで言うと、「奪還」は「一度保持したことのある(していた)価値のあるものを取り返す」という感じ、「奪回」は「一度保持していたものに価値があるかどうかは、客観的には分からない感じ」が少しして、もっと簡単に言うと、「奪還」は「人に対して使える」が、「奪回」は「人には使えない」というニュアンスを私は感じています。『三省堂国語辞典』の用例では、

「奪還」=「人質を奪還する」

「奪回」=「陣地を奪回する」

とあって、まさに私の語感はこれです。『精選版日本国語大辞典』では、

「奪還」=奪いかえすこと。奪回。

「奪回」=奪いかえすこと。とりもどすこと。奪還。

となっていて、その意味に差異は認められません。『新明解国語辞典』は、

「奪還」=相手の手中に帰したものを、こちらが実力でもう一度取り返すこと。(例)選手権を奪還する

「奪回」=(敵に奪われていた陣地などを)奪い返すこと。(例)政権奪回を目ざす

とあって、「奪還」の意味に強い意欲を感じます。オセロ・中島さんの場合はやはり「奪還」ではないでしょうか?「生還」などとも意味が通じるところが「還」にカンじられますし。

こういうときこそ、これだ!と思って『日本語 語感の辞典』(中村明著、岩波書店)を引いてみると・・・「奪還」も「奪回」も載っていないのでした・・・残念!

皆さんは、どう感じられますか?

 

 

(追記)

なんと「平成ことば事情552」で「奪回と奪還」というタイトルで書いていました・・・20022月、10年前です。覚えてないようなあ、そんなの。

(2012、6、27)

 

 

 

 

(2012、6、11)

2012年6月11日 18:16 | コメント (0)

新・ことば事情

4745「みえかくれとみえがくれ」

 

「見え隠れ」

という言葉の「隠れ」を、皆さんは濁りますか?それとも濁りませんか?

私はこれまで、

「みえかくれ」

濁らずに読んできました。ところがアクセント辞典や辞書を引くと、

「みえがくれ」

濁って載っているのです。それ以来、濁って「みえがくれ」と原稿は読むようにしていますが、他の人が読むのを聞いても、皆「みえかくれ」と濁っていません。

どうしようかなあ、と思っていたときに、ハッと気付きました。

「『みえがくれ』と『みえかくれ』は、別の言葉なんだ!」

つまり、辞書に載っている濁った「みえがくれ」は、「隠れ方」の一つとして、

「ちょっと見えてしまうような隠れ方」

を指しているのではないでしょうか?それに対して、濁らない「みえかくれ」は、

「見えたり、隠れたりしている状態」

を指すのではないでしょうか?少なくとも私が「みえかくれ」と言う場合の意識(意味)は、「見えたり、隠れたりする状態」を指して言っています。

そう考えるとスッキリしますが、濁らないパターンの「見え隠れ」はこれまで辞書に載っていなかったということは、「新しい言い方、意味」なのでしょうかね?

 

 

(追記)

この項目をUPするや否や、NHK放送文化研究所の塩田雄大さんが資料を送ってくださいました。ありがとうございます。

『放送研究と調査』2011年11月号の「女は男より『罪作り(つみつくり)』~言葉のゆれ調査(平成23年1月)から②」(太田眞希恵)という記事で、これは「濁るか濁らないか」についての調査結果と分析です。

その中に、「見え隠れ」もあって、全国の20歳以上の男女1323人に調査したところ、

「人の姿が見え隠れする」

「見え隠れ」の読み方は、

「ミエカクレ」=91%

「ミエガクレ」= 8%

だったそうです。

そして、国語辞典58を調べた中で、「見出し」もしくは「その意味の説明の中」で「ミエカクレ」を載せているもの、「ミエガクレ」だけのものは、

        戦前  戦後昭和  平成

ミエカクレ   1    2    8

ミエガクレ  31   11   12

という結果になったそうですが、「見出し」で濁らない「ミエカクレ」を採用しているのは、『明鏡国語辞典』(2002)、『大辞林 第3版』(2006)、『三省堂国語辞典 第6版』(2008)だけだそうです。

