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2007年05月30日

2008年に会いましょう!

大泉 純子大泉 純子
読売テレビ放送 報道局 報道部記者

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上海生活の締めくくり
日本に帰ってきて、1年と1か月が過ぎました。思い起こせば、去年
の4月は「もう、引継ぎ」と称して連日連夜の宴会三昧。
「せめて最後にお食事を……」との申し出は果てしなく続き、夜だけ
では日が足りなくなってお昼まで。引越しの準備もギリギリまで放っ
たらかしにして、「惜別の杯」を交わしていました。

帰国にあたって多くの人から、「まだ帰りたくないでしょう」とよく言
われたものです。
私は、「いや、もうそろそろ一旦帰りたいですわ」と答えていました。
確かに、自分の経験からいって、「上海はそこそこ住みやすい都市だ」
と思います。でも、仕事の内容や立場によって人それぞれ……という
のが実際ではないでしょうか。私としては、とりあえず、「やりたかっ
たことはとりあえずできたかな……」とは思っていました。
赴任した当初は、駐在は3年のはずでした。2年が過ぎたころ、本社
から後任が決まったとの連絡を受け、そのときは「3年で帰るのは、
やっぱり早いなぁ……。何とかならへんかな」と思い、幾度か上司に
交渉を試みたものの、そう簡単に思うようにはいきません。
私の後任である山川現上海支局長は、当時、冤罪の疑いのある事件を
取材していました。
裁判の予定がどんどんずれ込み、とても最初に決めた2005年7月
の赴任は無理、ということになりました。「しめしめ、どんどんずれて
くれていいよ」と、小さくガッツポーズ。
その後、なかなか裁判が進まないので、2006年の3月末をもって
上海支局長は交替、事件は別の記者がフォローすることに一旦決めた
ところ、ギリギリになって決まった判決期日は3月20日。
一審の判決は無罪。結局、山川記者は「ドキュメンタリー番組」を制
作するところまでやり遂げて、『上海』にやってきました。私自身も、
自分の駐在期間が最初に決めたところから9か月近く延びたので、お
互いにスッキリした気持ちで仕事を引き継ぐことができました。
「帰りたくないでしょう?」と聞かれて、「いや。もうそろそろ帰りた
いですね」と答えていたもうひとつの理由。
子宮筋腫が悪化していたことでした。
『上海』に赴任してから2年後に受けた健康診断で、直径2センチほ
どの筋腫核が数個あることがわかりました。しかし、貧血や月経過多
といった自覚症状がなければ、放っておいてもいいとされる疾患です。
2005年の夏、私の駐在が延長戦に入ったころから、通常一週間ほ
どで終わる生理が、10日、2週間、それ以上続くようになってきま
した。「終わったかな」と思っても、血の塊が出てきたり、内装用品と
夜用の特大ナプキンを同時に使っても1時間持たなかったり……。
幸い貧血や腹痛はなかったので、仕事に差し障るまでには至りません
でしたが、ええ大人が経血で何度下着やベッドを汚したことか。この
情けなさは、女性ならご理解いただけるかと思います。
帰国したあと治療を開始して、結局開腹して摘出しました。
直径数ミリから最大5センチほどの筋腫核が32個出てきました。
「中国でたまった“垢”の塊だ」と思っています。
今は、すっかり元気です。


中国総局の全員に送られて
帰国を控え、連日連夜の大宴会。中でも、「こんなんありか!」という
忘れられない夜。
それは、2006年4月14日のことでした。
支局の仕事は取材がなければ通常17時でスタッフは帰ります。
その日もアシスタントやカメラマンが、17時過ぎには、「お先に失礼
します~」。
後から思えば、女性アシスタントは私の顔を見て、少し「ニヤリ」と
して帰っていきました。でもそのときは、それ以上は何も思いません
でした。
ちょうど、『北京』から中国総局長が出張に来られていました。
「恐らく、私が帰国するまでに会うのは最後になるだろう」というこ
とで、「食事をしましょう」ということにはなっていました。お店は、
上海なら上海にいる人が、北京なら北京にいる人が決めるのが一般的
なのですが、その日は、「ネットでよさそうな店を見つけたので予約し
ました」とおっしゃいます。
「へぇ、小林さんにしては珍しい……」と思いつつ、まずはマッサー
ジで疲労回復。
この日は日本から番組取材のクルーも来ていたので、彼らと、小林総
局長と、一緒に食事をすることにしました。お店に着き、個室に案内
されました。上海料理のお店で、いつも近くを通ってはいたものの、
実際に訪れたのはこのときが始めてでした。
料理はコースで頼んであるというので、ビールを注文し、グラスにつ
いでもらっているところで、携帯がなりました。北京でいつも世話に
なっている支局のドライバーの劉さんでした。
(以下、原文は中国語です。念のため)
「大泉!今何してる?」
「ちょうど今からご飯食べるところ。」
「そうか~。一緒に食べたいなぁ……」
「そうね、帰国までに北京に行けたらいいけどね」
「そうじゃなくて、今一緒に食べたいんだよ!」
「そんなん、無理やわ。」
「仕方ないな……。じゃ、今一緒に乾杯しよう!」
「いいよ~。ビール準備できた?ほな、かんぱ~い!」
とそのとき、壁が両サイドにがーっと開き、隣の部屋には劉さんをは
じめ『中国総局』の面々が!……。
「えー?何これ?どういうこと!?!?!?!?」
一瞬自分の置かれている状況がわからなくなりました。
北京から、宮崎記者、榊カメラマン、小林総局長の家族、榊カメラマ
ンの家族、張カメラマン、アシスタントの金さん、楊さん、万さん、
アルバイトの曹くんに曹くんのガールフレンド、お手伝いさんの石さ
ん、コックの宋さんまで……。「お先に」と帰っていったはずの、アシ
スタントの王蕾が笑っている。「やられた……!」。李さんも、王カメ
ラマンも。
ここで気を緩めたら泣いてしまいそう。「よーし!飲むぞ!!!」
ドライバーの劉さんは、「よしきた!」とばかりにジュラルミンケース
を取り出しました。中には、これまで幾度となく撃沈を余儀なくされ
てきた、“魔”のお酒、『白酒』の瓶がぎっしり!
「いや~梱包するのが大変だったんだよ!」
「わかった、わかった。飲みますから。」
一通り杯を交わしたところで、劉さんが今度は紙を取り出しました。
大泉のために、俺は詩を書いた。読むから、聞いてくれ。

春風吹緑京滬間   春のさわやかな風が北京と上海の間に吹く
衆桑捧酒降雲端   大勢の人がお酒を捧げに、雲の端へやってきた
二地三方浦江畔   上海と北京の中国人と日本人が黄浦江の畔(ほとり)に
挙杯聚会別大泉   集まって杯を挙げ、大泉とお別れをする
回望四年嫌時短   四年を振り返れば短く
更惜光陰此時歓   今が楽しければ、時間が経つのは尚更(なおさら)惜しい
泉帰東海潤両面   大泉は東の海へ帰り、日本と中国を潤す
諸君再見零八年   みんな、2008年にまた会おう
  
前菜の豆腐の甘辛煮と干した魚を食べたところまでで、私の記憶はぶ
っ飛びました。
本当にみんな、ありがとう。

後日談。北京のみんなの飛行機代と宿泊費は、小林総局長がポケット
マネーでまかなってくれたとのこと。本当にありがとうございました。
週末とはいえ、「北京をごっそり空にするなどあってはならないことな
ので、東京には内緒だった」そうです。「もう時効?」ということで、
書いてしまいました。ごめんなさい。
劉さんは、上海に来る数日前から、「お酒の梱包」と「詩」を作るのに
専念していたそうです。
ちゃんと仕事してください。

大泉の担当は今回が最終回です。これまでのご愛読ありがとうござい
ました。
まだまだお伝えしたいウラ話がたくさんあります。それはまた、いつ
かの機会に。

2007年05月29日

テレビの解説委員として

岩田 公雄岩田 公雄
報道局解説委員長(局長待遇)


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書くことの面白さを感じて1年
大学の『マスコミ講座』などで話をする時に、「新聞記者」と「放送・
テレビ記者」との違いについて述べることがあります。

「新聞」は「活字」と「写真」とからなりますが、圧倒的に大きな部
分を占めるのは「記事」と呼ばれる「活字」です。
「新聞」の強みは、「記述性」「論理性」「記録性」「検証性」「反復性」
などで、「社説」や「署名記事」などで「主観的な論点」から「意見」
を述べることができます。
一方、「テレビ」には「映像」と「音声」があります。「描写性」「迫真
力」に優れ、「速報性」「同時性」では「衛星」を使うことで、世界中
の出来事をオンタイムで伝えることができます。
しかし、「テレビ」は「感性のメディア」といわれ、「伝え手の感情」
が先行したり、「一過性」で終わってしまうことがあります。
また、「テレビ記者」は『放送法』で「政治的には公平・公正」求めら
れ、「偏った意見」を述べることが禁じられています。
また、『日本』では「新聞の歴史」が明治初年に始まり、約135年も
あるのに、「テレビ」は1953年に放送が始まったのですから、まだ
54年しかありません。しかも『民放』の多くは「新聞系」なので「取
材現場」では「新聞優先」という状況が続いてきました。
そんな「現場」で30年余も「放送記者」をしてきた私が、この1年
はこの『ニュースの裏側』という「コラム」を週2回書き続けてきま
した。
そして驚いたことは、実に多くの方がこの「コラム」を読んでくださ
っていることです。どこに行っても「読んでいますよ」という声に励
まされ、「書くこと」も楽しくなって続いていたのですが、6月からは
少し企画が変えられ、「コラム」というよりも、解説委員が交代で書き、
試聴者の質問にも答える「ブログ」になることになりました。
本当にご愛読ありがとうございました。


