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2007年04月30日

2008サミットは北海道・洞爺湖で

岩田 公雄岩田 公雄
報道局解説委員長(局長待遇)


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リトリート(隠れ家)形式が定着
『2008年サミット』は、『北海道・洞爺湖』で開催されることにな
りました。

日本でのサミット開催は、今度で5回目になりますが、『東京』で3回
行われ、00年の『沖縄』に続いて『北海道』に決まりました。
『北海道』はこのところ、「未曾有の危機にある道財政」「依然として
厳しい状況にある道内経済」「財政再建団体になった夕張市」など暗い
話題が続いていただけに、北海道にとっては嬉しい話題です。
北海道出身の私にとっての『洞爺湖』は、高校の遠足で行った思い出
の地です。『洞爺湖』の「トゥ」はアイヌ語の「湖」、「ヤ」は「丘」で、
ほぼ円形で真ん中に『中島』のある湖の周りは緑豊かな丘陵で、南東
に時々噴火を繰り返す『有珠山』があって、まさに「湖の丘」です。
「環境問題」が大きなテーマになる『08年サミット』の「開催地」
として絶好の場です。
『08年サミット』には、『関西』『横浜&新潟』『瀬戸内』『洞爺湖』
の4カ所が「開催地」に名乗りを上げていました。
一番早かったのは『京都・大阪・兵庫』の『関西』で、『関西財界』が
中心になり、『京都御所』の東側に『迎賓館』を建設して「サミット」
に備えていました。
しかし、年間4500万人を超える観光客を集める『京都』での開催
は、「期間中観光客を排除する」ということもできず、「警備」の問題
で先ず外れました。
『横浜&新潟』は「開港150年」を謳い積極的な誘致を仕掛けてい
たのですが、『横浜&新潟』では「距離がありすぎる」という警備上の
理由でこれも外れました。
また、『岡山・香川』の『瀬戸内』も範囲が広過ぎます。
そこで最後に手を挙げた『洞爺湖』が選ばれました。
「会場」となるのは『洞爺湖』西側の丘陵地の上にある豪華なホテル
で、“バブルの遺産”とも言われるのですが、「取り付け道路」が1本
だけで、万全の警備ができることが評価されました。
また、『洞爺湖』に決まったのは、安倍政権の「地域格差解消」という
狙いもあったようですが、何よりも「警備」が優先しました。
それほど「警備」が問題視されるのは、“テロの時代”を迎えているか
らです。01年に「9・11同時多発テロ事件」が起こり、02年の
『カナダ・カナナスキス』からは「リトリート=隠れ家形式」といっ
て、「サミットは小さい街で開かれる」のが流れになっています。


ハイリゲンダムって知っていますか
私が初めて取材したサミットは、98年の『イギリス・バーミンガム』
でした。
この時、「貧しい国の債務の帳消し」を求めて7000人の“人間の鎖”
が会場を囲みました。これにより、“人間の鎖”で「サミットに抗議す
る市民運動」が生まれたのです。
翌年の『ドイツ・ケルン・サミット』では「債務問題」を求めるさら
に大きな“人間の鎖”が作られ、『沖縄』ではサミット前日に「基地撤
去」を求める27000人の“人間の鎖”が『嘉手納飛行場』を取り
囲みました。
しかし、『イタリア・ジェノバ』では、「グローバリズム=汎地球主義」
に反対するデモ隊が警官隊と衝突して死者が出る騒ぎとなり、この会
を最後に「大都市でのサミット」は終わったのです。
以降『カナダ・カナナスキス』は「スキーリゾート」で、『フランス・
エビアン』は『レマン湖』南岸の「保養地」、『アメリカ・シーアイラ
ンド』は「海辺の小島のリゾート」、『イギリス・グレンイーグルズ』
は静かな「牧場の街」でした。去年の『サンクト・ペテルブルグ』は
「ロシア第二の都市」ですが、空港は閉鎖され、会場は厳重な警備で
隔離され、一種の「リトリート形式」で行われました。
そして「今年のサミット」は『ドイツ・ハイリゲンダム』で6月6日
から行われます。ところで、『ハイリゲンダム』って『ドイツ』のどの
あたりにあるのかご存知ですか。
『ドイツ』北部、『バルト海』に面し、『ポーランド』に近い小さな町
で、18世紀末に開かれた「バルト海沿岸の最古のリゾート」ですが、
かなり詳しい地図にしか載っていないようです。
『ハイリゲンダム・サミット』は、安倍首相にとっても、フランスの
新大統領にとっても「G8のデビュー」となります。
私も『ハイリゲンダム』に行くつもりです。これで9回目の「サミッ
ト取材」になります。これだけ途切れずに「サミット取材」を続けて
いるのは、日本はもちろんのこと、世界のジャーナリストの中でも私
だけではないでしょうか。

2007年04月25日

中国の反日運動1

大泉 純子大泉 純子
読売テレビ放送 報道局 報道部記者

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BBSに書き込まれた反日感情
2年前の今日、4月25日に起きた最大のニュースといえば、『JR
宝塚線の脱線衝突事故』でした。


「106人の乗客と運転士が死亡、500人以上が負傷する」という、
JRとしては史上最悪の事故でした。
『ニュース・スクランブル』では、先週木曜日から「関連の特集」を
連日お送りしています。
さて、当時『上海』にいた私、実は相当弱っていました。
原因は、ほぼ1か月にわたって中国各地で起きた「反日行動」でした。
『上海』で合法的にみることのできるテレビニュースは『NHK』だ
けなので、その日も朝から『NHK』をつけっ放しにしていたところ、
事故の一報。刻々と増え続ける死傷者。JR列車事故の当事者の方々
には大変申し訳なく、顰蹙を買うであろうことは重々承知のうえで告
白しますと、「これで、中国の反日ネタは項目下がるわ……」というの
が、正直な心境でした。
ごめんなさい。だって本当に辛かったんです……。
事の発端は2005年3月……「日本の国連安保理常任理事国入り」
をめぐって、中国のあるウェブサイトがネット上での「反対署名」を
集め始めました。「BBS」には「反日思想を煽るさまざまな書き込み」
が次々と現れ始めます。
「中国の人がなぜ日本の安保理常任理事国入りに対してかくも強固に
拒絶反応を起こすのか」というと、「侵略国家である『日本』が世界を
牛耳るとはまかりならん」という理屈。
そこから派生して、「日本の帝国主義を打倒せよ!」「日本製品不買運
動を起こそう!」「国辱を忘れるな!」「魚釣島は我が国の領土である」
等等……ありとあらゆる「日本を敵対視する書き込み」が膨れ上がっ
ていきました。
最初に行動として現れたのは、3月末の週末……『広東省・深圳』で、
それほど規模は大きくないものの「反日デモ」があったと、他系列の
日本メディアが報じました。「あ~やられた!」と思い、“警戒態勢”
を強めなければならなくなりました。「深圳での反日デモ」は、後から、
とあるウェブサイトの「BBS」に開催予告があったことがわかり、
それからというもの、私たちは支局のスタッフ総がかりでさまざまな
サイトの書き込みチェックを始めました。
調べを進めるうちに、その次の週末にもいくつかの場所でデモが起こ
る可能性があることがわかってきました。また『深圳』か、『広州』か、
『四川省の成都』か……全部回るわけにもいかないので、名前が挙が
っていた都市のうち日本人の比較的多い『広州』にターゲットを定め、
金曜の夜、『広州』入りしたのでした。


