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2006年05月31日

大泉純子のニュースの裏側

大泉 純子大泉 純子
読売テレビ放送 報道局 報道部記者

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その後の天安門広場
64(ろくじゅうよんではなく、ろくよんと読んでください。ゲーム
機ではありません)
これを見て、ピンとくるものがある方は、少なからず『中国』に関心
があるはずです。
1989年6月4日。
岩田解説委員が現場で命がけの取材をしていた当時、大学で中国語を
勉強していた私はクラスメートと共にたいそう心を痛めたものでした。
この年の春休みを利用して1か月ほど、上海に中国語の研修に行って
いました。
帰国した数日後、89年4月15日に胡耀邦氏が死去し、『血の日曜日』
へとなだれ込んでいきます。

中国を学んでいる私たちは「何もせずにはいられない」と学内で署名
活動をし、「いかなる武力行使にも反対する!」と中国領事館宛に抗議
文を郵送しました。
『これからビザを出してもらえなくなるかもしれない……』などと
不安になったりもしました。
今になって思えば、「ちゃんと受け取ってもらえたかも怪しいなぁ」と
思います。
その後、私が『天安門広場』を訪れたのは13年後。2002年の夏
でした。
44万平方メートル(甲子園球場30個分)という世界最大級の広場
は、とにかく広い。
その大きさは、中華人民共和国の国家権力を象徴しています。
普段は国内外の観光客が一度は訪れる名所となっていて、“建国の父”
毛沢東の肖像画をバックに記念写真を撮り、地元の人たちはのどかに
凧揚げを楽しんでいました。
ここに、中国各地から民主化を求める学生が終結し、武力制圧が行わ
れたという血なまぐさい面影を感じることはありません。
とはいえ、広場には武装警察が立ち、監視の目を光らせています。
4年間の特派員生活のなかで、何度となく『天安門広場』を訪れる機
会がありましたが、本来は市民の憩いの場であるはずなのに、私自身
はなぜか常に必要以上に緊張していました。
それは、テレビカメラを携えてうろうろしていると呼び止められ、
撮影を始めると取り押さえられることもあるからです。
街中で取材をする場合、首都であるからか、『上海』よりも『北京』の
ほうが圧倒的に規制が厳しいというのが実感です。
『天安門広場』は、さきほど国家権力の象徴と申し上げましたが、
単に風景だけであっても
勝手に撮影することは許されません。
ここでは「ヒットアンドアウェー」を決行しようにも、すぐに見つ
かってしまうのです。
特に外国のメディアに対しては異様なほどの過剰反応を示され、「何も
悪いことしてへんのに、ちょっとくらい撮影させてぇな……」と思う
ことがしばしばありました。

17年前に比べて、中国は情報伝達が圧倒的に速くなりました。
当時の民主化運動のリーダーたちの一部は、今アメリカでIT関係の
仕事をしているそうです。
そのうちの一人が、あるインタビューで話していました。
「当時は、私たちの思いを政府に伝える術がなかった。現在のように
インターネットが発達していれば、あのように悲惨な結果にはならな
かったのではないでしょうか」……と。

2006年05月30日

間もなく天安門事件から17年(2)

岩田 公雄岩田 公雄
報道局解説委員長(局長待遇)


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命の保証のない取材

1989年6月3日、私の40歳の誕生日。
『中国・北京の天安門広場』での「学生たちによる民主化要求運動」
を取材していました。
学生たちが行動を起こしてから1ヶ月半余り。
この日、ついに中国政府が動きました。
戦車と人民解放軍が広場を取り囲み、戒厳令を布告し、我々記者団に
取材を禁じ、ホテルに閉じこめたのです。
夜をなると、広場の方から悲鳴や小銃音が聞こえ,炎が上がっている
のが見えてきました。

「何で私はここにいるのだ。少なくともジャーナリストの一人として、
これを日本へ、世界へ伝えるべきだ」

私は“命の保証のない取材”を開始することを決意しました。
香港から北京に持ち込んだ5台のビデオカメラの内、残っていた最後
の1台をバッグに入れ、ホテルの外に出ることにしました。
玄関で英語のできる公安に「どこに行くのだ」と咎められ、とっさに
「散歩に行く」と答えると、「出て行った以上は命の保証はありませ
んよ」と言われました。

そして、天安門広場に向かい、最終的には英雄記念碑を囲んだ50台
ほどの戦車の真ん中に立って取材していました。

よく放映される「紅蓮の炎の中、バリケードを乗り上げた市民が戦車
を竹の棒で叩いているシーン」は、私の目の前で起こった出来事です。
そして、気づいたら人民解放軍の銃撃が始まっていました。
横で太ももを撃たれて倒れる市民がいます。石畳に跳ね返った弾が下
から飛んできます。

ホテルまで1キロ……「何とかホテルまで生きて帰らなければ」と思
い、カートリッジを取り出し、カメラを捨てて、走っていました。
ホテルに着くと、あの「命の保証はない」と言った公安が「よく帰っ
てきたな」という感じで迎えてくれて、身体検査もそこそこに入れて
くれました。あれは武士の情けだったのでしょうか。

そしてテレビをつけると、「天安門広場で暴乱……国家転覆を謀った
暴乱……あの学生たちは全部暴乱の徒だ」と報じていました。
ジャーナリストとしての原点があの広場にあった
今でも、『天安門』で感じた“恐怖”を夢見ることがあります。
「弾が当たって死ぬかもしれない」いう怖さがトラウマとして残って
いるのです。

また、忘れられないのは、本社の命で北京を脱出することになった時、
親しくしていた欧米の記者から言われた言葉です。

「自ら現場を放棄してどんどん下がっていったら、自分たちの目に見
えるものがなくなるんじゃないか」

これにほとんど反論できなかったことは、国やテレビ局員という事情
はあっても、これは屈辱でした。

以来、「いろんな現場でジャーナリストとして自分なりにできるよう
なことを目指して歩みたい」と心に決めています。
そういう意味において、「北京・天安門事件は私がジャーナリストと
して生きる上で極めて重要な事件だった」といえます。

この週末で、あれから17年になります。

胡錦涛総書記になって「胡耀邦復権」の動きも感じられるようになり
ましたが、『天安門事件』については、多くの犠牲者の写真や外国人
報道記者の証言があるにも拘わらず、中国政府は「国家転覆を謀った
暴乱」という見解を変えていません。

今、日中関係は「政冷経熱」といわれています。

貿易や投資などの「経済交流」は好調な状態が続いているのに、首脳
相互の訪問が4年以上中断するなど「政治関係」は冷え切った状態に
あります。

これ以上「政冷」になると、経済にも影響が出て「経冷」にもなりか
ねません。

近いうちに、新しい『日中関係』について語ることにしましょう。

2006年05月29日

間もなく天安門事件から17年(1)

岩田 公雄岩田 公雄
報道局解説委員長(局長待遇)


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応援要請で北京入り

1989年6月4日の未明、『中国・北京の天安門広場』で民主化を
要求して座り込みを続ける100万人もの学生と市民の群れに「人民
解放軍の戦車・装甲車が発砲しながら突っ込み、実力で排除した事件」
を『天安門事件』といいます。

この事件は、80年代前期の改革開放の指導者だった胡耀邦元総書記
が4月15日に亡くなったことに始まりました。

政権に不満を持つ学生たち数千人が『天安門広場』に現れ、「胡耀邦
万歳! 民主主義万歳! 自由万歳!」と叫びながら追悼の意を表し、 
『人民英雄記念碑』の前に「中国に民主主義移行の権利あり」という
横断幕を張り、テントを張って座り込んだのです。

群衆は増え続け、100万人にも達し、中にはハンガーストライキを
始める者もいました。

騒ぎが始まってから1ヶ月後の5月中旬、ソ連のゴルバチョフ書記長
が訪中。学生たちの民主主義要求の声は、世界の注目を浴びました。
そんな折、当時マニラ支局長だった私に北京支局から応援要請があり、
香港経由で『北京に』向かうことになりました。