6月は『ドイツ・ハイリゲンダム・サミット』に行く
私の6月は、『ドイツ・ハイリゲンダム』で行われる『サミット』の取
材で始まります。
私の「サミット取材」は、98年の『イギリス・バーミンガム』から
始まり、翌年の『ドイツ・ケルン』を除き、今度で9回目になります。
それにしても「サミットの開催地」は、「リトリート=隠れ家方式」が
定着し、今度の『ハイリゲンダム』の“辺鄙さ”には驚かされます。
なにしろ『ドイツ』の北西部、『ポーランド』の国境に近い『バルト海』
に面した「海岸リゾート地」で、18世紀末に「貴族階級と上流社交
界の会合の場」として開発された町で、かつては『ロシアの皇帝家族』
が過ごす「夏の避暑地」だったといいます。
『東ドイツ』時代には、歴史的な建物が壊され、実用的な建物へと置き
換えられていましたが、『ドイツ再統一』後に再びリゾートとして開発
されたのです。
『成田』から11時間掛けて『フランクフルト』へ飛び、そこで乗り
換えて『ミュンヘン』に行き、さらに『クストク』という地方空港へ
飛び、さらに「ローカル線」に2時間乗ってようやく到着です。
この「ローカル線」は1時間に1本程度だそうですから、無事つけるか
どうか心配です。
6月9日朝の『ウェークアップ!ぷらす』では、現地から生放送します
から、楽しみにしていてください。
この『ハイリゲンダム・サミット』は、安倍晋三首相と『フランス』
のサルコジ大統領にとってはデビューになり、『イギリス』のブレア首
相は最後のサミットになります。
「世界の首脳の移り変わり」を自分の目で確かめて来ようと思ってい
ます。
『ハイリゲンダム』が“辺鄙”だと書きましたが、来年の『洞爺湖』も
世界地図には載っていないのではないでしょうか。

2007年05月28日

政局はいよいよ「参院選モード」に

岩田 公雄岩田 公雄
報道局解説委員長(局長待遇)


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「失われた年金」を争点に、“強気の小沢”
国会終盤の『社会保険庁改革法案』の審議の中で浮上した「失われた
年金記録」が、今年夏の『参院選』の「争点」になりそうです。

『社会保険庁』が管理する「年金記録」のうち、「持ち主が確定できな
いもの」が約5000万件にのぼることが明らかになったからです。
ある民主党幹部が「三振か、満塁ホームランか、大勝負だ!」という
ように、「年金問題」は“安倍政権を揺さぶる最大の武器”として取り
上げられることになりました。
これまでの「格差是正」が具体性に欠けていたのに対し、「宙に浮いた
年金問題」には“国民の腹立たしい思い”を集める可能性があるから
です。
それに、「与野党議員の年金未納問題」に始まり、小泉首相の「人生い
ろいろ発言」があった04年の『参院選』では、「年金問題」が争点と
なり、『民主党』が躍進し、『自民党』が敗北しました。
『民主党』にしては「年金攻防再燃」は、参院選の行方に直結するだ
けに大歓迎というわけです。
25日に65歳の誕生日を迎えた小沢代表は、前日に「日本地図の入
ったケーキ」と「スニーカー」を若手議員から贈られたこともあって、
久しぶりに“選挙に強い表情”を見せていました。
しかし「年金問題」が争点になり、3年前の“悪夢”になることを避
けたい『政府・与党』の動きには早いものがありました。
“数の力”で、『衆院厚生労働委員会』で『社会保険庁改革法案』の強
行採決しましたが、「対応策の構想」を発表しました。
それによると、秋の臨時国会に『議員立法による救済法案』に提出し、
「不明年金の支給に時効を外し、領収書以外の証拠でも年金を支払う
方針」なのだそうです。
これで、“国民の不安”が消え、『政府・与党』の思惑通り「幕引き」
となるかどうかは、これからの攻防になりますが、「争点」の一つが明
らかになったのは確かです。


「環境問題」を争点に、“新しい安倍”
一方、安倍政権は「環境問題」を「参院選の争点」にしたい考えです。
「改憲だけでは争点にならない」という党内の声は相変わらず強い中、
「環境問題」への関心の強いことを示して“新しい安倍”のイメージ
を創出したいのでしょう。
国際交流会議『アジアの未来』で発表された『美しい星50』による
と、『京都議定書』の「削減計画」が12年に終了をするのをにらみ、
「世界全体が参加する排出削減の新たな枠組みを創ること」を訴え、
「世界全体の温暖化ガス排出量を2050年度までに半減する」「国内
では“1人1日1キログラムの排出削減”を国民運動として展開する」
などを骨子としています。
勿論これは、来月『ドイツ・ハイリゲンダム』で開かれる『サミット』
で各国首脳に協力を呼びかけ、来年の『洞爺湖サミット』ではメイン
テーマにしようというものです。
これまで“強面・強い安倍”で「支持率の回復」を見せてきましたが、
“環境問題のトップを走る安倍”は狙い通り、「女性票・都会票」を掴
むでしょうか。
また『自民党』には、「税金の一部を出身地に納める」ことができる「ふ
るさと納税」も、「争点にしたい」という考えもあります。
これには「受益者負担の原則に反する」・「都会票に結びつかない」と
いう批判もあるので、すんなりと争点になるとは思えませんが、選挙
まで55日になり、与野党の「参院選モード」が少しずつ熱を帯びて
きました。

2007年05月23日

忘れられない取材

大泉 純子大泉 純子
読売テレビ放送 報道局 報道部記者

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「反日」の源は何か~~私の悲劇は再び~~
2005年4月16日……『上海』での大規模なデモが起きて以降、
『上海』に住んでいた日本人駐在員の思いは、大きく分けて2つあり
ました。

ひとつは、『中国が好きで、中国語を勉強し、中国を理解しようと努め
てきたけれど、何だか裏切られたようで気持ちのやり場がない』とい
うもの。もうひとつは、『中国なんて所詮わけのわからない国だと思っ
ていたけれど、やはりそうだった。もう中国は信じられない』という
もの。
私自身は、前者のほう……とはいえ、落ち込んでばかりもいられない
ので、原因を追究することにしました。
「中国人が日本を憎むのはなぜ?」「いつかちゃんと読まなくては」と
買ったままになっていた中国の近現代史や日中関係に関する本を読み
まくりました。改めて思ったのは、中国では小学校からちゃんと教え
られている「日本の侵略戦争の歴史」を、「私たちは習っていないよな
ぁ……」ということ。中学校の歴史の授業では、例えば、鎌倉幕府が
できた年は1192年だと覚えているのに「盧溝橋事件は何年の出来
事か、即答できますか?」。私自身でいえば、学校で習った歴史は、大
正デモクラシーあたりで終わっていて、先生は、「あとは教科書読んで
おくように」と言っていたような気がします。
とはいえ、今日はここで日本の歴史教育についてとやかく言いたいわ
けではありません。「反日のルーツ」を探るうち、行き当たったのは「中
国共産党」とはという問題でした。本物の中国の専門家からすれば、
たいそう的外れな発想かもしれませんが、とにかくそのときは、毛沢
東のルーツを探ってみたいという気持ちがどんどん大きくなってきま
した。
いろいろと調べていくうちに、6月の末、『湖南省・韶山』というとこ
ろで、『地元の共産党結成60周年』の記念イベントが行われることが
わかりました。『韶山』は、毛沢東の生まれ故郷です。取材を申し入れ
ると、難なくOKの返事。さっそく、現地へ飛びました。そして、私
の特派員生活で“最大の悲劇”に見舞われることになります。


もてなされて、つい失敗
『上海』から『湖南省・長沙』までは、飛行機で2時間弱。空港から
『韶山』までは車で1時間ほど。高速道路が整備されていて、楽勝で
現地に到着したのが午後2時ごろでした。
その日の予定は、夕方の歓迎夕食会と翌日から2日間にわたって行わ
れるイベントについての説明記者会見だけ。
その日はお昼を食べるタイミングを逸していたため、到着して「少し
お腹が減ったなぁ、カップラーメンでも食べようかな」……と思った
ものの、「ちょっと我慢すればそこそこ豪華な食事が提供される」と思
い、お茶を飲んで待つことにしました。
歓迎夕食会は、午後6時に始まりました。『中国共産党韶山市委員会』
の書記(=地元の最高幹部)をはじめ、地元の有力者がずらり。中国
メディアの記者が大勢出席する中で、外国のメディアは意外にも私た
ちだけ!スタッフと一緒に後ろのほうの席に座っていたら、一番前の
ViPテーブルに私の席が名札付で用意されていました。あらら。私
は、地元幹部に挟まれて上席につきました。
宴会が始まり、主催者の挨拶のあと、来賓の紹介。「こちらは、『読売
テレビ上海支局』の小泉女史です」。「あーもう、また間違えられた」。
後ろの席で、アシスタントとカメラマンが笑いをこらえていました。
大泉と小泉……何度間違えられたことか。お陰さまで、「小泉じゃなく
て、大泉です。私は日本の首相より大きいんだからね」というネタも
でき、多くの取材先で名前をすぐ覚えてもらえることができました。
小泉前首相に感謝しています。
話はそれますが、『純子』という名前で、「中国の人が一番よく連想す
る日本の有名人は誰でしょう?」……答えは、ドラマ『サインはV』
のヒロイン、小鹿純子です。
私の世代よりすこし上の人でないと、ピンと来ないかもしれませんし、
私もこのドラマをよく知りません。しかし、どうやら『中国』で一世
を風靡したもののようで、名前を一回で聞き取ってもらえないときに
「小鹿純子の純子」というと、「ああ」と理解されることがよくありま
した。
さて、宴会です。お昼ごはんを食べ損ねていた私はもうお腹ぺこぺこ
でした。テーブルの上に次々と運ばれてくる料理。「湖南料理」は中国
で一番“辛い料理”として有名です。辛さには全く抵抗のない私……
「どれから食べよう~」と浮かれていた矢先、中国名物「乾杯」攻撃
がやってきました。それもビールなんて生易しいものではありません。
「白酒=パイチウ」です。アルコール度数50度以上。ひとたび口に
含めば焼け付くような感覚と独特の匂い。「一気に喉の奥へ流し込む」
のがルール。両隣の人と一杯、同じテーブルの人たちと一杯。
会場でただ一人、外国メディアの記者である私は“貴賓”なので、別
のテーブルからも次々と「乾杯」を求める人たちがやってきます。
何杯飲んだかなんて、全く覚えていません。
中国の宴会には、日本でいう「中締め」の習慣がないので、お腹がい
っぱいになった人から、三々五々帰っていきます。次から次へと杯を
開けるうちに、私は3人の地元紙の記者と意気投合し、4人で「いろ
いろな話」をしました。「いろいろな」とは何かというと、何を話した
のかは全く覚えていないということです。4人で700ml入りほどの
「52度の白酒」の瓶をさらに3本開け、そのうちの2人はいつの間
にか席を立ち、気がつくと、ほかの参加者も皆おらず、私と地元新聞
のカメラマンとの2人だけになっていました。ホテルのレストランの
人から「もう閉めますよ」と言われ、その場を離れ、ホテルの中庭に
座ってまたいろいろと話を続けていました。アシスタントから、翌日
の取材の出発時間を確認する電話がありました。
そこで、私の記憶はプッツリと途絶えます。