広州での反日デモを取材
『広州』の『日本総領事館』は、『広州』の中心部にある『花園飯店』
というホテルに隣接するオフィスビルの一階にあります。このホテル
には多くの日系企業が現地オフィスを構えているほか、敷地内の高級
アパートに日本人がたくさん住んでいます。
4月3日の早朝。道路に面する敷地の入り口から『総領事館』の玄関
までは車用のアプローチがあり、道路から『総領事館』までは少し離
れています。
『日本総領事館』の玄関周辺と敷地への入り口には、通常の警備体制
よりも明らかに多い「武装警察」です。
「香港系」と思われる記者のほか、「日系のメディア」も中国人のスタ
ッフだけを現場に派遣していました。これは「日本のメディアだ」と
バレないようにするためです。
人が集まり始め、ピリピリした空気が漂い始めます。30人ほど集ま
ったところで、「おい、誰がきっかけ作るんだ?」という雰囲気になり、
数人が『日本総領事館』に向かって「シュプレヒコール」を上げ始め
ました。
「日本の帝国主義を打倒せよ!」「日本製品をボイコットせよ!」
集まった人たちの掛け声がだんだん大きくなってきます。
少し離れたところから撮影開始。直接危害を与えるようすはないので、
武装警察も何となく見て見ぬふり。
道路上の人だかりはだんだん大きくなり、カメラを上着の中に隠して
私は群集の中へと入っていきました。
誰かが「赤い円の描かれたA4サイズ位の紙」に火を着け、歓声が沸
き起こります。
さすがに警察官が群集に対しこの場から立ち去るよう指示を出し、道
路上に収まりきらなくなった人たちが、デモ行進を始めました。デモ
隊の向かった先は、数キロ先の「ショッピングセンター」で、比較的
大きな電器屋さんがありました。いつの間にそんなところまで登った
のか、ビルに掲げられていた「SONYやCANONなど布製の垂れ
幕」が引き裂かれ、その度に大歓声が沸き起こりました。
ただし、参加者の表情は怒りに満ちているとは言い難く、どちらかと
いえば、イベントに参加しているような和やかな感じ。
「自分らのやっていることがわかっているのかしら……」と少々アホ
らしくなってきました。
「ショッピングセンター」でひと暴れした参加者たちはやって来た道
を引き返し、再び『花園飯店』へと向かいます。
この途中で、日本料理屋さんが襲撃されました。ドアに向かって数人
の若者が思いっきり蹴りを入れている映像が、その後何度も放送され
ました。この日本料理屋さん……日本料理を提供してはいるものの、
経営者も店員もすべて中国人。「アホらし…」とまた思いました。
このデモ隊に紛れてリポートをしようと思い、日本語でしゃべり始め
たところ、「ここに日本人がいるぞ!」と何人かに取り囲まれました。
「あたしは香港の記者で日本向けの番組を作っている」と中国語で言
うと、ほとんどの人は「ふーん、そうなのか」というような顔をして
デモに戻っていきました。騙されてんの~。
デモ隊は、今度は『花園飯店』の正面を包囲していて、シュプレヒコ
ールを上げていました。
その周りには機動隊の車と無数の警察官。「集会・結社の自由」のない
中国では、許可のないデモ、大勢の人が集まる集会行為は紛れもなく
“違法行為”です。これだけの違法行為が繰り広げられているという
のに、警察官は誰一人として捕まえようという気配すら見せません。
敷地内には入れないように封鎖されていましたが、数人がバリケード
を破ってホテルの玄関まで走っていき、2階にある日本料理屋の窓め
がけて何かを投げ、ガラスが数枚割れました。
私は宿泊客でもあったので、バリケードの端から部屋のキーを見せて
中へ入り、客のふりをして日本料理屋さんに行ってみたら、「窓際の席
にはご案内できません。あと店内が少々暗いのですが構いませんか?」
と言われました。営業していないように見せかけるために、照明を落
としていたようでした。
『花園飯店』には日本の資本は入っていないはずですし、日本料理屋
のマネジャーさんも当然中国人。この期に及んで営業を続けるパワー
には脱帽でした。
外に出てみると、ホテルの掲示板によじ登った数人が、当時の「小泉
総理の似顔絵」に火をつけました。エスカレートし続ける騒動がどれ
くらい続いたのかはっきり覚えていませんが、かなり時間が経ってか
ら地元ではなく「広東省の上級レベルの起動隊」がやってきました。
拡声器から聞こえたのは、「あなたがたの国を愛する気持ちは理解でき
る。だた、“愛国の思い”は行儀よく示そう!」……思わず噴き出しそ
うになるのを必死でこらえました。警察官に促され、参加者たちは少
しずつ現場を後にし、ペットボトルや焦げた紙切れだけが散乱してい
ました。


中国の“愛国主義教育”の結果と言うけれど
夜、再び日本料理屋さんに行ってみました。割られた窓ガラスはすで
に取り替えられており、私は支局のスタッフと窓際の席に着きました。
マネジャーさんに「大変でしたね」と声をかけると、「仕方ないね」と
言葉少な。「あーあ、まったく何でこんなことになるのか……」と思っ
た私は、支局の中国人スタッフに聞いてみました。彼らは、私と一緒
に日本の会社で働いているわけですから、日本が嫌いではないはずな
のに……。
「どうして中国の人は日本が嫌いなの?」と私。「日本は小さい国なの
に、力をもっているからだと思います」とスタッフ。「小さい国とはど
ういう意味なの?国土の大きさと国力はまったく違うでしょう」と私。
「でも、僕たちは学校で日本は小さい国だと習いました」とスタッフ。
「小さい国なのに力を持っているのが気に入らない」とは、「単なるイ
チャモンではないか?!」……。
「これが中国の『愛国主義教育』の結果なの?」……議論する気をす
っかり失った私は、何だか切なくなりました。
翌日も再びホテル周辺や襲撃されたショッピングセンターを回ってみ
たものの、「反日」の気配は全く感じられません。街の人たちに、昨日
の騒動をどう思うか聞いてみたところ、ほとんどの人が「知らない」
といいます。数人参加したという人がいて、「日本製品ボイコットには
賛成です」という答えが返ってきました。本当に身の回りから日本製
品をなくしたら、ほとんどの物がなくなるかもしれないのに。それに
してもあの騒動は一体何だったの……・とすっかり拍子抜けしてしま
い、すっきりしない気分のまま『上海』へ戻りました。
『広州の反日デモ』は、私にとってはまだ序章……。
この2週間後に、とんでもない目に合います。続きはまた来週です。

2007年04月24日

ペルー日本大使公邸占拠事件から10年

岩田 公雄岩田 公雄
報道局解説委員長(局長待遇)


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旧知の青木盛久大使が人質に
『ペルー日本大使公邸占拠事件』から10年が経ちました。
若い人にはこの事件のことを知らない方も多いようですので、概略を
少し述べておきましょう。

