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その年、もう春はやって来ないものだと思っていた。
1995年…1月17日。阪神大震災の当日。
温かい布団にくるまれ眠る…静かな部屋。
その瞬間は突然やってきた。
兵庫県芦屋市、震度7の激震地区。
鉄筋コンクリート6階建てのマンションの4階。
激しい揺れに翻弄され、真っ暗な闇の中…マンションが軋む低い音、本棚から本が落ちる乾いた音、箪笥が倒れる重い音、趣味の陶芸で作った花器が棚から落ちて割れる音、グラスが粉々に砕け散る高い音、自分がその上を転がる音…痛み、耐え続けた時間は数分にも感じられた。余りの揺れの大きさに、自分の足で立つことも…這う事もできず、ベッドとともに…部屋中の倒れた家具とともに転がり続けた。地震にされるがまま…生まれて初めて「死」を意識した。しかし、その時はまだ、これが地震とは思わなかった。関西に地震はない…どこかで大規模な爆発がおこったか、ミサイルが打ち込まれたか…ポルターガイストの仕業か…。思い込みは恐ろしい。もしこれが地震なら東京はもっと凄い事になっているだろう…日本沈没か…。本気で、そのとき考えた。
大きな揺れの後、何があったのか、外の様子を恐る恐るうかがう。その時、窓を通して目に飛び込んできた風景は…信号も街頭も、街の灯かりも一切ない漆黒の深い闇。
街から電気もガスも水も…全て奪われた瞬間だった。
部屋の扉が開かない。ベッドのそばを離れ、倒れた箪笥やテレビの上を乗り越えて辿り着いたドア。部屋がゆがんだのと…ドアの前にうずたかく積みあがってしまった家具…電子レンジや食器棚や割れた食器が邪魔になっているのだ。歩くたびに、お皿やカップの砕けた破片がジャリジャリ音を立てる。隣のキッチンでは冷蔵庫が倒れ、中のものが飛び出し割れて酸っぱいお酢の匂いや、甘いカルピスの匂いが漂っている。「どうしよう…」万が一火事になったら…。さっき見た窓の外は、微かに下から煙が立ち昇っていた。取り敢えず外に出なければ!!木の扉をちから任せに家具にぶつけ、何とか隙間をつくって這い出る。しかし、また玄関のドアが同じ状態…。それもまた同じようにして、なんとか外に出る。しかし、靴がない。鍵がない。部屋の中は…大きな力に持ち上げられてシェイクされたような状態のため、鍵のある場所も靴も、他の家具に埋まってしまってどこにあるか分からない。寒い。もう一度、部屋に戻って探す。「痛っ!」何かが刺さる。割れたポン酢のビンだ。酸っぱい匂いが手についている。十数分かけて、ダウンジャケットと革靴だけ、なんとか発掘できた。寝巻きの上に羽織る。そんな格好のままでマンションの階段を下りる。一部は既に破損していたが、更に降ろした足の重みで、ガラガラと崩れて行くものもある。ひびの入った壁をつたいながら降りていく。
マンションの前の国道2号線。傾いた電信柱。くずおれた土壁。消火栓が倒れて水が噴出している。光を失った信号。数分前とは打って変わったような静けさ。水の流れる音だけが響いていた。これだけのことがあったのに、見渡す限り街には人が一人もいない。真っ暗な街に一人佇んでいると、ゴーストタウンに立っているような気さえしてくる。警察は?消防は?…しかし、消防車を見たのは数日経ってからの事だった。ほとんどの消防署も潰れていたのだ。隣のクリーニング工場は2階建ての建物が平屋になり、広告の塔は倒れて隣の家をまっ二つに割っている。その隣の家をのぞいてみた。やはり古い木造家屋。立派な瓦屋根も黒壁も形を残さず潰れていた。さっき見た窓の外の煙は、家々が潰れて舞い上がった砂煙だったのだ。
しばらく歩いていくと、遠くにやっと人が見え始める。どうやら警察官と寝巻き姿の近所の人が話しているようだ。その前にはブロック塀が崩れ、その下からバイクのタイヤが見える。…5時46分。新聞配達の真っ最中。狭い道、高い壁。…言葉が出ない。
6年も住んだ街。よく知っている街角を、悪夢を見るようにさまよう。どれくらいの時間、歩いただろうか、寒さも忘れ…。少しずつ夜が白み始めた。ひとっこ一人いなかった街角に、お弁当屋のおばちゃんや不動産屋のおっちゃんの姿が見える。恐る恐る家の外に出てくる数人の近所の人たち。「何があったんですかねー」「大丈夫ですかー?」崩れた家につぶされた車。エンジンだけをかけてカーラジオを聞いている人。どうも、大きな地震があったらしい。淡路島近くで…。このとき、初めて阪神大震災の事実を知る。被災地では情報を得る手段は少ない。