お酒に強いはずだったのに
気がつくと、見慣れたようで見慣れない部屋。自分の部屋ではない・・・
アシスタントの顔が見えました。隣のベッドの上に、私の洋服がたた
んでおいてありました。点滴、鼻に酸素チューブ、心電図のコード。
ここまで確認して、私は事態を察知しました。
「あぁ、やってしもた……」。時刻は、午前2時頃でした。
付き添ってくれていたアシスタントをホテルへ帰し、その後は看護婦
さんが付き添ってくれました。不思議なことに、頭痛や気分が悪いと
いった症状は全くなく、何となく脱力感がするくらいでした。
看護婦さんによると、「心拍数が異常に低下していた」のだそうです。
「52度の白酒は、場合によっては2本で致死量だ」と聞いていまし
た。私と地元紙のカメラマンは、二人してホテルの中庭に倒れていた
そうです。ホテルの従業員が気づき、救急車で運ばれたのでした。
午後9時頃だったそうです。
朝になり、アシスタントから、「とりあえず私たちだけで取材に行きま
す」との電話。電話の液晶はきれいに割れていて、メモリーは使えな
いし、メールもできません。「何をしているのか私は……」と自己嫌悪
に陥っていると、すごい勢いで男の人が病室に入ってきました。
昨夜最後まで一緒にいたカメラマンでした。彼も一緒に倒れて、隣の
部屋に一晩入院していたのでした。私ほど症状が重くなかったようで、
「ほな、取材言ってくるわ!」といって元気よく出かけていきました。
看護婦さんが点滴を交換しに来ました。
猛烈に空腹感を感じたので、10元渡して、「何か食べるものを買って
きて」とお願いしました。しばらくして、彼女が戻ってきました……
片手に缶詰のお粥、もう一方の手にお釣り。そして、口にアイスキャ
ンデーを咥えていました。元気なら、「何という勤務態度!」と怒るか
もしれないところ、このときは笑いがこみ上げてきました。
点滴がなかなか落ちず、結局お昼過ぎに退院することができました。
会計に行って治療費を払い、「急性アルコール中毒」という診断書をも
らいました。「ああ、情けなや……」。
ホテルに戻ってしばらくすると、その日の取材を終えたアシスタント
とカメラマンが戻ってきました。「必要なものは撮れたと思う」という
ので、その日はホテルで休むことにしました。


人間万事、塞翁が馬
翌日、『毛沢東の生家』や『毛沢東の大きな銅像』にお参りする人たち、
『毛沢東別荘』で当時の様子がそのままに残る『滴水堂』などを取材。
「何とか一本リポートが成立する材料」はそろえることができました。
その日の夜……まだあまり食欲はなく、「スープとご飯ちょっとでいい
わ……」と思っていた私に、同席した地元共産党の幹部は、いきなり
私にビールを勧めたのでした。
彼は、私が病院に運ばれたいきさつを全て知っているはずです。
さすがに「きょうはお酒はやめておきます」と申し出たところ、「こん
なん、お酒ではない、大丈夫ですよ」、「大丈夫じゃないってば……」。
でも、コップに半分くらい飲んでしまいました。
「あーあ、何しに行ったのやら……」。
「中華人民共和国のルーツを探る取材だったはずなのに……」。
一緒に倒れた中国人のカメラマンとはその後も親交が続き、私が日本
に帰ることになったとき、「中国語を忘れないように」と大きな「辞書」
をくれました。
「人間万事、塞翁失馬=人生の吉凶・禍福は予測がつかない」……。
悪いことがあれば、いいこともあるのです。

2007年05月22日

団塊の世代の大量退職に思う

岩田 公雄岩田 公雄
報道局解説委員長(局長待遇)


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海外に移住する人も、再び学ぶ人も
「2007年問題」の一つ「団塊の世代の大量退職」が始まりました。
「団塊の世代」とは、作家の堺屋太一さんの造語で、「鉱物学」の「一
塊の単位」を「世代を表す言葉」として用いたことに始まります。

なにしろ『第2次世界大戦直後』の「1947年から49年に生まれ
た世代」は、毎年が約270万人で、全体では約800万人に及ぶと
いわれています。
私も49年生まれの「団塊の世代」の1人です。
これまでは、「その時がきたら考える」とのんびりしていたのですが、
先輩が次々と退職するに至って、「今後のこと」も考えざるを得なくな
ってきました。
私の周りの「退職組」は様々な進路を取っています。経験・ノウハウ・
技能を買われて、特別顧問・定年延長として会社に残る人や、同業他
社に再就職する人もいます。
また、『マレーシア』や『オーストラリア』など「海外に移住する人」
もいます。海外は生活費が安いので、「年金で十分だから」といいます。
『北海道』や『沖縄』など「国内に移住・定住」という声も聞きます。
そして意外に多いのは、「再び学ぶ」という人です。それも「資格を取
って再就職する」というのではなく、「若い頃から学びたかったことに
挑戦する」という本格派です。
「団塊の世代」は、「学齢期」の頃から膨大な数がいたので、教室は
「50人学級」のすし詰め状態で、教室不足を招いていました。また、
高校卒業時の大学進学率はまだ低く、「高度経済成長後期」とあって、
地方の若者は「就職優先」で都会に出て行った時代でした。だから、
“学ぶ”という夢を持ち続けてきた人が多いのです。
そして「2007年問題」には「定年離婚」という話がありましたが、
私の周りでは幸いなことに耳にしません。男どもは酒を飲むと、「今か
ら独りじゃ暮らせないよな」という呟きが出るのが現実ですが。
「大量退職時代」は、これからがますます激しくなります。


北海道の湘南・伊達市の場合
地方自治体には「団塊の世代を呼び込もう」という動きがあります。
私の故郷・『北海道』で進められている『北のふるさとへ、移住計画』
というのもその一つです。「団塊の世代」や「高齢者」に「北海道への
移住」を呼びかけ、「町おこしをしよう」という計画です。
『北海道』で69の市町村に「移住相談窓口」があるといいますから、
「北海道あげての計画」になっています。
しかし、『北海道』には“寒さ”という難問題があります。零下30度
にもなる暮らしというのは、生活した者でなければ分かりません。
確かに現代は、道路もよくなりましたし、除雪も行われています。
どの町にも「スーパー」があり、買い物の不便もありません。土地は
『内地(北海道では本州をこう呼ぶ)』に比べると何分の一の安さです。
“寒さ”さえ克服できれば、「北海道の暮らし」は悪くありません。
そんな中で注目されているのが、北海道南西部にある『伊達市』です。
その名の通り、明治初年に『仙台伊達藩』の支藩『亘理藩』の藩主・
伊達邦茂が家臣220人と入植した土地です。
南は『内浦湾』に面し、北の『有珠山』の向こう側は『洞爺湖』。道内
では最も気候に恵まれた土地で、“北海道の湘南”と呼ばれています。
早くから「欧米式農法」と「農産加工」を取り入れ、米・野菜・豆類・
アスパラガスを産し、畜産も盛んで、目の前の海からは豊かな海の幸
が採れます。
そして今、「移住地」として評価が高いのは、「雪下ろしのない町」と
いうことと、「歩いていけるところに役場・病院・銀行などの公共施設
や食事・介護付きの民間施設が揃っている」ということです。それに
「車で1時間30分の範囲に、ゴルフ・スキー・釣り・温泉と沢山の
行楽地がある」ということも、“団塊の世代の決め手”になっているよ
うです。
先ず『道内』からある家族が移住し、その親類・縁者が『内地』から
も引っ越してきて新しい地域社会が生まれ、「伊達は素晴らしい」とい
う評判が立ったといいます。
『北海道』では、「1万人の移住者があれば、数百億円の経済効果があ
る」と期待されているのですが、果たしてどうなるのでしょうか。

2007年05月21日

参院選まであと2カ月

岩田 公雄岩田 公雄
報道局解説委員長(局長待遇)


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メディア戦略・テレビ露出度・ブログ世論形成
昨日、『神戸大学六甲台キャンパス』で行われた『日本選挙学会』で、
パネラーを務めてきました。