(2012、6、11)

 

 

 

 

(2012、6、11)

2012年6月11日 13:04 | コメント (0)

新・ことば事情

4744「ミニチュア」

 

外来語の表記の決まりというのは、難しいです。

なぜかというと、「原則」はあるのですが、「例外が多い」からです。

『新聞用語集』の場合、「英語」由来の外来語のケースは、語尾が伸びる外来語の表記は、「-」を付けるのが原則です。

「カルチャー(culture)」「ベンチャー(venture)」「ネイチャー(nature)」

などの表記は、語尾に「-」を付けます。

ところが、

「ミニチュア(miniature)」

は、語尾に「-」を付けた「ミニチャー」にはならないのです。

なんでだろう???

もしかしたら「ミニチュア」は、もともとは「英語」起源ではないのかもしれないな。それなら納得がいく。でも英和辞典には英語として載っていますね・・・。

どなたかご存じの方はいらっしゃいませんか?

 

(2012、4、30)

2012年6月 9日 17:49 | コメント (0)

新・ことば事情

4743「よした」

 

5月半ば、うちの合唱団でいつも伴奏をしてくれているピアニストのお母さんが亡くなりました。東大阪市で営まれたお通夜に行く途中、大阪市営地下鉄・中央線が乗り入れしている近鉄学研都市線に乗っているときに、車内放送で耳にした駅名に「おや?」と思いました。車内放送は、

「次は、よした~よした~」

と言っていたのです。駅名表示を見ると、

「吉田」

と書いてありました。「よした」と濁らないのですね。しかもアクセントは「頭高」で、

「ヨ\シタ」

でした。なんだか、

「行くのをよした(やめた)」

みたいな感じに聞こえましたが・・・。

「新石切」駅の一つ大阪寄りの駅でした。知りませんでした。長いこと大阪に住んでいても、まだ知らない地名・駅名はあるものですね!

 

(2012、6、6)

2012年6月 9日 10:30 | コメント (0)

新・ことば事情

4742「宗女」

 

拙著「最新!平成ことば事情」(ぎょうせい)の読者から編集部に質問が届いたそうです。

それによると、

「もし『最新!平成ことば事情』の続刊があるようでしたら、是非取り上げていただきたいのは『宗女』」という語です。日本史の教科書には、必ず『邪馬台国の卑弥呼の死後、宗女の壹与を王とした』と書いてありますが、この言葉、どんな国語辞典にも見つかりません!」

とのこと。

たしかに「魏志倭人伝」に出てきますね。特に気にしていなかったのですが。

ネット検索すると「教えて!Goo」でも同じ質問がされています。思うにこれは、

「宗子」

のことではないでしょうか?「宗子」は、『広辞苑』でも、

「一族の長たるべき子。家をつぐべき子。宗家の嫡男」

と載っています。それが「女」である場合には「宗女」なのではないでしょうか?

卑弥呼の時代には(その後の天皇家でも女帝がいるように)女性でも家を継いでいた、男女の差は、そこには無かったのでしょう。

その後「男系」の歴史が作られた(おそらく明治時代以降)ことにより

「嫡子=嫡男」

となって、「宗子=宗男」(「むねお」ではありません)というのが現在では常識になったのではないでしょうか?現在の常識で「魏志倭人伝」の時代をはかると、分からなくなってしまうことがあるのではないでしょうかね。

「嫡女」=正妻が産んだ長女

という言葉もあるようです、とお答えしました。

 

(2012、5、30)

2012年6月 8日 17:55 | コメント (0)

新・ことば事情

4741「欠席理由」

 

甲南大学で半期(4~7月)ですが、「マスコミ言語研究Ⅰ」という講義を担当しています。ここ2年ほどは、講義の曜日が土曜日の午前中なので、17人~30人ぐらいと受講生の数が少なく張り合いがやや少ないのですが、ゼミのように対応できてリポートなどをチェックする数も少ないので、そういう意味では丁寧に授業ができます。「よしあし」といったところでしょうか。

