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『道浦TIME』

新・読書日記 2011_066

『三陸海岸大津波』吉村昭、文春文庫:2004、3、10第1刷・2011、4、1第8刷)

 

吉村昭の記録文学の記念碑的作品、というふうに紹介されている。正に今回の東日本大震災による大津波は、過去にも繰り返し「三陸」を襲っていた。その生き証人たちに話を聞き、記録をたどって書き残した。

1896年=明治29年と、1933年=昭和8年、そして2011年=平成23年。

過去の大津波を越える規模のものが起きてしまったのだが、過去2回の記録に残る大津波も、その時代の人たちにとっては想像を絶するものであった。

宮城県田野畑村では明治29年・昭和8年の大津波を経験して、巨大な"防潮堤"を作っていた。が、今回の津波をそれさえも越えてしまった。

実は以前の津波も、場所によっては「高さ50メートルのところにある家」にまで浸水していたという話を吉村は聞き取っており、高さ8メートルほどの防潮堤では、とてもそれに対抗できないこともわかっていたのだが・・・。

「歴史は繰り返す」というが、自然の営みは繰り返すのである。そこに、善悪の意図はない。ただ、自然の営みとして地殻変動で地震が起き、地震によって津波が起きた。

三陸では津波のことを「ヨダ」と呼んだらしい。不気味な響きを持つ言葉だと、吉村は紹介している。

 


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(2011、4、25読了)

2011年4月29日 23:22 | コメント (0)

新・読書日記 2011_065

『佐野洋子対談集人生のきほん』(佐野洋子&西原理恵子&リリー・フランキー、講談社;2011、2、3)

 

当人が亡くなってから読んでる、佐野洋子。

西原理恵子とリリー・フランキー、そして佐野洋子は、大学での先輩・後輩に当たると。ウーム、何かたしかに根っこで通じるものがあるような。

西原が、佐野を尊敬している感じがよく出ている。ほかの漫画家に対しては出ていない、西原の「尊敬の念」が出ていた。それを感じ取れたのが、本書の一番の収穫か。

リリー・フランキーとの対談は、ちょっと期待はずれであった。

3人で話している(鼎談)というわけではないのだね。別々の機会に「西原VS佐野」、「リリーVS佐野」という形。もう晩年なんだけどね。

おもしろかったです。

さっき『ニュースZERO』で、西原さんたち漫画家12人が福島県の被災地を訪問しているのを見て「戦っているな!」と感激しました。中島みゆきの♪「ファイト!」を贈ります。(4月26日)

 


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(2011、4、20読了)

2011年4月27日 18:02 | コメント (0)

新・読書日記 2011_064

『ニッポンの書評』(豊﨑由美、光文社新書:2011、4、20)

ネット上でこうやって『読書日記』を書いているので、「書評」には興味がある。もっとも私が書いているのは「書評」ではなくて「読書日記」「読書感想文」であるが。そういう自覚を持ってやっているつもり。他人が見る(読む)ことは意識しつつも、基本、自分の内側に向けて書いている感じなので、その点はそもそも「プロ」の手による「書評」とは違う、と思っている。

でも本書では、ブログでの「感想文的書評」もまな板に乗せているので、

「俺のも"書評"と見られてメッタ斬りにされるのではないか?」

とちょっとコワイ。

著者の本は『百年の誤読』を読んで「おもしろい!」と思ったが、あともう一冊、別の書評本を買って読みかけたら、難しく高尚過ぎて(取り上げた本の趣味が合わなくて)読みかけで放り出してしまったが、この本は、やや趣味が合ったので読めた。

「書評でヘタクソに書かれたら商売上がったり!」というプロの作家の意見・立場も判るが、その本を「金を出して購入した立場」から言わせてもらうと、

「金出して買うてるんやから、おもろなかったら、ちょっとぐらい文句言うてもええやろ」

とも思う。ただ、本当は「おもしろい、はず」と思って購入しているのだから、もし万が一、面白くなかったら、

「自分の"本を見る目"がなかったのだ・・・」

と反省する必要もあると、私は思ってる。つまり、無理矢理与えられた本の書評でない限り、本来は「おもしろい!」としか書けないはずなのだ、自分で選んだ本の感想は。そうは思いませんか?ま、そうでないということは、「本を見る目がない」ということで・・・。私ですか?まだまだです。

 


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(2011、4、21読了)

2011年4月27日 12:01 | コメント (0)

新・読書日記 2011_063

『放射線の話』(大朏(おおつき)博善、WAC:2002,6,11初版・2010、12、6第2版)

 

「放射線と放射能はどう違うか?」

に始まり、あまり(ほとんど)放射能のことを知らないだけに、「放射能」というと、なんだか「おっかない」イメージが付きまとっていた・・・というのが、大方の日本人の平均的な姿ではないか?かく言う私もその範囲を出るものではない。もっと原子力、放射能のことを知りたい!と言っても、専門的なことはよくわからないので、素人にもわかりやすく書いた本はないか?と思っていたら、こんな本を見つけた。このところ放射能関係の本が次々新たに出たり増刷されたり復刊したりしているようだ。当然のことながら、それだけ関心が高いのだ。「正しく怖がる」ためには、最低限のことを知らねばならないだろう。

本書を読めば、多少、そのあたりのゴチャゴチャした知識が整理された気がする。

まず、外から放射線を浴びるケースと、放射性物質を体内に取り込んでしまうケースがあり、区別すること。放射性物質を体内に取り込んでしまうと、体内で放射線を出し続けるので、注意が必要なこと。放射線はエネルギーだから体内にはたまらないが、放射線を出す物質は体内にとどまり放射線を出し続けること。そういったことが整然と頭の中で区別できればいいのだが、なかなか難しい・・・。

 


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(2011、4、10読了)

2011年4月27日 00:48 | コメント (0)

新・読書日記 2011_062

『おうち飲みワイン100本勝負』(山本昭彦、朝日新書:2011、4、30)

 

1000円からせいぜい3000円までの、「家で飲むお手軽なワイン」のオススメを、1ページの上半分が写真、下半分が解説というかたちでまとめた新書。100本のうち、飲んだことがあったのは3本だった。

赤・白のほかに、スパークリング、ロゼ、またフランス・イタリアのほかのスペインや、オーストラリア・チリ・南アフリカ・ニュージーランド・カリフォルニアなど、ニューワールドのワインもバランスよく紹介した一冊。早速何本か、飲みたいなあと思ってしまった。でもワインを飲みながら読むと、途中で眠ってしまうのですね、これが。素面(しらふ)だと、すぐに飲みたくなる本だし。困ったものです。

 


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(2011、4、19読了)

2011年4月23日 18:34 | コメント (0)

新・読書日記 2011_061

『プロ野球解説者の嘘』(小野俊哉、新潮新書:2011、3、20)

 

東日本大震災のために、開幕がずれ込んだ今年のプロ野球も開幕した。節電のためにナイトゲームが避けられ、デーゲームが多いと、なんだか昔の野球のような感じだが、その分、選手が生き生きと一生懸命プレーしているように見えるのは、気のせいか。

さて、「データ」で野球を丸裸にしてしまう著者、前作も面白かったが、この本もおもしろい。よく耳にする「野球の俗説」、たとえば、

6回を終わって1点差。試合はまだわかりません」

とか、

「4番が打てば、そりゃ勝ちますよ」

といった「説」を、データで覆して行くのは、驚きを伴い、かつ大変痛快である。

 


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(2011、4、11読了)

2011年4月23日 12:33 | コメント (0)

新・読書日記 2011_060

『秋葉原耳かき小町殺人事件~私たちは異常者を裁けるか』(吉村達也、ワニブックスPLUS新書:2011、2、25)