私が出席したのは、明治大学の竹下俊郎教授が司会する『社会心理部
会』という分科会で、テーマは『岐路に立つ選挙報道』でした。
報告者は、埼玉大学の平林紀子さん・東京大学の大川千寿さん・ネッ
トジャーナリストの団藤保晴さんの3人。
平林さんは「米国の選挙のメディア戦略と報道」について、大川さん
は「日本における政治とテレビ――小泉政権のテレビ露出」について、
団藤さんは「ブログの世論形成力」について……つまり、「IT時代に
なっての選挙」についての報告でしたが、それぞれに新しい視点があ
って、“アナログ人間”の私にとって大きな参考になりました。
それにしても思うのは「小泉純一郎元首相は凄い人だったな」という
ことです。
「メデイア戦略」で言えば、先の総選挙(05年9月)では「郵政民
営化の賛否を問う」という戦略を打ち出し、「自民だけで296議席・
与党で327議席」という大勝を勝ち得ました。
「テレビ露出」は、総裁になる前から積極的で、95年9月の自民党
総裁選立候補から3度の「総裁選」で『ウェークアップ!』に出演し、
ナマ討論に応じてくれました。
また、総裁・首相になってからは「ワンフレーズ・ポリティクス」と
呼ばれる“わかりやすい一言”でテレビに露出しました。このマスコ
ミ報道を利用した“劇場型政治”は、“都市部の無党派”にも受けて、
あの勝利に繋がったのでした。
そして「ブログ」については、『小泉内閣メールマガジン』という形で
「内閣からのメッセージ」を送り続けました。
「IT時代の政治報道」を早くから取り入れていたことになります。


党首討論で見えなかった「参院選の争点」
先週の水曜日、今国会初で、半年ぶりの「党首討論」が行われました。
「今度こそワクワクするような本格的討論を」と期待したのですが、
どうやら肩すかしされたようです。
小沢代表は「教育・格差」などの問題にも触れ、「安倍首相の姿勢」を
質しましたが、首相は「改革の実績」を強調するだけで、討論はすれ
違ったままでした。
あれが“小沢流”というのでしょうが、「質問の前置き」が長く、「何
を聞きたいのか」が伝わってきません。もっと「何について」「何故聞
くか」をはっきりとさせるべきではなかったのではないでしょうか。
一方、首相には「先輩に負けない」という気負いが感じられ、語気を
荒げて“力強さ”を示そうとしましたが、内容は“物足りないもの”
でした。
「政治とカネ」の問題は全く触れられず、「憲法改正」と「格差問題」
も全く噛み合わず、とても「参院選の争点」であるとは思えませんで
した。
私は今の政局は「国会真空地帯」であると思っています。
安倍首相は「与党7割の衆議院」の強さを背景に“怖いものなし”で
すし、小沢代表は「参院選で与野党逆転」を実現することに対し“諦
めの境地”に見えるからです。
このままでは「国民の多くが“国政”に関心を失うのではないか」と
いう心配があります。
先日の『統一地方選挙』では、「30%台の投票率」というところもあ
りました。『フランス・大統領選』が8割を超える投票率だったことを
思うと、これ以上の“選挙離れ”が起こらないことを祈るばかりです。
『参院選』まで後2ヶ月になりました。
『安倍政権』も『小沢民主党』も、「メデイア戦略・テレビ露出度・ブ
ログ世論形成」で、もう少し工夫が必要なのではないでしょうか。
この週末、安倍首相も小沢代表も「地方行脚」を行い、「農民票争奪」
を展開していました。これでは“新しい風”が吹きそうにありません。

2007年05月16日

中国の反日運動4 ~反日デモの余波~

大泉 純子大泉 純子
読売テレビ放送 報道局 報道部記者

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特派員生活の中で最も忙しい日々
『上海』の「反日デモ」は、文字通り“嵐”のようでした。投石など
の激しい被害を受けた『日本総領事館』は、翌17日に領事館の敷地を
メディアに公開しました。

無数の石やレンガ片、ペットボトルに加え、すでに異臭を放ちつつあ
る卵やトマト。中にはどこから持ってきたのか木製の椅子。カラーボ
ールなのかインク瓶なのか、壁には一面前衛アートのようなペインテ
ィング。
大使館や総領事館、つまり在外公館は、「その敷地内を設置した国が管
轄する」と『ウィーン条約』は規定している。『上海』の『日本総領事
館』は、『上海』にあっても『日本』だということです。
そこへ向けて、石やらを投げつけるという行為の不躾さ……これ以上
解説はいらないでしょう。
「反日デモの原因は一体何なのか?」。当時も、今でも聞かれることが
あります。
「侵略戦争への根強い反感が心の底にあるのは事実だ」と思いますが、
その報復としてこんなやり方に、誰が納得しますか。デモの参加者が
口々に叫んでいたのは「愛国無罪!」。「愛国のためなら何をしてもよ
い?」……本気でそう思っているなら、あまりにも幼稚な発想。
「反日デモ」は、参加者は一時のストレス解消になったでしょうが、
図らずも、「礼儀知らずで、恥ずかしい姿を世界中にさらけ出しただけ」
と私自身は考えています。
とはいえ、それからしばらくは連日、早朝から深夜まで総領事館周辺
のようすを警戒し、精神的にかなりの緊張を強いられる日々が続きま
した。『北京』と『東京』から、さらに『読売テレビ』からも「応援の
クルー」が『上海』入り。通常の支局スタッフに加え、10人以上の人
間が取材に奔走していました。海外の支局のなかには、10人以上のス
タッフが日々動いているところもありますが、『NNNの上海支局』は
記者(私)1人にカメラマン1人、アシスタント2人にドライバー1
人、という最小規模の支局。この反日デモのあと3週間ほどが、4年
間の特派員生活の中で最も忙しい日々でした。


トイレに籠もって総領事館を撮影
連日「被害を受けた日本料理」店を取材し、あっという間にやってき
た次の週末。最も警戒すべき『日本総領事館』の周辺にはずら~りと
コンテナの列。領事館への道路が完全に封鎖されていました。
(今頃やっても遅いわ……)と思いつつ、このままでは領事館の外観
の撮影すらできません。
世界中どこでも同じだとは思いますが、私たちは撮影対象物が何かに
遮られて見えないとき、周りにある高い建物を物色します。『上海』の
総領事館の場合は、南側の『世界貿易センター』。繊維製品などの問屋
や展示場があるビルです。時間がある場合は、コンプライアンスの観
点からもビルのオーナーさんに取材趣旨を説明して許可をもらいます
が、このときはもう時間との戦い。一般客を装って中に入れた私たち
は、日本総領事館がうまく見渡せそうな5階か6階へ。ちょうど領事
館側に面した休憩所のスペースがあり、まずはここで少し撮影。
しかし、カメラを持って長く居座っていれば、警備員に見つかってし
まうのがオチ。ビルの中をしばらく巡回してみると、ありました……
トイレ。個室の中なら少々長居していても怪しまれずに済みますし、
「これはいい場所を見つけた」と思いました。今になって思い返せば、
「アホなことしとったなぁ……」とも思いますが、当時は真剣、かつ
必死でした。
結局この週末はデモはありませんでした。なければ「ニュースにする
必要はない」のが普通ですが、「デモはなし」というニュースが成立。
日本の人たちは、『上海』の動向に注目し続けていたのでした。
この週が明けた月曜日、4月25日……『JR福知山線脱線衝突事故』
が起こります。デモ発生前から2週間近く休みなく、ほぼ毎日トップ
ニュース……睡眠時間は少なく、「上海で起こるはずない」と信じてい
たデモが起こったショックから精神的にも参っていた私。朝ヨロヨロ
と支局に行き、NHKのニュースでJRの事故を知りました。


反日デモの首謀者はたったの16人
4月25日になって、上海市当局は突然、「反日デモの首謀者16人を逮
捕した」と発表。それまでまったく扱わなかった「関連のニュース」
を放送し始めます。4月16日当日の「領事館周辺の日本料理屋さんに
石やペットボトルを次々に投げ込んでは歓声を上げる大勢の人たち」。
「こんな映像撮ってたんや……」というのがまずは感想です。そして、
その中の幾人かの顔に○印が入りました。逮捕された人たちです。
何千人もの人が破壊行為を繰り返していたのに、「たった16人だけの
逮捕なんて、おかしいやん!!」……逮捕された人たちは、「中国の報
道」では一般的ですが、手錠に囚人チョッキ姿で、カメラの前で懺悔
します。「私は悪いことをしました。家族に申し訳ない、云々」その後、
デモのルートをネットに載せたという会社員の男性も逮捕されました
が、16人が逮捕された翌日には、大学生たちのグループがデモ当時の
様子の映像を見た後、「これは政府により禁じられた行為です」などと
インタビューに答えていました。結局上海のデモは「一部の反動分子
の仕業」ということで幕引きとなるのかと思うと、「もう脱力感を感じ
ずに、何を感じろというのか」という状態でした。でもこれが、「中国
の報道統制」の現実です。
その後、ニュースの出稿量が減ったとはいえ、『上海』の状況が変わる
わけではありません。
次に警戒レベルを上げなければならないのは、5月1日=メーデーで
した。「労働者の休日であるメーデー」から1週間は、中国でも日本と
同じくゴールデンウィーク。中国語では「黄金週」といいます。
お役所を始め多くの企業が休みに入るため、「デモや集会が行われる可
能性」が高まります。しかしこの日も、幸い大きな動きはありません
でした。