1996年12月17日、『天皇誕生日祝賀レセプション』が開かれて
いた『ペルー・リマ』の『日本大使公邸』にネストル・セルバをリー
ダーとする『トゥバク・アマル革命運動=MRTA』の構成員14人
が襲撃、青木盛久大使やペルー政府要人・各国のペルー大使・日本企
業のペルー駐在員など約600人を人質にして占拠した事件です。
『MRTA』の要求は、「逮捕・拘留されている『MRTA』構成員の
釈放」「アルベルト・フジモリ政権の経済政策の全面的転換」「身代金
の支払い」などでした。
アルベルト・フジモリ大統領は日系ペルー人で、事件の当初から武力
突入を検討していたのですが、「平和的解決を優先して欲しい」という
日本政府からの訴えを受け入れて即時の武力突入は断念しました。
予想以上の人質を確保した『MRTA』は、女性・老人・子供などを
中心に解放を続けましたが、占拠は長引き、翌年の春になっても解決
しませんでした。
私にとってこの事件がショックだったのは、青木盛久大使が旧知の人
だったことです。青木大使は、私が『NNNマニラ』の初代支局長に就
任した時の「駐フィリピン公使兼マニラ総領事」で、色々お世話にな
った方です。
翌年の3月、「占拠事件取材」のため、『ペルー・リマ』に行きました。
この頃の人質は70人余り。人質に「慰問袋」を贈ることができたの
で、青木大使宛てに「ペルーに来ていることを伝えるメッセージ」を
入れておきました。
この時は青木大使に会うことはできなかったのですが、帰国して暫く
たった4月22日の午後、特殊部隊が公邸に突入して人質を解放しま
した。占拠発生から127日後のことです。
この報に接し、私は直ちに『ペルー・リマ』に向かいました。
「日本からの直行便」がないので、『アメリカ・マイアミ』経由でほぼ
2日がかりの長旅でした。
青木盛久大使に単独会見
『リマ』に着いたのは、現地時間24日の午後。10年前の今日です。
現場の「公邸」に駆けつけると、フジモリ大統領と青木大使を伴った
日本から馳せ参じた池田行彦外相がちょうど出てくるところに間に合
いました。
怪我をした青木大使は車いすに乗っていて、手には公邸から持ち出し
た「橋本首相の写真」を持っていました。そして待ち受ける記者団の
中に私の顔を見つけた大使は、「岩田もいたのか!?」と驚いた様子で
その写真を頭の上に掲げたのです。
その映像が『日本』に送られ、「何でこんな時に橋本首相の写真なのだ」
と色々言われたのですが、「解放後の記者会見での傲慢なタバコの吸い
方」など誤解を受けることが多いのが青木大使です。
青木大使は3代続きの外交官。182cmの私より大柄で、記者嫌い
の多い外交官の中では記者に遠慮せずにものを言うので、時々“舌禍”
事件を起こすことは『マニラ』時代から知られていました。
その夜、大使夫人から電話があり、代わった大使から「カメラはダメ、
オフレコが条件だが、今から来ないか?」という誘いがあり、勿論駆
けつけました。日本酒が用意してあり、飲み明かすまで話を聞いたの
ですが、「解放後の単独会見」は日本人を含めて世界の記者の中でも、
これが初めてでした。
『MRTA』のメンバーが「日課のサッカー」を始めたところで、突
然1階の床の数カ所が爆破され、その穴と正門から特殊部隊が突入し
てきたこと。その後の銃撃戦の激しさ。72人の人質の内、犠牲者は
ジュスティ最高裁判事ただ一人だけだったこと。犯行グループは全員
が射殺されたのに、特殊部隊隊員の犠牲は2人だけだったことなど。
当時は語れなかったオフレコの話の中には、クロゼットの中まで銃撃
を受け、着るものが全部穴だらけになったことや、夫人の貴金属など
の私物の多くが盗難に遭っていたことなどもありました。
この「突入作戦」は早くから準備が進められ、郊外に「公邸そっくり
の建物」を建て、「地下トンネルから突入する訓練」を繰り返していた
といいますが、大使たち人質には知らされなかったようです。


その後の青木大使とフジモリ大統領
青木大使は、その後「駐ケニア大使」を務め、01年に大使を退官し、
その後は『国際協力事業団』の参与などを勤め、「発展途上国の援助活
動」に奔走していらっしゃいましたが、一方で「青年海外協力隊」の
面倒を見ることでも知られています。
先日も「今、青木さんと一緒に飲んでいるんだ」という知人から電話
を貰い、大使に代わって話をしたのですが、お酒の強さは相変わらず
のようです。
一方フジモリ大統領は、この事件の解決時にはその決断に大きな賞賛
が寄せられましたが、後に「ペルー国内の政争」に敗れて失脚し、『日
本』に亡命していました。
しかし、政界復帰の念が強く、「06年の大統領選」に出馬するために
『日本』を離れ、『チリ』に向かい、チリ警察に逮捕されました。
今は保釈され、『サンティアゴ』に暮らし、『チリ』国内から「ペルー
の政治活動」を行っているようです。
フジモリ氏の長女・ケイコさんは、国会議員として活躍中です。

2007年04月23日

統一地方選挙終わる

岩田 公雄岩田 公雄
報道局解説委員長(局長待遇)


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参院補選は1勝1敗
「統一地方選挙」が終わりました。
「夏の参院選の前哨戦」といわれた2つの「参院補選」は、『福島』で
は『民主』公認の新人・増子輝彦氏が制し、『沖縄』では『自公』推薦
の新人・島尻安伊子氏が勝って、1勝1敗となりました。

これで“過半数確保”を保ちたい与党も、“与野党逆転”を狙う野党も、
「夏の参院選」に勝負がかかることになります。
また、現職市長・伊藤一長候補が暴力団幹部に射殺された『長崎市長
選』では、伊藤市長の長女の夫で新聞記者の横尾誠氏と、「世襲反対」
を唱えて急遽立候補した元市職員の田上富久氏の争いとなり、接戦の
末田上氏が当選しました。
他に「話題になった選挙」では、「財政再建団体」になった『北海道・
夕張市』では、『夕張』出身で『札幌』で会社を経営していた藤倉肇氏
が市長に当選し、「放射性廃棄物処理施設の誘致」を争った『高知県・
東洋町』では“反対”の沢山保太郎氏が7割を超える票を集めて新町
長になりました。
「県庁所在地」や主な「市区」では“現職”が強く、「市区町村議選」
では、先の「道府県議選」に倣って『民主』はほんの少し伸びました。
そして「落選」で圧倒的に多かったのは、“落現”……「町村合併」で
議席数が減ったこともあり、“保守系無所属の現職”の内、“高齢者”
が淘汰された感じがあります。つまり「地方政界」は“若手”の数が
増えて、“世代交代”が少しながら進んだようです。
それにしても「市区町村議選」では、『自民』の文字が殆ど見られない
のには驚きました。
この「地方政界」に見る“変化”が、「夏の参院選」にどう出るのでし
ょうか。「国会」を留守にしても“地方行脚”を続ける小沢一郎・民主
党代表は、「この結果をよし」として、さらに「参院1人区」を中心に
“地方巡り”を続けるのでしょうか。
「今度の参院選が“与野党逆転”の最後の機会」と言い続ける小沢代
表が、「この地方優先の方針を変える」とは思えません。
しかも「党首討論」を無視したままですから、『民主党』内には「国会
対策を軽視している!」という不満の声も強まっています。
これに対し“強い指導者像”を目指す 安倍首相は、「衆院の圧倒的多
数」を背景に、議論も審議も殆どなしで、『国民投票法案』も『少年法
改正案』も強引に『衆院』を通過させてしまいましたし、この勢いな
ら『教育再生3法』も通ってしまうのでしょう。
“強い安倍”を打ち出してから、「安倍政権の支持率」は5割を回復し
ています。『ウエークアップ!ぷらす』で塩川正十郎先生が「総理にな
れば強くなるものだ」と言った言葉を改めて感じています。
そして『民主党』内には「この“強い安倍”と“与党独走”を許して
いるのも小沢代表の戦略の失敗だ」とか、「小沢・鳩山・菅の“トロイ
カ体制”も今やバラバラだ」という声もあります。
国政を見続けてきた私としては、小沢代表に望みます。
「党首討論に積極的に参加し、国会で論陣を張って、“民主党の存在感”
を示せ!」と……。


安倍首相は訪米・中東訪問の旅へ
安倍晋三首相は、26日から「訪米・中東訪問の旅」に出ます。
『アメリカ』では、『キャンプ・デービッド』でブッシュ大統領と会談
します。
最大のテーマは「日米同盟の強化の確認」ですが、「温家宝・中国首相
の来日」による「日中関係・東アジア外交」を説明し、“小泉時代とは
違う外交”を訴えてくるのでしょう。
そして、「柔軟姿勢に転じたアメリカの北朝鮮対応の真意」を聞き出し、
「拉致問題」や「中東情勢」などを話し合うものと思われます。
そして、28日からは「中東5カ国」を訪問します。
『サウジアラビア』『アラブ首長国連邦』『クウェート』『カタール』と
『エジプト』を歴訪し、中東諸国の首脳と会談し、「パレスチナ和平」
や「石油資源の確保」について話し合うものと思われます。 
そして『クウェート』では、「イラク復興支援」のために、『日本』の
航空自衛隊員約200人が駐留する「空軍基地」を視察し、激励する
ことになっています。
日本の首相が海外に駐留する自衛隊員の基地を視察するのは、これが
初めてのことになります。
また、“強い安倍”は、法案の『衆院』通過を前提して『イラク特借法』
の延長を確約してくる可能性が高いと思います。