ミステリー作家が「異様な事件」に迫る、と帯に。

「耳かき店」という店は「風俗店」のようでそうではない、境目のような存在のように思えた。「耳かきのお店」を描いたマンガ(読んだこと、あります)の方が先にあって、そこから名前を取ったらしい。

本書は、被害者側にも、加害者を誘引してしまうような不用意な行動があったというようなことが書かれているので、「何の落ち度もない被害者側」としては、納得できない本かもしれない。しかし本人にはそのつもりはなくても、客観的には「誘引」につながってしまうような行為が、おそらくあったのだろう。それを「落ち度」と呼ぶかどうかは別にして。もちろん、「命を奪われるほどの落ち度でない」ということは、言うまでもないが。

実はこの本と「イングリッシュモンスター」の本は、2冊平行して読んだのだが、同じように"引きこもり的な生活"をしていた2人が、片や「イングリッシュモンスター」に、片や「犯罪者」になってしまったという、この「ボーダーライン」は、一体どこにあったのだろうか?と考えざるを得ないような一冊だった。

 


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(2011、4、3読了)

2011年4月23日 10:45 | コメント (0)

新・読書日記 2011_059

『イングリッシュ・モンスターの最強英語術』(菊池健彦、集英社:2011、1、31第1刷・2011、2、27第3刷)

フジテレビ系の番組で時々見かけるこの人、34歳で会社を辞めてから、7年間も引きこもっている間に独自の英語勉強法を考えて、TOEICで連続24回も990点満点を取り続けているという。でも1回も海外に行ったことがないというから驚く。本当にモンスターだ。

引きこもっている間に何をするかで、その後の人生が変わってしまうこともあるんだなあ。

*「本当に聞こえるのは、単語1個につき母音1個だけ」

→英語と日本語では母音のあり方(数)が違うんだなあと、改めて教えてくれる。

*「梅干しの"ア"、般若の"ア"、握りこぶしの"ア"」

→母音「ア」にも、英語は3通りの「ア」があることを、口の形でイメージさせるところなんか上手だな。

*「単語1日に100個覚える努力をするけど、翌日に99個忘れてもいいと思え!」

→「兎に角進むべし」「撃ちてし止まん!」のような感じ。「前向きに倒れたい」という「心意気や、よし!」と感じました。


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(2011、4、3読了)

2011年4月23日 10:30 | コメント (0)

新・読書日記 2011_058

『結果を出し続けるために~ツキ、プレッシャー、ミスを味方にする法則』(羽生善治、日本実業出版社:2010、12、1)

 

うーん、勉強になりました。やはり名人は違う!

その一方で、「そう、そう!!私の考えと同じ!」と思う部分もたくさんあった。たとえば、

「速い球は力で打ち返さない」

は、わかってはいるんですが。ついムキになる。

20086月の名人戦七番勝負第六局。32敗、勝てば19世名人を襲名する資格を獲得した対局で、最後の三手を、震えながら着手したのだそうだ。え?羽生さんでも手が震えることがあるの?

「これは、勝ちを読み切ったものの、最後まで油断してはいけないと思ったときに起こる現象なのかもしれません。」

「このときは震えが一段と大きく、マス目にうまく駒が置けずに、少し困りました。勝ちだという確信がないときには震えることがないのですから、人間とは不思議なものです。」

うーん、そういうものなのか。

そして、「結果を出す」ためには「ミスへの対応」が重要だと。

<1>  ミスをどのように割り切るか、受け止めるかというメンタル的な要素。

<2>  ミスをしてもそれ以上傷を深めない、大きなダメージを被らないようにするというリカバリー、フォローのやり方。この二点が、非常に大切になってくる。

<3>  反省はしても後悔はしない。

また、ミスを減らすには、「自分のミスの傾向を知る」ことが重要。

そして、「保守的な選択は10年後に最もリスクが高い」。

たしかに、そうでしょうねえ。「問題先送り」ということですもんね。

そして、勇気付けられたのは

「私は『才能とは、続けること』だと考えています。」

という一言。頑張ります!

 


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(2011、4、17読了)

2011年4月22日 18:22 | コメント (0)

新・読書日記 2011_057

『心を整える。~勝利をたぐり寄せるための56の習慣』(長谷部誠、幻冬舎:2011、3、20第1刷・2011、4、10第4刷)

 

文字が「青」なのに驚き、タレント本のような装丁なのに意外と文字が多いことにも驚き、内容の真面目さに、また驚いた。こんなに色々考えているんだ、と。

「長谷部って、真面目だなあ」

と改めて思った。キャプテンのタイプとしては宮本のような感じかな。いろいろな体験や読書を通じて、吸収していくタイプだね。

同じように奮闘している20代の若者に、是非読んでほしい一冊だね。

甲南大学の授業でも、今週のおすすめ三冊のうちの一冊として紹介しましたよ。


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(2011、4、16読了)

2011年4月22日 10:22 | コメント (0)

新・読書日記 2011_056

「体験ルポ 国会議員に立候補する』(若林亜紀、文春新書:2011、3、20)

 

結局、「内部告発」は「ウラ稼業」。本気で世直しするなら内部で頑張るべきで、それをやった上でダメなら、最終手段として差し違えるつもりで取る行為が「内部告発」ではないか?その意味で著者は、以前勤めていた独法に関しては(「内部で世直し」をしたかどうかはわからないが)「刺し違える」つもりで書いて、辞めたのだろう。今回の「国会議員の選挙」に関しては、体験ルポとしては面白いが、そもそも体験ルポをするつもりじゃなかったのに、落選したから体験ルポにしたというのはなあ・・・転んでもタダでは起きないというところか。しぶとい。「ミヤネ屋」にも出演してもらったことがあるが、それはほんの2回ほど。でも、選挙演説の中で「『ミヤネ屋』でもおなじみの・・・」と言っていたと書いてあったので、ちょっとびっくりした。


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(2011、4、4読了)

2011年4月21日 18:20 | コメント (0)

新・ことば事情

4355「全然+肯定形」

「全然」は、否定形「ない」を伴う

というのは、歴史的に見ると必ずしも正しくない。という認識が、現在は少しずつ広がっているとは思いますが、でもやはり安定した形は「全然+ない」(否定形)と思っている人は多いことでしょう。

く鴎外や漱石が「全然+肯定形」を使っている例が引き合いに出されますが、私は物理学者寺田寅彦が昭和の初め頃に使った「全然+肯定形」の例を見つけました。

『寺田寅彦随筆集第五巻』(岩波文庫)の中に納められた「地図をながめて」という随筆。新田次郎原作の映画『劔岳・点の記』を彷彿させる文章内容です。その中で、

 

「死因も全然不明であったのである。」

 

「全然」が出てきました。昭和九年(1934年)の記述です。「不明」が「肯定」か?と言われると、

「不明=明らかではない(=わからない)」

ですから、

「否定的なニュアンスを含んだ肯定」

ではありますが、少なくとも見た目は「全然+ない」の形ではありません。

ちなみに、そこに出てくるものの値段は、

「五万分の一地形図」=1枚13

「計測作業の費用」=20003000円、「三角測量の経費」も入れて1万円ぐらい。

手間と金のかかった成果物である5万分の1」の地図が、

「それだけの手数のかかったものがわずかにコーヒー一杯の代価で買えるのである」

とあります。つまり、13銭」というのが「コーヒー1杯」の値段。今で言うと、カフェだとそうですねえ、300円ぐらいですかねえ。ちょっと安いな。きっとこれは地図が「1300円ぐらい」で、コーヒーは1300円ぐらいの、当時は高級なものだったのではないでしょうか。今だったらホテルのラウンジで飲むような。おそらく、物価は現在の1万倍ぐらいじゃないかなあ?と思いました。