そんな中、やはり学生さんも土曜日にいろいろと用事が入ることもあるようで、「欠席」します。でも人数が少ないので、

「あの・・来週、ちょっと欠席するかもしれないのですが・・・」

などと申し出てくれます。もしくは「出席カード」の裏に、「欠席の理由」を書いてあったりします。それを見て、「親?」・・・いや、「おや?」と思いました。そこには、こう書かれていたのです。

「所用があって欠席します」

・・・大学生の「所用」って何?と思って直接学生に聞くと、

「アルバイトです」

ええ!「アルバイト」を「所用」と書いて講義を休むの?と思って、

「何のアルバイト?」

と聞くと、やや言いにくそうに、

「大学のオープンキャンパスの受け付けのバイトで・・・」

と。まあ、それなら、しゃあないか。

別の男の子は、こう書いてありました。

「一身上の都合により欠席します。」

なんだよ、「一身所の都合」って。大学やめるんじゃないのか?

丁寧に書くときに、なんとも大げさな表現になるのだなあと。

大学生は、「社会人と学生のはざま」を行ったり来たりしているのかなあと思いました。

 

 

 

 

(2012、6、6)

2012年6月 8日 12:54 | コメント (0)

新・ことば事情

4740「ふじこちゃん」

 

 

518日の日本テレビ「ニュースダッシュ」で矢島アナウンサーが伝えていたガールズ居酒屋が摘発されたというニュース。摘発を受けたのは、

「横浜市のSEXY居酒屋『ふじこちゃん』」

というお店。そこで矢島アナウンサーは

「警察は、『ふじこちゃん』を捜索しています」

と原稿を読んでいたのですが・・・なんかヘン!

「ルパン三世」が出てきそうです。

それにしてもよく、矢島アナウンサーは、笑わずに原稿を読めるなあと感心して見ていました。ま、笑うわけにはい行かないもんね、いくら「ふじこちゃん」でも。

 

(2012、6、6)

2012年6月 7日 17:54 | コメント (0)

新・ことば事情

4739「ストレステストの言い換え」

原発稼働の条件の一つの検査、

「ストレステスト」

ですが、それだけ聞くと、我々サラリーマンの「ストレス・チェック」のように聞こえないこともありません。つまり「軽く」聞こえてしまって、その内容が持つ重要な意味が届きにくいのかもしれません。

テレビではあまり言い換えはせず、その前の説明を付けて使っていますが、新聞はその「訳語」の表現が微妙に違うようです。

 

<読売新聞>「原子力発電所のストレステスト(耐性検査)」(510日)

<産経新聞)>ストレステスト(耐性検査)」(3月23日)

      「安全評価(ストレステスト)」(3月25日)

<朝日新聞>「ストレステスト(耐性評価)」(1月23日・3月8日)

<毎日新聞>「安全評価(ストレステスト)」(4月4日・420日)

<日経新聞>「ストレステスト(耐性調査)」(213日)

 

新聞は、漢字を先に使うか、カタカナを先に使うか、漢字の訳語も「耐性検査」耐性調査」と「耐性評価」「安全評価」があります。「耐性」の「検査」や「調査」をした上で、「安全」や「耐性」の「評価」をするのだと思いますが。

テレビニュースをネットで検索してみると、

<日テレ>「運転再開の条件とされるストレステスト」(3月23日)

<TBS>「原発再稼働の前提となるストレステスト」(5月10日)

<フジテレビ>・・・・・(記事が見当たらず)・・・・・

<テレビ朝日>「原発の再稼働を検討する『ストレステスト意見聴取会』」(510日)

<NHK>「原発を対象に行っている安全性についての検査、いわゆるストレステスト」

(4月27日)

<テレビ東>・・・・・(記事が見当たらず)・・・・・

と言ったところでした。

 

(2012、6、6)

2012年6月 7日 12:53 | コメント (0)