2007年04月18日

謎の肺炎~SARS8~

大泉 純子大泉 純子
読売テレビ放送 報道局 報道部記者

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病気の発生は終わっても噂はしきりと続いた
『上海』での「SARS患者」発生は、結局2003年5月23日の
8人目の報告が最後となりました。

とはいえ、上海在住日本人の間ではまだ、“実し(まこと)やかなウワサ”が飛び
交っていました。
中でも最高傑作だったのが、「某所で満員のバスが走っていて、全員が
パジャマ姿だった」というもの……誰が言い出したのか知りませんが、
患者は公式には8人しか報告されていないものの、「実はまだまだ隠さ
れていて、集団で隔離されている」というわけです。
さすがに笑い飛ばしましたが、ひょっとしたらあるかもしれない……
と思ってしまうところが『中国』。
「謎の肺炎に感染するかもしれない」という危機感は少しずつ薄れて
いきましたが、次にやってきたのは、いわゆる“風評被害”……一番
ダメージを受けたのは観光業界でした。
観光客はもちろん、日本企業の中には「中国出張」を自粛するところ
が相次ぎ、『上海』のホテルのどこも閑古鳥が鳴いていました。
日系の大手旅行会社によると、「日本からのツアーはキャンセルが相次
ぎ、前年の1割程度にまで落ち込んでいる」ということでした。
そんななか最大手のホテルグループが、お客さんがいないのに営業を
続けても出費ばかりがかさむので、これを機に一部のホテルを改装し
てしまおうという動きに出たのです。
その中のひとつが、老舗の『和平飯店』でした……ところが、どこか
らか「和平飯店がつぶれたらしい」というこれまた根も葉もないウワ
サが湧き出てあっという間に広まってしまったのです。
真偽のほどを確かめるべくさっそくホテルを訪れたところ、「改装中の
ため、しばらく営業停止します」との張り紙。
これを真に受けて、信じるか、あくまで建前に過ぎず本当はつぶれる
んだと思うか……とりあえず、どちらの可能性もあると考えたほうが
よいのも『中国』です。
その後ホテルの支配人と連絡がつきました。
やはり改装中で、「リニューアルオープンするときには是非取材に来て
ください」ということになりました。
その1週間後……まだ改装が済んでいないのに、『和平飯店』が再オー
プンするという情報が入りました。
さっそくコンタクトを取り、ホテルの様子を取材させてもらうことに
なりました。
通常なら公開はしないであろう「まだ改装の途中のスイートルーム」
を見せてくれるなど、とても協力的な対応のウラに、営業停止という
ウワサを払拭したいという強い意気込みを感じました。
さらに、『和平飯店』の名物と、知る人ぞ知る「オールドジャズバンド」
のジャズバー。メンバーの平均年齢が70歳は越えていると思われる、
それは味のあるライブ。日本人観光客にも根強い人気を誇るスポット
です。実は、この「ジャズバンド」……通常取材を申し込むと日本円
で数万円の「取材協力費」を要求されます。しかし、このときばかり
は「タダ(!)」。これはラッキーな経験でした。ただし、お客さんは
我々取材クルー3人を除けばカウンターに西洋人が2人のみ。
撮影が終わった我々も、申し訳なくてなかなか席を離れることができ
ず、自腹でビールを何杯も注文せざるを得なくなってしまいました。
高かった……。


『三峡ダム』取材でのSARS騒ぎ
そうこうしている最中、私は『中国』最大の水力発電施設『三峡ダム』
取材の準備を進めていました。
『三峡ダム』の貯水が始まったのは2003年の6月1日。そこから
遡って1週間かけて『長江』を船で下り、貯水で沈む村やダム周辺の
取材を計画していたのです。こちらの取材そのものの話はまた改めて
書くつもりです。今回は、SARSのおかげで、余計な手続きが発生
したという裏話です。
『長江』船で下る、いわゆる『三峡下り』の出発点は、『重慶』です。
重慶市の外国記者取材窓口の担当者と連絡を取っていたところ、取材
はOKだが、「上海から重慶へやってくるのに健康証明書が必要だ」と
いいます。何かというと、要は「SARSにかかっていない証明書」
なのです。仕方がないので、近所の病院へ行きました。「採血やレント
ゲン撮影が必要だ」といいます。この病院というのが、「日本人専用病
院」と銘打ってはいるものの、レントゲン撮影の装置は地元の病院と
共用で、フィルムをはめる枠が木製だったのを今でも覚えています。
私自身はまったく元気なのに、カゼを引いてゴホゴホ咳をしている患
者さんがいっぱいの待合室に入れられたのが一番イヤでした。
おかげさまで「SARSではありません証明書」を発行してもらい、
『三峡下り』取材へと旅立ちました。
さて、本当に言いたいのはこれからです。『三峡ダム』の取材・放送を
無事終えた私は、健康診断という名目で一時帰国しようと思いました。
今時の上海で、日本の同じレベルの健康診断を受けることはできます。
でも病気でもないのにまた中国の病院へ行くのは勘弁して……と本気
で思い、会社に申し出たところ……返ってきた答えは「ちょっと待て」。
それは確かにSARSの発生地域でほぼ3か月間取材をしていました。
まるで私がSARS感染者のような警戒……気持ちは理解できなくは
ありませんが、その前に「お疲れさま!」とか「大変でしたね」でし
ょうが……。当時他の会社でも、一時帰国する社員に対し、「2週間は
自宅やホテルで待機」という対策を取っていたようです。
「本当に私の健康を心配してくれているのか」、「日本で初の患者を出
すのが怖いのか」……間違いなく、後者の対応といっていいでしょう。
こちらとしては、『三峡下り』取材で入手した「SARSに感染してい
ない証明書」を盾に帰国を主張。一旦は認められたところで、直前に
また「待った」がかかります。「帰国は認めるが、会社へ来る前に関西
空港の対岸にある病院で検査を受けるように」といいます。「ああもう
好きなようにせい~」と思いました。ところが、案の定といいますか、
同じように一時帰国する社員のために、検査をして欲しいという問い
合わせが当該病院に殺到していたそうです。
結局、「そこまでしなくてもいいのでは・・・」ということになり、や
っと『大阪』へ戻ることができました。
「SARSの話」は、今回で終わります。また思い出したら、書くか
もしれません。

2007年04月17日

小沢一郎代表の就任から1年

岩田 公雄岩田 公雄
報道局解説委員長(局長待遇)


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小沢の関心は「選挙」のみか?
『民主党』の「代表」に小沢一郎氏が就任して1年が経ちました。
「衆院選惨敗」の責任をとって岡田克也代表が辞任、「永田メール事件」
で前原誠司代表が辞任して、「もうこの人しかいない」という期待の中
での小沢一郎代表の登場でした。