(2011、4、19)

2011年4月21日 12:16 | コメント (0)

新・読書日記 2011_055

『日本代表の冒険 南アフリカからブラジルへ』(宇都宮徹壱、光文社新書:2011、2、20)

サッカージャーナリスト・宇都宮徹壱さん、コアなサッカーファンならご存じか。以前、私が読んだのは、「2008読書日記024」で書いた『ディナモ・フットボール~国家権力とロシア・東欧のサッカー』(宇都宮徹壱、みすず書房:2002412)。これはね、難しかった。それに比べるとこちらは読みやすい。南アフリカ・ワールドカップの日記。詳しく現地で書かれたもの。タイトルには「ブラジルへ」と入っているが、これは最後にちょっとアジアカップのことに触れているだけでで、ほとんど全部、南アフリカ・ワールドカップのお話。本の原稿を仕上げるのに時間がかかっている間に、アジアカップで「あれよ、あれよ・・・」ってなことになったので、それを入れたというのが本当のところではないか?そんなことはどうでもいいんだけど、この本を読んでいるだけで、自分も南アフリカに行ったような気分になれる。あれからもう、9か月~10か月経つんだな。その間に日本は大きく変わってしまったが・・・でも、負けるなニッポン、がんばろうニッポン!

 


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(2011、4、15読了)

2011年4月21日 10:19 | コメント (0)

新・ことば事情

4354「日・ベトナム」

パソコンが重くなったので、古いメモを整理していたら、去年(2010年)10月22日のメモが出てきました。

 

「日経。一面、日・ベトナム共同開発。レアアース(希土類)日・ベトナム。昔なら、日越。越南。ただし9面では日越首脳会談と本文に出てくる。」

何について書いているかというと、

「日・ベトナム」

という表記についてです。昔なら、

「日越」

と書いたところです。「ベトナム」は、

「越南」

という漢字表記でしたからね。これって 発音に音を当てただけなんかなあ。「ナム=南」だし「ウェツナム」だったのでしょう。

でも日本経済新聞1面では「日・ベトナム」としておきながら、9面では、

「日越首脳会談」

という文章が出てきている。つまり表記は一定していないようです。

そういえば、20091112日(木)~13日(金)に高知市の高知新阪急ホテルにおいて開かれた新聞用語懇談会の秋季合同総会の席で、私はこんな質問をしていました。

「『日メコン首脳会議』という名称は、バランスが悪くないか?」

これについて、毎日新聞の委員からは、

「『日タイ』などという略し方もある、『日メコン』を『日メ』としたら、一体『メ』はどこなのかわからない。『日本』は『日』と略しても『日本』と分かるから略すのでは?」

そしてフジテレビの委員からは、

「『メコン』は既に略されている。正しくは『メコン川流域5か国』である」

という意見も出たことを思い出しました。

(2011、4、13)

2011年4月20日 19:17 | コメント (0)

新・ことば事情

4353「この際だから」

4月19日の読売新聞の言葉についてのミニコラム「日本語日めくり」では、

「この際」

という言葉を取り上げていました。

「何か特別な事態が生じ、それにどう向き合うかを述べるには『この際』がふさわしい」

ということのあとに、実はこの言葉、関東大震災の後にはやったということが、ジャーナリスト・宮武外骨の言葉を引いて説明されています。

実は私も2007年に出した拙著『スープのさめない距離~辞書に載らない言い回し56』(小学館)の中で、

「この際だから」

という言葉を取り上げています。宮武外骨の言葉は引いていませんが、それ以外の人の言葉を引いて「この際だから」が関東大震災の後に流行ったということを記しています。

どう書いてあるかは拙著をお読みいただくとして・・・と言っても、せっかく取り上げたのですから、ちょっとピックアップしましょう。紙面の都合で省いたものも入れて、こんな記述があったということで、ダイジェスト版で(ダイジェストの方が、本より長かったりして)

****************************************

1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災。死者9万9331人、行方不明者4万3476人、家屋全壊12万8266戸、半壊12万6233戸、消失44万7128戸、流失868戸。東京では全戸数の70%、横浜では60%が焼失した。

この災害後、被災者が復興を目指した時に、

「この際だから、これまでの生活のあり方を見直そう」

という運動があり、この「この際だから」が合言葉、流行語となった。

戸板孝二『いろはかるた随筆』(丸ノ内出版、1972=昭和47年)では「大正震災かるた」を取り上げている。これは震災から4か月後の1924(大正13)年の正月に売り出されたもので、文章は月の屋案とあり、月の屋という雅号の文人が考えたのだろうが、取り札は川端龍子(かわばた・りゅうし)が描いていて木版のきわめて格調高いものだという。その「こ」の札は、

「此際といふ新熟語」

として、当時「この際」という合言葉があったことを示している。戸板は「こういう時だからこそという意味で、すべてを略式にし、贅沢を戒める挨拶があったわけだ。」と注釈をつけている。この「震災かるた」については、雑誌『太陽』(平凡社)の1974(昭和49)年5月号「特集・大正時代」での特集座談会「大正よもやま話」では、随筆家の渋沢秀雄(1892=明治25年生まれ)、詩人の藤浦洸(1898=明治31年生まれ)、画家の益田義信(1905=明治38年生まれ)の3人が鼎談している中で、渋沢がこう触れている。

「地震の話になりますけれども、震災後、子どもが小学生だったんで、『震災カルタ』というカルタを取ったんです。絵は川端龍子先生が描いているんです。その中で一番印象が深いのは、奥さんが山高と中折を持っている。そして亭主の手が中折れを持っている。それで文句が『この際という新熟語』。震災があってから、すべて略式にしたんですよ、この際ですから、ということで。地震を契機として、すべてフォーマルなことが非常に簡略になったんですね。」

添田唖蝉坊『浅草底流記』(1930)の「仲見世の沿革」には、

「十九年竣工の赤煉瓦が、大正大震災に際して、西側大増寄り八戸を残して焼け落ちた。仲見世の一同は、九月四日、直ちに焼跡に仮建築をして営業に取りかかるべく申し合わせ、

(略)改築許可を乞ふと、市長は『この際』であるから指令を下すこともできぬから黙認するといふことになって、十一月にバラック出来(しゅったい)、営業を開始した。」

と使われ、奥野信太郎の『随筆東京』(1951)の中の「バラックと日本人」というエッセイで、奥野は、社会の習俗やものの考え方に大きな変革をもたらした災厄について、自らの経験の中からは関東大震災と戦災の二つを挙げることが出来ると述べて、

「わたくしの記憶しているところを一二拾つてみるならば、地震といふ一瞬の椿事で一切の社会的な差別がはづされてみると人々は急に一種の謙遜なこころをもつて事にあたるといふふうであつたので、たとへば一流花街の名妓たちもそれぞれ葦簀つぱりで、かひがひしくすいとん、しるこの類をつくつてみづから路傍の客に供し、誰しも会ひさへすれば合言葉のやうに『この際』といふ言葉をさしはさんで必ず平素の無音を謝したり、あるひはまた借金のいひわけをいつたりしたものであつた」

と流行を伝えている。(米川明彦『明治・大正・昭和の新語・流行語辞典』三省堂、2002=平成14年)