『香港』で記者としてではなく「観光客のビザ」を取りました。
「資格外活動」というか「今度は当局から許されない取材をしなけれ
ばならない」という思いがあったからで、空港でビデオカメラ5台と
カートリッジとバッテリーを大量に買い込みました。
テレビ局ですから、映像がなければならないからからです。

中国も変革すると思ったのに

『北京』での私の役目は、夜になると英雄記念碑に集まる学生たちの
動向を探ること。持って行ったカメラを穴を開けた黒いバックに入れ、
隠し撮りするのです。

北京語を話せない私ですが、学生たちの中には外語大の学生もいて、
英語と英語で話が通じました。

座り込みながら,ビートルズの曲をギターで弾く学生もいて、ソ連や
東欧の民主化の動きと同じように、「中国もこう変革していくのか」
と感じ始めていました。

警官のデモの取り締まりも、比較的緩やかでした。

しかし、広場からホテルまでおよそ1キロ。途中には北京市公安局が
あり,深夜警官詰め所の前を通る時には、怖さを紛らすために口笛を
吹いたりもしたものです。また、誰に監視され、尾行されているかも
しれません。撮影したカートリッジをカメラから取り外し、カメラを
バックごと捨てることもしました。そして、そのカートリッジをどの
ようにして,日本へ送るかも大変でした。ウーロン茶の箱の中に入れ、
空港で日本へ帰る人を見つけ、成田まで持って行って貰うことを願う
のですが、その人にも不安があります。なかなか承知してくれないの
です。

そんなことをしているうちに、6月3日になりました。

前線本部のある『北京飯店』の10階のベランダに三脚を据えて取材
をしていた昼過ぎ、突然轟音が響き渡り、百輌もの戦車の列が疾走し
てきて、トラックからは人民解放軍が小銃を構えて威嚇発砲し、外国
人ジャーナリストが宿泊しているホテルまで撃ってきたのです。
そして、ドアがノックされ、公安警察が入ってきました。

「何をしている!!お前たちがやってきたことは、向こうのビルから
監視していた。ベランダに三脚を据えて取材していたろう!!」

すでに戒厳令が布告されていて、全てこれ資格外活動で、逮捕の要件
になっています。

部屋から出ることも、カメラを回すことも禁じ、ドアの境目に封印と
書いた紙を貼って、公安警官は出て行きました。

よく見ると、向こうのビルの屋上から双眼鏡を持った公安が監視して
います。私たちはほとんど沈黙と恐怖心の中で座り込んでいました。
その6月3日は私の40歳の誕生日。「大変な誕生日になったな」と
思いながら夜を迎えると、天安門広場の方から悲鳴や小銃音が聞こえ,
炎が上がっているのが見えてきました。

「何で私はここにいるのだ。少なくともジャーナリストの一人として、
これを日本へ、世界へ伝えるべきだ」

私は“命の保証のない取材”を開始することを決意したのです。

2006年05月26日

「ニュースとスポンサー」

坂 泰知のプロフィール坂 泰知
読売テレビ放送報道局解説委員


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私が読売テレビに入社して間もない頃、祇園祭の宵山にリポータ
ーとして中継に出たことがありました。夕方のニュース番組の中で、
古都の夏を彩る山鉾の様子を伝えるためです。一通り、予定の
コメントを終えた後、スタジオとの掛け合いになりました。

「坂さん、その鉾が並んでいる場所には、大阪からどう行ったら
いいんですか?」・・・・北海道で生まれ育ち、大学を東京で過ごした
私にはその当時、当然のことながら関西の詳しい交通網に関する
知識がありません。咄嗟に口を突いて出たのは、会社からどのよう
なルートで辿り着いたかでした。「えー、京橋駅から京阪電車に乗り
まして・・・・」。本来、大阪を起点にするならば阪急やJRで説明する
のが妥当でしょう。ところが、意気消沈して会社に戻った私にプロ
デューサーがかけてくれた言葉は意外なものでした。

「いやー、よくぞ京阪電車で説明したなぁ。今日の番組、
スポンサーが京阪電車だったんだよ。お疲れさん!」。

皆さん、ご存知の通り、民間放送は提供スポンサーのCMで成り
立っています。商品名を一切、放送に乗せないNHKに比べ、その
運用は民放のほうがややこしいかもしれません。例えばガス会社が
提供する料理番組があったとします。この中で、電子レンジや電磁
調理器を使うことはご法度です。ガス会社と電力会社はライバル
関係にあるからです。また、コカコーラ提供の番組で商品名を言
うことはいくらでも可能ですが、まかり間違って、ペプシの商品名
を言おうものならお目玉を食らいます。ニュース番組と言えども、
こういった事情は注意しなければならないのです。ただし、提供C
Mがあるから、その会社の不祥事を取り上げないというようなこと
は勿論ありません。むしろ、私たちが気にするのは視聴者の皆さん
の印象です。A社の商品や社内事情を好意的に紹介した後で、その
ままA社のCMが流れたとしたら、それはまるで意図的な宣伝に映
ってしまうかもしれません。あるいはB社の不祥事を取り上げた後、
ライバル関係にあるC社のCMが流れたら、これまた、いらぬ曲解
を呼び込む恐れがあります。事実を正確に伝え、判断を惑わすよう
な情報は排除する・・・・やはり、ニュース番組の信条は中立なのです。

と、ここまで書いたところで、先日行なわれたジーコジャパンの日
本代表選手発表のシーンを思い出しました。2006FIFAワー
ルドカップ。注目の記者会見の模様はNHK・民放を問わず、全社
が生中継しました。ジーコ監督と川淵キャプテンが並ぶ机の前に、
何本ものドリンクが置かれています。「NUDA」「アルカリイオン
の水」「AMINOSUPURI+9」・・・・どの角度から捉えても映
り込むそのドリンクは全て、キリンビバレッジの商品。そう、キリ
ンは日本代表チームのオフィシャルスポンサーなのです。こうなる
と、NHKといえども商品を映さざるを得なくなります。まあ、こ
の会見はテレビ局が商売として流すCMとは関係ありませんが、中
立なニュース番組の中で意図せぬ商品がどのように映り込んでいる
か、斜め目線で見つめてみるのも楽しいかもしれません。

2006年05月25日

ほんとに時々やめたくなります。

辛坊 治郎辛坊 治郎
読売テレビ・報道局局次長兼解説委員


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この仕事をしていると、ほんとにつくづく自分の仕事が嫌になることがあるんです。

政治家にもいろいろいます。志が高くても能力の無い人。能力は高くても、志の低い人。これらはまだいいんですが、どう見ても志も能力も低くて、どうしてこの人が政治家やってんだろうと思うような人もいます。とは言うものの、民主主義の社会で、選挙に通って国会にいるということ自体、尊重されなくてはならない存在であり、こちらとしてもそれなりの対応は求められるんですが、だからこそ、「こんな仕事してなきゃ、こんなハナクソと口きかなくても済むのに」と思ってしまうんです。

じゃあ、何でさっさとやめないのかというと、勿論「飯の種」という要素が大きいんですが、それとともに、この仕事をしてなければ経験できない、素敵な人々との出会い故なんです。ついこの間もこんな事がありました。

思わずおにぎりがのどに詰りそうに!