党内には、幹事長・鳩山由起夫・幹事長と菅直人・代表代行のトロイカ
体制で、“一枚岩”が創られました。
そして、就任早々の『衆院千葉7区補選』では、県議や市議を動員して
の選挙区を細かく回る“ドブ板作戦”で26歳の新人・太田和美さん
を当選させ、“選挙に強い小沢”を発揮しました。
「参院選で反転攻勢を仕掛け、“与野党逆転”を図る」という小沢代表
の談話も真実みを帯びてきました。
これに対し『自民党』内には、「小沢はあなどない!」という“緊張感”
が産まれました。
しかし、その後の「選挙」ではどうだったでしょうか。
「官制談合事件」で辞任した知事の後の「福島県知事選」では、『民主党』
推薦の佐藤雄平・元参議院議員が当選したものの、任期満了の「沖縄県
知事選」では与党推薦の中井眞弘多氏に破れました。
そして「宮崎県知事選」では「民主党独自の候補」を立てることがで
きず、“そのまんま東現象”が起こるのを見守るだけでした。
この頃から、“選挙に強い小沢”に首を傾げる人も多くなりました。
また、「国会への出席率」が悪く、「党首討論」も敬遠する小沢代表に
党内からの批判も強くなりました。
小沢代表は今、「民主党は難しい!」と嘆くことが多いと言います。
“保守”から“革新”までが同居する『民主党』に“一枚岩”を求め
ることがいかに難しいかを実感しているようです。
そして最近の小沢代表は、「国会審議」よりも、「地方区行脚」優先の
毎日のようです。
特に29ある「1人区」をめぐり、「参院選での与野党逆転」を図るた
めに、『連合』の会長と行動を共にしたりしてもいます。
そこで党内の一部からは「代表の“関心”は“選挙”だけか」という
不満も出てきています。


民主党の県議選での伸びはあなどれない
「小沢代表の地方行脚は効果があった」と評価する声もあります。
「統一地方選前半」の「知事選」で『岩手』と『神奈川』を制したこ
とから「2勝3敗」といい、「道府県議選」で民主党議員が大きく伸び
たことを“小沢効果”と評価しているのです。
『自民党』は、「地方選は国政と関係ない」とこの「民主党議員が伸び」
を甘く見ている感じがありますが、果たしてそうなのでしょうか。
22日の「市区町村議選」でも「民主党議員」が伸びると、夏の「参
院選」でこの動きが「比例区は民社党で!」となり、「与野党逆転」が
可能になるからです。
「参院選」で「与党」が過半数を制するには65議席が必要ですが、
29の「1人区」の内、「野党」が15勝14敗となれば、かなりの確
率で「野党優位」となります。
小沢代表の「地方行脚」は、“政治生命の最後の賭け”としてこの狙い
をこめているものと思われます。
そして、22日には『福島』と『沖縄』の「参院補選」も行われます。
たった2つの「選挙区」ながら、この結果が「夏の参院選」の“勝敗
ラインを左右する重要な選挙”です。
もし「野党」が2勝なら「与党に必要な改選議席」は67議席となり、
「過半数獲得」は厳しいものとなります。
“選挙に強い小沢”を問う意味でも、22日「統一地方選後半」は注
目に値します。

2007年04月16日

いつまで続く“強い安倍”

岩田 公雄岩田 公雄
報道局解説委員長(局長待遇)


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国民投票法案衆院通過
「憲法改正の手続き」を定める『国民投票法案・与党修正案』が『衆
議院本会議』で自民・公明などの賛成多数で可決され、『参議院』に送
られました。

これで“安倍晋三総理の願い”通り、「憲法記念日前の成立」の公算が
強まったことになります。
今年は『日本国憲法』施行60周年……「戦後レジウム(体制)から
の脱却」を掲げる安倍首相にとって、“思いの強い日”に当たります。
それにしても、“強い安倍”が目立ちます。
“強い安倍”を見せることで、低迷していた「支持率」が下げ止まり
になっています。
そもそも『国民投票法案』は、「与野党で一致して提出しなければなら
ない法案」で、7年もかけて『憲法調査会』から『憲法調査特別委員
会』で審議され、自民・公明・民主3党で「共同修正」でほぼ合意に
達していました。
その流れを変えたのは安倍首相です。「憲法記念日前成立」と「改憲志
向」を強く押し出し、夏の『参院選』に「憲法改正」を最大の“争点”
に掲げるためでした。
安倍首相は今年1月、ある会合で「いくら“改憲”が難しくても、“改
憲”を言い続けなければそこで止まってしまう」と語っています。
そして、“改憲”を言い続け、“強い安倍”を保つには、今が絶好の機会
だと言えます。
“小泉遺産”で、『衆議院』の自民党議員は306人、これに公明党の
31人を加えると、与野党で7割を超える議席数になります。
“強い安倍”が言い出したことは全て通る状況にあるからです。
「教育3法」も「年金改正」も「天下り禁止」も、“強い安倍”で押し
通されると、“数の理屈”では抵抗できないのです。
新聞各紙の「社説」が、『国民投票法案』で「慎重論」を唱えるのは、
「このままでいいのか」と“強い安倍”の政権運営に危惧を感じてい
るからです。
『参議院』では、丁寧な議論を期待します。
そのためには、「野党よ、しっかり!」と言わざるを得ませんが……。


改憲は遠退いた?
『国民投票法』が成立すると、「“憲法改正”が直ぐにも行われる」と
思っている方も多いのではないでしょうか。
しかし、『国民投票法』が施行されるのは、公布から3年後。つまり、
2010年以降にならなければ、「改憲原案」が議会に提出されないの
です。
どちらが先でもいいのですが、『衆院』に提出するには100人以上、
『参院』では50人以上の同意が必要です。
しかも、「改憲原案」は『衆院』でも『参院』でも「3分の2以上の賛
成」がなければ可決されません。
そして、「憲法改正」が発議され、60~180日の「周知期間」の後、
「国民投票」が行われ、「有効投票数の過半数」が賛成して、ようやく
「憲法改正」が実現するのです。
そのためには「かなりの歳月がかかる」と思われます。
ですから、「国民投票法案は“手続きのための法案”だから、体したこ
とはない」という声もあります。
また、安倍首相は「“改憲”を言い続けることが使命」として、「憲法
改正」を『参院選』の最大の“争点”にしょうとしているのです。
しかし、これに対し『自民党』のある幹部は、「国民の7~8割が賛成
しなければ“改憲”は難しい。今の状況で“改憲”がどれだけ“票”
に結びつくのか」と疑問を投げかけていますし、『公明党』の首脳も
「“改憲”は国民の関心事ではない」と『自民党』を牽制しています。
そして、「“改憲”を急ぎすぎたことが、“改憲”を遠退かせる」という
声があることも確かです。

2007年04月11日

謎の肺炎~SARS7~

大泉 純子大泉 純子
読売テレビ放送 報道局 報道部記者

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上海でのSARS発生の対応
「SARSネタでいつまで引っ張るつもり……?」と突っ込みが入り
そうですが、お伝えしたい話がまだまだあります。

もう4年も前のことなので、日付やデータの記憶が一部怪しくなって
いて、あらためて調べてみると、「そうや、こんなこともあったわ……」
という出来事が次から次へと出てきます。それだけ大変なことだった
ということで、もうしばらくお付き合いくださいませ。

「労働節(日本のゴールデンウィークと同じ期間)」の休暇が終わった
直後、03年5月8日に『上海』では初めて「SARSによる死者」
が出ました。この段階で、『上海』ではすでに「6人がSARSに感染
した」と診断されていました。
4月に『北京』で「患者隠し」が明らかになって以降、中国中央政府
は各省、直轄市に対して「情報を隠蔽してはならない」と通達を出し
ていました。
これを受けて、上海市当局も定期的に記者会見を開き、患者数の報告
をするようになっていました。
しかし、『上海』で最初に報告された患者は、上海の人ではあるものの、
「感染地域に指定された『広州』に出張した際に感染したと見られる」
といいます。つまり、「上海で発生したのではない」ということです。
そして上海で最初に死亡したのはこの人の父親……明らかに家族感染
しているのに、「もともとは広州でもらってきたものであるから、上海
に責任はない」とでも言いたげな……。
その後に報告された患者も全て、北京から移動してきた人など、全て
「よそで発生したSARSをたまたま上海にもってきただけ、『上海』
は安全です」という発表が続きました。気持ちはわかりますが、これ
をご都合主義と言わずして、何と言うのでしょう。外国のメディアが
いくら突っ込んでも、巧みにかわされるだけ。
この後、別の患者が死亡しました。この患者はその1週間前の会見で
は、容態を聞かれて「順調に回復している」と報告されていました。
記者から『一週間前には回復しているとされていた患者が死亡したの
はどういうことか』との質問が出たものの、スポークスマンはその質
問には答えず、次の質問へと移りました。
『中国』とは、「そういうところなんだ」と思いました。