鶴見俊輔ほかによる『日本の百年5~震災にゆらぐ』(筑摩書房、1962=昭和37年)には、東京市役所と万朝報社共編による『十一時五十八分』(1924=昭和元年)の中の「東京市日本橋高等小学校調査」での項目「震災でおぼえた言葉」として、「戒厳令、救護班、自警団、配給品、暴利取締、罹災民、避難民」などと並んで「この際!」が挙げられている。そのほかに「おぼえた言葉」としては、「流言蜚語、仮建築、すいとん、恩賜金、帝都復興、バラック、焦土の都、アーケード、やっつけろ、不逞鮮人、巡回病院、マーケット、九死一生」などが上げられており、こういったキーワードを見るだけで、関東大震災後の様子をうかがい知ることが出来る。

また、関東大震災からわずか2年半後の1925(昭和2)年12月、財界人・原三溪(富太郎)らの力によって横浜に誕生した横浜の「ホテルニューグランド」にやってきたスイス人コック、サリー・ワイルは、「ここは、やり甲斐がある」と約20年間その厨房に立ち続け、総料理長として皇族を含めた多くのグルメを唸らせた。それまでコース料理しかなく堅苦しかった「日本のフランス料理」に「アラカルト」(一品料理)を持ち込んだり、ドレス・コードを緩めることでフランス料理を親しみやすいものにしたのは、ひとえにワイルの功績である。「ホテルニューグランド」からは多くの料理人が育ち、彼らがワイル仕込みの味とメニューを全国各地のホテルやレストランに広めたことで、日本の西洋料理界は飛躍的な進歩を遂げたといわれる。サイトの『横浜ホテルニューグランド 初代総料理長 S・ワイル』で、神山典士は、

「この時代、横浜では『この際だから』という言葉が流行ったという。震災をバネにより新しい事にチャレンジしようという市民の気概を示す言葉だ。ワイルもまた『この際だから』呼ばれた料理人だった。」と記している。(『有鄰』平成171210日第457号)

http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/yurin_457/yurin4.html

また、神山はその著『初代総料理長サリー・ワイル』(講談社、2005)の中で、当初ホテルの名前の有力候補に「フェニックスホテル」という名前があったのだが、それに対して、ホテル経営会社設立委員長で初代会長(社長)に就いた井坂孝が委員会で、

「フェニックス(不死鳥)という名前の会社はみな駄目になっていて縁起が悪い。このさい、ホテルニューグランドではどうか。」

と発言したと記しており、ここでも「このさい」が出て来る。これは『ホテル・ニューグランド50年史』(白土秀次)にも出てくる記述だ。『50年史』にはさらに、関東大震災からの復興を司る「復興院」設立の1か月後に作られた、最初の復興計画案について、

「復興事業立案の目的を『このさいは帝都将来の発達に備うるの計画を基準として、まづ焼失地域における復興を図る』ことにおき」

と出てくる。ワイル来日から80年余り。「この際だから」という言葉が、もしかすると日本における西洋料理普及の大きな原動力になったのかもしれない。

**************************************

ということで、今まさに「この際だから」という言葉が口を突いて出てくるような状況にあります。失ったものは大きいですし、二度と取り返すことのできない数々のものがあります。しかしその一方で、「この際だから」生まれる"新しいもの"もあるはずです。

 

(2011、4、19)

2011年4月20日 12:15 | コメント (0)

新・ことば事情

4342「すみれ草のアクセント」

 

3月20日のニュース。Iアナウンサーが火事のニュースを伝えていました。それによると焼けた老人施設の名前は、花の名前から取った、

「すみれ草」

でした。しかし、Iアナウンサーはこの花の名前(からとった老人施設の名前)を、「中高アクセント」で、

「ス/ミレ\ソー」

と読んだのです。2回も。私はそれを聞いて、「花」は「花」でも、

「すみれ荘」

というアパートの名前かと思ってしまいました。やはり「花」の名前としては、「平板アクセント」で、

「ス/ミレソー」

でしょうね。アクセントが違うとイメージが違ってきます。そういった例でした。

でも「すみれ草」と「すみれ荘」の「語呂合わせ」なら、「中高アクセント」でいいのかもしれませんが。

 

(2011、4、19)

2011年4月19日 20:14 | コメント (0)

新・読書日記 2011_054

『大相撲タブー事件史』(別冊宝島編集部編、宝島社:2009,1,1第1刷・2011、3、11第3刷)

 

おもしろかった。「八百長」はもちろん「ありき」の姿勢で書かれている。「別冊宝島」の形で2008年3月に出たものを文庫本にしたもの。ガチンコ相撲の人でも、まったく八百長をしないわけでもないことや、八百長にも、「いい八百長」と「悪い八百長」がある・・・というようなことが書かれているように感じたが・・・。これを全部信用するわけではないが、相撲好きの人はぜひご一読を。

(☆3つ半)


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(2011、4、5読了)

2011年4月19日 17:22 | コメント (0)

新・ことば事情

4351「『止める』は『とめる』か『やめる』か?」

4月4日福島第一原発で、低濃度の放射能に汚染された水を海に流す作業が始まったことを受けて、地元の漁協が、

 

「断固として海洋投棄は停止するよう強く抗議する」

 

という趣旨のファクスを東京電力あてに送ったと、4月5日の読売新聞夕刊に出ていました。ここで一つ問題。

 

「汚染水放出『めて』」

 

という見出し、本文では、

めてもらいたい」

とあり、これを、

 

めて」「めてもらいたい」

 

と読みました。下読みの時点で、

 

めて」

 

ではないか?と思って調べたところ、新聞では「めて」の場合は漢字(「止」)を用いず、平仮名で「めて」とすることになっていることから、これはめて」と読むのであろうと判断。担当アナウンサーにはそう指示しましたが、やはり「見出し部分」はちょっと違和感がありました。漁師さんたちは、

 

「汚染水の放めて=放めて」

 

と思っているのでしょう。「放水」であれば「めて」、「放出」であれば「めて」かなあとも思いますが、「逆でもOK」のような気もします。なかなか難しいです。

(2011、4、18)

2011年4月18日 21:22 | コメント (0)

新・読書日記 2011_053

『メディアと日本人~変わりゆく日常』(橋元良明、岩波新書:2011、3、18)

まず、日本人はメディアをどう受け入れてきたか、明治以降のその歴史から始まり、新聞→ラジオ→電話→テレビ→インターネットの浸透までを概観したあと、1995年から2010年までのメディアの利用実態の変化について述べている。そしてメディアの「悪影響」について、ネット世代のメンタリティーについて、最終章は「メディアの未来に向けて」という興味を持てる献立。

一番興味があったのは、第2章の「1995年から201年のメディア利用の実態」。これはグラフを使って、5年ごとの各メディアの利用時間の推移を示したもの。全体としては微減、右肩下がりであるが、目を引くのは10代のテレビ視聴時間の減少である。1995年の180分から、2010年には120分と、なんと3分の2になっているのだ!新しいメディアに触れる新しい世代が、いかに旧メディアから遠ざかっているかが、よくわかる。

それに対して50代は右肩下がりの視聴時間が、2005年を底に、2010年では増えてきている。60台・30台も微増で、40代・20台は右肩下がり。「年代によるテレビとの付き合い方の違い」が見て取れるのが興味深かった。

 


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(2011、3、31読了)

2011年4月18日 12:30 | コメント (0)

新・読書日記 2011_052

『プロアナウンサーの「伝える技術」』(石川顕、PHP新書:2011、3、1)

石川顕(あきら)アナウンサーといえば、TBSのスポーツアナウンサーの大看板だったのはもちろん知っているが、「そうか、もうそんなお年か」と改めて思った。(2001年に定年退職されていたんですね)

その後、年間250回を超える講演というのはすごい。シンボウさんと変わらないのではないか?知らないけど。

これは新人から中堅アナウンサーまで読むべき本だ。私も15か所以上、ページを折って「そうだったのか!」と思った。それ以上に「そうそう、その通り」と思った箇所があった。「とちったときの立ち直り方」は「その通り!やっぱりな」と思った。また、ブッシュ大統領の「つかみ」の見事さなど、は「ふーむ、なるほど、使わせてもらおう!」と思いました。うちのアナウンサーの後輩にも、是非読むように薦めます!


