北朝鮮からの生中継に成功
岩田 公雄
報道局解説委員長(局長待遇)
拉致問題に触れて抑留も覚悟した
私が初めて『北朝鮮』に入ったのは、1991年8月、『日本ジャー
ナリスト訪朝団』の一員としてでした。
この訪朝中、私についた3人の案内人は、誘うと夜遅くまで酒に付き
合ってくれました。
私のこの訪朝の目的は、「自分の目で見る」「平壌からの生放送を実現
させる」「北朝鮮に人脈を作る」という3点でした。その意味でこの
3人との酒の席はなかなか友好かつ有効な時間だったと思うのです
が、一度だけ怖い思いをしたことがあります。
訪朝団の誰もが口にしなかった「拉致問題」に触れた時です。
「日本の公安当局には、大韓航空機爆破事件の実行犯・金賢姫に日本
語を教えた李恩恵というのは拉致された日本人だと考えている者も
いるが」と質問すると、突然飲んでいた3人は席を立ち上がり、
「岩田先生ともあろう方が、南朝鮮の策謀に踊らされて,真に受ける
とは情けない。そういう者はいもしない。あんなのは全部でっち上げ
事件だ。拉致もあり得ない!」と激昂したのです。
その怒りの凄さに、「ここで逮捕され、しばらく抑留されるのではな
いか」と思ったほどです。しかし2時間ほどすると、私の説明に態度
を和らげ、「こんなことを言った人は、あなたが初めてですよ」と、
私を解放してくれました。
北朝鮮が「拉致」を初めて認めたのは、私が北朝鮮関係者とやり合っ
てからから11年後の2002年9月の「小泉訪朝」の時のことです。
またこの訪朝中に「よど号犯と会う」いうハプニングもありました。
私たちが泊まっていたホテルに彼らの事務所があったからです。
我々が読売テレビの人間と知って懐かしがる彼らに、我が連れて行っ
た若い記者は「よど号って何ですか」と聞きます……1970年3月
31日に起こった「よど号ハイジャック事件」を殆ど知らない若者の
出現に「私たちも北朝鮮での生活が長いですね」と彼らも苦笑してい
ました。
「訪朝団」として滞在したのは10日間……全てが用意されたものの
取材でしたが、これが「ピョンヤンからの生中継」を実現する大きな
動機となりました。
手探りのまま平壌に渡り生中継に挑戦
帰国してまず手掛けたのは「ピョンヤンからの生中継」の実現でした。
「ピョンヤンからの連続3日間生中継」は史上初めての試みです。
局内の了解を取り付け、『日本テレビ』の『ズームイン朝』での中継
が決まりました。しかし、何度手紙やテレックスを送っても『北朝鮮』
の放送局関係者からの返信は全くありませんでした。
出発前日になってようやく北朝鮮関係者と国際電話が通じ、「何とか
なりますよ」という言葉だけを頼りに、まず『北京』へ向かいました。
ところが『北京』の『北朝鮮大使館』には、ビザをはじめ全てが用意
されていていました。そして『ピョンヤン』に到着し、放送局に出向
くと、関係者が大勢出迎えていました。なんと彼らの手には私が半年
余りにわたって日本から送った手紙やテレックスが書類として山積
みされていたのです。
北朝鮮側は「朝日友好のためにも、我々も成功させたい」と歓迎の辞
を述べ、「3台の中継車の内、1台を貸与してくれる」ことを初めて
知らされました。
1992年4月、3日間連続の生中継は滞りなく終了しました。
しかし帰国するまで様々な監視の目が厳しくあり、「衛星放送の基地
局がどこにあるのか、日本にどのような経路で送られるのか」などの
基本的なことを知らされることはありませんでした。
ところで一番戸惑ったのは、2日目の夜に「友好の標として、金日成
バッジを贈りたい」と言われた時です。
貰うことに躊躇する一方、受け取らないと角が立ち、3日目の放送は
ないかも知れないのです。
今もそのバッジは私の机の引き出しの中に眠っていますが、もっとも
悩んだ場面でした。
2度の訪朝でお会いした人たちは、今どのようにしていらっしゃる
のでしょうか……思い出すことがあります。
日朝間には拉致をはじめ多くの難しい問題があります。
解決の糸口が早く見つかることを強く願わざるを得ません。