新・ことば事情

4738「柳沼」

 

5月下旬、出張で福島県の郡山市に行きました。福島空港から郡山駅前まで、リムジンバスで40分。福島空港近くは、ちょうど「田植え」が済んだところでした。途中、阿武隈川に釣り人が3人いました。

車窓の景色を見ていて目に入ったポスターに書かれていた「人名」に目が留まりました。それは、

「柳沼」

という名字でした。それを見て感じたのは、

「柳沼といい、柿沼、沼田、大沼、沼津と、沼の付く地名・人名は『東日本』に多いのではないか?」

ということでした。そういえば私が知っている「沼」の付く名字の人は、みんな「東日本出身者」です。西日本では「沼」が付く人、あまり知りませ・・・あ、いた。

 

上沼恵美子さん。

 

ご主人の髪沼さん・・・じゃなくて上沼さんは、西日本出身なんやろか?たしか、大阪の高校のご出身ではなかったかと。そうすると東日本だけじゃないなあ。

どうなんでしょうかね?

 

 

 

(2012、6、6)

2012年6月 6日 18:43 | コメント (0)

新・ことば事情

4737「言葉を大切にすること」

 

5月は、声楽関係の大御所が相次いで亡くなりました。

5月18日 ディートリッヒ・フィッシャー・ディースカウ 86

5月24日 畑中良輔 90

 

当然、追悼記事が出ました。

5月31日の読売新聞音楽評論家の三宅幸夫さんが、フィッシャー・ディースカウを追悼してこのように記しているのに目が留まりました。ドイツ・リートの分野で突出しているフィッシャー・ディースカウの業績ですが、追悼の意を込めて「この1曲」を選ぶと、ゲーテの詩によるフーゴー・ヴォルフの「竪琴弾きの歌Ⅰ」(1952年のモノラル録音)だと、そして、

「『孤独に身をゆだねる者は、ああ、たちまちひとりになる・・・』と、孤独のなかに置き去りにされた人間の哀しみを、昼夜を問わずしのび寄る苦しみを、軋んだ旋律線で歌い上げる。とくに圧巻は、鋭く刺すような苦痛Painと、長く尾を引く苦悩Qualの対比だ。もちろん詩人も、したがって作曲家も、これを丁寧に描き分けているのだが、それはあくまで文字言語の次元にとどまる。ディースカウが歌うことによって、はじめて文字言語はリートのリートたるゆえんである『音声言語』に置き換えられ、言葉の響きから言葉の意味するところが十全に感得されるのだ」

と記しています。「鋭く刺すような苦痛Pain」と、「長く尾を引く苦悩Qual」の対比を歌い分けるその技量のすばらしさは、まず「その違い」を感じ取って、それをまた「表現できる」ということですね。言葉を大切にして歌うという、音楽の基本の姿勢を徹底していたと言えるのでしょう。

また61日の読売新聞文化面に載った、ソプラノ歌手で日本演奏連盟理事長の伊藤京子さん畑中良輔さんの追悼文の中にはこんな一節がありました。

「何よりシューベルトといい山田耕筰といい、言葉をすごく大事にされます。徹底して詩を読まれ、言葉の真理をくみ取り、驚くほど綿密な感情を表現され、技術ではなく『心』で歌う姿勢に感銘を受けました」

「私のリサイタルの後、楽屋にいらして『あの歌の意味はね、本当はこういうことなのよ。それがもう少し出るといいね』と温かくごく自然にアドバイスされる。それが私の歌手生活の中で支えになっています。」

やはり、「歌」は「言葉」が大切なのですね。その意を強くしました。

最後に、お二方が安らかに眠られんことを。

 

(2012、6、6)

2012年6月 6日 14:42 | コメント (0)

新・読書日記 2012_093

『日本を、信じる』(瀬戸内寂聴、ドナルド・キーン、中央公論新社:2012、3、11)

 