次は5月4日=『五四運動記念日』という噂
そして次は、5月4日です。5月4日は日本では当時『国民の休日(今
年からはみどりの日)』という暢気な祝日でしたが、中国ではいわゆる
『五四運動の記念日』です。1919年5月4日。第一次世界大戦の
『パリ講和会議』で「日本が出した中国に対する21か条の要求」が
認められ、これに反発して中国全土でデモや反日運動が起こりました。
いわば、近代中国における「元祖反日運動」……中国人は、5月4日
という日に特別な思いを抱いている人が多いのは事実です。
ここ1か月以上にわたって反日機運が高まる中、「ピークはやはり5月
4日ではないか?」という情報が実しやかに囁かれはじめました。
今回は『上海 』だけでなく、周辺の『蘇州・寧波』などで「デモ」の
うわさ。大虐殺の禍根が残る『南京』も要注意。『東北部』も危ない。
さらに「内陸部で日系スーパーがある都市の名前」がネット上に飛び
交っていました。検討の結果……「どこで起きたとしても、再び上海
で起きる可能性をケアするべきだ」ということになり、私は『上海』
でその日を迎えました。
領事館周辺はもの武装警察によるものすごい規模の警備で、(最初から
ちゃんとやってよ……)とあらためて思いました。しかも、カメラを
手に持っているだけで飛んできて、撮影を阻止、記者証まで取り上げ
られそうな緊張した雰囲気。
しかし、「こういう雰囲気であるというなかで顔出しリポートを撮影し
なければ意味ない」……こんなときに理不尽に拘束されたり、カメラ
を没収されるのはいつも以上に癪にさわるので、こういうときは知恵
比べで勝負です。領事館の東側数十メートル離れたところにオープン
カフェがありました。お店の中には私服の警察官がたくさんいます。
私は、ワイヤレスマイクを上着の中に仕込み、日本から応援に来てく
れていたカメラマンと旅行者を装ってコーヒーを買い、テラス席に座
りました。私の背後には、ガラスが割れ、カラーペンキだらけの領事
館。武装警察もしっかり立ってくれていて、背景としては申し分なし。
私は、「ちゃっちゃと喋ってその場を一刻も早く立ち去ろう」と思い、
できるだけ日本語を話すのを避けるため、カメラマンに「準備はいい
ですか?」と目で合図。カメラマンは位置を調整するのに少し椅子を
後ろにずらしました……と、そのとき、運悪く数センチほどの段差が
あって、カメラマンは椅子ごと後ろにひっくり返りました。幸い怪我
はなく、「怪我がないとわかる」とあとはもう笑いがこみ上げるだけ。
「いかん、ヤバイ。私、ただでさえゲラなのに」……カフェの中にい
た女性警察官が、「大丈夫?」という顔をして私たちを見ていました。
幸い、取材クルーであることはばれていないようです。こみ上げる笑
いを押し殺して、リポートを収録し、その場を離れました。前線基地
にしていた近くのホテルの部屋に飛び込み、大声を上げて、涙を流し
て笑いました。
結局、朝のアクシデントを除いて、平穏でした。5月4日を無事やり
過ごして反日デモ関連の取材はひと段落。
この年の「黄金週」は、こんな状況のもとでも『上海』で『世界卓球
選手権』が開かれていました。福原愛選手担当のスポーツ記者さんが
来ていて、結局連休いっぱい私もお付き合いして、ようやく私の生活
にもゆっくり寝られる日が戻りつつありました。


反日デモはいったい何であったのか?
あれから2年……破壊行為によって無残な姿となった『上海の日本総
領事館』は、今年に入ってようやく最後まで残されていた外壁の交換
作業が行われ、最終的に原状回復にむけて動き出したそうです。
土地はもちろん中国側のものですが、『北京の日本大使館』、『瀋陽の領
事館』同じような被害を受けたものの、『北京…瀋陽』の場合は建物を
中国外務省管轄の不動産会社が管理しているため、数週間で原状回復
がなされました。中国側が大家さんだったため、元に戻るのが早かっ
たわけです。『上海』の場合は、建物も日本のもの。原状回復をめぐっ
ては、「資材を取り寄せるのに手間がかかる」「資材の値段が高い」な
どといった理由で、私が駐在していたころからずっと上海市側ともめ
ていました。
結局、原状回復にかかった費用は4000万円とも5000万円とも
いわれています。その後、がくっと減った日本から中国への観光客、
ビジネスへの影響などもあわせると、反日デモの代償に値段をつける
ことはできません。
その後あるとき、『上海』でタクシーに乗りました。行き先を告げたあ
と、日本人の友人と電話で話しました。電話を切ると、運転手は即座
に「日本人か?」と聞きました。私の中に緊張が走り、「しまった……」
と思いました。「車を降ろされるのか?」「暴力を振るわれたらどうし
よう?」……。運転手は続けます、「日本人は礼儀正しいそうですね。
車の運転もとても穏やかで、中国人は見習わないといけません」……
「はぁ~……?」狐につままれたような感覚。
「反日デモは一体何だったのか」……いろいろな考えの中国人に会っ
て、「考えれば考えるほどわからなくなるのが中国」かもしれません。

2007年05月15日

政界再編への動きが見え出し始めた

岩田 公雄岩田 公雄
報道局解説委員長(局長待遇)


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参院選後を睨む動き
夏の『参院選』まで70日を切りました。
『自民党』も『民主党』も、「党を挙げて戦わなければならない時期」
にありながら、「選挙後を睨んだ動き」が見え隠れしています。

『自民』では、『古賀派』の古賀誠元幹事長と『谷垣派』の谷垣禎一前
財務相とが接近しています。
古賀氏も谷垣氏も元々は2001年の「森内閣打倒」を企てた『加藤
の乱』までは、加藤紘一氏を会長とする『宏池会』のメンバーでした。
『宏池会』は今、「反加藤」だった『古賀派』と『麻生派』と、「親加
藤」の『古賀派』との3つに分かれていますが、麻生太郎外相は「親
安倍」なので、『古賀派』と『古賀派』が連携して『中宏池会』となり、
「参院選後の政局“反安倍勢力”として行動しよう」という動きです。
『古賀派』は52名(衆37・参15)、『谷垣派』は16名(衆12・
参4)ですが、これが合併すれは、『参院選』で『自民』が敗れたら、
「ポスト安倍」として強力な存在になることは間違いありません。
また、『自民』には「新YKK」という動きもあります。「加藤紘一氏&
山崎拓氏」にもう1人の「ベテラン」が組んで、やはり“反安倍勢力”
として活動しようというものです。
さらに、脳梗塞のために療養を続けていた平沼赳夫議員も5カ月ぶり
に国政に復帰しました。同じく[郵政民営化]に反対した『国民新党』
の面々も、「参院選のキャスティングボードを握っているのは我々だ」
と「参院選後」を睨んでいます。
一方、『民主党』では、枝野幸男・憲法調査会長は、「国民投票法案で
与党と修正合意できなかったのは、安倍首相と小沢代表にある」と、
小沢代表を厳しく批判しました。
枝野氏は、前原誠司前代表や野田佳彦氏・松本剛明氏らと共に『民主
党改憲派』の1人です。小沢代表も古くからの「改憲派」でありなが
ら、「選挙のために、修正合意を拒否したこと」を許せなかったのでし
よう。
『民主党』は様々な「保守」と「革新」の“寄せ集め政党”ですから、
『国民投票法案』で一つになることに無理があり過ぎたのです。


どっちが勝っても負けても「政界再編」は起こる
「この夏の『参院選』で『自民』が勝つのか、『民主』が勝つのか」、
いずれにしても小差の決着になるものと思われます。
『民主』が勝てば、「政権交代」実現の第一歩になるでしょう。でも、
破れれば、『民主党』は解体し、小沢一郎代表の長年の夢だった「2大
政党時代」は大きく頓挫することになります。
『自民党』が勝てば、『安倍政権』は長命となり、安倍首相念願の「憲
法改正」も実現する可能性も出てきます。
「憲法改正」には、『衆・参』各院で3分の2以上の賛成で「改憲案」
が発議されなければなりません。
『国民投票法案』が成立しても、「各院の3分の2以上は無理」という
のがこれまでの定説でしたが、「自・公+X」で「参院の3分の2以上」
になるかも知れないのです。
『民主党』が解体すれば、安倍首相は『民主党改憲派』に働きかける
ことは間違いありません。
「自・公+X」の「X」は、この『民主党改憲派』を指しています。
その意味で、昨日成立した『国民投票法案』は、「ただの段取り」以上
の深い意味を持っているように思えます。


2007年05月14日

自民も民主も参院選に向けて本格始動

岩田 公雄岩田 公雄
報道局解説委員長(局長待遇)


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「改憲」にとどまらない“安倍色”を
今日、『国民投票法案』が参議院本会議で採決され、成立します。
「新しい憲法のあり方について議論していく時代になってきた」と、
「改憲」に強い意欲を示す安倍晋三首相は、これで『参院選』で持論
の「改憲」を訴えていくことになります。

しかし、「改憲」だけで、『参院選』を戦えるのでしょうか。
ある「世論調査」では、「改憲の必要性」を感じている人は58%もい
るのに、「安倍政権での改憲」は賛成40%に対し、反対42%です。
だからこそ、『参院選』で「改憲」を訴えたいのでしょうが。
連休明けの先週から、『自民』『民主』両党が『参院選』に向け、本格
的に始動しました。
「改憲」vs「格差是正」という両党の図式は変わらないものの、それ
に加える「争点探し」が始まりました。
共に「無党派層・女性票」に狙いをおいての動きです。
『自民党』は、新しい“安倍色”として、「地球温暖化・環境問題」や
「地方重視」も争点にする考えのようです。
『08サミット』の開催地に『北海道・洞爺湖』を選んだことやその
サミットの課題である「地球温暖化対策」を、「改憲」にとどまらない
新しい“安倍色”として訴えることにしたのです。
「安倍政権での改憲」で僅かながら反対派が上回っていることを意識
せざるを得ないのでしょう
そして「地方対策」としては、安倍首相が「地方視察」と「街頭演説」
を行うことを決めました。
それも「改選数ⅠのⅠ人区」を中心に行うというのです。
この「Ⅰ人区」は、小沢一郎・民主党代表が積極的に「地方行脚」を
続け、すでに2巡目を終えたといわれるところです。
「Ⅰ人区が『参院選』の勝敗を決する」といわれるだけに、『自民党』
も力を入れなければなりません。
いよいよ安倍首相が前面に出て「地方対策」に取り組む姿勢を見せるわ
けですが、「格差是正」を望む声の強い「地方」で、首相はどのような
「地方重視の施策」をアピールするのでしょうか。