『上海』で最初の死者発生が公やけになった日、上海市政府は、「北京
や香港などSARSが発生している地域から戻った人は、2週間他人
との接触を避けること」という通告を出しました。
「学校や職場へは行ってはならず、自宅でじっとしておけ」というこ
とです。感染を防ぐためのいわば“強権発動”です。
私が北京から戻ったのは5月1日だったので、この通達にはひっかか
らず、連休明けに支局に出勤したところ……私の住んでいた地域の『居
民委員会=自治会のようなもので一番小さい共産党の組織単位』から
支局に電話がかかってきました。
「北京に行っていましたね。その後体調に異常はありませんか?今後
2週間毎朝体温を報告してください」とのこと……「どうして北京に
行っていたことが知られているのか」、ちょっと驚きました。どこから
情報が伝わったのか、それとも最初から管理されていたのか……。
自宅待機は逃れたものの、それから毎朝「体温チェックの電話」がか
かってきました。検温もせず、「35度8分です」などと適当に答えて
いました。
『居民委員会』の担当者には、全くご苦労さまなお話でした。
担当者としては、自分の管轄する委員会から「SARS患者」が出な
ければそれでいいわけで、毎日「異常なし」と上に報告していたもの
と思われます。


上海にはなかった個人情報保護
そんないい加減な中でも、「やっぱり怖い……」と一番思った出来事。
5月22日。上海では最後となる8人目の感染者が報告されました。
「広州から上海への鉄道の乗務員」で、『K48号』という列車で上海
へ来たあと、「SARS」と診断されました。
テレビのニュースではまず、「当該列車に乗車していた人はすぐ保険所
に届け出るように」という字幕情報が流れました。それから数日後。
字幕情報の内容が「以下の人々、彼らの居所を知っている人はすぐに
保険所に届け出るように。○○区の張○○、○○区の王○○、○○区
の李○○……(全部実名)」。
しばらく何のことだかわからず、テレビを見入っていました。
そしてそれは、「列車に乗っていたことが確認されているにも関わらず、
未だ保険所に連絡のない人の名前だ」ということがわかりました。
「うわぁぁぁ……ひょっとしたら、“感染の疑いのある人”が自分のそ
ばにいるかもしれない」。
でも、そんなことより、「SARSの感染を広げないためには個人情報
もプライバシーもあったものではない」という上海市当局の姿勢。
これが一番恐ろしかった。
本気で感染を阻止する目的とはいえ、ここまでやるか……。
『日本』では「個人情報保護」いう名目で、役所が情報を出さなくな
っている昨今、「このやり方の是非」はともかく、「恐ろしいことだ」
と思いました。まだまだ続く。


2007年04月10日

温(ウェン)家宝(チアパオ)首相来日に思う

岩田 公雄岩田 公雄
報道局解説委員長(局長待遇)


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キーワードの「戦略的互恵」とは
『中国』の温家宝首相が明日から3日間の日程で来日します。『中国』
の首相としては、00年の朱鎔基首相以来6年半ぶりの来日です。

去年10月、就任直後の安倍晋三首相が初めての外遊先として『中国』
を訪問し、冷え切っていた“国交”を回復した際、胡錦涛国家主席ら
と合意した「戦略的互恵」の具体化を議論するための来日です。
「戦略的」とはかなり刺激的なキーワードですが、“政治体制”が異な
る『日中の関係』に初めて使われた表現で、その“体制”を「戦略的」
に乗り越えて「互恵=国と国とが互いに特別の便宜・恩恵」を図ろう
ということです。
『小泉時代』には「政冷経熱」という言葉がありました。
「日中間の経済」は活況にあるものの、「政治」は冷えたままだったこ
とを示した言葉です。
今でも「経熱」は続き、今回の温家宝首相は「日中のエネルギー関連
企業のセミナー」にも出席の予定です。「省エネ技術」を求める『中国』
に対し、『日本』企業はその売り込みを図ることになります。
また、「政治関係」では、「北朝鮮の核開発問題」で反対姿勢が一致し、
「拉致問題」でもそれまでの「理解する」から「必要な協力は提供し
たい」と“前向きの姿勢”を示すようになり、半年間に少しずつ成果
が出てきました。
これからはさらに「政治と経済」の両輪を動かして、「より高度な次元
での実利を目指そう」という「政温経熱」の狙いが共にあるようです。
どんな「互恵」になるかは今後の議論によりますが、『安倍政権』とし
ては『小泉時代』とは違う「独自路線」を打ち出すことになります。
「訪中・訪韓」と「北朝鮮核実験対応」で“70%の支持率”を出し
ていた『安倍政権』としては、「温家宝首相訪日」が“支持率回復の切
り札”になる可能性もあります。


12日には中国首相として初の「国会演説」を
『中国』が『日本』に対し “柔軟姿勢”を示すのは、『2008年の
北京五輪』と『10年の上海万博』を成功させたいからです。
しかし、『日中間』には「靖国参拝」や「東シナ海ガス田開発」「歴史
認識」などの難問題があります。
温家宝首相は来日前の記者会見で、「靖国参拝が二度とないように希望
する」と発言していますが、安倍首相は「参拝するともしないとも言
わない」という態度を変えていません。
「ガス田開発」では双方の「排他的経済水域」の主張が異なったまま
です。
さらに今年は「日中戦争開戦・南京事件70周年」に当たります。
中国の李(リー)肇(チャオ)星(シン)外相はかねてから、日本に対し
「今年は歴史的に敏感な年だから、中国国民の感情を刺激しない
で欲しい」と求めています。
中国には根強い「反日意識」があるからです。
温家宝首相は、12日には中国の首相としては初めての「国会演説」
を行う予定ですが、これらの問題に触れずに“柔軟姿勢の挨拶”だけ
で済ますでしょうか。余りにも柔軟すぎると、帰国後「保守派」の批
判を浴びるに違いありません。
「温家宝首相訪日」は“独り立ちした安倍首相”を見せる絶好の機会
ですが、「国会演説」も気になるところです。
また「記者会見」や『日中共同声明』でどのような言葉が飛び出すの
か、これからの『安倍政権』と『日中関係』を窺うためにも注目に値
します。

2007年04月09日

統一地方選前半戦終わる

岩田 公雄岩田 公雄
報道局解説委員長(局長待遇)


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石原慎太郎知事3選なる
「統一地方選」の前半が終わり、13の知事が決まりました。
中でも注目の『東京都知事選』は、石原慎太郎知事が予想通り3選を
果たしました。