先日朝の仕事を終えて、和歌山県の消費者センターからの依頼で、講演に出向きました。出迎えてくれた皆さんと一通りの挨拶を済ませて、控え室で一人弁当を食べていると、講演会担当の県の職員さんが現れ、簡単な打ち合わせかたがた世間話が始まりました。五十歳過ぎくらいの、ちょっと太りすぎかなとは思うものの、とても明るく健康的な人です。ちょうどおにぎりをほおばったその瞬間、この人がこう言うのです。

「いやあ実は私、白血病で余命半年と宣告されましてね。」

正直、おにぎりが喉に詰りました。

「いつ宣告されたんですか?」

「三年前」

「えっ、どういうことですか?」

この方、とにかく毎年健康診断は、きっちり受けていたそうです。ところが三年前の健康診断の結果を聞く場で、検査結果のデータを見ていた目の前の医師が絶句したそうです。

「Aさん、白血球の数が、、、」

「どうしました?」

「多いんです」

「いやあ、このところ激務で疲れてましたから。」

「いや、そのレベルじゃないんです。すぐに病院で精密検査を」

行った先の病院での診断は「慢性骨髄性白血病、急性転化の可能性が大きく余命半年」というものでした。この日からAさんの生活は一変します。しかし、Aさんは絶望の中でも出来ることをします。インターネットで調べると、この病気に効く可能性のある薬が、ごく最近アメリカで承認され、日本でも東大病院で、治験の患者を募集しているということが分かったのです。この間、奥さんにも話さず一人で病気と格闘します。そんなある日、やはりインターネットで「白血病と告知されたら」というシンポジウムの開催を見つけます。「何でそんなものを見に行かなくちゃいけないの」と渋る奥さんを誘い出し、その行きがけの電車の中で「実は、俺は」とはじめて奥さんに打ち明けたそうです。

薬というのは合う人と、合わない人がいます。またアメリカ人には効いても、日本人には効かないという例もあります。でもこの薬は幸いAさんにはぴたりと合いました。勿論完治するわけではありませんし、この先、急に悪化する可能性が無いわけでもありません。そうなれば、骨髄移植しか助かる方法はないのです。でもとりあえず今は確実に効いています。

Aさんのその後の生活

この病気になったことで、Aさんの人生観は一変したそうです。別にAさんは、かっこいいことを言うわけではありません。しかし、その一言一言から、「ああこの人は、身の回りに存在する事の中で、何が大切か、また、一日一日を生きるということはどういうことか見えている人なんだな」ということが伝わってくるのです。本当に穏やかで、明るい笑顔です。

今、Aさんは役所の仕事のほかに、ボランティアで、和歌山の世界遺産の語り部や、骨髄バンクの啓蒙活動などに当たっています。その一方で、夕日の綺麗な和歌山の海を一望できる場所に小さな庵を構えて、本当に人生を楽しんでらっしゃいます。

人間の死亡率は間違いなく100%です。誰もこの現実からは逃れられません。でも多くの人はそれを意識することなくこの世を去ります。それはそれで幸せだろうと思います。でも、死を身近に感じて初めて見えてくる生もあるはずです。この仕事をしていなければ、私はAさんの話を聞くことは無かったでしょう。そして、穏やかな週末の午後に、死や生について考えることも無かったかもしれません。これが、この仕事をしていて良かったと思える確かな瞬間です。そんな出会いがあるからこそ、毎朝起きるたびに「今日でやめよう」と思いながらも、この歳までこの仕事を続けてきたんだろうなと思います。

それにしても、政治家の中には、、、、って、話がはじめに戻ってしまいましたが、まあ、いいこともあれば悪いこともあるわけで、これで飯食っている以上仕方ないんでしょうね。全国の勤労者の皆さん。照る日もあれば曇る日もあります。頑張りましょう。

2006年05月24日

中国取材に求められる資質とは?

大泉 純子大泉 純子
読売テレビ放送 報道局 報道部記者

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お酒が飲めなければ取材もできない
海外での取材は、基本的には国内での取材と同じだと思っています。
でも、言葉の違い、習慣の違い、さまざまな悪条件が我々の行く手を
阻むのです。
中国で、中国人相手(特に地方のお役人)に取材をする場合、カギを
握るのは何だと思いますか?
語学力? ニュースの取材力? 答えはずばり、お酒が飲めるかどう
かです。
本当によく飲まされました。
「まあまあ、ちょっと一杯どうぞ」などという生易しいものではあり
ません。

中国の人は、広い世界の中で知り合うことができた人と人との縁を
とても大事にします。
一緒にテーブルを囲む機会はもう2度とないかもしれない。
そこで交わす杯に、誠心誠意のもてなしの思いが込められています。
といえば、とても美しいんですが……  
実際には激しい戦いが繰り広げられました。
乾杯はビール、そのあとは「白酒」(しろざけ、ではなくパイチウと
いいます)が出てくることが多いです。
高粱(こうりゃん)など、穀物が原料の蒸留酒なのですが、この白酒、
40度から50度以上のものもあるというアルコール度数の高さに
加えて、一度嗅いだら忘れられない独特の強烈な香り。
瓶を開けなくても、そこにあるだけで漂ってくるほどです。
本来は四川料理などの辛い料理やお鍋にも合うおいしいお酒。
ゆっくり、ちびちび飲むのはいいんですが、中国の宴席ではこれを
間違いなく一気飲みさせられます。(中国へ出張した経験がおありの方
はきっと経験されているでしょう。)
香りを口に含んで楽しんだりしてはいけません。
咳止めシロップのように一気に喉の奥へ流し込んでしまいましょう。
それでも喉が焼け付くような刺激が襲ってきます。
さらに、こちらが1人で先方が10人なら少なくとも10回は「 一気
飲み」をやり遂げなければなりません。
さらにさらに、時には宴会開始と同時にこの白酒攻撃が始まります。
お猪口くらいの小さなグラスとはいえ、お腹ぺこぺこ状態で立て続け
の一気飲み……かなり危険です。

お酒を飲めない人はどうしたらいいのか
中国西北部の『新疆ウィグル自治区』は、古来から「シルクロード」
として交通の要衝だったところですが、地域での交流は自動車に頼っ
ています。
その『新疆ウィグル自治区』へ「1週間の取材ツアー」で行ったとき
のこと。地元政府の接待で、連日昼も夜も大宴会。
何日目かの朝、お酒が完全に抜けず、参加した記者たちはフラフラの
状態。
「次の目的地へもうすぐ出発」というところへ見送りにやって来た
政府幹部の手には酒瓶が!
「一杯飲むまでバスに乗せてやらん」ってそんなアホな……。
香りがしただけで「ウエッ!!」とこみ上げてきそう。
仕方ないので口に入れるだけ入れて、バスの陰で吐き出しました。
最後に、バスの運転手にも、「さぁ、一杯やっていけ」
笑顔で飲み干した運転手。「これは、交通安全のおまじないだよ」 
絶対そんなことはないと思いました。
幸い私の場合、比較的お酒を受け付ける体質であったため、ごく数回
を除いて辛い思いはせずに済みました。
(ごく数回の話はまたあらためて・・・)
もし、お酒が全く飲めない人はどうすればいいのでしょうか?
絶対に断ってはいけません。
ちょっとでもいいから飲んで、そして潰れてしまいましょう。
「この人はお酒に弱いのに私のために潰れるまで飲んでくれた」……
これで招待した相手側は大満足。
「取材はまずは人と人との関係から」ということなんですね。
        

2006年05月23日

小沢一郎は変わったか

岩田 公雄岩田 公雄
報道局解説委員長(局長待遇)


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ここが変わった・ここが変わらない

小沢さんが民主党代表に就任してから、私たち記者仲間の間で「小沢
さんが変わった」「いや変わっていない」という論争が尽きませんで
した。代表選での「私自身が変わらなければ」という宣言を受けての
パフォーマンスが本物か、作り物かが分かりにくかったからです。
先週の党首討論での「齢60、本質から変わるわけはない」発言は
心境を語ったことになります。

当分は“ニュー小沢”を演じ続けることになるのでしょう。
「ここが変わった」という点を拾うと……

『千葉7区補選』で見せた「ビール箱縁談」と「自転車遊説」。
昔ながらの「ドブ板選挙」を復活させ、笑顔を振りまくことで有権者
の心を捉えたわけですが、小沢さんがこれまでにほとんど見せたこと
がないパフォーマンスでした。

「記者会見」も変わりました。かつては「サービス」と言い切り、分
かり切った質問には「これまで申し上げたとおり」と応えなかったこ
ともあったのに、今では笑顔を浮かべながら丁寧に受け答えします。
「党内での活動」も変わりました。従来は「側近政治」というか側近
に代弁させることが多かったのですが、最近は幹事長や代表代行に自
ら指示を出して役割分担をするようになったといいます。

また、代表選の公約だった「肉声によるコミュニケーションの活性化」
を守って、「党内の意思疎通」を図るための懇親会を定期的に開き、
意見を採り入れようとしています。

