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#7312月4日(日) 10:25~放送
オーストラリア

 今回の配達先は、オーストラリアのゴールドコースト。サーフボードのシェイパーとして奮闘する熊谷充功(みつのり)さん(47)へ、愛知県で暮らす母・よりこさん(74)の想いを届ける。
 美しい白砂の海岸が約70キロも続き、サーファーたちの聖地ともいわれるゴールドコースト。町の南端・バーレイヘッズエリアにある「DHD Surf」は世界屈指のサーフボードメーカーで、充功さんはここでシェイパーとして働いている。DHDではボスであるダレン・ハンドレーさんがデザインを考え、職人が完全分業制で形にする。勤続18年になる充功さんは「シェイプ」という最も重要な工程を担当。シェイプとは、機械で葉の形にカットされた発泡スチロールのような板をひたすら手作業で削って、反りや湾曲を表現する作業のこと。お客さん1人1人の要望や体格、クセに合わせるため、ミリ単位以下の調整は手の感覚だけが頼りという職人技だ。そんなDHDの優れたボードは、世界チャンピオンに輝くプロサーファーを何人も生み出している。
 28歳のとき、全財産の70万円を握りしめ単身オーストラリアにやって来た充功さん。だがどこも雇ってはくれなかった。そこで暮らしていたシェアハウスの一角にサーフボードの工房を手作り。すると、その熱意あふれる姿を目にしたシェアメイトがDHDに声をかけてくれたという。3か月後、朝6時に突然呼び出された充功さんはぶっつけ本番でテストを受けることに。こうして入社後6年間はひたすらボードを磨く工程ばかり。それでも必死に食らいつき、ゴールドコーストに来て最初の4年間は日本に連絡すらしなかった。8年前には自身のブランド「KUMA Surfboards」を設立。朝はDHDで働き、帰宅後は自宅に作ったシェイプルームで作業と、1日12時間近くをサーフボード作りに捧げた。そして2020年、世界中のシェイパーが集まるコンテスト「Global Shaper Challenge」で見事、世界一の栄誉を手にした。これを機にKUMAには注文が殺到。多忙な日々をおくる中、それでも早朝と夕方は海に出ている。サーファー歴は26年になるが、新しいボードのアイデアは実際に波に乗らないと決して生まれない。シェイパーにとって波の上で掴んだ感覚こそが最も大切なスキルだという。
 現在は6歳の息子を持ち、立派に父親を務めている充功さんだが、かつては超が付くほどのヤンチャ坊主だった。高校は何とか卒業したものの職を転々とし、ようやくリサイクルショップで長く働くようになったある日、親友に誘われサーフィンを体験。初めて波に乗り「これだ」と思った充功さんは情熱だけを携え、英語も話せないまま見知らぬ土地でゼロから出発したのだった。
 無我夢中で修業し15年が経ったある日、父から初めて電話が。他愛もない会話を交わし、元気なことを確認して電話を終えたが、その夜に父が急逝。感謝を伝えることもできず、コロナ禍で葬儀に出ることも叶わなかった。そんな父が言っていた言葉が「好きなように生きろ」。「何でも後から身になる」という意味だったが確かに今、様々な経験が点でつながったと感じている。
 脳梗塞で体が不自由になった母・よりこさんは、現地に行ったことはないものの、今回“好きなように生きる”を実践する息子を見て「一生懸命頑張っているなってことは感じました」と安心する。高校の頃はヤンチャで手を焼き、海を渡った後も長らく音沙汰なし。それでも今の姿に、「良い方向に向かっているなと。うれしいですね」と喜ぶ。
 オーストラリアへ渡って18年。日本では何者でもなかった自分にカツを入れ、シェイパーとなって手掛けたボードで世界の頂点に上り詰めた息子へ、届け物は母が元気だった頃に作っていたトールペイントの作品。そんな趣味があることを知らなかった充功さんは、「母親もものづくりが好きだったんですね…」と驚く。また添えられた手紙には、実は離れてから寂しい想いをしていたという母の心情が綴られていた。「当時はオーストラリアの生活でいっぱいいっぱいで、家族の事を考える余裕もなかった」と充功さん。そして「今は自分にも子どもができて少しは親の気持ちがわかるようになったんですけど、やっぱり母親は偉大ですよね。頭が上がらないです」と改めて母に感服するのだった。