「地方」だけではなく“都会の無党派層”も
一方『民主党』は、早くも『参議院選挙対策本部』を発足させました。
そして小沢代表の「“格差”だけでは抽象的だから、もっと深く掘り下
げないといけない」という声もあって、「参院選マニフェスト(政権公
約)」の素案を明らかにしました。
党内にも、「“格差是正”だけでは、“安倍自民党”に勝てない」という
見方が強くあったからです。
この素案は、「年金改革」「子育て支援策」「最低賃金」など、「対策」
を具体的に提示しているのが特徴で、さらに練り上げて、3つ程度の
「選挙スローガン」にするものと思われます。
また、これまで「1人区回り」を優先させ、「国会」を休みがちだった
小沢代表には、「国会軽視」という批判があったのですが、党内からの
「“国会での存在感”を示して欲しい」という声に応えて、今国会では
初めて「党首討論」を16日に行うことになりました。
「国政選挙に勝ってこそ、政権交代ができる」が持論で、今度の参院
選に政治生命を賭けている小沢代表も、「地方」だけではなく、「都会
の無党派層」を捉えるために動き出したことになります。
今年になってからの安倍首相は“安倍色”を強く打ち出し、内閣支持
率も上昇に転じさせています。これに対し“豪腕・小沢”がどのよう
な議論を仕掛けるのか、16日が楽しみです。
ここで自民党に対する「対立軸」が打ち出せたら、「参院選に向けての
政局」が面白くなるのですが。


2007年05月09日

中国の反日運動3

大泉 純子大泉 純子
読売テレビ放送 報道局 報道部記者

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上海で、突然無言のデモが始まった
2005年4月16日、早朝。中国は日本とⅠ時間の時差があるので、
日本時間の午前7時は中国では午前6時でした。まず向かったのは、
デモのスタート地点とされた『上海市』中心にある『人民広場』です。

そこには、太極拳を楽しむ市民の姿。普段と変わらない光景でした。
さらに、『外灘の革命記念碑』にも行ってみましたが、こちらも変わっ
た様子はありません。再び『人民広場』に戻り、少し離れたところか
ら様子をうかがうことにしました。
日本時間の午前8時すぎ……『ウェークアップ!』で電話リポートを
することになっていました。
「今のところ、目立った動きはありません」という内容でしたが、最
後に辛坊キャスターから「今は平穏ということですが、いつ状況が変
化するかわかりませんから気をつけて取材してください」とのお言葉。
「辛坊さんはすごいな」と思いました。事実、そうなりましたから。
一旦『人民広場』を離れて上海市の西のほうにある『日本総領事館』
の様子を見に行くことにしました。途中、『総領事公邸』にも寄ってみ
たところ、周辺をいつもより多い数の警官が警戒に当たっていました。
『総領事館』の周辺も普段と変わった様子は見受けられず、「どうした
ものか……?」と思った矢先に、『人民広場』に待機してもらっていた
アシスタントからの電話。「デモが始まりました!」
「えええええ!?」「何なの? どういうことなの!!」
急いで『人民広場』に戻りました。すでに交通規制が行われていて、
ものすごい人だかり。群集は広場からゆっくり歩き出していました。
奇妙だったのは、参加者たちが、「日本帝国主義を倒せ!」「日本製品
ボイコット」といったプラカードを掲げてはいるものの、誰もシュプ
レヒコールを上げることなく、ほぼ無言で歩いていたこと。不気味な
光景でした。
デモの先頭付近をアシスタントに着いていってもらい、私は広場から
市役所前の通りを渡って別の歩道に出ました。あちらこちらで数人か
ら数十人のグループがそれぞれに横断幕を掲げて出発の準備をしてい
ました。「SONY」のカメラを手にしていた日本の他局のカメラマン
が、「日本人だ!」といって袋叩きに合いそうになっていました。
(危な……)と思い、自分の持っていたデジカメの手に引っ掛けると
ころを裏返してSONYを隠し、「香港メディア」を名乗って参加者に
聞いてみました。「どうしてデモに参加するのですか?」若者たちは、
「我々の正義を示すためです!」と話しました。
私は、まだよく状況が飲み込めないまま、「とにかく昼ニュースに素材
を送らなければ……」とだけ考えていました。
人民広場から支局まで、タクシーなら10分位。しかし、一番大きな
幹線道路をデモ隊が行進していたため、タクシーをひろったもののほ
とんど動きません。途中で諦めて、猛ダッシュ。何とか昼ニュースに
は間に合いましたが、すでに通信社の映像も配信されていました。


無言デモから突然暴動に
この間、デモ隊は『日本領事館』へ向かっていました。『人民広場』か
ら『日本領事館』までは約8キロ。デモの開始から3時間……デモ隊
の先頭付近にいたアシスタントからの連絡で、「投石などの行為が始ま
った!」といいます。支局から領事館へ通常使う道路はデモ参加者で
埋め尽くされていたので、北側の道を遠回りして、デモ隊とは反対側
から領事館を目指しました。数百メートル離れたところで車を降りた
ら、領事館の周辺から地響きのような群集の唸り声……私はまだ状況
は把握できません。領事館の前には広い駐車場があり、なぜか警備は
手薄……警察は表側だけに集まっていたようです。
駐車場のフェンスを乗り越え、群集の腕を掴み、頭を押さえつけて進
むと、ようやく領事館の正面玄関の前に到達することができました。
私の頭の上を石が飛ぶ、ペットボトルが飛ぶ、怒号が飛ぶ……領事館
の前には武装警察が隙間なく立ってはいるものの、群集の行動を制止
しようとはしません。卵が飛ぶ、カラーボールが飛ぶ、大歓声が沸き
起こる。私の周り、360度全てが現場……阪神大震災以来の感覚。
普段なら日本総領事館の前ではカメラを構えただけですぐ武装警察が
飛んできて制止されます。なのに、この日は変……ただひらすら立ち
続けている武装警察に至近距離でカメラを向けても、彼らは表情ひと
つ変えないまま。「一体何が起こっているの?」
誰かが長い蛍光灯を持ってきました。近くの日本料理屋さんの看板を
壊し、中からもぎ取ったものです。それを投げようとして振りかぶる
と後ろにいた人の頭に当たり、その人は血まみれになっていました。
(アホや・・・)と思ったあたりで、気持ちは落ち着いてきました。
これはもう、ただの反日行動ではありません。完全に暴動です。
総領事館の正面玄関は通りから少し入ったところにあり、前の道路は
狭く、反対側へ抜ける道はすでにコンテナで封鎖されていました。
次から次へと人が押し寄せてくるため、だんだんすし詰め状態になっ
てきました。警察はようやく動き出し、私が通り抜けてきた駐車場へ
と群集を誘導し始めました。この時点で現地時間の午後2時ごろだっ
たと思います。誘導といっても前にも後ろにも動けないほどの人だか
りはそう簡単に捌けるものではありません。デモ隊はまだまだ押し寄
せてきています。四方八方から押しつ押されつしていると、私は警察
官に注意されました。「お前はデモに参加しているのに、なぜ日本のカ
メラを持っている!!」「あーはい、すいません」ヘタすれば袋叩きに
合うところ、周りの人々は異常に興奮していたので助かりました。


夕方のニュースへリポートを送る
『日本総領事館』の周辺は、日本人の多く住むマンションがあり、『上
海』で最も「日本料理屋」の沢山ある地区です。駐車場のほうへ流れ
たデモ隊は、領事館へ近づくことができなかったデモ隊の集団と別の
通りで合流し、周辺の「日本料理店」を次々と襲撃し始めました。
これらの様子は全てを目撃したわけではありませんが、支局のスタッ
フと北京から急遽応援に駆けつけてくれた仲間たちのカメラがしっか
りと捕えていました。
我も我もと石を投げつけ、ガラスが割れれば大歓声を上げる人たち。
まるでゲームセンターで遊んでいるような雰囲気。ある程度暴れたら、
「さぁ帰ろうか」といわんばかりにその場を立ち去る人たち……自分
たちが何をしているのか、きっとわかっていないのでしょう。怒りを
通り越して、ただ呆れるばかりでした。
そうこうしているうちに、「夕方ニュース」の時間が迫ってきます。
日本時間の午後6時からなので、伝送ポイントへの移動と編集時間を
考えると、タイムリミットは現地時間の午後4時……スタッフの取材
テープをかき集めなければなりませんが、この期におよんで携帯電話
が全くかからない。領事館周辺は普段から電波が規制されているのか、
デモのためなのかわかりませんでしたが、数百メートル以内にいるは
ずのスタッフがつかまらない。現場でのリポートを撮るのに、最悪の
場合は自分で自分の顔に向けてカメラを回せばいいのですが……そろ
そろリミットの時間というところで、奇跡的に一人のスタッフと合流
できました。「大泉さん、ここで日本語話すのは本当に危険です!」
「でもやらないと!“テイク1”で決めるからカメラ回して!」
しゃべりだすと、群集ではなく私服の警官が飛んできました。「取材を
規制する余裕があったらデモ隊を止めろ!」と心の中で叫びつつ、猛
烈ダッシュで現場を離れました。
少し離れたところでほかのスタッフにも連絡がつき、テープをかき集
めて伝送ポイントへ向かいました。
「現場の惨状の映像」と「顔出しリポート」を伝送し、「素材は以上で
す」と言うと、通常は「はい、お疲れ様でした」という返事が返って
くるものですが、そのときの担当者の怪訝そうな声。
「あれ、大泉さん、ボイスオーバーは?」……ボイスオーバーとは、
リポートの原稿を読むナレーション部分のこと。東京のデスクからは、
全編記者リポートで、というオファーが恐らくあったのでしょうが、
すっかり飛んでいましたし、もう物理的にムリでした。
「ごめんなさい。そこまで頭が回りませんでした。顔出し使ってあと
は原稿処理してください」。
しばらくして、デスクからの電話……「リポートでお願いしたはずで
すよね?」。さすがに逆ギレしそうになりましたが、悪いのは私。でき
ないなら早めに申告は仕事の基本。
伝送を終えて再び『総領事館』付近へ戻ると、あれだけ渦巻いて気勢
を上げていた群集はほとんど見当たりません。壊された看板やガラス
の破片、反日スローガンのビラ切れ端、燃えかす……スタッフの一人
が「ここは上海じゃないです・・・!」と呟きました。
日本人の私にとってはもちろん許しがたい出来事です。日本が好きで
日本語を勉強し、日本の企業に勤めているスタッフは、「この現状をど
う感じたのだろう?……」。まさに嵐が去ったそのまま場所で涙が出て
きました(スタッフには気づかれないように)。
今でも、あの光景を思いだすと泣けてきます。「これは一体何なの?」。
「反日デモ」余波は続きます。