若手議員と会う機会も多くなりました。
「自分の理念や政策を貫こう」として角が立ち、「壊し屋・小沢」と
言われたことへの反省もあるのでしょう。自己主張を自制して、党内
協議を優先させていることも、その現れです。

また、47歳で自民党幹事長になって以来続けていた「人には簡単に
会わず、虚像での対応」を捨てて、「風通しのよい関係」を作ること
に力を入れているようです。

では、「ここは変わっていない」という点を挙げると……、
衆議院本会議や党代議士会への出席がよくありません。
これについては、「心臓疾患で入院以来、医師の忠告に従って食事を
して直ぐには仕事をしないことにしている」と会見で弁明しましたが、
健康管理とはいえ政権を取っても欠席を続けることには批判も多く
なるのではないでしょうか。

また、日程を公表しませんし、秋谷創価学会会長との会談そのものを
否定したように要人との会談内容を明らかにしてはいません。
どこかで隠密行動が目立つのも、小沢代表の変わらない点です。


明日は小沢一郎の64歳の誕生日

小沢一郎の民主党代表就任に快哉を叫んだ「小沢待望論者」の多くは、
中高年の男性だといわれています。

その人たちは“ニュー小沢”をどのように捉えているのでしょうか。
本当は、「強い小沢・怖い小沢・経験豊富な小沢・正論を貫く小沢」
の方が好きで、「最後の機会だから、総理にしてみたい」と期待する
気持ちがあるのではないでしょうか。

政治評論家やベテラン政治家の中には、「“ニュー小沢”は9月の代表
選挙まで。そこで再選されれば、“昔の小沢”に戻る」という見方を
する人もいます。

明日は、小沢さんの64歳の誕生日です。

「齢60、本質から変わるわけはない」と言っても、小沢さんは真に
変わろうとしているのか、今後の行動が注目されています。

2006年05月22日

ニュー小沢で初討論

岩田 公雄岩田 公雄
報道局解説委員長(局長待遇)


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こわおもてぶりを封印

先週の水曜日に、小泉純一郎総理と小沢一郎民主党代表の「党首討論」
が行われました。「党首討論」は、小沢さんが自由党党首時代に提唱
したもので、3年前に9回ほどありましたが、いつの間にかなくなり、
今度が民主党代表に就任してからは初めてのことです。
「能弁な小泉総理vs無口な小沢代表」ということで、就任直後から
話題になっていた「党首討論」です。

“ニュー小沢”を印象づけるかのように、笑顔をたたえた小沢代表の
ゆったりとした丁寧な言葉で討論は始まりました。

まず、その日の昼、『医療制度改革関連法案』で与党が強行採決した
ことを批判、「野党が議論したいことがあると言っている以上、時間
を与えて欲しい」と発言。小泉総理が「同感だ」と答弁すると、「強
行採決したばかりで、賛成といわれてもちょっと困る」と切り返し、
会場の笑いを誘い、少し余裕を持ったようです。

次いで『社会の荒廃・戦後論』に始まる『教育問題』。
お互いに「すさんだ日本の社会の現況」と「戦後体制の歪み」を憂い、
静かに討論は進みました。これまでの岡田代表・前原代表が叩き付け
るような激しい討論を仕掛けていただけに、こわおもてを封印し、
言葉を選びながら語りかける “ニュー小沢”が印象的でした。
この日、小沢代表は『在日米軍再編』『日中関係』『農業問題』も用意
していたのですが、取り上げたのは『教育問題』だけ。

小沢代表の狙いは、『教育基本法案』を巡る与党案と民主党案の対立
姿勢を強調することにあったようですが、「民主党の具体的な対案」
が示されなかったこともあって、本格的な論争にはならず、小泉総理
の「心の教育論」にはぐらかされた感じもありました。

しかし、最後に総理から「教育基本法の議論も、しっかりと与野党の
審議を進めて頂きたい」という言葉を得て、小沢代表のペースで終わ
ったようです。

この「党首討論」について、多くの人が感想を述べています。
「久しぶりで緊張感のある討論だった」と評価する一方で、勝敗は
五分五分だったようです。

齢60、本質から変わるわけはない

今度の討論で,2つの面白い発言がありました。

1つは「変わる・変わらない」という話。

小沢一郎代表が代表就任直後の記者会見で「変わる」と宣言したこと
に対し、小泉総理は「変われるわけはない」と感想を述べたことに、
小沢代表は反発を持っていたのでしょう。「私が変わるわけがないと
おっしゃいましたが」と引用し、「齢60、本質から変わるわけはな
い」と苦笑してしまいました。

“ニュー小沢”を演じるのに如何に苦労しているかを窺わせる瞬間
でした。

また、「在任期間は大宰相に列する資格を得ていて、後は中身の問題」
と発言したのは、小泉政権5年に当たって「極論すれば無為の時間の
経過だった。改革という小泉氏の言葉に値する結果は何も得られず、
評価すべきものは何もない」と切り捨てたことを受けたものです。
これには小泉総理の表情が険しくなりました。
静かな討論の中にも、様々な駆け引きがあったことを物語っている
シーンでした。

それにしても、小沢代表の本質は変わらないのでしょうか。 .

2006年05月19日

「あと○○秒で地震が来ます!?」

坂 泰知のプロフィール坂 泰知
読売テレビ放送報道局解説委員


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 今月から、読売テレビの報道フロアに、気象庁が実用化を目指している新しい情報端末が導入されました。その名も「緊急地震速報」。何とこのシステムは、地震が起こる前に、どのくらいの規模で震源はどこか、そして、到達までにどの程度の時間がかかるかといったデータを知らせてくれるという優れモノなのです。つまり、「あと○○秒で、大阪に震度○○の地震がやってきます」という情報が通知されるわけで、実際の揺れを感じる前に、地震が来ることがわかってしまうのです。

 いつから、そんな地震予知みたいなことが可能になったんだと驚かれる方がいらっしゃるかもしれません。厳密に言うと、このシステムは発生する前の地震を予知するものではなく、あくまでも、その場所に地震波が到達する前に知らせてくれるというものです。詳しい解説は割愛しますが、池の真ん中に小石を投げ入れた場面を想像してみて下さい。石が落ちた場所から波紋が発生し、徐々に岸へ近付いてきます。つまり、岸に波が到達するまでにタイムラグがあるわけです。地震の場合も、実際の震源から地震波が到達し、揺れを引き起こすまでに時間差があるため、この差をいち早く捉えれば、揺れる前に地震が来ることを予測できるというわけです。
 で、その威力はと言いますと・・・・いやぁ、驚きました。「緊急地震速報」のアラームが鳴った2~3分後、テレビ画面でお馴染みの「地震情報」の端末が稼動するではありませんか。実際の放送で皆さんに速報をお伝えする前に、確かに地震の到達がわかるのです。5月15日未明に和歌山で震度4を記録した地震でも、読売テレビの社屋に地震波が到達する15秒前にシステムが稼動しました。そして、実際に大阪では震度1を観測したのです。ただし、このシステムはまだまだ試験段階。予想震度などの情報は不確実で、全く揺れを感じないこともあります。また、震源が遠ければ自ずと地震波が到達する時間差も大きくなるわけですが、震源の近くや直下型地震の場合には意味をなしません。池に投げ入れた小石のそばに自分がいるのと同然ですから、「緊急地震速報」が稼動する前に実際の揺れに見舞われてしまう・・・・この点がシステムの限界と言えるでしょう。
 今のところ、この情報は地震カメラの収録準備など、報道フロア内での利用に留まっています。しかし、技術が更に進歩して、いずれ実際の放送に反映される時代が来るかもしれません。「あと10秒で、震度6の地震がやってきます」・・・・そんな情報が流れた時、あなたには何ができますか?「たった10秒じゃ、何もできないよ」などと言うことなかれ。
机に下にもぐることもできるし、倒れそうな家具から離れる余裕だってできるはずです。もしかしたら、津波が来る前に高台へ逃げることも可能かもしれません。技術や情報の進化に私たち自身がどう対応するかという心がけも問われることになるでしょう。

2006年05月18日

23の青の魂、ドイツへ!