得票は石原慎太郎氏 281万票、浅野史郎氏 169万票。
前回の308万票には及ばなかったものの、ダブルスコア近くになっ
たのは、“現職の強み”に加え、「2期8年の成果」が都民に信任され
たからです。
当初は石原氏も浅野氏も“そのまんま東現象”が起こることを恐れて、
「無党派選挙」を展開しましたが、とうとう“無党派の風”は吹かず、
石原氏の“一人勝ち”に終わりました。
いつもの「石原軍団の応援」に頼らず、“反省の姿勢”を見せ、“暴言・
失言”を抑えて、“笑顔”を絶やさなかったこともプラスになったよう
です。
それに対し浅野氏は、立候補が遅かったのに加えて、“都の顔”として
の印象も薄く、“作戦”を誤ったようです。
余りにも「非石原」を強く打ち出したことと、スタッフに勝手連的な
市民グループ多く、支援に回った民主党関係者と違和感がありました。
そして最後には菅直人・民主党代表代行がマイクを握って応援しまし
たが、「政党離れ」にこだわったこともマイナスになりました。
終わってみれば「石原氏の横綱相撲」……3期目の石原都知事には、
「都民に戸を開き、真摯に都政の執行をお願いしたい」と思います。
他の「知事選」では、“現職の強み”が目立ちました。
『北海道』は高橋はるみ知事が2期目、『福岡』は麻生渡知事が4期目。
『福井・三重・徳島・佐賀・大分』も「自公の推薦」を受けた“現職”
で、『神奈川』も“現職”ながら「元民主党の衆議院議員」だった2期
目の松沢成文知事でした。
“現職”が引退した『奈良・鳥取・島根』は「自公推薦」の新人で、
“小沢一郎王国”の『岩手』だけは「民主推薦」の達増拓也知事の誕
生でした。
「13知事選」を通してみても、“そのまんま東現象”は起こらず順当
な結果だったと言えます。


早くも後半戦が始まる……2つの参院補選
先週の5日、『福島』と『沖縄』の「参院補選」が告示されました。
共に先の「知事選」で「野党の参議院議員」が「知事候補」として立
候補した跡を埋める選挙です。
2つの選挙区とも、「自民・公明の与党側」と「民主党などの野党側」
が対決する構図となりました。
たった2つの「選挙区」ながら、この結果が「夏の参院選」の“勝敗
ラインを左右する重要な選挙”だと言えます。
この夏の「参院選」で「与党」が過半数を制するには65議席が必要
です。
もし「与党」が2議席とも手に入れれば、改選議席は63議席になり、
過半数獲得の可能性が高まります。しかし「野党」が2勝なら、改選
議席は66議席となり、「与野党逆転」も夢ではなくなります。
それだけに与野党共に“負けられない一戦”になっています。
『福島』では、『自民党』は元県議会議長の山口勇氏を公認し、『民主
党』は元衆議院議員の増子輝彦氏を公認しました。
「知事選」で「民主党候補」が圧勝した後だけに、現時点では『民主
党』が有利と見られています。
一方『沖縄』では、『自民・公明』が元沖縄市議の島尻安伊子氏を推薦
し、『民主・共産・社民・国民』の「野党共闘」で前『連合沖縄』会長
の金城宏幸氏を推薦しました。
『沖縄』では先の「知事選」で「野党共闘候補」が敗れていながら、
『民主党』は再び「野党共闘」で挑むことになりました。
「2勝」か、「2敗」か、「1勝1敗」か……。
この“日本の進路を問う参院補選”は、統一地方選後半の「一般市長」
「市区町村議選」などと共に、22日に投開票されることになってい
ます。

2007年04月04日

謎の肺炎~SARS6

大泉 純子大泉 純子
読売テレビ放送 報道局 報道部記者

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伝染阻止が最優先課題のハプニング
『北京』での「SARS取材」は一段落し、『上海』へ戻ることになっ
たのは5月1日。

この日は、『中国 』では「労働節」という祝日で、「日本のメーデー」
とほぼ同じ位置づけです。旧暦のお正月である「春節」、建国を記念す
る「国慶節」と並んで、「中国の三大連休」のひとつで、5月1日から
一週間は全国的に休日となります。
連日の「SARS取材」でくたくたになっていた私……ようやく家に
帰ることができるとほっとしていた矢先。まだまだハプニングは続き
ます。

当時、「SARSの伝染阻止」が『中国』の国家的最優先課題となって
いました。
そのひとつとして、移動する場合は必ず当局に届け出なければならな
いというお達しが出ました。具体的には、飛行機の中で「健康申告書」
の提出です。
「健康申告書」というのは「発熱、咳の症状はないか?」「SARSの
患者と接触したか?」「過去2週間どこに滞在していたか?」「この先
2週間はどこに滞在するか?」「連絡先は?」など、健康状態について
の簡単な問診と、連絡先を記入するもので、『東南アジア』へ行かれた
ことのある方はご存知でしょう。つまり、外国へ行き来する際に提出
する申告書を、中国では国内の移動であっても提出しなければならな
くなりました(現在は国際線で入国するときのみ)。
乗客はみなマスク姿という異様な光景のなかで「健康申告書」に記入
する様子をリポートしました。

『北京』を飛び立った飛行機は無事『上海』に到着。
しかし、なかなか「降りていいですよ」という案内がありません。
しばらく待っていると、白衣姿のお医者さんらしき人が飛行機に乗り
込んできました。
手には、耳の穴で測るタイプの体温計。乗客全員を対象に「検温」が
行われるのです。
一人一人「ピッ」と熱を測って回ります。カメラマンにカメラを回し
てもらい、体温を測られるシーンを撮影。
大勢の乗客一人一人をチェックしなければならないので、結構時間が
かかります。
「早く降ろしてちょうだいよ……」とイライラし始めた矢先、機内の
後方でどよめきが起きました。「何事か」と思いきや……検温の結果、
乗客の中にひとり、39度近い熱を出している人がいたのです。
当時、38度以上の発熱症状があれば、「SARSの疑いのある患者」
とされ、「飛行機という密室にいた我々も全員一緒に隔離される」とい
います。「えぇ~、ほんまかいな!!もうくたくたなのに、早く家に帰
えらせてよぅ……」。「今撮影したテープを東京に伝送するにはどうし
たらいい!?」「隔離施設の場所を調べて、『上海』に残っていた別の
スタッフに連絡し、移動のバスの窓から投げてようか?」……と真剣
に考えていたところ、39度近い熱を出していた男性に再度検温が行
われ、結果平熱であることが判明しました。どう見てもしんどそうな
様子はなかったのですが、どうやら「緊張してしまった」ということ
でした。飛行機が着陸してからほぼ1時間が経過し、我々乗客はよう
やく無事地上に降り立つことができました。
「機内でのハプニング」は早速東京へ伝送し、当日の「夕方ニュース」
に間に合いました。


北京に行ってきた大泉さんとは会わない方がいい
『香港・広州・北京』と「SARS発生地区」を追ってきた長いロー
ドが終わり、久しぶりに『上海』に戻ってきました。「労働節の休暇」
でもあり、友達とゆっくり食事でもしようと思っていたところ、嫌な
話が耳に入りました。仕事は抜きで仲良くしていた(つもり)の日本
人の知人の中に、「大泉さんって、北京に行っていたんでしょう。しば
らく会わないほうがいいんじゃないの?」という主旨の発言をした人
がいるらしい。「はぁ~?どういう意味や??」……当時、「もしもし?」
と突っ込まざるを得ない流言蜚語がまことしやかに流れていました。
例えば、「香港資本のショッピングセンターは、香港の人が多く出入り
しているのでSARSに感染する危険がある」とか……。
我が身を守るためには過剰な防衛も時には必要なのかもしれませんが
「ちょっと違うんじゃないの……」。

当時、『上海』ではまだSARS患者は発生していませんでした。
友人と、あるレストランへ行きました。普段は外国人客で賑わうお店
に、ほとんどお客さんがいません。さらに、注文を取る前に店員さん
がカードを持ってきて、「連絡先を書いてほしい」といいます。
「何のため」と尋ねたら、「もしうちのお店に出入りした人の中にSA
RSの患者が発生したら、知らせるためです」。
すぐそばに大量の感染者がいる中で取材していたときには全く感じな
かったある種の恐怖感と脱力感のようなものを、もやもやと感じ始め
ていました。
『上海』に戻っても、「SARSとの闘い」は続きました。続く。

2007年04月03日

戦う政治家・安倍晋三

岩田 公雄岩田 公雄
報道局解説委員長(局長待遇)


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何故か下げ止まった支持率
去年、『サンクトペテルブルク・サミット』を取材した時、当時の小泉
純一郎首相の秘書官・飯島勲氏と親しく話し合ったことがありました。
その時、飯島氏は「ポスト小泉のカギは、“官僚の跳梁(ちょうりょう)跋扈(ばっこ)”を抑え
ることが出来るかどうかにある」と言っていました。