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(2011、3、30読了)

2011年4月15日 18:46 | コメント (0)

新・ことば事情

4350「棯さん」

「情報ライブミヤネ屋」で、東日本大震災で被災した宮城県の漁師さんにお話を伺ったVTR。その編集に当たっていたディレクターから質問を受けました。

「その漁師さんは『みのる』さんというお名前なんですけど、ご本人が『のぎへん』ではなく『木へん』に『念』と書いて『みのる』とおっしゃっているんですが、そんな漢字、あるんでしょうか?」

「ノギヘンではなく、木へんの『みのる』」?

つまり、

「棯」

こんな漢字ですね。見たことないなあ。もしかしたらご自分だけが使っている漢字では?と思いながら、『新潮日本語漢字辞典』を引いたところ、「木へん」に「念」という漢字なんと、ありました!

です。本来は、

「うつぎ」

と読むそうです。人名は、どんな読み方をしてもよい(ダメではない)ので、「棯」という字を書いて「みのる」と読む人がいてもおかしくないとは思います。

ただ「棯」は人名漢字でも常用漢字でもないので、そういった名前は戸籍には載せられないのではないかと思います。

本当は「稔」だが、戸籍係が書き写すときに間違えて、それが正しくなってしまった、ということは昔はよくあったそうですから、もしかしたらそういうことなのかもしれません。

「ミヤネ屋」では一応、「作字」してもらって、「木へんに念」

「棯」

で字幕スーパー(テロップ)を出しました。

 

(2011、4、13)

2011年4月15日 12:44 | コメント (0)

新・ことば事情

4349「義援金と現金」

ここ1か月、ニュースで毎日のように出てくる「義援金」。本来は、

「義捐金」

と書くのですが、「捐」の字が「常用漢字ではない=表外字」なので、新聞や放送では、同じ「音」を持つ常用漢字「援」を使って、

「義援金」

となっています。

その「義援金」ですが、「ぎ」「え」をはっきりと言わないと、

「現金」

に聞こえてします。

「義援金」=「GIENKIN

「現金」 =「G ENKIN

で、その違いは「ぎ」か「げ」か、ローマ字で書くと「I」の音が入るかどうかの違いであることがわかります。ですから、母音の「I」の音をはっきり口を横に広げて発音しないと「E」に聞こえて、「現金」になってしまうわけですね。しっかりと口を開くことは重要ですね、特にアナウンサーにとっては。

ま、大体「義援金」は「現金」なので、それでもいいと言えばいいのですが、そのまま直接「現金」と言うと、身もフタもない感じですしね・・・。

 

(2011、4、14)

2011年4月14日 20:42 | コメント (0)

新・ことば事情

4348「ありがとうございました」

4月10日の統一地方選挙を前にして、先週木曜日、「期日前投票」を済ませてきました!市役所の支所の入り口に設けられた四畳半ほどの狭い所に、職員が9人!みんなに見つめられての投票です。なんとなく・・・どころかモロに「監視」されていて、これはなかなか緊張してしまいます。それでもなんとか投票を終えたら、周囲の9人が一斉に、

「ありがとうございました!」

・・・これ、こういう場面では、

「ご苦労様です」

だと思うけどな。「ありがとうございました」って「コンビニ」じゃないんだから。国民の権利を行使、義務を果たしているだけだと思いますから。

それにしても、その昔初めて不在者投票に行った時は、市役所の本庁まで出向き、投票しようとしたら、

「なぜ、投票日当日に来られないんですか?」

と詰問調に理由を聞かれ、「仕事」と答えると、

「何時からですか?」

「・・・9時からですけど」

「じゃあ、仕事に行く前に投票できますね。朝7時から投票所は開いてますから」

と、そう簡単には不在者投票をさせてくれませんでした。

「でも朝、7時に起きて来られるかどうか、わからないので、今、したいんですけど・・・」

と言うと、

「仕方がありませんね。じゃあ、この理由の欄のところに、『朝7時から夜10時まで仕事のため』と、理由を書いてください」

と融通を利かせてもらって不在者投票はできたのですが、ウソを書いたことに後ろめたさを感じたものでしたが・・・。今は「旅行」とか「レジャー」でも不在者投票(期日前投票)ができるようになったんですね。隔世の感が・・・。

それなのに、投票率があんまり上がらないのはなぜでしょう?「期日前投票」をする人は増えているのに・・・。

(2011、4、12)

2011年4月14日 12:06 | コメント (0)

新・ことば事情

4347「肝が縮んだ」

ことしも大学が始まりました。

甲南大学での「マスコミ言語研究Ⅰ」の講義。2006年に始まったので、6年目になります。

先日の土曜日、今シーズン初講義の日は、雨が上がりかけの中途半端な天気でした。

講義を終えたときにはもう雨派上がって、すっかりお日様が差し込んでいました。

JR摂津本山の駅のホームに着くと、ホームの椅子が新しくなっていました。1年ぶり(正確には9か月ぶり)に来たのです。その椅子を見て、

「そういえば、この椅子に座ってコンビニのおにぎりを食べていて、ここに傘を忘れて芦屋駅で気付いて戻ったら、まだ傘があってホッとしたことがあったなあ・・・」

と懐かしく見ていたら・・・、

「あ!傘持ってない、忘れたあ!」

その瞬間、「おなかの上の方が、下から持ち上げられるような感じ」になりました。

 

しかし次の瞬間、

 

 

「そうだ、今日は最初から、傘を持って来てなかったわ!」

 

と。その時に、さっきの「おなかの上の方が、下から持ち上げられるような感じ」というのがまさに、

「肝が縮んだ」

状態ではなかったかと思いました。はなから傘を持って来ていなかったことを思い出したときに、

「縮み上がった肝は、スーッと下がって」

いき、元の位置に戻っていくのを体感しました。

「ほんとに肝って、縮み上がるんだなあ」

と、まさに実感。

と同時に、俺の肝って、小さいなあ・・・とも思いました。

(2011、4、12)

2011年4月14日 10:06 | コメント (0)

新・読書日記 2011_051

『神の雫28』(作・亜樹直、画・オキモトシュウ、講談社:2011、3、23)

 

3か月に1冊のペースで出ているんだなあ、この漫画の単行本。

いきなり出てきたのが、私が大好きなスペイン・ワイン

「ペトリュス」!

よしよし、という感じ。中ほどまで読み進んで、

「あれ?今回は『第9の使徒』の話は出てこないのかな?」

と思っていたら・・・出てきました、意外な展開とともに!

 


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(2011、3、31読了)

2011年4月13日 12:18 | コメント (0)

新・ことば事情

4346「であったりする」

『日本代表の冒険 南アフリカからブラジルへ』(宇都宮徹壱、光文社新書:2011220

という本を読んでいたら、 

『日々成長と変化を続けるマラドーナ監督は、私の中では岡田武史と並ぶ「今大会注目の指導者」であったりする。』221ページ)

という表現が出てきました。この文末の

「であったりする」

に注目しました。

「『今大会注目の指導者』である」

というように「断定」をなぜしないのか?著者は、

「私の中では」

と、「客観的な注目株ではない」ということまでわざわざ断っているにもかかわらず、断定しない。これは10年ほど前から出てきた若い女の子の、

「おいしいかも~」

「欲しいかもしれな~い」

というような表現と似ています。つまり、

「自分の気持ち・考えで、既に断定できるだけの気持ちがありながら、それをはっきりいうことをためらっている物言い」

だと思います。なぜ、そうなるのか?この文末を見てこう思いました。

「それは、『著者のテレ隠し』・・・であったりする」

のではないでしょうか?