横須賀 ゆきの横須賀 ゆきの
読売テレビ放送 編成局アナウンス部・報道局


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先日、サッカー日本代表23選手が決定しました。
「今までの4年間の中で、重要な大会での貢献度や活躍」
「1ポジションに2人」
という2つの選考基準を元にジーコ監督が出場登選手登録ぎりぎりの15日に
発表しました。
GK3人、DF8人、MF7人、そして今回最も注目されたFWは5人。
監督は代表選考に「驚きはない」と一貫して話していましたが、
ジーコ監督が「巻」と読み上げた時はどよめきが起こっていましたね。
巻選手自身も「正直、驚いた」と話していましたから、
いわゆるサプライズ選考と言えるのでしょう。
ところで、選出された23人のうち是非、この選手に注目して欲しい!という方を
私の独断と偏見で勝手にあげさせて貰います。

まずは、前述のFW巻誠一郎選手(ジェフ千葉)。
なんといってもがむしゃらにボールを追い続け、最後まで決してゴールをあきらめない
その気迫に胸が熱くなります。
巻選手が大学時代に取材をさせて頂いたことがあります。
たくさんの選手に話を聞きましたが、
「サッカーに対するどこまでもまっすぐで純粋な気持ち」が
誰よりも強かったように感じます。
きっと今もその気持ちは変らないんだろうなとプレーを見ていて感じます。
当時も大学サッカーの花形FWとして活躍していたけれども(観戦に来ていた女の子はみ
んな、巻さーん♪かっこいいっ!と黄色い声援を送っていました)今や日本代表!
なんだか雲の上の人みたい・・・・・
おっと、話がそれましたが、
巻選手のひたむきさが、W杯の時に何かをおこしてくれるような気がしてなりません。
ドイツのシンデレラボーイは巻選手かも知れませんよ!
そして、押しも押されもせぬ日本のキャプテンDF宮本恒靖選手(ガンバ大阪)
べたですよね・・・・書かなくても皆さん注目されると思いますが・・・・
いや~本当にこの方は、頭がいい!IQどのくらいあるのかな?と
取材をする度に思います。こちらの聞きたいことを先回りして答えてくれるというか
見透かされているというか・・(笑)
あほな質問とかしたらまずいっ!と逆にちょっと緊張してしまいます。
きっとどんな職業に就かれても優秀な方だと思います。
でもそんな宮本選手も体格的にサッカーに恵まれていた訳ではなく、
悔しい思いをしたことも多々あったと。
4年前の大会でも最初は控え選手。
初戦で途中交代してあのバットマンスタイルで大ブレイクしたんですから。
(なんだか長いことA代表のキャプテンをしているイメージがありますが・・・・)
この4年で顔つきも変りましたよね。
宮本選手が背負っているものの大きさを感じずにはいられません。
頭脳と負けん気と努力の積み重ねで今のあのポジションを獲得した事を考えると
やはり精一杯のエールを送りたいと思うのです。
「当落線上」と言われていたMFの遠藤選手(ガンバ大阪)は
冷静で的確な判断、幅広い視野、そして正確なパスが魅力。
その芸術的な美しいラインを描くパスにはほれぼれします。
いつも淡々とした口調でポーカーフェイスですが、サッカーの話をすれば、
本当に楽しそうにいつまでも話す方です。
職人肌の遠藤選手のプレーは私たちに小さいものから大きいものまで
いくつもの感動を与えてくれます!
激戦区の中盤ですが、先発の座を勝ち取って欲しい!!
 そして今や日本の不動の右サイドDF加地亮選手(ガンバ大阪)も、
J2も経験するなど下積みの時代を何年も経て這い上がってきた選手。
代表で先発に定着した頃も「地味」と言われていましたが(←大きなお世話ですよね)
加地選手の攻め上がり、クロス!必見ですよ!
縁の下の力持ち的な役割も必ず果たしてくれるでしょう。
もっと苦難の道を歩んできたのが、DF中澤佑二選手(横浜Fマリノス)。
高校時代は全く無名の選手。卒業後、単身ブラジルへサッカー留学しますが、日本に戻っ
てきてもスカウトはなく、ヴェルディの練習生として入団します(つまりお給料なし)
その後ようやくプロ契約を結ぶという代表選手としては異色といえます。
不撓不屈の闘志と、日本一いやアジア一と言ってもいいそのヘディングの強さを武器に
守備でも攻撃でも「ボンバーヘッド」の活躍に期待です!!

と、書き出すと止まらないのですが、
日本代表に選ばれるほどの選手にはそれぞれいろんなドラマがあるんですよね。
今大会も、一つ一つの巧みなプレーとそこに込められた選手の思いに
私たちは大きく心を揺さぶられるはず。

ワールドカップまで後、22日。
世界的にはオリンピックをも凌ぐほどの大会でもあります。
4年前を上回る熱い興奮を、届けて欲しい!
私たちも、あらん限りの敬意を抱いて声援を送りましょう!

2006年05月17日

海外出張より遠い国内出張

大泉 純子大泉 純子
読売テレビ放送 報道局 報道部記者


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中国の広さは日本の26倍
いつどこで起こるかわからない事件や事故を私たちは「発生もの」と
呼んでいます。

発生ものがあると、すぐ現場へ駆け付けるのが記者の仕事の基本です。
現場で取材をする、これは日本でも中国でも同じこと。
ただし、取材へ向かうための移動距離が大きな違いのひとつだと言え
ます。
中国の面積はおよそ960万平方キロメートル。日本のほぼ26倍も
の広さがあるのです。
『読売テレビ』は近畿2府4県のニュースをカバーしています。
大阪にある読売テレビの本社から,東西南北カバーエリアの端まで移
動したとして最も遠くても100キロ程度。それでも陸路で移動する
ため相当時間はかかるんですが……。
NNNでは、北京と上海の2つの支局で香港、台湾を含む中国全土を
カバーしています。
企画の取材で事前に準備をした上での出張であれば、心の準備もでき
ているものですが、これまたいつどこで何が起こるかわからないのが
ニュースの醍醐味。突然何百キロも離れたところへ飛んでいかなけれ
ばならないことがしばしばあります。
広い中国を移動する手段は飛行機が一番便利。そこから必要があれば
車で目的地へ向かいます。

一日に何千キロのとんぼ返り
2002年の夏ごろ、「中国製のダイエット食品」が問題になったのを
ご記憶でしょうか?
日本時間の午前11時ごろに厚生労働省が記者会見で、問題の食品を
発表。
しかも、東京のデスクは「夕方のニュースに映像を入れたい」という。
そんなん無茶やがな!
ともかく製品のパッケージに記載されていた住所だけを便りに製造元のある広東省へ。
広東省までは飛行機で2時間、1300キロもあるのに……。
上海支局を飛び出し空港へ向かい、一番早い便に乗ったら、午後3時
過ぎには広州に着きました。(けっこう感動しました)
販売会社のあるビルを探し当てたものの事務所には誰もおらず、
事務所の看板を撮影し、ビルの大家さんに取材をして、再び上海へ
とんぼ返り。
なぜ急いで上海に戻ったのかというと、前回お話した「ヒットアンド
アウェーの原則+撮影した映像を日本へ衛星伝送する」ためです。
ところが、「上海へ戻る飛行機の便」が悪く、急遽北京へ向かうことに
決定。
北京から伝送したものの、夕方のニュースには結局間に合わずに夜の
ニュースでオンエアされました。
その後なにもなければ北京で一泊すればよいものの、翌日上海で別の
取材があったために、最終便で北京から上海へ飛びました。
ひとつの国の中で、一日に何千キロも移動するのも、「中国ならではの
経験だ」と、今あらためて思っています。

2006年05月16日

政治記者の取材余話(2)

岩田 公雄岩田 公雄
報道局解説委員長(局長待遇)