ともに1922年生まれ、90歳「卆寿」のお二人の対談。かたや日本人以上に日本人らしく、日本に帰化したドナルド・キーンさん、かたや、尼さんで作家、老いて益々さかん、瀬戸内寂聴さん。日本という国とそこに住む人たちを、現在につながる歴史の中で捉えてこよなく愛するお二人。帯には、『ともに90歳を迎える二人が、大震災で感じた日本人の底力、生きる意味、自らの「老い」と「死」について縦横に語り合う』と記され、金色の中尊寺をバックに撮った「ツーショット」の写真が使われている。大きな文字で、老眼でも読みやすい。大きすぎてちょっと恥ずかしいぐらい。「源氏物語」のすばらしさ、瀬戸内さんと三島由紀夫の交流、キーンさんが帰化を決めた理由などなど、確かに「帯にウソなし」、縦横に話していますね。

 

 

 


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(2012、6、3読了)

2012年6月 6日 10:57 | コメント (0)

新・ことば事情

4736「『戦う』のラテン語は?」

 

ヤマザキマリの『テルマエ戦記』を読んでいたら、

「ミリターレ」

という「ラテン語」が出てきました、これは、

「戦う」

という意味のようです。そうすると「軍隊」の「ミリタリー」の語源か。

同じく「軍隊」の意味の「アーミー」との違いは?とずっと気になっていたのです。2009年の18日のメモで「平成ことば事情3590 アーミーとミリタリーの違いは?」があります)

「アーミー」

は、

「軍隊、特に陸軍」

だそうです。「アーム」は「武器」ですよね。

へミングウエイの『武器よさらばのタイトルを、

「両腕よさらば」

と誤訳した人がいるとか・・・。(「都市伝説」=ホラ=ネタかもしれませんが・・・)

「海軍」は「ネイビー」。「空軍」は「エアフォース」。「海兵隊」は「マリーンズ」。

「ネイビー」と「マリーンズ」の違いも気になりますが、「ミリタリー」は、

「軍隊の総称」

のようですね。

 

(2012、5、31)

2012年6月 5日 22:20 | コメント (0)

新・ことば事情

4735「ぬるぬるのアクセント」

 

岩波新書の『語感トレーニング』(中村明)を読んでいたら、122P

「ぬるぬる」

という言葉が出てきました。この言葉の持つ「語感」で、ふと疑問が。

この言葉、発音するときには、

「ぬ\るぬる」(頭高アクセント)

「ぬ/るぬる」(平板アクセント)

2種類のアクセントを使いますよね。これって意味上の使い分けはあるのでしょうか?という疑問です。

「語感」ですから、「個人差」がずいぶんあるとは思うのですが、私の「語感」では、

「ぬ\るぬる」(頭高アクセント)の方が粘り気があるような気がします。

一方の「ぬ/るぬる」(平板アクセント)は、滑りそうではありますが、粘度が低いような感じ。

そのあたりほかのアナウンサーに聞いてみたところ、私と全く逆の感じを持つ者もいました。そんなとき、虎谷温子アナウンサー

「『デジタル大辞泉』には、アクセントの区別が載っていますよ!」

と教えてくれました。それによると、

「ぬ\るぬる」=形容詞。

「ぬ/るぬる」=は名詞と形容動詞

となっていて、「アクセントの違い」で「品詞」が変わるようなのです!新発見!

似たようなケースでは、例えば「きのう」「おととい」といった時制を現すもので、

「き/の\う」(中高アクセント)=名詞

「き/のう」 (平板アクセント)=副詞

「お /とと\い」(中高アクセント)=名詞

「お/ととい」(平板アクセント)=副詞

という区別があるものがあります。それに似ているのでしょうか?