2000年3月(なんと11年前!)に書いた「平成ことば事情97 いいかもしんな~い」も、読んでもいいかもしんな~い。

 

 

(2011、4、12)

2011年4月13日 09:54 | コメント (0)

新・ことば事情

4345「コレクティブとディシプリン 2」

 

去年の4月、ちょうど1年前に書いた「平成ことば事情3954」

「ディシプリンがありコレクティブにプレーする」

では、サッカー日本代表・前監督(当時)イビチャ・オシム氏の著書『考えよ!~なぜ日本人はリスクをおかさないのか?』(角川Oneテーマ21)の中で、

「コレクティブ」「ディシプリン」

という言葉が頻繁に出てきたけど、意味がわかりにくかったと書きました。

あれから1年。南アフリカワールドカップも終わってから9か月たって読んだ、

『日本代表の冒険 南アフリカからブラジルへ』(宇都宮徹壱、光文社新書:2011220 という本の209ページに、サッカー「アメリカ代表」の特徴として、「コレクティブ」が出てきました。 

「アメリカのスタイルとは、攻撃も守備も集団で戦うこと、そして手数をかけずに縦へ縦へと前進していく姿勢である。とりわけそのコレクティブなサッカーは、世界で最も個人主義が強いと言われるかの国にあって、非常に特異に映る。」

というもの。ここから意味を察すると、

「集団で闘う」「手数をかけず縦へ縦へと前進していく姿勢」

というのが「コレクティブ」だと読み取れます。もう少し読み進むと、もう少し説明がありました。(210ページ)

「中盤を非常にコンパクトにして、まるでバスケットボールのように目まぐるしいパス交換を駆使しながら、何度となくチャンスを演出していた。ただし、彼らの組織立った攻撃に対して、ガーナもまた統一感のある堅い守備で対抗。」

なるほど、

「バスケットボールのような目まぐるしいパス交換」

も「コレクティブ」のイメージなんですね、きっと。

ちょっとわかった感じです。

さらに読み進めると、なんと同じ210ページに「ディシプリン」も出てきたではないですか!アメリカと戦った「ガーナ代表」の特徴です。

「それにしてもアフリカ勢で、これほどディシプリン(規律)がとれた守備をするチームは、果たしてどれだけ存在するのだろうか。」

これは( )の中に「規律」と、意味を書いてありました。

アフリカのサッカーは、概して「ディシプリンがない」と言われますからね。ガーナ代表は、そうではなかったということですね。だから「ベスト8」に残れたんだな。

 

(2011、4、12)

2011年4月13日 03:50 | コメント (0)

新・ことば事情

4344「史上最大のハゲ幅」

先日、東日本大震災の影響で、株式市場が、

「史上最大の下げ幅を記録した」

と速報ニュースで伝えていました。その際に伝え手が、こう言い間違えました。

「史上最大の、は・・・下げ幅」

この「は」の後に何と言おうとしたのかを、「予測」して「再現」しますと、当然、

 

「史上最大のハゲ幅」

 

だと思います。もちろん「そう言おうと思った」のではなく、「そう言い間違う寸前だった」ということですが。

違いは「さ」と「は」の1字だけです。

なぜこんな言い間違いが起こりそうになったのか?

それは、「下げ幅」という言葉で、「下げ」の後には「幅」が続く。気持ちが急いでいたのでしょう、その「幅の"は"」が、先に出てきてしまって、「下げの"さ"」と入れ替わってしまったと推測できます。

サ行とハ行は、比較的入れ代わりやすい。そのことは「それなら」が「ほんなら」「それじゃあ」が「ほいじゃあ」などの例でもわかります。"ほ"ういったことも影響しているのかもしれませんね。

 

(2011、4、11)

2011年4月13日 02:35 | コメント (0)

新・ことば事情

4343「流出と放出」

4月4日福島第一原発で、低濃度の放射能に汚染された水を海に流す作業が始まったことを受けて、地元の漁協は「断固として海洋投棄は停止するよう強く抗議する」趣旨のファクスを東京電力あてに送ったと、4月5日の読売新聞夕刊に出ていました。

ここで一つ問題。

「流出」と「放出」はどう違うのか?

考えてみました。うーん、

*「自然に意図していないのに流れて出てしまう」のが「流出」

*「意図して流す」のが「放出」

ではないでしょうか。辞書を引いて見ましょう。『広辞苑』では、

「流出」=流れて外に出ること。(例)重油が流出する、頭脳の海外流出

「放出」=(1)はなちだすこと。ふきだすこと。ほとばしること。(例)エネルギーを放出する。(2)貯え持っている物資などを手放して外部に出すこと。(例)放出物資、チームの選手を放出する。

大体、思っていたとおりですね。「流出」は「流れ出る」ですから「自動詞」の趣が強いのに対して、「放出」は「放ち出す」ですから「他動詞」の色合いが濃い。つまり、「意図を持つかどうか」=「他動詞かどうか」というところに違いがあるのではないでしょうか。

念のため、『精選版日本国語大辞典』を引くと(用例は省略)、まず「流出」は、

「流出」=(1)液体が流れてでること。流れ出ること(2)水に流されて移動すること。(3)内部のものが外部へ出て行くこと。特に国内にあってほしい多くのものが、国外に出て行ってしまうことのたとえにいう。

(3)の意味の用例としては「頭脳の海外流出」が挙がっていますが、これの出典は『哲学字彙』(1881ということで、結構古くからある言葉だったんですね。最近の言葉かと思っていました。そして「放出」は、

「放出」=(1)ふき出すこと。あふれ出ること。(2)国や軍や団体がたくわえているものを、一般に提供すること。持っているものを手放すこと。

ということでした。

低濃度の汚染水の「放出」は4月10日に「ほぼ終了した」と、11日の朝刊が伝えていました。

 

(2011、4、11)

2011年4月12日 21:30 | コメント (0)

新・読書日記 2011_050

『危険な話~チェルノブイリと日本の運命』(広瀬隆、八月書館、1987、4、26第1版第1刷・1988、5、26・第1版第31刷)

こんなときだから原発や放射能のことを勉強したいと思い、家の書棚を探したのだけれど、原子力や放射能関係の本が出て来なかったのです。何冊かはあるはずなのに・・・と思いながらもう一度探すと、唯一目に留まったのが、この本。

広瀬隆の本は、当時(もう20年以上前)何冊か読んだけれど、そのうち読まなくなってしまった。しかもこの本は買ったけど、まだ読んでいなかった。奥付を見ると、なんと23年前に買っています。初版がで出て1年で「31刷」ということは、相当のベストセラーだったんですよね、チェルノブイリのあとで・・。

今、改めて「広瀬隆」を読んで思ったのは、どちらかと言うと「トンデモ本」に近いな、と。その理由は「推論の仕方が飛躍する」からです。たとえば「Aという事実がある、Bという事実もある」という場合、そこから先が「だからCなんですよ」と言うと、「なるほど」と思うのですが、著者の場合は「Aでしょ、Bでしょ、だから"Z"なんですよ!」と言っているような感じで・・・。おそらくこの本は、著者が各地で行っていた「講演」をまとめたか、その「講演の台本」となったものと思われ、ものすごく聴衆・読者を「あおる」ようなの表現が随所に出てきて、「ちょっとマユツバ」と思わざるを得ない箇所が見受けられました。たとえば「新聞の大きな見出し」だけをいくつも並べてレイアウトしているところなど、「週刊誌の扇情的な見出し」そのものです。「アジテート」しているとしか思えません。しかし、A・Bといった事実関係(放射性元素の溶融温度の表など)に関しては参考になりました。