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夜討ち朝駆け・ぶら下がり

政治記者の取材方法に、「夜討ち朝駆け」と「ぶら下がり」というの
があります。

「夜討ち朝駆け」は、その名の通り「夜と朝の取材」……「夜討ち」
は政治家が夜遅く自宅に帰った時を狙って取材することで、「朝駆け」
は朝家を出る時や議員会館に入る時に取材することです。

もっとも「夜討ち・朝駆け」を続けて行うには、家に帰っても仮眠を
取って着替えをする程度の時間しかありません。記者がそうした積極的な
姿勢を見せることで、政治家も本音を漏らすようになり、思わぬネタ
を手にすることがあるのです。

「ぶら下がり」は、話を聞きたい政治家にぶら下がるように密着して
取材することです。

私も若い頃は政治家の皆さんと頻繁に接触するようにしていました。
この「ぶら下がり」を小泉総理は、新しい形にしました。

閣議の後、官邸を出てきた小泉総理が、マイクの載った小さなテーブ
ルの前で足を止め、二言三言話す光景をテレビで見ることがあるでし
ょう。あれが「小泉式ぶら下がり」です。まるで会見のようですが、
総理としては「ぶら下がりで話をする」ようなものです。私たちにと
っては、「総理の肉声」をこれほどしっかり採ることができるのです
から、取材者として重要な機会ととらえています。

小泉総理が実質的に派閥を解消し、領袖の力を奪い、総理官邸に力を
集中させたことによって、我々取材陣が一番困ったことは「閣僚人事」
です。

小泉総理の登場までは、派閥から当選5回くらいの入閣候補者が発表
されているので、大方の予想がついたのですが、小泉内閣ではそれが
通用しなくなりました。

「誰をどのポストに起用するか」は、小泉さんの頭の中にしかないの
ですから。

スクープはこうして生まれた

2001年4月、小泉内閣発足の日の朝。

或る大学の教授から私宛に「竹中平蔵が入閣する」という電話があり
ました。

しかし、その時点で「竹中平蔵入閣」は余りにも突然で、信じていい
のか、信じられないのか判断に迷いました。

そこで裏をとることにして、別の教授に電話しました。
すると「竹中さんが○○先生のところに、入閣の連絡があったよ」と
いう返事。そこで「竹中入閣か」という第一報をどこの局よりも早く
流しました。

最初の電話は竹中さんの恩師に当たる人で、裏をとったのは竹中さん
の同僚の先生です。共に私が東京赴任以来築き上げた情報網の方々で、
貴重な情報に小躍りしたものです。

もう一つは、今年の3月31日の朝。

「前原誠司民主党代表が、午後2時から辞任会見をする」という話が
情報源の一人から伝えられました。

それまで『メール問題』では強気の発言が続いていただけに、これも
判断に迷いました。そこで裏をとるために方々に電話したところ、
「後援者に会って、辞任の意志を伝えていた」ことが明らかになり、
どこの局よりも早く「前原代表、辞任へ」と放送しました。

この2つのスクープに共通するのは、「日常活動における人脈構築の
大切さ」を痛感したことです。

これからも情報網の方々と親しくしていきたいと思っています。

2006年05月15日

政治記者の取材余話(1)

岩田 公雄岩田 公雄
報道局解説委員長(局長待遇)


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かつては番記者が入門だった

よく「岩田さんは、どうやって取材するのですか」とか、
「岩田さんも番記者なのですか」と聞かれることがあります。
「政治記者=番記者」ということはかなり知れ渡っているようです。
確かに「政治記者の始まりが番記者だった」という先輩が多数いらっ
しゃいます。

少し番記者の話をしましょう。

かつて新聞社やテレビ局の新人記者は研修期間が終わると、先ず派閥
の担当として配属されました。当時は、田中派・福田派・大平派など
いくつもの派閥がありました。

新人は派閥の領袖の事務所や自宅に日参し、朝から晩まで張り付いて
取材し続けます。深く入り込んだ記者の中には、下足番から電話番、
庭の掃除やお茶汲みまであらゆる雑用を手掛けたようです。

そして、その日常活動が認められると、領袖から少しずつ声を掛けら
れるようになります。これでようやく入門です。

これがうまくできない者は、担当を変えられるケースもありました。
また、ようやく番記者になれても、記事を書けるようになるのはまだ
まだです。各派閥には力のあるベテランの番記者がいて、若い記者が
頭角を現すまでには長い道のりが必要でした。

そしてベテラン記者は、個人的にも心情的にも領袖の考え方と同調し
ていて、派閥の講演会で応援演説をした豪傑もいました。
また、領袖の自宅の寝室の電話番号から私用車の番号にも通じ、領袖
のプライベートまで把握していました。

ベテラン記者は領袖と一心同体で、領袖のことを悪く言う人はいませ
んし、派閥に批判的な記事は余り書くこともありません。もし、批判
をすれば遠ざけられたからです。

そして番記者から新聞社の幹部に出世した人も少なくありません。
このように番記者は花形だったのです。

番記者全盛の時代ではなくなった

私が東京駐在になったのは、自民党が分裂し、衆議院選挙で自民過半
数割れ、細川内閣誕生直後の1993年で、44歳の時でした。

すぐ国会記者クラブのメンバーになりましたが、番記者を勤めたこと
のない私は政界不案内で、日本テレビ政治部OBの先輩に有力政治家
を紹介して貰う日々が続きました。小泉さんもそのお一人でした。
そして私は「一度お会いした人との交流を大事にする」というモット
ーで脈づくりに努め、情報取材網を広げてきました。

時にスクープをものにできるのも、この情報網があるからです。
私が幸運なのは、取材の流れが東京に駐在した頃から変わり始めたこ
とです。

それまで政治関連の取材は新聞が中心だったのですが,自民党の分裂
で派閥の領袖の存在感・発言力が弱ってきて、番記者の独擅場が崩れ
始めました。

また、『ウェークアップ!』など「テレビの報道番組」に関心を持つ
政治家が増えてきました。小泉さんが3回の総裁選の度に『ウェーク
アップ!』に出演したように、政治家の多くが自分の言葉で視聴者に
語り掛けるようになったのです。

かつては「テレビはどうも……」と言っていた政治家までが、進んで
出演してくれています。

『ウェークアップ!プラス』は、ますます存在感を示すようになりま
した。

今でも番記者がいなくなったわけではありませんが、小泉総理が自民
党の派閥をぶっ潰したことによって、「番記者全盛の時代ではなくな
った」といえそうです。

明日はスクープの話をしようと思います。

2006年05月12日

ニュースから生まれた教育DVD

坂 泰知のプロフィール坂 泰知
読売テレビ放送報道局解説委員


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 今、私の手元に一枚のDVDがあります。タイトルは「幸せ、運ぼう」。あの阪神大震災が発生した後、被災地・神戸で歌い継がれてきた伝説の歌「しあわせ、はこべるように」を連想させる題名です。実はこのDVD、読売テレビが取材した阪神大震災の映像を元に、神戸市教育委員会と共同で制作した副読本のビジュアル版で、この春から、神戸市内の中学生たちが、あの日の出来事を学ぶ震災教材として活用しているのです。

 1995年1月17日。大阪市内の自宅で大きな揺れに見舞われた私は、その直後から八尾空港に入り、ヘリコプターに乗って丸2日間、被災地上空から未曾有の災害の様子を伝え続けました。その時の放送素材を含む震災関連の取材テープは、この11年間、読売テレビの社内で大切に保管されてきました。総時間数にして、およそ9000時間。様々な映像素材を保存してある報道ライブラリー室でそれらの取材テープが並ぶ姿を見る時、ある意味で圧倒される感覚を覚えます。〝歴史の生き証人〟がここに眠っているのです。今回のDVDは、この貴重な資料映像の中から当時の様子を抜粋し、次なる災害で少しでも多くの命を救うためにという思いで制作されました。