2007年05月08日

『ニュースの裏側』が1年建った

岩田 公雄岩田 公雄
報道局解説委員長(局長待遇)


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「政局」はおもしろくなったか
『ニュースの裏側』という「コラム」を書くようになって、ちょうど
1年になりました。この1年を振り返ってみましょう。

去年の「5月8日」は、『今、政局がおもしろい』と題して、“宿命の
ライバル”と言われた「小泉純一郎vs小沢一郎への期待」を書いた
ことを覚えています。
「偽メール事件」で代表を降りた前原誠司氏に代わって登場した小沢
一郎代表は、『千葉7区補選』で「民主党候補」を当選させて、「選挙
に強い小沢神話」を復活させた直後でした。
これで『民主党』は“存在感”を強めると思ったのですが……。
9月、『自民党』は予定通りに小泉純一郎総裁から、安倍晋三総裁に替
わり、“戦後生まれで初めての52歳の首相”が誕生しました。
先ず、「訪中・訪韓」を行い、「東アジア外交」を再構築し、その訪問
中に起こった「北朝鮮の核実験」に対しても『国連』での強い姿勢を
示し、70%を超える支持率を集めました。
しかし、最初の頃は「美しい国づくり」ばかりを唱え、なかなか“顔”
が見えず、「郵政民営化反対議員の復党問題」あたりから、支持率が下
がり始め、40%台まで落ちました。
『自民党』内に「安倍で大丈夫か?」と、早くも“ポスト安倍”の動
きが見えだしたのも、この頃です。
一方、『民主党』も9月の『臨時党大会』で、小沢代表を無投票で再選、
鳩山由紀夫幹事長・菅直人代表代行の“トロイカ体制”で、「07年夏
の参院選」に臨むことになりました。しかし、その直後に小沢代表は
体調不良を訴えて一時入院……「健康問題」が心配されました。
『公明党』も9月の『党大会』で、太田昭宏幹事長代行を無投票で代表
に選任しました。「言うべきことは言う、『連立第2期』にしたい」と
いうのが、太田代表の初挨拶でした。
『自民党・民主党・公明党』のトップが新しくなって、“新しい政局”
が期待されたのですが……。


参院選で与野党逆転はなるか
明けて参院選と統一地方選挙が重なる「亥年選挙の年」になりました。
小泉前首相から「支持率なんか気にするな」という“鈍感力”発言を
得てから、安倍首相は“強い安倍”に転じ、支持率は5割を回復しま
した。
『衆議院』で「自公・337議席」を持つ強みで、『07年度予算案』
も『国民投票法案』も次々と『衆議院』を通過させました。これから
の「国会後半」でも、この勢いは続くものと思われます。
そして、これを許す『民主党』に「しっかりして欲しい」という声も
起こっています。
「参院選で“与野党逆転”を!」と言い続ける小沢代表が、「国会」を
休み、「党首討論」も無視して、「地方行脚」を続けているからです。
「その効果はどうか」というと、『統一地方選』を見る限り、『知事選』
でも『参院補選』でも、無党派層を集める“そのまんま東現象”は起こ
らず、予想通りの結果になりました。
ただ、『参議院』で与党が過半数を保つためには64議席が必要ですか
ら、与党にとっては厳しい選挙になることは確かです。
いずれが勝っても、『参院選』後は大きな「政界再編」になると思いま
す。これを解説し、報じることが私の役目でしょう。
また、この1年、『北朝鮮問題』についても多くを書いてきました。
『北朝鮮』には、91年に『日本ジャーナリスト取材団』の一員として
入国し、その翌年、『平壌』から世界初の「3日間連続生放送」をした
私としては、もう一度「北朝鮮からの生放送」を実現したいと思ってい
るだけに、「北朝鮮の動き」から目を離すことができません。
先月25日の「ミサイルを連ねての軍事パレート」から見ても、『北』
が「核」を放棄するとは、とても思えません。
これからも『北朝鮮』について、目を離さずいたいと思います。
『ニュースの裏側』は1年が建って、6月からはこれまでの「コラム」
から、少し形を変えることを検討中です。
新しい形になっても、ご贔屓の程をよろしくお願い致します。

2007年05月07日

報道記者の“一期一会”について

岩田 公雄岩田 公雄
報道局解説委員長(局長待遇)


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17人の新入社員が入社
『讀賣テレビ』にも新入社員が入社しました。
今年は17人……アナウンサーが1人、技術職が3人。残り13人の
多くは制作志望ですが、中にはイベント企画や営業・総務という人も
いて、「報道記者」志望はたったの2人でした。

なにしろ彼らの殆どは『日航機墜落事故(1985)の年』に生まれ
た人たちですから、「テレビ=報道」という思いは少ないようで、報道
記者OBとしては、ちょっと寂しい感じもしました。
「研修会」で先輩として一言訓辞を述べたのですが、今年のテーマは
「報道記者の一期一会」。
「一期一会」は、今では「一生に一度しかない出会い」とか、「一生に
一度限り」という意味で使われることが多いのですが、元々は千利休
の高弟・山上宗二の「一期に一度の会」という「茶の湯」の言葉で、
「茶会は毎回“一生に一度”という思いをこめて、主客とも誠心誠意、
真剣に行うべきだ」と説いたものです。
報道記者にとって、「毎回“一生に一度”という思いをこめて、誠心誠
意、真剣に行うべきだという“一期一会”こそ最も大事なものだ」と
思っていることを、若い人たちに伝えたかったからです。
事件が起こると報道記者は現場に駆けつけます。
テレビ局の報道記者は「カメラ」という有利な武器を持っています。
“映像”と“音声”を四六時中、世界中のどこからでも、“ナマ”で伝
えることができるのです。これを活かさなければなりません。
また、“情報”を得るためには、記者と対象者の間に「彼我の関係」が
生じます。ただ“情報”を得る時でも、インタビューして“特ダネ”
を手に入れるためにも、「一期一会」で築き上げた“人間関係”が大切
になります。
私が『大阪府警記者クラブ』の担当になったのは30歳の時で、その
5年後の84年3月、「キャップ」を勤めていた時に、『グリコ・森永
事件』が起こりました。
私が「一期一会」の大切さに気づいたのは、この『グリコ・森永事件』
を通してでした。


夜討ち・朝駆けも“一期一会”で
報道記者の取材活動には「夜討ち・朝駆け」というのが欠かせません。
「夜討ち」は「夜遅く=深夜に取材に行く」ことで、「朝駆け」は「朝
早く取材に行く」ことです。
『グリコ・森永事件』の時の「夜討ち」の対象は、鈴木邦芳・大阪府
警刑事部長でした。「本部長や刑事部長に取材できるのはキャップ」と
いう決まりがあったので、私は毎夜『大阪・都島区』にあった官舎の
前に詰めました。
しかし、「夜討ち」は「新聞社優先」です。「新聞」には「朝刊の締め
切り時間=am1:30~2:00」があるので、「テレビ」はその後
ということになります。
あの日は最後の新聞記者が特に遅くなり、玄関を出てくると、玄関の
灯が消えました。「これは困ったぞ……」と思いながら、玄関に近づく
と、中から誰かに電話している部長の声が聞こえます。思い切って戸
を叩き、「讀賣テレビの岩田です」というと、「何だ、今頃!でも入れ!」
といいながら戸を開けてくれたのです。
この時、私が感じたのは、「今日は岩田の顔を見なかったなと待ってい
てくれたのではないか」という思いでした。鈴木部長は口の堅い人で、
“特ダネ”を貰ったことはありませんが、『かい人21面相』が「くい
もんの会社いびるのもうやめた」という終息宣言が出た翌年8月まで
「夜討ち」を続けました。
そしてこの時の「朝駆け」は、『西宮』の『江崎グリコ』の江崎勝久社
長宅でした。
「夜討ち」から自宅に帰り、3~4時間寝て、社長の出勤時間までに
社長宅前へ。ともかく「おはようございます。讀賣テレビの岩田です」
と声を掛けて、顔を覚えて貰おうという作戦でした。でも社長は無言
のまま、車へ乗ってしまいます。
そんなことを繰り返して1ヶ月ほど建ったある朝、カメラを前に出し、
マイクを持って「何通目かの脅迫状が来たことの感想」を求め多とこ
ろ、立ち止まり、私の目を見て、「できればこういう犯行というのは、
もうこれで止めて欲しい」と呟くようにお答えになりました。
解放後に捉えた「江崎社長の初めての肉声」で、「昼のニュース」のト
ップを飾りました。
これも「一期一会」を大切にしたスクープだったと思っています。
『かい人21面相』の終息宣言が出たのは、『日航機墜落事故』と同じ
日ですから、今年の新入社員の生まれた頃ということになります。

