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2006年11月21日

何故かフィリピンに縁があって 2

岩田 公雄岩田 公雄
報道局解説委員長(局長待遇)


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突然初代マニラ支局長を任じられる
私の2回目の取材となったになった『フィリピン』からの “顔出し”
は、ちょうど20年前の11月で、『三井物産・若王子マニラ支店長
誘拐事件』でのリポートでした。

別の事件のマニラ取材中に起こった誘拐事件で、日本テレビから応援
チームが来るまで3日3晩不眠不休で、頭が朦朧として取材をしても
思うような原稿が書けません。そこで後半は「エーイ、もうアドリブ
で喋ってしまえ!」と“顔出し”をやっていました。
この事件は謎の多い事件でした。
支店長がマニラ郊外のゴルフ場の近くで武装5人組に誘拐されたのは
事実です。しかし犯人のカゲは見えず、支店長の行方も分かりません。

犯人は『フィリピン共産党の軍事組織・新人民軍=NPA』で、本部
から「末端のメンバーが勝手に行った」という声明がありました。
「日本赤軍と関係がある」という噂も、かなり早くからありました。
やがて犯人からは支店長の写真・テープや脅迫状を報道機関や三井
物産本社に送りつけ、高額の身代金を要求してきました。
人質の写真は虐待を受けているようで、テープの声は弱々しく、さら
に“指を切り取ったように見える写真”までが送られてきました。

一方、私は応援チームに取材を引き継いた後、帰国して神戸支局長の
仕事に戻り、ヨーロッパ特派員の内示を得て準備に入っていました。
ところが『NNN』に「マニラに常駐の支社を置こう」という動きが
出てきました。この誘拐事件だけはなく、女性大統領・アキノ政権の
登場と軍の反乱やイスラム過激派の暴動がしょっちゅう起きるという
政情不安から、「アジアの視点を持つ支社」が必要になったのです。
そこで「誰を行かせるか」と言うことになって、日本テレビ報道局長
が「読売テレビに“がたいの大きな岩田”というのがいる」と言い出
し、ヨーロッパ特派員のつもりが突然「NNNマニラ支局長」に就任
したのです。

そして明日から支局長という1987年3月31日の夜、若王子三井
物産支社長がマニラ郊外・ケソン市内の教会脇で無事保護されました。
誘拐から137日目、支店長に怪我はなく、写真や指は犯人の偽装で、
三井物産がアキノ政権の了解を得て、3億5000万円の身代金を
支払っての解放でした。
この事件は結局のところ迷宮入りとなり、今になっても本当のことは
分かっていません。


数度の反乱事件・日本赤軍潜伏事件・天安門事件
『フィリピン』は、『マニラ』がある北部の『ルソン島』、南東の『ミ
ンダナオ島』、南シナ海に面する『パラワン島』など、大小7109の
島から成り立っています。

マルコス政権が倒れアキノ政権が誕生して1年余りが経っているのに、
『ルソン島』では「反アキノの軍部の反乱」と「共産党軍の暴動」が
しばしば起こり、『ミンダナオ島』では「イスラム過激派の武装闘争」
が展開されていました。そのどれをも取材しようと現場に足を運びま
したが、それは激しい戦闘でした。
今考えると、「よく命があったものだ」と思います。

また、『日本赤軍潜伏事件』というのがありました。
77年の『ダッカ日航機ハイジャック事件』のとき、超法規的措置で
釈放された「日本赤軍」など6人の囚人の中にいた一般刑事犯(殺人
罪)が『マニラ』で逮捕されたのです。これで『若王子さん誘拐事件』
のにときにあった「日本赤軍と関係あるという噂」も嘘ではなかった
ようです。

この男は、“沖縄出身のある男”から名前と戸籍を借りて『マニラ』に
潜み、反政府運動を支援していたと見られます。
私はこの沖縄出身の男を見つけ出し、インタビューに成功しました。
この男にはフィリピン妻があり、日本を捨てたつもりだったのですが、
望郷の思いもありました。ビザがないこの男のために役所などを説得
して、日本へ帰る飛行機に乗せ、その中での独占取材でした。
このインタビューは、その年の「NNNグランプリ」を受賞しました。
さらに、『ラオス』で『三井物産ヴィエンチャン事務所長拉致事件』と
いうのがありました。
インドシナ半島内陸部にある『ラオス』も、「マニラ支局の行動範囲」
です。

この事件が起こったのは89年3月、『三井物産ヴィエンチャン事務
所』の浅尾所長が武装した数人組に自宅から拉致されたのです。
当時の『ラオス』は鎖国状態で、報道記者でも入国することは難しく、
何とか入ったものの、直ぐ「追放」になりました。
『ラオス』の首都『ヴィエンチャン』は、メコン川を挟んで『タイ』
と接するので、川を渡れば追放されたことになります。
この事件は浅尾所長が9日目に『タイ領』で保護され解決しました。
犯人は『タイ』に住む「ラオス難民の犯罪常習者グループ」でした。
この事件は「身代金を要求する前に捕まった」ので、「誘拐」ではなく
「拉致事件」なのです。
「川が国境」という珍しい事件を体験しました。

そして、89年6月には、『天安門事件』がありました。
この時は「応援」ということで、『香港』経由で記者ではなく、“一人
の観光客”として『北京』に入り、『天安門広場』で「学生たちによる
民主化要求運動」の取材を始めたのです。
私の40歳の誕生日の6月3日、戦車と人民解放軍が広場を取り囲み、
銃撃が起こりました。
よく放映される「紅蓮の炎の中、バリケードを乗り上げた市民が戦車
を竹の棒で叩いているシーン」は、“私たちが隠し撮りした映像”です。
石畳に跳ね返った弾が下から飛んできて、横には太腿を撃たれて倒れ
る市民がいました。
「世界史に残る状況」が目の前で展開していたのです。貴重な体験で
した。


「マニラ支局長」は2年半で終わりましたが、記者・ジャーナリスト
として非常にいい勉強になりました。
『フィリピン』で『ラオス』で『中国』で、「変動期のアジア」を自分
の眼で見ることができたのです。
そして「あれが私の今日の基礎になった」と思っています。

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