間もなく天安門事件から17年(1)
岩田 公雄
報道局解説委員長(局長待遇)
応援要請で北京入り
1989年6月4日の未明、『中国・北京の天安門広場』で民主化を
要求して座り込みを続ける100万人もの学生と市民の群れに「人民
解放軍の戦車・装甲車が発砲しながら突っ込み、実力で排除した事件」
を『天安門事件』といいます。
この事件は、80年代前期の改革開放の指導者だった胡耀邦元総書記
が4月15日に亡くなったことに始まりました。
政権に不満を持つ学生たち数千人が『天安門広場』に現れ、「胡耀邦
万歳! 民主主義万歳! 自由万歳!」と叫びながら追悼の意を表し、
『人民英雄記念碑』の前に「中国に民主主義移行の権利あり」という
横断幕を張り、テントを張って座り込んだのです。
群衆は増え続け、100万人にも達し、中にはハンガーストライキを
始める者もいました。
騒ぎが始まってから1ヶ月後の5月中旬、ソ連のゴルバチョフ書記長
が訪中。学生たちの民主主義要求の声は、世界の注目を浴びました。
そんな折、当時マニラ支局長だった私に北京支局から応援要請があり、
香港経由で『北京に』向かうことになりました。
『香港』で記者としてではなく「観光客のビザ」を取りました。
「資格外活動」というか「今度は当局から許されない取材をしなけれ
ばならない」という思いがあったからで、空港でビデオカメラ5台と
カートリッジとバッテリーを大量に買い込みました。
テレビ局ですから、映像がなければならないからからです。
中国も変革すると思ったのに
『北京』での私の役目は、夜になると英雄記念碑に集まる学生たちの
動向を探ること。持って行ったカメラを穴を開けた黒いバックに入れ、
隠し撮りするのです。
北京語を話せない私ですが、学生たちの中には外語大の学生もいて、
英語と英語で話が通じました。
座り込みながら,ビートルズの曲をギターで弾く学生もいて、ソ連や
東欧の民主化の動きと同じように、「中国もこう変革していくのか」
と感じ始めていました。
警官のデモの取り締まりも、比較的緩やかでした。
しかし、広場からホテルまでおよそ1キロ。途中には北京市公安局が
あり,深夜警官詰め所の前を通る時には、怖さを紛らすために口笛を
吹いたりもしたものです。また、誰に監視され、尾行されているかも
しれません。撮影したカートリッジをカメラから取り外し、カメラを
バックごと捨てることもしました。そして、そのカートリッジをどの
ようにして,日本へ送るかも大変でした。ウーロン茶の箱の中に入れ、
空港で日本へ帰る人を見つけ、成田まで持って行って貰うことを願う
のですが、その人にも不安があります。なかなか承知してくれないの
です。
そんなことをしているうちに、6月3日になりました。
前線本部のある『北京飯店』の10階のベランダに三脚を据えて取材
をしていた昼過ぎ、突然轟音が響き渡り、百輌もの戦車の列が疾走し
てきて、トラックからは人民解放軍が小銃を構えて威嚇発砲し、外国
人ジャーナリストが宿泊しているホテルまで撃ってきたのです。
そして、ドアがノックされ、公安警察が入ってきました。
「何をしている!!お前たちがやってきたことは、向こうのビルから
監視していた。ベランダに三脚を据えて取材していたろう!!」
すでに戒厳令が布告されていて、全てこれ資格外活動で、逮捕の要件
になっています。
部屋から出ることも、カメラを回すことも禁じ、ドアの境目に封印と
書いた紙を貼って、公安警官は出て行きました。
よく見ると、向こうのビルの屋上から双眼鏡を持った公安が監視して
います。私たちはほとんど沈黙と恐怖心の中で座り込んでいました。
その6月3日は私の40歳の誕生日。「大変な誕生日になったな」と
思いながら夜を迎えると、天安門広場の方から悲鳴や小銃音が聞こえ,
炎が上がっているのが見えてきました。
「何で私はここにいるのだ。少なくともジャーナリストの一人として、
これを日本へ、世界へ伝えるべきだ」
私は“命の保証のない取材”を開始することを決意したのです。