その日、私はワイドショーの番組の取材があり、スタッフと大阪で待ち合わせていた。このままでは待ち合わせに間に合わない。なんとか、連絡をとらなければ!今からでは可笑しい事かもしれないが、あんな大惨事にあったにもかかわらず、その時まだ被災地の多くの人が仕事に行かなければ…と焦っていたのだ。駅に向かう。駅までの道、ほとんどの日本家屋は潰れていた。柱が剥き出しになり土壁の中身は外にあらわになり、内臓がむきだしになったような痛々しい姿をさらしている。酷く粉々になった大きな土壁の家が崩れ、柱や土の山と化した前で茫然と佇む寝巻き姿の人たち。何人かの若者が潰れた柱を掘り返していく。おばあちゃんとおじいちゃんが生き埋めになっていた。何とかしたい!しかし、手伝おうにも素手で100坪近くある敷地の豪邸の残骸を崩すには限界があった。「お姉ちゃんには無理だから…」汗を流して、一本ずつ柱を抜いていた若い男性に制される。その隣の家からは「うちのお父さんがこの中に…誰か…」パジャマ姿の奥さんが叫ぶ…。「すみません。家事をやってて熱湯をかぶったんです。病院はどこか知りませんか?」白いシーツで女性の上半身を覆って泣きそうになって歩く男性。この世のものとは思えぬ光景が広がっている。病院の場所を教え、人を呼びに行き…しかし、あの時、あの瞬間、自分はやるだけの事をやれたのか、やっていたのか…未だに心にわだかまりが残っている…。
駅に着いた時には、どれだけ時間がたっていたのか…、夜はすっかり明けていた。駅の周りにある2階建てのお店は、みな潰れ、一階建てに。かわり果てた姿を晒していた。勿論、2階建ての駅舎も潰れていた。ホームも崩れ、中から土嚢があらわになっている。駅前の非常用の公衆電話には長い列が出来ていた。…そうだ。待ち合わせているスタッフに電話しなければ!!列に並ぶ。なぜか、その中にスキーの板を抱えてスキージャケット姿の若い女の子がいた。なんと、スキーの帰り電車の中で震災に遭い、電車が途中でとまってしまったので線路の上を歩いてきたと言うのだ。その日の朝の気温が1.4度。足の先から手の先まで…冷たくなって動かない程すっかり凍えていた私には、スキージャケットが少し羨ましかった。自分の番が来た。大阪の製作会社に電話をする。「駅も崩れているし、電車も止まっているらしい。今日は無理かも…。」そう言いかける私に、スタッフは「植村さん、大丈夫だったんですか?今日の取材は勿論延期しますよ、それより東京のご実家には電話したんですか?え?まだ?心配していますよ、きっと!!こちらから連絡しておくので電話番号を教えてください。」…ああ、はっきり言って、自分の家族の事はスタッフに言われて初めて気がついた。目の前の事が凄すぎて、そこまで気が回らなかった。しかし、その後母から聞いた話では…醜い事実が明らかになる。その日、朝からテレビのニュースで断片的に入ってくる映像。震災で倒れたビル、倒壊した家屋。煙を上げ燃え盛る家々の映像。娘の住んでいる地域はその真っ只。しかし、何時間も連絡が取れない。この日一日で、母の胃に潰瘍ができたのを知ったのは、具合が悪くなって母が病院に行ってからだった。お母さん、ごめんなさい。そして、エックスワンの皆さん、母に連絡をとってくださってありがとうございました。一生忘れません。
そうだ、仕事に行かないのなら、この状況を会社に伝えなければならない!!駅からの帰り道、近くのバイク屋さんのおじさんに会う。そのころはまだ普及していなかった携帯電話をこのおじさんが持っていた。貸してもらう。読売テレビ本社の報道部に電話する。状況を伝える。M記者が対応してくれて、芦屋に向かって中継車を出してくれるという。電話を切ろうとする私にM記者。「で、おまえは今、どんな格好なんだ?」「パジャマにダウン?ちゃんとテレビに出られる格好しとけっ!」自分の酷い格好に漸く気づく。しかし、被災地の朝、皆そんな格好だったのだ。
住んでいたマンションから歩いて7,8分のところで「阪神高速道路が倒れているらしい!」知り合いのおじさんに聞いた。確かめるため、家に一旦戻る。明るくなった部屋が、家の中の惨状を、際立たせた。しかし、セーターの袖が見え隠れして、洋服は探しやすい状況にはなっていた。セーターとウールのパンツに履き替え、43号線に向かう。
そこには目を疑うような情景が広がっていた。いつもなら首が痛くなるほど頭を上に向けなくては目に入らない程の高さにある高速道路が、すぐ目の前に倒れている。その下には大きなトラックや乗用車がおもちゃのようにつぶされていた…。
…と、その時。「植村さーん!!」こんな悪夢のような世界で私の名前を呼ぶ人がいる。???振り返ると、Y記者とHカメラマンが自転車に乗って手を振っている。???Hカメラマンはカメラをたすきがけにして、ぜいぜい肩で息をして…。なんと、車で神戸に向かった記者とカメラマンが途中、渋滞で数センチも動けなくなった。取り敢えず、車を降りて歩いていたところ、酒屋さんが目に入る。事情を話したら自転車を貸してくれたそうで、数十キロの道のりを何時間もかけ、自転車をこいでやってきたというのである。そんな二人と偶然に出会い、合流。被災地の現状をカメラに訴えることになる。…私の中での震災報道の始まりだった。既に時は昼を過ぎていた。