 本来、報道を目的に取材したテープが、その他の用途で使用されることはありません。しかし、読売テレビでは、このDVDが教育を目的としたものであること、収益を得るものではないこと、そして、11年以上の月日が流れ、歴史的な映像として次の世代に伝えていく意義が増していることなどを考慮して、教材の制作に踏み切りました。このDVDに触れる中学生たちは、恐らく当時の記憶はほとんど残っていないでしょう。しかし、そんな彼らが社会の主役になる日は近いのです。あの日の経験と教訓が、このDVDを通じて、しっかりと語り継がれていくことを願って止みません。


 実はこのDVDを紹介する特別番組が5月20日(土)に放送されます。番組では、教材の制作にあたり、教育現場の最前線に立つ先生たちとどのように連携してきたかも克明に記録されています。放送開始時間は午前5時14分とかなり早い時間帯ではあります。しかし、奇しくも阪神大震災の発生は午前5時46分でした。夜も明けきらぬ早朝に、いったい何が起きたのか・・・・この番組を通じて、もう一度、忘れてはいけない記憶を蘇らせていただければと思っています。

2006年05月11日

死海のほとり

辛坊 治郎辛坊 治郎
読売テレビ・報道局局次長兼解説委員


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いきなりべたな話ですいません
プランターのミニトマトの苗に水をやっていて、隣家の奥様と目があって挨拶を交わした。私が部屋に引っ込むのと入れ替わりに、洗濯物を干しに妻が出ると、件の奥様にこう声をかけられたそうな。
「ご主人、まあ、よくお焼けになって。」
「はあ、おとといまで、ちょっと出張で、シカイの方へ行っていたもので。」
「まあ、お外でのシカイもなさるの?これからは暑くて大変ねえ。」
「はあ。」
実話である。暑くて大変なのは事実である。暑いというより、熱いのである。ただ、行ったのはイベントのシカイではなく、イスラエルとヨルダンの国境に位置するシカイ、すなわち死海なのだ。なぜ死海(DEAD SEA)と呼ぶのかについては諸説あるのだが、行って見て、なるほどこれは死の海だなと実感した。


まさしく「死の海」、死海
エルサレムから、パレスチナ自治区であるヨルダン川西岸地区をまっすぐ西に貫く高速道路は、わずか三十分ほどで、高度を千二百メートルほど下る。エルサレムの海抜が800メートル程だから、着いたところは、海抜マイナス400メートル、地上に存在する「地の底」だ。山に登ると「空気が薄い」と感じることはあっても、「空気が厚い」というこの感じは稀有な体験だろう。
静かだ。
時折吹き抜ける風の音を除けば、鳥のさえずりはおろか、虫の声も、木の葉のざわめく音すら聞こえない。沈黙の世界だ。かつてレイチェル・カーソンは、環境破壊で「沈黙の春」が訪れると予言したが、この地では、はるか遠い昔から「沈黙の四季」が現実なのだ。
なぜか?
それは死海がまさに「死の海」だからだ。最近の研究で、淡水が流れ込むあたりにわずかに、特殊な生命体が存在するということは分かってきたのだが、この海では普通の生き物は生きられない。塩分濃度最大30パーセントにもなるこの湖には、魚がいないのだ。     
魚がいないということは、それをえさにする鳥もいない。水際の植物もなければ、そこにすむ昆虫もいない。見渡す限りの赤茶けた断崖絶壁に、透き通る湖。しかし、そこには生命の影すらないのだ。
瞬間「火星のようだ」と考えた。火星に行ったことは無い。しかし、その完全な無機物の世界は、そこが地球という青い星の一部であることを、しばし見事に忘れさせてくれる。


中年は荒野をめざす
ところで、何で死海なんぞに行くことになったのか。実はそんなに深い考えがあったわけではない。ズームインスタッフと昼飯を食いながら、「そろそろ海外取材でも行くか?」と話が盛り上がったのが、発端だった。
「どこへ行きますか?」
「やっぱり旬はイラクだべ。」
「そうだイラクだイラクだ」と盛り上がって、企画書を書いたところ、あえなく没。
理由は「危ないから。」なんじゃそりゃ?!とは思うものの、会社を辞めてまで行きたいわけでもなく、それじゃあ、どこへ行こうかしらと考えながら、インターネットのグーグルアースをルーレットのようにぐるぐると回して、正面向いて止まったところを拡大したら、たまたまそこが、死海だったのだ。
もうこの歳になると、万一の場合も、それほど怖くない。いや、怖いのだが、貯金は無いが、ローンも無く、厚生年金の遺族補償を計算すれば、私一人地上から消えても、家族はどうも路頭に迷う心配もなさそうだとなれば、行きたいところへ行くしかないだろう、ということでの死海行きだった。しかし、死海だけではネタにならない。近くに何か?と見てみたら、そこには世界で今「もっとも熱い」地域が広がっているではないか。旧約聖書の約束の地カナン、すなわちパレスチナ。なにせアダムとイブから数えて十代目のノアが箱舟を作って避難して、さらにその十代目のアブラハムが全知全能の神にもらった約束の地こそがここなのだ。
で、行ってみた正直な感想
「ん~、ナンボ神様が下さった土地か知らんが、日本人には住まれへんなあ。」
パレスチナは南と北では全く気候が違う。今回私が訪れた南半分は、ほとんどが砂漠地帯、特に死海周辺はそれこそ、この世のものとは思えない光景なのだ。
かつて、苦労して砂漠を越え、半死半生の思いで、死海のほとりにたどり着いた旅人は、眼前に広がる湖を前に何を思っただろうか。歓喜して駆け寄り、両手に掬った清冽な水を口にした時の絶望、それこそが、死海と名づけられたゆえんだろう。
ためしに私も指の先につけてなめてみた。塩辛いという表現では決して描写できない。何か未知の劇薬を口にしたような、強烈な刺激が口中いっぱいに広がり、目の前の色彩が全て飛んでしまう。現地で聞いた噂話では、「男」を見せるために頭から飛び込んだ、ハリウッド俳優のシュワルツェネッガーは、悶絶して救急車で運ばれたそうな。たぶん、実話だと思う。


私も、入った。ただし、足先からおそるおそる。びっくりした。湖底に、なにやら大きな金平糖のような物体が。ちくちくと足にささる感触は、無数のウニの上を歩いているようだ。しかし、ウニがいるはずはない。最大直径三センチほどの無数の金平糖、それはなんと巨大な塩の結晶だったのだ。恐るべし死海。

その取材の模様は、五月十九日金曜のズームインスーパーで。恐るべき私の裸体とともにお届けします。

2006年05月10日

大泉純子のニュースの裏側

大泉 純子大泉 純子
読売テレビ放送 報道局 報道部記者

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皆様こんにちは。
この度連載をさせていただくことになりました、大泉純子です。


ニュース特派員を終えて……今、中国は
2002年5月からついこの間まで、中国・上海にニュース特派員と
して駐在していました。
上海を拠点に、中国大陸だけでなく香港、台湾、時には東南アジアま
で飛び、いろいろな取材を通じて貴重な体験をさせていただきました。
そうした取材の『ウラ側』を、これから皆さんにお伝えしていこうと
思います。
外国に住んでいたというと、「いいな、羨ましいな」と思われる方も
いらっしゃるかもしれません。
中国は今、目覚しい経済発展の真最中。テレビや雑誌などでご覧にな
ったり、実際に旅行に行かれたことのある方も多いと思います。
私が駐在している間も、本当にたくさんの友人、知人が遊びに来てく
れました。おいしくて安い中華料理に、歴史を感じさせる観光地。
おしゃれで可愛い雑貨のショッピングも楽しいし、エステやマッサー
ジも超格安。
数日間滞在して、みんな「ああ、楽しかった。また来るね」と大満足
で帰っていきました。
それはそれでいいのですが、それはやはり中国のほんの表の部分。
中国での生活は、それはもう一言ではとても言い表すことができない
困難と驚きの連続。大阪の人間としては、「なんやそれ?」と突っ込
みどころ満載の日々でした。