早稲田大学の非常勤講師で『三省堂国語辞典』編者の飯間浩明さんに、

「『ぬるぬる』とか『ぴかぴか』『すべすべ』といった擬態語のアクセントが、『ヌ\ルヌル』(頭高=副詞)、『ヌ/ルヌル』(平板=名詞・形容動詞) というふうに2種類あって、意味(というか「品詞」)が違う、ということは、常識なのでしょうか?あまり目にしたことはないのですが。そしてこういったものは、擬態語すべてに2種類のアクセントがあるわけではないですよね?その区別はどうなっているのでしょうか?」

とお聞きしたところ、

「少なくとも『新明解アクセント辞典』には載っていますよ。『ぬるぬる』で引いてみると、その項目に『→57』とあります。そこで、巻末『アクセント習得法則』の『57』を見ると、『同じ語、または掃除した語が重複した三・四拍の和語』という節があります。そこに、ほぼおっしゃるようなことが書いてあります。」

というお返事をいただきました。

ところで、全部、アクセントは2つあって、「2回繰り返しのオノマトペ」は全て、そうなのでしょうか?「ピカピカ」「ビンビン」も2種類ありますね。

でも、「ぐんぐん」「ぐいぐい」「ごくごく」「ドシドシ」「ガンガン」「ビシビシ」などは、「平板アクセント」はないですね。なんでなの?

 

2011年の6月ぐらいに書いていて、1年間ほったらかしになっていたようです・・・。当時は「平成ことば事情4394」。

 

(2012、5、31)

2012年6月 5日 18:20 | コメント (0)

新・ことば事情

4734「代と代目」

 

デパートの贈答品売り場で見かけた表記に、

「稲庭うどん 七代・佐藤養助」

というのがありました。創業万延元年なのだそうです、この稲庭うどん。問題はこの、

「七代」です。これは、「七代目」ではないのですね。なぜ?「代」と「代目」の違いは?以前から気になっていましたが、これを見てハッと気付きました。

もしかして「代目」という言い方は、

「他人が客観的に呼ぶ場合」

なのではないでしょうか?それに対して、「代」は、

「本人サイドの自称(名乗り)」なのではないでしょうか?そういえば「桂文枝」を継ぐことになった「桂三枝」さんが配った手ぬぐいも、

「六代・桂文枝」

「代」で染め抜かれていました。また、「林家こぶ平」の名前の方がまだなじみがある「林家正蔵」(まだ「彦六の正蔵」のほうが印象、強いです)さんも、襲名披露での口上で、

「九代・林家正蔵」

「代」で言っていました。

歌舞伎の場合の、新聞表記を見ると、

「二代目・市川亀次郎」「四代目・市川猿之助」「九代目・市川中車」

となっていますが。これは「客観的に表現するとき」は「代目」なのでしょう。

あ、そうか、自らは外から数えるのではなくその「代」を生き抜くだけですから「代」ですが、歴史の中でその名前を捉えると「代目」ということになるのかな。ちなみに、

「九世 市川團十郎」

のように、「世」という数え方もありますが、これは、

「既に亡くなった人(故人)」

を指すのではありますまいか?あ、でも「エリザベス2世」はご存命ですね。在位60周年、おめでとうございます!

「世」については以前も疑問を呈してことがあったような気がするぞ。検索したら、「平成ことば事情1707 代と世」というのがありました。それを読んだら、より一層難しくなってきました。「世」は一旦置いておいて、「代」と「代目」は、こういうことじゃないかなあと思うのですが、いかがでしょうか?

 

 

(2012、6、5)

2012年6月 5日 15:19 | コメント (0)

新・読書日記 2012_-092

『ヘルタースケルター』(岡崎京子、祥伝社:2003、4、20初版第1刷・2012、5、26第26刷)

 

例の沢尻エリカ主演映画の原作漫画。300ページを越える大作。現代社会における「アンチエイジング」に対する疑問・・・というよりももっと深く、若さに対する人間(特に女性)の"性(さが)"=「人間の理性を失わせるほどの欲望」に対するアンチテーゼ。

しかし「若さ」を求めることをテーマにしたものの代表作としては、ゲーテの『ファウスト』が挙げられる。これは「永遠のテーマ」か。著者の岡崎さんはこの連載が終わってまもなく交通事故に遭って重傷、いまだにリハビリに取り組まれているという。