自宅のマンションのすぐ裏には地域の避難場所に指定された小学校があった。その足でカメラマンと二人で行ってみる。記者は、そのまま別の避難所に向かう。小学校の体育館に足を踏み入れる。取るものも取り敢えず、着のみ着のまま非難している人が多い。当初の自分のように寝巻きにジャケット。近所の人同士で立ち話をしている。一人は小さな子供の手をしっかり握って。「保育園の同級生の子とお母さんが、一緒に生き埋めになって亡くなったんやて…」「数時間かかってやっと助けたら、まだ温かかったん…。子供を抱いたまま亡くなってたんやて…。」…辛かった。インタビューしようとしても出来ない。言葉にならない。その辛さは聞かなくても分かる、いまさら何を問い掛けたらよいのか。震度7の揺れの恐ろしさは自分でも体験している…。すると、そんなお母さん達の先に、おばあさんが一人で座り込んでいた。額には包帯をまいて…。「大変でしたねー。お怪我大丈夫ですかー?」今度は自然と声が出た。もともと祖母と長く暮らしていたので、自分のおばあちゃんのように、その人の状態が心配だったのだ。しかし、声をかけながら傍によって行って、初めて気が付く。おばあちゃんは、ほとんど放心状態。額の包帯の中央は血で真っ赤に染まっている。…その瞬間、言葉を失った。こんなに長い間一生懸命生きてきて、なんでこの年になってこんな酷い震災に遭わなければならないんだろう…、おばあちゃんは悪くない。それは被災して亡くなった人みんなに言えることだ。誰も悪くない。こんな酷い目に遭う理由はない。なのに、なぜ!?なぜ、こんな目に遭わなければならないのか!?それは強い憤りにも似ていた。
そして…そう感じた瞬間、慟哭していた。ただただ涙が止まらなかった。
それから数ヶ月、グシャグシャの家はそのままに、取材に…中継に…飛び回る日々が続いた。自分の暮らす街が被災し、それを伝える。それは生易しい事ではなかった。好きな街が悪夢のような風景と化し、よく行ったお店の人が亡くなっている。友人の家族は火事で焼け出され、大阪に非難している。お店も失い、生活の糧もない…。何のために、そんな悲しいことを…自分自身辛くて辛くて仕方ない事を言葉にしなくてはならないのか。叫びだしたいような思いのまま取材を続ける。ただ一つ…「この状況を伝え、二度とこの悲劇が繰り返されないために。」そして、願わくば「被災地の人に役立つ情報を伝えるために。」時には会社の宿泊施設に泊まり、時にはビジネスホテルに寝に帰る。しかし、何日かはガスも水もない芦屋の部屋で暮らし、そのまま神戸へ中継に行く事も少なくなかった。温かさには縁のない状態が続く。電車もなかなか復旧せず、道路も封鎖。仕方なく、明け方、大阪の港に向かい、水路、冷たい風にさらされながら神戸にはいる時もあった。しかし、そこで目にするものは…やはり変わり果ててしまった街の姿。人々の悲しみ。…本当に寒かった。体も心も。
寒さと、悲しみが体に染みついて久しい頃。ある日、神戸の被災地に市場が復活したというニュースを中継するために、いつものように取材をしていた。その時、公園の避難所のブルーシートの向こうから私の目に飛び込んできたのは…淡く色づいた桜。
「え?」
一瞬、信じられなかった。
灰色の空、冷たい空気、寒空の下、取材で…そして生きるため、何時間も炊き出しに並んだ。水を汲むために、真っ赤になった指先をさすりながら歩いた。体の芯から…心の芯から何もかもが冷え切っていた。そんな時間が延々と続き、終わりが来ないように思えた。
しかし、春はやってきたのだ。この神戸にも!!
当たり前の事なのに。なぜか、とても勇気付けられた。辛い事はいつまでも続かない。春は来るんだ。被災した街にも春は来る。街は変わっていけるんだ!
その瞬間の想いは、今も心から離れない。
あれから9年。本当に長かった。
その後一旦大阪に引っ越した私も、再び、神戸に帰って来られた。
場所によっては、震災の傷跡を見事に残さず元の活気を取り戻したかのように見える街もある。しかし、人々の心は…。あの日、あの時なくなった尊いもの…それは帰ってはこない。
神戸の市役所の近く。
東遊園地の「1・17希望の灯り 碑文」
1995年1月17日午前5時46分
阪神淡路大震災
震災が奪ったもの
命 仕事 団欒 町並み 思い出
…たった1秒先が予知できない人間の限界…
震災がのこしてくれたもの
やさしさ 思いやり 絆 仲間
この灯りは
奪われた
すべてのいのちと
生き残った
わたしたちの思いを
むすびつなぐ
生き残った私達は、伝え続けなければならない。
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