2007年05月02日

中国の反日運動2

大泉 純子大泉 純子
読売テレビ放送 報道局 報道部記者

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インターネットの書き込みが煽った
2005年4月3日(日)に起きた『広州』の「反日デモ」は、日本
をはじめ海外のメディアには広く報道されたものの、『中国』国内では
新聞・テレビ共に全く“無視”していました。

唯一取り上げていたのは一部のインターネットのみ……しかし、この
インターネットで伝えられるというのが、中国では一番広く、多くの
人に知れ渡る手段と言えます。
中でも、いくつかの「反日団体」を名乗るグループのサイトでは、B
BSの「書き込み」が急に増え始めました。
「書き込み」の内容は、「デモ」や「日本料理店の襲撃」と「日本製品
ボイコット」などを支持するものがほとんどだったと記憶しています。
『広州』のデモのあと、平日の間に増えた書き込みの中で注目すべき
内容は、「次はどこだ?」でした。
いくつかの地方都市に加えて、『北京』でのデモ予告がありました。
「北京でのデモ」は実際に取材したわけではないので詳細は省きます
が、およそ5000人の市民が参加し、日本料理屋が数軒襲撃されま
した。デモ隊は最終的に『日本大使館』に向かい、石やペットボトル
などを投げつける騒ぎに発展しました。
「外国公館」はその敷地内は「外国」なわけですから、参加者の行為
は常識を逸脱した暴挙と言わざるを得ません。暴力行為はもちろん、
集会やデモ自体が中国では認められていないのです。しかし、今回は
中国国営の『新華社通信』がニュースを配信しました。ごくごく簡単
な内容で、日本大使館が襲撃されたことなどには触れられていません
でしたが、『新華社』が報道するということは、「デモを国が認めたと
いうことなのか?」という憶測を呼ぶ結果となりました。
『広州・北京』と中国3大都市のうち2か所で大規模な「反日デモ」
が起きました。ネットのBBSでは「なぜ上海ではデモをしないの
か!」「今こそ上海の威信を示そう!」といった書き込みが見られるよ
うになりました。一部には、「上海は国際経済都市であるから、デモな
どのみっともない行為はよくない!」という意見もあるにはありまし
たが、多くはデモ肯定の意見。書き込みが増えるに連れて、上海在住
の日本人の間には不安が広まっていきます。


上海でも反日デモが起こるという噂
次の週末は外出禁止令を出したり、家族を一時帰国させたりする企業
もありました。
『日本総領事館』と『上海』に駐在する企業の代表者が集まり、「安全
対策会議」なるものも行われました。しかし、会議を開いたところで
デモに関する確たる情報もなく、在住邦人の間には“掴みようのない
不安”が募るばかり……果たして、「上海でデモが起こるのか、起こら
ないのか」。マーフィーの法則(古すぎ?)に則れば、確立は50%。
私自身は、希望的観測を込めて「ない」と信じようと自分に言い聞か
せていました。
4月14日、私の携帯に「上海市公安局からメール」が送られてきま
した。「法律の規定により、デモをするには許可が必要です。市民の皆
さん、秩序を守り、理性的に、合法的に愛国の気持ちを表しましょう。
法律を遵守し、秩序を維持し、正当なやり方で愛国の気持ちを表しま
しょう(原文は中国語)」……言うまでもなく、BBSで盛り上がって
いるデモを封じ込めようという「御触れ」です。携帯電話の会社によ
ると、「市民に無作為で送った」とのこと。
周辺の記者仲間や友人に聞いてみたところ、結果的に半分くらいの人
が同じメールを受け取っていました。
記者にとってはこれも大事な「ネタ」です。公安当局がデモを未然に
防ぐため、かなり神経質になっていることが伺えます。
一方で、『上海市政府』の定例会見では、「上海でもデモが起こると噂
されているが?」との質問に対し、スポークスマンは胸を張ってこう
答えました。
「デモを行うには、3日前までに公安当局に届けを出し、許可を受け
なければならない。現在までに我々はそのような情報を得ていない。
我々は上海に暮らす全ての外国人、外国企業の安全と利益を守る」と。
「デモはあるのか、ないのか」……考えても答えは出ません。ないと
信じたい。しかし、BBSの書き込みには、「外灘の『革命記念碑』か
らスタートらしい」「人民公園に午前8時に集合するらしい」などと、
具体的な情報が見られるようになりました。
ただ、どれも「又聞きの又聞きという情報」ばかりで、信頼すべきか
どうかの判断ができません。しかし、情報がある以上無視するわけに
はいきません。デモ予告は16日。公安当局が「無届のデモは違法だ」
と触れ回っているにもかかわらず、「起こるかもしれないという噂」が
蔓延していています。
これまでの「広州や北京のデモ」では、これだけ具体的な予告は見ら
れませんでした。私自身は、仕事柄「あったらあったで取材するだけ」
と腹をくくっていましたが、企業の駐在員や家族、留学生たちは本当
に不安だったと思います。
15日の夜。大通りに面したオフィスビルでは、「日系企業の看板」黒
い幕が張る作業の真っ最中。万が一、に備えての予防措置です。どう
せなら、「広州みたいに突然起こったほうが心の準備も何もなくてかえ
ってよかったかも……」などと思いつつ、16日の朝を迎えました。
続く。

2007年05月01日

安倍首相は中東5カ国を訪問中

岩田 公雄岩田 公雄
報道局解説委員長(局長待遇)


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日本は中東和平の旗振り役に
安倍晋三首相は今、訪米の後の『中東5カ国』を訪問中です。
『アメリカ』を発った安倍首相は、先ず『サウジアラビア』に入り、
首都『リヤド』でアブドラ国王と会い、『アラブ首長国連邦=UAE』
に飛び、首都『アブダビ』でハリハァ大統領と会談、『ドバイ』に移り、
ムハンマド首相とも会談し、さらに『クウェート』でナーセル首相に
会いました。

今日は「イラク復興支援」のために『クウェート』の空軍基地に駐留
している約200人の「日本の航空自衛隊員」を視察・激励します。
日本の首相が「海外派遣の自衛隊員」を視察するのは、これが初めて
です。そしてその後は『カタール』の首都『ドーハ』でハマド首長と
会談し、明日は最後の訪問国『エジプト』に入り、首都『カイロ』で
ムバラク大統領に会い、3日午後には帰国します。
これら5カ国は「日本への石油の輸出国」で、特に『サウジアラビア』
には「輸入原油」の30%を依存しています。
また、それぞれが「日本との縁が深い国」で、『エジプト』とは古くか
ら「文化交流」が盛んですし、21世紀になって発展著しい『UAE・
ドバイ』とは「国際金融・競馬・“世界一サービスのよい”エミレーツ
航空」など結びつきが年々深まっています。
また、『カタール』の『ドーハ』は、『94年W杯カップ・サッカー・
アメリカ大会』の出場権を失った「ドーハの悲劇」の町で、今でも話
題になります。
安倍首相は「中東での首脳会談」で「石油資源確保」を話し合ったこ
とは当然ですが、今回は「パレスチナ和平」についての協議も行って
います。
「イスラム原理主義者」にとって、『イラク戦争』を理解し、支持する
『日本』は、『アメリカ』と共に「共通の敵」と見なされています。
“アメリカ一辺倒”だった小泉首相と代わった安倍首相は、「訪中・訪
韓」で「東アジア外交」に新しい流れを築き上げました。
また、今度の「訪米」で「日米同盟の強化」も確認してきました。
その安倍首相が「パレスチナ和平」の“旗振り役”を務めることを、
イスラム諸国はどう見ているのでしょうか。
『アメリカ』にも「もう一度パレスチナ和平を」という動きがありま
すが、現状では「内戦化したイラクの復興」で精一杯です。
誰かが対立・衝突を続ける『イスラエル軍』と『パレスチナ過激派』
の説得に立ち上がる必要があると思うのですが。


ゆっくりと行きたいエジプト
私が初めて『中東』に行ったのは1996年5月、「ゴラン高原自衛隊
PKO」の取材でした。
『イスラエル』・『シリア』・『レバノン』・『ヨルダン』に国境を接する
『ゴラン高原』は、イスラエル側から見ると、『大阪』から見る『六甲
山地』のように聳えています。「シリア軍」はそこに「砲台」を据えて
『イスラエル』を狙い撃つ構えだったところです。
そして『イスラエル』と『シリア』が停戦すると、その「停戦を監視
する」ための『国連兵力引き離し隊=UNDOF』が『ゴラン高原』
のシリア側に「宿営地」を設けました。
「日本の自衛隊の役割」は、その後方支援で、『イスラエル』から国境
を越えて「食糧・日用品など」を輸送することでした。
先ず、『ゴラン高原・シリア』側の「宿営地」に入り、「自衛隊PKO」
の取材を終えて『イスラエル』に向かうことになったのですが、何と
目の前にあるたった300mの「輸送用の国境越えの道」を通ること
ができません。「敵対する国の国境」は、どこでもそうなのだそうです。
そこで『シリア・ダマスカス』から『エジプト・カイロ』に飛び、そ
こで『イスラエル・テルアビブ』行きに乗り換えました。
“中東の難しさ”を教えられた出来事でした。
『エジプト』は憧れの地だったのに、そのためエジプトにいたのは、
乗り換えのための数時間を含める“2日がかりの旅”となりました。
「今度は“報道記者”としてではなく、“プライベートな旅”で『ギザ
のピラミッド』や『ツタンカーメン王墓』がある『王家の谷』を訪れ、
ナイル川の船旅も楽しみたい」と思いながら、エジプトを離れたこと
を覚えています。
そして今度の「安倍首相の中東訪問」に同行している記者は、「日程表」
を見て、その“駆け足ぶり”に「これじゃ、自由時間は全くないな」
と嘆いていました。
“報道記者の旅”は、結構辛いものがあるのです。

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