 


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(2011、3、27読了)

2011年4月11日 18:52 | コメント (0)

新・ことば事情

4342「住人、10人」

4月7日の「ニュースゼロ」を見ていたら、こんなフレーズが。

「住人、10人ほどが」

文字で見るとわからないかもしれませんが、音で聞くと、つまりこういうこと。

「ジューニン、ジューニンほどが」

ということで、

「住人」と「10人」が同音異義語だということ。これは気をつけたいところですね。たとえば、

「住民、10人ほどが」

とした方がよかったですね。厳密に言うと、「住人と住民」は意味が異なる部分もあるかもしれませんが。

もちろん日本語は同音異義語が多いので、全部が全部ほかの言葉に置き換えられるわけではないですが、耳で聞いて間違いにくい形を考えることを、怠ってはいけないと思います。

(2011、4、11)

2011年4月11日 16:20 | コメント (0)

新・ことば事情

4341「正しく怖がる」

 

福島第一原発の事故に関して、

「見えない敵・放射能」

について、このところよく耳に、目にするのは、

「正しく怖がれ」

という言葉です。むやみに恐れることなく、しっかりと知識を持って判断しようということですが、なかなかこれは難しいことであるのも事実です。

そんな中、最近読み始めた、

『〈麻薬〉のすべて』(船山信次、講談社現代新書:2011320

という本の「はじめに」で触れている言葉に目が止まりました。

「ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしいことだと思われた。」

という一文。これは、

『寺田寅彦随筆集 第五巻』(小宮豊隆編、岩波文庫:194811201版・199962566版)

の中にある、浅間山の噴火に際して寺田が書いた随筆、

「小爆発二件」

の中に出てくるのです。これが書かれたのは、昭和10年(193511月。今から75年以上前に、こんなに正しく真理を言い当てている、さすが、

「天災は忘れた頃にやって来る」

という名言を生み出す発言をした人だなあと感服しました。それと同時に、人間って、全然進歩していないのかなあ・・・と少し悲しくなりました。

 

 

(追記)

414日の産経新聞の「寒蛙(かんがえる)と六鼠(むちゅう)」というコラムで、長辻象平さんという論説委員の人が、

「『正当にこわがる』難しさ」

と、まさに同じことを、同じ寺田寅彦の『小爆発二件』から引いて論じていました。まとめは、

「『日本人は災難を食って生き残ってきた種族』だと寺田は言う。今回も日本のたくましさを示そうではないか。」

と鼓舞して結んでいました。

                      (2011、4、19)

 

 

 

 

(2011、4、5)

2011年4月11日 10:20 | コメント (0)

新・読書日記 2011_049

「美術の核心』(千住博、文春新書:2008、1、20)

芸術一家・千住家の3兄弟の兄で、日本画家の博さんのエッセイ。

ここ数年、屏風絵などにも興味を示している私としては、興味深い本であった。と言っても3年前に買ってから、読みかけて放ってあったのだが・・・。

薄くて読みやすい本のはずだったが、やはり奥が深いためか、読み進むのに時間がかかった。

日本人は外国語をカタカナに置き換えて日本文化にしてしまうように、美術に関しても日本流に変えて消化するという能力がある、というような書き出しから、ついつい惹き込まれてしまいました。

 


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(2011、3、16読了)

2011年4月 9日 10:13 | コメント (0)

新・読書日記 2011_048

『TUNAMI 津波』(高嶋哲夫、集英社文庫:2008、11、25)

読売新聞の「編集手帳」で触れていたので、「たしか、うちの本棚にあったな、まだ読んでなかったけど」と思い出して、探し出してきて読み出した小説。なんと600ページもある分厚い文庫本。

もちろん小説だから「フィクション」だけど、こんな現状だから、とても「作り物のお話」とは思えない。胸が痛い。

 

 


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(2011、3、26読了)

2011年4月 8日 21:10 | コメント (0)

新・読書日記 2011_047

『中国、この腹立たしい隣人』(辛坊治郎・孔健、実業之日本社:2011、3、8)

シンボウさん、知らない間に、また本を出していた。本屋さんで見つけて購入。

東日本大震災の前に出たものだし、大震災の前に読み終わったのだが。

中国という、これからも付き合っていかないといけないけど、いろいろと付き合いの難しい国に対して、孔子の子孫である(!)孔健さんにいろいろ話を聞く、疑問をぶつけるという本。

でも・・・読んでいると「対談」している感じがまったくしない。一方的に投げかけた質問に対して、孔健さんが答えているような「すれ違い感」が・・・。その辺の疑問をシンボウ氏にぶつけてみたら、「ここだけの話だぞ」として、

「実は年末に4日間ぐらい缶詰になって"対談"したのだが、これg"対談"にならなかった」

と。それがどういう意味かは、ちょっと・・・でも、かなり苦労してまとめ上げた本のようです。その辺を嗅ぎ取ろうとして読むと面白いかも・・・。

 


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(2011、3、11読了)

2011年4月 8日 12:08 | コメント (0)

新・読書日記 2011_046

『「社交界」たいがい』(山本夏彦、文春文庫:2002、2、10)

電車の中で、週刊文春の小林信彦の見開き二ページのコラムを読んでから、この山本夏彦のエッセイを読んでビックリ!トーンが同じ。同じ人が書いたものの続きを読んでいるかのよう。二人とも「彦」が付くし。

山本夏彦のように、「世間」から距離を置いて物事を見ながら、しかも「世間」とつかず離れずという距離感をとるのは、フツウの人には無理なんだろうなあと思いました。

タイトルになっている「『社交界』たいがい」という長いエッセイは、僕はあまりおもしろくなかった。

 


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(2011、3、17読了)

2011年4月 7日 18:02 | コメント (0)

新・読書日記 2011_045

『流言とデマの社会学』(廣井脩、文春新書:2001、8、20)

「流言蜚語は、報道の形式を取った世論である。」

この本で著者はこう論じている。

10年も前(「9・11」よりも前!)に出た本だが、それまでもそのあとも、何かことが起こるたびに「流言蜚語」は繰り返されているのだ。今回の震災でも新しいメディであるインターネットやフェイスブック、ツイッター、ケータイメールなどで「デマ」が飛び交い、注意を促す"報道"もなされた。

一般的には「デマ」は悪意を持って意図的に流されるもの、「流言」は不安などが原因で、悪意の有無にかかわらず(ある場合は「善意」でもって)流される「事実ではない情報」である。そしてそれらはたしかに「報道の形」をとって、「一般の報道機関ではないところ」から伝わる。その「情報伝達メディア」として一番信用を置かれるのが「知人などの"口コミ"」である。

私が阪神大震災のあの朝、泊まり明け勤務でニュースを読む際に一番に心がけたのは、

「関東大震災での朝鮮人虐殺に繋がったデマのような情報は、決して流すまい」

ということだった。つまり、

「速報よりも、信頼性に重きを置く」

という姿勢だった。

また、

「紙の不足・統制は『言論統制』に繋がっていく」

という指摘は「そうなのか!」と思った。今、東北にあった製紙会社やインキ会社が被災して、「印刷物」が不足気味だと新聞で報じていたが、影響はないか?もっとも、現代においての「紙」は、「ネット」であり「テレビ」であるとは思うのだが・・・。

こんなときだからこそ、冷静に情報の取捨選択をする「メディア・リテラシー」を発揮しなくてはならない、と思う。


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(2011、4、1読了)

2011年4月 7日 10:58 | コメント (0)

