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2006年05月30日

間もなく天安門事件から17年(2)

岩田 公雄岩田 公雄
報道局解説委員長(局長待遇)


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命の保証のない取材

1989年6月3日、私の40歳の誕生日。
『中国・北京の天安門広場』での「学生たちによる民主化要求運動」
を取材していました。
学生たちが行動を起こしてから1ヶ月半余り。
この日、ついに中国政府が動きました。
戦車と人民解放軍が広場を取り囲み、戒厳令を布告し、我々記者団に
取材を禁じ、ホテルに閉じこめたのです。
夜をなると、広場の方から悲鳴や小銃音が聞こえ,炎が上がっている
のが見えてきました。

「何で私はここにいるのだ。少なくともジャーナリストの一人として、
これを日本へ、世界へ伝えるべきだ」

私は“命の保証のない取材”を開始することを決意しました。
香港から北京に持ち込んだ5台のビデオカメラの内、残っていた最後
の1台をバッグに入れ、ホテルの外に出ることにしました。
玄関で英語のできる公安に「どこに行くのだ」と咎められ、とっさに
「散歩に行く」と答えると、「出て行った以上は命の保証はありませ
んよ」と言われました。

そして、天安門広場に向かい、最終的には英雄記念碑を囲んだ50台
ほどの戦車の真ん中に立って取材していました。

よく放映される「紅蓮の炎の中、バリケードを乗り上げた市民が戦車
を竹の棒で叩いているシーン」は、私の目の前で起こった出来事です。
そして、気づいたら人民解放軍の銃撃が始まっていました。
横で太ももを撃たれて倒れる市民がいます。石畳に跳ね返った弾が下
から飛んできます。

ホテルまで1キロ……「何とかホテルまで生きて帰らなければ」と思
い、カートリッジを取り出し、カメラを捨てて、走っていました。
ホテルに着くと、あの「命の保証はない」と言った公安が「よく帰っ
てきたな」という感じで迎えてくれて、身体検査もそこそこに入れて
くれました。あれは武士の情けだったのでしょうか。

そしてテレビをつけると、「天安門広場で暴乱……国家転覆を謀った
暴乱……あの学生たちは全部暴乱の徒だ」と報じていました。
ジャーナリストとしての原点があの広場にあった
今でも、『天安門』で感じた“恐怖”を夢見ることがあります。
「弾が当たって死ぬかもしれない」いう怖さがトラウマとして残って
いるのです。

また、忘れられないのは、本社の命で北京を脱出することになった時、
親しくしていた欧米の記者から言われた言葉です。

「自ら現場を放棄してどんどん下がっていったら、自分たちの目に見
えるものがなくなるんじゃないか」

これにほとんど反論できなかったことは、国やテレビ局員という事情
はあっても、これは屈辱でした。

以来、「いろんな現場でジャーナリストとして自分なりにできるよう
なことを目指して歩みたい」と心に決めています。
そういう意味において、「北京・天安門事件は私がジャーナリストと
して生きる上で極めて重要な事件だった」といえます。

この週末で、あれから17年になります。

胡錦涛総書記になって「胡耀邦復権」の動きも感じられるようになり
ましたが、『天安門事件』については、多くの犠牲者の写真や外国人
報道記者の証言があるにも拘わらず、中国政府は「国家転覆を謀った
暴乱」という見解を変えていません。

今、日中関係は「政冷経熱」といわれています。

貿易や投資などの「経済交流」は好調な状態が続いているのに、首脳
相互の訪問が4年以上中断するなど「政治関係」は冷え切った状態に
あります。

これ以上「政冷」になると、経済にも影響が出て「経冷」にもなりか
ねません。

近いうちに、新しい『日中関係』について語ることにしましょう。

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