“跳梁跋扈”とは、「勢力を振るい、好き勝手に振る舞うこと」です。
「安倍晋三政権」が誕生して半年が経ちました。
就任直後には、「訪中・訪韓の東アジア外交」と「北朝鮮の核実験対応」
などで70%強もあった「支持率」が、「郵政造反議員の復党問題」か
ら「本間税調更迭」「道路特定財源の見直しでの譲歩」「やらせタウン
ミーティング問題」などで「支持率」は低下し続け、40%まで落ち
込みました。
それと同時に「安倍与(くみ)しやすし」と、「閣僚の各派閥の領袖」や「官僚
の発言」が目立つようになってきました。
これは「小泉時代」には見られなかったことだけに、飯島氏の「予測」
が杞憂ではなかったことを示しているかのようでした。
ところが、「就任半年」を迎える頃から「支持率」は下げ止まり、調査
によっては回復気味のも出てきました。
状況としては「松岡農水相の光熱水費問題」「衛藤晟一氏の復党」など
好材料に乏しいながら下げ止まったのは、どんな理由があるのでしょ
うか。
これまで「美しい国」を唱えても、“顔”が見えなかった安倍首相が、
小泉前首相の「鈍感力激励」から、“顔”を見せ始めたのです。
安倍首相の信条に「戦う政治家」というのがあります。
「ここ一番という時に、国家のため・国民のため・批判を恐れず行動
する政治家」なのだそうです。
『北朝鮮』に対しては「拉致問題が解決するまでは……」と言い続け、
『国民投票法案』の成立に関しても強い姿勢を見せています。
このような“強い安倍”が、不満だらけだった「右派」の支持を勢い
づけたのかも知れません。
ある政治コラムニストは、「安倍の開き直りで支持率下げ止まり!?」
と書いたりしています。


新・人材バンクの狙いは
安倍首相は、『新・人材バンク』創りでも、強い姿勢を示しています。
これは「国家公務員の“天下り”問題の改革」の基本方針で、「内閣府
に“政府全体の再就職斡旋”を一元化する『人材バンク』を新設する」
というものです。
なにしろ『天下り白書』によると、2006年に『人事院』が承認し
た「課長級以上の幹部の民間企業への天下り」は69人で、その44
パーセントは「官の斡旋・仲介」を得ています。
それが問題になっているのは、そこに「特定の業界との癒着」が生ま
れ、「行政の公平性」がゆがめられる恐れがあるからです。
しかし、「官庁」には“優秀な人材”を多く集めるために、出世争いに
敗れたところから“天下り”させる慣習が古くからありました。
民間よりも給料の安い「官庁」に“優秀な人材”が集まるのは、この
“天下り”があり、最後には「民間と同じくらいの総収入」になった
からです。
また、「基本方針」には「能力や実績に応じて昇進・昇級する人事制度
を導入する」ことも謳っています。
「能力主義」を導入することは、「脱年功序列・脱キャリア制度」にも
なりますので、省庁や与党にも「慎重論・抵抗感」があります。
「制度一新」が望まれていた「公務員制度」ですが、余りも“拙速に
運ぶ”のは、「官僚バッシング」とも受け取られません。
しかし、安倍首相が、「統一地方選」や「参院選」のこの時に、この「新・
人材バンク創り」を全面に押し出してきた背景には、“強い安倍”を印
象づける狙いも感じられます。

2007年04月02日

能登地震に思う

岩田 公雄岩田 公雄
報道局解説委員長(局長待遇)


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亥年は自然災害が多い
「参議院選」と「地方統一選」の重なる「亥年」は「選挙の年」です
が、振り返ってみると「亥年」は「自然災害の年」でもあります。

古くは『関東大震災=大正12』があり、この前の「亥年=平成7」
には『阪神・淡路大震災』があり、そして今度の「亥年=平成19」
には『能登地震』が起こりました。
そして『キャサリン台風=昭和22』『伊勢湾台風=昭34』『三宅島
噴火=昭58』も「亥年の災害」でした。
中でも私にとって忘れられないのは、『阪神・淡路大震災』です。
すでに「初代報道東京駐在」になっていましたから、『東京』に住んで
いて、あの日=平7・1・17の朝、「テレビ」を入れると、先ず火災
の映像が映り、「大きな火災があったのか?」と思っていると、『阪神
高速道路神戸線』の「橋脚の倒壊」が目に入ってきました。
「これは大変だ!」と関西在住の知人に携帯電話をかけても全く通じ
ません。ようやく『大阪本社』に通じましたが、「神戸で大地震があっ
たらしい……」程度の情報しかありません。
急いで出社すると、少しずつ被害の状況が分かってきました。
「大阪に最も早く行くにはどうするか?」と考えていると、「伊丹への
飛行機が午後には飛ぶ」とのこと……取れた飛行機に乗り、夕方には
なんとか「本社」に辿り着きました。
「大阪はそれほどでもないな……」とホッとすると、「あの揺れを知ら
ないからだ!」と叱られ、「死ぬかと思った」「倒れた家具の隙間から
這い出し、出社した」など厳しい体験談を聞かされました。
入社以来様々な「災害報道」に携わってきた私ですが、「震度7の揺れ」
を体験できなかったことは、会話について行けません。
みんなは「恐怖の体験」を共有しているのです。
翌朝、『西宮』までは「電車」で行き、そこから歩いて『神戸』へ。
その“惨状の大きさ”に驚きました。
木造家屋の多くが倒壊し、道路には亀裂が入っています。
当時、私は『芦屋』に「マンションの一部屋」を持っていたのですが、
その建物の直ぐ横に「活断層の切れ目」が走っていました。
「大都市を直撃した都市型災害」を私は初めて目撃したのです。


過疎地に大きな揺れが続く
『阪神・淡路大震災』の後は、「過疎地での地震」が続いています。
00年以降の「震度6以上の地震」を拾うと……、
 00年  『神津島近海地震』 ・ 『鳥取県西部地震』
 01年  『芸予地震=瀬戸内海西部』
 03年  『宮城県北部沖地震』・『宮城県北部地震』・『十勝沖地震』
 04年  『新潟県中越地震』
 05年  『福岡県西方沖地震=玄海島』  
07年  『能登地震』        ……となります。
このうち、『鳥取県西部』『瀬戸内海西部』『中越』『玄海島』と今回の
『能登』は、「大きな地震の記憶」も少ない、「過疎地」で「高齢化の
進む土地」での地震です。
今回も大きな揺れが、山間の小さな街や集落を襲い、昔ながらの古い
家屋がぐしゃりと潰れ、狭い道路が寸断されて“陸の孤島”になって
いるところも少なくありません。
「国の防災対策」は、『東海』『東南海』『南海』などの「プレート境界
で周期的に起こる巨大地震」に目が向いています。
『日本』は「地震列島」の上にあり、『阪神・淡路大震災』は「活断層
型の地震」でしたが、「過疎地で起こる活断層型」は、いつどこで起こ
っても不思議ではありません。
今回も「倒壊した家の横に立つ高齢者の嘆き」が報道されましたが、
「国家は“個人の財産”は補償しない」という建前から、国家から「瓦
礫の整理」や「食料品の購入」などに“見舞金”程度は出ますが、「家
の再建費」は出ません。
家がなくなった高齢者はどうするのでしょうか。
私は「自然災害」や「テロ被害」などに対し、「国家がもう少し“支援
の体制”を整備する時期にきている」と思います。
政治家は、発想を変え、「法的整備」を整えるべきです。
被災地では今、『石川県議選』が行われていますし、夏には『参院選』
が行われます。
「災害に対する考え方」も“選挙民の選択肢”になるのではないでし
ょうか。

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