ヒット・アンド・アウェーの日々
ニュースの仕事をする身にとって日本と中国での一番大きな違いは、
取材の自由があるかないかということでした。
日本では、取材相手の人権やプライバシーを傷つけないなど、当然の
ルールを守って、基本的に自分の意思で自由に取材ができます。報道
機関は独立していて、時には国や行政機関に対し、おかしいと思われ
ることは我々の努力で自由に取材し、世の中に問うことができます。
でも、中国は違います。中国国内の新聞、テレビのニュースは中国共
産党の宣伝活動の一環で、その内容はほとんど全てといっていいほど、
当局にコントロールされています。
中国国内のメディアでもそんな状態ですから、我々外国のメディアの
活動は更に厳しく管理されています。基本的には、何を取材するにも
当局の許可がなければ、合法的に取材をすることが出来ない仕組みに
なっているのです。
しかし、事件や事故等、ニュースはいつ起こるかわかりません。許可
が出るのを待っていては時間がどんどん過ぎ、ニュースがニュースで
なくなってしまいかねません。では、どうするか。
さきほど基本的には「許可がいる」と申し上げましたが、そういう時
はとにかく現場へ行くのです。そして、とにかく取材。
必要な取材ができたらとにかく現場を離れる。このやり方を仲間内で
は「ヒット・アンド・アウェー」と呼んでいました。
万が一、当局の人に取材がばれたら身柄を拘束されたり、最悪の場合
テープを没収される危険が常に付きまといます。おかげで何度イヤな
汗をかいたことか・・・。
ということで次回以降、様々なニュースのウラ話をお伝えしようと思
います。

2006年05月09日

宿命のライバルは、こうして生まれた

岩田 公雄岩田 公雄
報道局解説委員長(局長待遇)


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角福戦争の怨念の中で

小泉純一郎さんと小沢一郎さんの育ちや学歴は、よく似ています。
共に昭和17年(1942)の生まれです。
共に政治家の家系で、小泉さんは3代目で小沢さんは2代目。政治家
になることは早くから意識していたようです。

浪人して慶応大学経済学部に入学し、卒業は同じ年。
卒業後、イギリスに留学した小泉さんと弁護士を目指して大学院に進
んだ小沢さん。

その二人が父親の急死で若くして選挙に出ることになります。
初選挙は、昭和44年(1969)の第32回衆議院議員総選挙。
この辺りから違いが出てきます。

小沢さんが当選したのに、小泉さんは落選。
小沢さんはこの選挙で幹事長だった田中角栄の薫陶を受け、田中派に
所属します。

小泉さんは落選後、次の選挙に備えて福田赳夫の下で書生を務め、初
当選は47年(1972)30歳の時で、以後福田派に所属します。

田中派と福田派は、ポスト佐藤栄作の総理の座を争った『角福戦争』
に始まり、『大福戦争』が終わるまで、同じ自民党ながら全くの対極
にあり、10年も敵対が続きました。

この間に小沢さんが田中派の若手のホープとして力をつけたのに対
し、小泉さんは福田さんの書生としての修行が続いていました。

小沢さんは後に引退後も政局に影響を持ち続けようとする田中角栄
に反発し、竹下登・金丸信らと田中派から独立して、経世会に参加。
「竹下派7奉行」に数えられ、党の要職を歴任して、47歳で幹事長
に就くなど、党の主流を歩み続けました。

このように小沢さんが自民党の派閥体質の申し子であったのに対し、
小泉さんは田中派・竹下派に代表される派閥政治に反感を持つように
なったようです。

小泉さんが当選同期の山崎拓・加藤紘一と図って「YKK」と呼ばれ
る派閥を越えた活動を始めたことが、そこに現れています。
この二人が、この終盤国会で初めて正面を切って対決するのです。

ぶっ潰しの小泉と壊し屋・小沢

小沢さんは平成5年(1993)、自民党を離党、羽田孜らと新生党を結
成して、代表幹事に就任しました。

以後、非自民勢力として暗躍し、細川内閣・羽田内閣・新進党・自由
党などを立ち上げては潰したので、「壊し屋・小沢」と呼ばれるよう
になりました。

小泉さんが「自民党をぶっ潰す」と宣言して総裁に選ばれ、総理大臣
になり,5年が過ぎました。

小泉さんが潰そうとしたのは古い自民党の派閥体質で、約束どおり
「自民党の派閥」を形骸化し、多くの派閥の領袖が名ばかりになるか、
政界を去りました。

そして小泉さんがぶっ潰したかった田中派・竹下派の政治家の中で最後
に残ったのが、「小沢一郎だった」ともいえます。

『角福戦争』の怨念が今も生き続けているのです。

「ぶっ潰し」と「壊し」……言葉のイメージは似ているようで、中身
はこれほど違うのです。

この二人が「党首対談」では直接対決します。

どっちがどっちを潰し、どっちを壊すのか。
この二人が今の政局を作っていくのですから、政局がおもしろくない
わけがありません。

2006年05月08日

今、政局がおもしろい

岩田 公雄岩田 公雄
報道局解説委員長(局長待遇)


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宿命のライバルが対決

小沢一郎さんが「民主党代表」に選ばれて昨日で丸1ヶ月。
千葉7区補選に民主党候補を当選させ、「選挙に強い」という「小沢
神話」を復活させてから、「岩田さん、政局がおもしろいですね」と
いう話をよく耳にするようになりました。

今日から国会の後半が始まります。

前半は、「BLTD」の4点セットで民主党が攻勢に出るはずでしたが、
メール問題で威信を失い、小泉さんの余裕の前になすべくもない敗北
に終わりました。

ところが、代表一人が代わっただけで、民主党は存在感を持ち直し、
後半の国会は面白くなりそうです。

「教育基本法案」「共謀罪」「国民投票法案」「年金・医療改革」「公務
員制度」「少子高齢化問題」「消費税」などに与野党対立の激しい論議
が期待できるからです。

小沢代表は「しっかりとした修正案・代案を出せ」、「場合によっては
審議拒否も辞せず」と、党員にハッパをかけているといいます。

小泉純一郎vs小沢一郎の本格的な対決が見られるのは、これが初め
てで、これが最後になるかも知れません。

そして小泉さんと小沢さんの「党首対談」も見られます。

この二人が正面を切って動かす政局を、私も楽しみたいと思います。

小泉の政局vs小沢の豪腕

私が『読売テレビ・報道局』の東京駐在にとして赴任したのは、平成
5年9月。私とお二人とのつきあいは,その時から始まりました。
当時の小泉さんは、山崎拓・加藤紘一と共に「YKK」と呼ばれ出し
た頃で、「山崎の人徳、加藤の政策、小泉の政局」が相俟って自民党
の新しい流れを創ろうとしていました。

「政局」とは「政界のなりゆき」のことで、小泉さんの最も得意とす
るところだったのです。

一方の小沢さんは自民党を離党、羽田孜を党首に新生党を結成、日本
新党の細川護煕代表を説得して、8党連立会派による細川内閣を成立
させた直後でした。

細川内閣が打ち出した「消費税廃止・7%の福祉目的税=国民福祉税」
構想は、小沢さんの発案だといわれています。

羽田孜党首を表に立てて政局を動かすことから、「怖い人・豪腕小沢」
と言われ出したのも、この頃からです。

小泉さんと小沢さんは、私のインタビューに快く応じてくれました。
『ウェークアップ!』にもよく出演して下さいました。

小沢さんとは飲んだ思い出がありません。当時の小沢さんは取り巻き
が多く、取材以外ではなかなか親しくご一緒するわけにはいかなかっ
たからです。

しかし小泉さんとは飲む機会がありました。小泉さんはかなりの酒豪
で、「僕の同調者はほとんどいないんだよなあ」言いながら力説する
郵政三事業民営化論などの話も楽しいものでした。

総理になった今ではその機会が少なくなったのが残念です。

平成7年、総裁選に初めて出馬した小泉さんは、橋本龍太郎首相と共
に来阪し、本社スタジオから出演して下さいました。
在京民放局以外に総裁候補者が揃って出演したのはこれが初めてで、
小泉さんは3度の総裁選全てに出演しています。
その意味で、「私の東京での記者生活は、小泉さんと共にあった」と
いえるように思えます。

明日は、似ているようで似ていない小泉さんと小沢さんについて話し
たいと思います。

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