漫画でこんなに重いテーマに取り組むのはとても勇気が要るし、ものすごく深いことを考えている方なんだなあと改めて思った。その思いは、初版から足掛け10年で「26刷」というロングセラーという形で伝わっているのではないだろうか。

 

 


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(2012、6、2読了)

2012年6月 5日 11:39 | コメント (0)

新・読書日記

『なみだふるはな』(石牟礼道子・藤原新也、河出書房新社:2012、3、30)

 

 

大変美しい、淡い水色の空にかすむ桜の花の表紙の真ん中に、平仮名で黒々と「なみだふるはな」と書名がある。インパクトが強い。

『苦界浄土』の石牟礼道子さんと、『東京漂流』の藤原新也さんの対談集。

今回の東日本大震災の被災地を始め、世界のあらゆる紛争や被災地を、レンズを通して見てきた藤原さんと、熊本の水俣で、あの水俣病という「公害病」とふるさとを見てきた石牟礼さん。この二人の組み合わせの対談ということを知って「あっ!」と思った。まず失礼ながら「石牟礼さんって、まだご存命だったのだ!」と。そして、「水俣病は終わっていない」ということを改めて知った。さらに、水俣病の構図と東電・福島原発の事故の構図が実は「同じもの」であるということも。これは別の本を見て思ったのだが「ゴミ問題」と「原発問題」もまた、同じ構図だ。生活に必要だけど、自分の住んでいるところの近く造るのはイヤ、と。そういうことをずっと言ってきた私たち・・・。なんだ、何にも変わっちゃいないじゃないか。ということは、70年代からゴミ問題に取り組んできた人たちの取り組みの歴史は、今後の原発問題への対応にも応用できるのではないか?成功も失敗も含めて。また水俣病の公害の歴史も、福島原発の事故後の対策に生かすべきであると、強く思った次第。

 

 


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(2012、5、21金環日食の日に読了)

2012年6月 4日 18:43 | コメント (0)

新・ことば事情

4733「『クローズアップ現代』の謎」

 

以前、

「なぜ国谷裕子さんは『こんばんはクローズアップ現代です』を、あんなに早口で言うのか?」

ということについて考えて書いたことがありました(平成ことば事情2205「クローズアップ現代です」)が、先ほど、通勤電車の中で、

「あっ!」

と突然ひらめいたことがあります。

「クローズアップ」

「ズ」は本来濁らず「ス」と言うべき音です。つまり、

「クロースアップ」(close up

です。しかし誤用が定着して、日本語の外来語としてはいまや「クローズアップ」と濁ることが多い。現に番組名は「ズ」と濁ってカタカナで書かれています。そこで、帰国子女で英語の堪能な国谷さんは、間違った外来語の発音の「クローズ」を言いたくないがために、

「その部分だけ『英語で』、頑なに言うのではないか?」

という思い付きです。違ったらごめんなさい。

でも、そうかもしれない。

「こんばんは」だけはゆっくり言うようになったのは「こんばんは」は英語ではないからでしょうね、きっと。

 

(2012、5、31)

2012年6月 1日 18:31 | コメント (0)

新・ことば事情

4732「港の『な』」

 

先日、福島への出張の際、伊丹空港で飛行機の登場の案内を待っていたときに、窓の外に広がる滑走路を眺めながら、ぼんやりと、

 

「空港って広いなあ。空が広いなあ。こうやって見ると、やはり『空の港』って感じがするなあ。『空港』というネーミングは、いい得て妙だなあ」

 

と思っていました。そのとき、突然

「港(みなと)」

という言葉は、本来は、

「水な門」

であって、「な」の意味は「~の」であると、以前どこかで読んだのを思い出しました。

ということは、「港」の「な」は、

「そなた」「あなた」「こなた」「かなた」

の「な」と同じなのか!古語の「な」が、現代語の単語の中に取り込まれて自然な形で使われているんだなあと改めて思いました。「きなこ」の「な」も同じだな。

 

(2012、5、31)

2012年6月 1日 10:30 | コメント (0)