新・ことば事情

4340「イカナゴ?コウナゴ?」

4月5日、茨城県沖のコウナゴ(イカナゴ)から、放射性セシウムが1キロあたり526ベクレル検出(暫定基準値は500)され、茨城県は、漁協に出荷見送りを要請しました。

前日4日には、北茨城市沖で取れたコウナゴ(イカナゴ)から1キロ当たり4080ベクレルの放射性ヨウ素131が検出されたと報じられました。

その魚の表記ですが、大阪の朝刊(5日)は、

(読売)コウナゴ(イカナゴ) ~見出しは「イカナゴ」

(毎日)コウナゴ(イカナゴ)

(産経)コウナゴ(イカナゴ)

(日経)コウナゴ(イカナゴの稚魚)

(朝日)イカナゴ(コウナゴ)

でした。『広辞苑』では、

「こうなご(小女子)=イカナゴの別称。またその佃煮などの加工品。」

「いかなご(玉筋魚)=イカナゴ科の海産の硬骨魚。体は細く槍形、全長25センチメートル。背部は青褐色、下腹部は銀白色。春、小さいのを捕って煮干・佃煮とする。俗にカマスゴという。夏には砂の中にもぐって休眠。北日本に多く、九州まで分布。小女子(こうなご)。」

とありました。

「平成ことば事情1075 イカナゴ」「平成ことば事情1665 キビナゴ」もお読みください。

 

 

(追記)

翌日4月6日の朝刊各紙は、

(読売)コウナゴ(イカナゴの稚魚)

(毎日)コウナゴ

(産経)コウナゴ(イカナゴの稚魚)

(日経)コウナゴ(イカナゴの稚魚)

(朝日)イカナゴ(コウナゴ) ~見出しは「イカナゴ」

で、前日と比べると、読売が、

「コウナゴ(イカナゴ)~見出しは「イカナゴ」」→「コウナゴ(イカナゴの稚魚)」

というように「日経新聞型」に変わり、毎日新聞も、

「コウナゴ(イカナゴ)」→「コウナゴ」

と丸カッコだった「イカナゴ」が脱落、産経は、

「コウナゴ(イカナゴ)」→「コウナゴ(イカナゴの稚魚)」

と「日経・読売型」になり、日経は「コウナゴ(イカナゴの稚魚)」と変わらず、朝日も、

「イカナゴ(コウナゴ)」

のままでした。「イカナゴ」を使っているのは「朝日」だけになりました。テレビ各社も、

「コウナゴ」

でやっていたようです。おそらく関東(茨城)では「コウナゴ」と呼ぶのでしょう。

なお、「ミヤネ屋」をはじめ読売テレビ・日本テレビ系列でも、

「コウナゴ」

でしたが、字幕スーパー(テロップ)をチェックしていたら、

「ユウナゴ」

と書かれていたので、あわてて、

「『ユ』じゃないよ、『コ』。『コウナゴ』だよ!」

と修正して、本番は大丈夫でした。アブナイアブナイ。

 

 

 

(2011、4、5)

2011年4月 6日 18:15 | コメント (0)

新・ことば事情

4339「トレンチ」

福島第一原発で、2号機のタービン建屋の外にある、

「トレンチ」

と呼ばれる溝に、高濃度の放射線物質を含む水が大量に溜まっていることがわかりました。

それを報じた3月29日の朝刊各紙の表現が異なりました。

(読売)トレンチ

(毎日)トレンチ

(産経)トンネル

(朝日)坑道

(日経)坑道(トレンチ)

「トレンチ」「トンネル」「坑道」の3種類の表現があるのです。

読売新聞の「トレンチ」の説明は、

「トレンチはコンクリート製で、機器の冷却や非常用の発電機などに使う海水を送る配管が複数通っている。」

というものでした。日本テレビ系列は、簡単な説明を加えて「トレンチ」を使いました。また330日のNHK朝9時のニュースでは、

『「トレンチ」と呼ばれる配管などを通す溝』

と、カギカッコを付けて説明付きの「トレンチ」を使っていました。

そもそも「トレンチ(trench)」には、

(1)(深い)溝、堀(細長い)くぼみ

(2)<軍>[しばしば~es]塹壕(ざんごう)

(3)<地理>海溝

という意味があります(「ジーニアス英和辞典」)。そして、「トレンチ」と聞いてすぐに思い浮かべるのは、

「トレンチコート」

ですが、これは実は軍事用語の「塹壕」から来ていると、何かの本で読んだことがあります。第一次世界大戦で登場した新しい兵器の一つに「マシンガン(機関銃)」があり、これを効果的に使うために掘られた溝が「塹壕」であると。そしてその塹壕に潜んでいるときに、寒さや雨に耐えるために作られたコートが「トレンチコート」だと。たしかそういう話でした。

『広辞苑』を引くと、

「(第一次世界大戦のときイギリス兵が塹壕内で着たコートから発展)ダブルでベルトつきのコート。」

とありました。しかし今回の原発事故のトレンチへの対策として、残念ながら「トレンチコート」は役に立ちそうにありません・・・。

 

(2011、3、29)

2011年4月 6日 12:13 | コメント (0)

新・読書日記 2011_044

『日本語教室』(井上ひさし、新潮新書:2011、3、20)

 

去年亡くなった井上ひさしさんの、生前の講演をまとめたもの。

「やさしい。ふかい。おもしろい。伝説の名講義を完全再現!」

と帯に書かれている。そんな授業を私もやってみたい。甲南大学での講義でも、この本を紹介しようっと。

この本の中から学んだことの一部。

~大江健三郎は「書物たち」という具合に、初めて無機物にも「たち」をつけたりした。

~大江健三郎は、オチンチンが縮こんでいる様子を「性器はどこもかも縮みこんで膨ら雀のように股座(またぐら)の屋根にちょこんととまっていた。」と表現したり、「セックス」ではなく「セクス」と表現したり、また「灼熱した鉄串のような男根」という表現も使った・・・なんだか「下ネタ」ばかりになってしまいました・・・。甲南大学の授業では使えないな、女子学生が多いから。

 

 


star4

(2011、3、28読了)

2011年4月 5日 21:50 | コメント (0)

新・読書日記 2011_-43

『「だましだまし生きる」のも悪くない』(香山リカ、取材・構成;鈴木利宗、光文社新書:2011、2、20)

香山リカの「半生」を、鈴木利宗というライターが聞きだしながら書いた・・・と言うか、なんでしょうか、雑誌の特集コーナーのような本。「香山リカ」という社会における「像」がどう出来上がってきたか、それが最後の方で「父の死」という大きな出来事も同時進行的に起こってきて・・・ということで、これまでの「香山リカ本」とは違った本でした。

 


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(2011、03、20読了)

2011年4月 5日 10:43 | コメント (0)

新・読書日記 2011_042

『津波被害~減災社会を築く』(河田恵昭、岩波新書:2010、12、17)

311日の東日本大地震のあとに本屋さんで見つけて購入。「ミヤネ屋」にもゲストで来ていただいた河田先生の本。なんと去年の12月に出ているのだが、その1ページ目に書かれていることは・・・昨年のチリ大地震に伴い、日本の太平洋岸各地でも「津波警報」が出されたが、実際に「避難」した人は、警報が出された地域の人口の数%に過ぎなかったと。こんなことをしていると、いざ三陸や東南海などで津波が起きたら、数万人単位の死者が出る、と書かれているのだ・・・。つまり専門家は(少なくとも河田先生は)危険性を指摘していたのだ。しかし、実際に人は動かなかった・・・。改めて津波の危険性を知る一冊。「もう遅い」のかもしれないが、「次」もありうるだけに、「今だからこそ」読むべき本だと思う。

 


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(2011、3、17読了)

2011年4月 4日 21:39 | コメント (0)