◆ことばの話3525「大絶賛」

2月11日の日本テレビ『ニュースZERO』のスポーツコーナーで、男性ナレーターが、
「岸の鋭く曲がるカーブを大絶賛」
という原稿を読んでいるのが耳に入りました。この「大絶賛」
「絶賛」
じゃダメなのかな?
最近こういった「言葉の価値の低下」が進んでいるようです。本来「絶賛」でOKだったはずなのに、使われてくるうちに、「絶賛」だけでは物足りなくなってきて「大」をつけたり「超」をつけたり、はたまた「大々」「超々」などとエスカレートしてくる。どこかでブレーキをかけてシンプルに表現するようにしないと、本当に伝えたい内容が伝わらなくなるのではないかという気がしています。
2009/2/27


◆ことばの話3524「拒否か不可能か?」

2月半ばに行われた新聞用語懇談会放送分科会で、病院で妊婦が診察を断られる“事件”に関連して、
「受け入れ“拒否”」
という表現と、
「受け入れ“不能”」
とを区別してほしいという声を医師から聞くのだが、実態はどうなのか?という質問が出ました。これに対して各社から、
「どちらの側に立つかによる。また記者がどこまで取材したかによる、より深い取材が求められるが「統一」は出来ない」
「『拒否』と『不可能』は別物なので、きっちりと取材して区別する『拒否されたり、不可能だった』と書く。テロップで一律「拒否」とするのは乱暴。」
「『産科医療が危ない』というドキュメンタリーで、医者が「『拒否』と言われるが、ほとんどが『不可能』なんだ」と話しているのを聞いたことがある。」
「『受け入れず』『断った』という表現なら、いずれにせよ事実だろう」
などという意見が出ました。
また、2009年2月23日付・日本経済新聞で、東京消防庁の「救急“搬送”」患者の「受け入れ拒否」の実態を、総務省消防庁が調査した内容を報じた記事では、見出しは、
「急患受け入れ 『3回以上拒否』 8%」
とあり、本記を見ていくと、ほとんど「拒否」が使われており、
「拒否理由は『手術・患者対応中』や『ベッド満床』が目立つ」
とありましたが、この理由だと、本来「拒否」と表現していいのか、迷いそうです。(受け入れ「不可能」なのでは?)
ただ、調査そのものが、総務省の、
「受け入れ拒否問題を議論する検討会の作業部会」
で報告されたそうですから、はなから「拒否」という言葉しか使わない感じにも受け取れました。
2009/2/24


◆ことばの話3523「ヒがシになる」

2月13日の深夜(=2月14日)NHK教育テレビ『NHKアーカイブ』の特集で、で故・林家三平の「源平盛衰記」を放送していました、その中で、
「しよどりごえ(鵯越)」
「ヒ」が「シ」になっていました。それ以外にも、
「目をみしらいて(見開いて)」
とも。
「美人はビフテキ、ブスはコロッケ」
なんてのは、今はテレビでは放送できない種類のものですね。三平さん、思いのほか、声がいいんです!

また、小学館から出ている落語CDシリーズで、五代目柳家小さんの落語を聞いていたら、
「グッとしきつけて(引き付けて)」
「むねにしたい(額)つけて」
「あるし(日)のこと」
「しこね(彦根)藩」
「しじ(肘)」
「しきょう(卑怯)」
「しとり(一人)」
「ヒ→シ」のオンパレード!そのほか「おもしろいな」と思った表現は、
「あない(案内)」
「くまものや(小間物屋)」(こ→くに聞こえる)
「あ/お\な(青菜)にし/お(塩)」
『宿屋の仇討ち』(昭和42年10月15日収録)では、
「東海道(ト\ーカイドー)」
「頭高アクセント」「御共」のアクセントは、
「ミ/ドモハ」
「平板アクセント」
「し\じゅう(始終)・さ/んに\ん(三人)だ」
「し/じゅうさんに\ん(43人)」
ではなく、というアクセントの違いをシャレ(オチ)につなげたりもしています。
続いて出た『落語昭和の名人決定版4・六代目三遊亭圓生・壱/火事息子・百川・豊竹屋』小学館CDつきマガジン2009、3、発行)でも、三遊亭圓生の「ヒ→シ」が、いっぱい出てきました。昭和35年2月8日ラジオ京都ほかにて放送された「火事息子」では、
「言われたし(日)にゃあ」
「しじゅうしちまい(四十七枚)しきゃほってない」
「しがし(東)」
「しちや(質屋)」あ、これはこれでいいんだ。
「しけし(火消し)」
「し(火)のほうは」
「しけしやしき(火消し屋敷)」
「し(火)の中」
「しとつ(一つ)ところでバタを踏む」
「このしと(人)のほりもの」
「しもと(火元)」
と満載です!楽しいなあ。圓生はテンポがいいですねえ・・・本題のところの旦那のしゃべり方は、弟子の円楽に似てますねって、こっちが本家だ。
ただ一か所だけ
「ひ(火)がへえーった。」
「し」ではない「ひ(火)」がありました。圓生は幼少期に大阪で過ごしたとかで、江戸弁はもちろん、関西弁や田舎の方言も使い分けるなど、まさに名人と言えるのでしょう
そのほか気になった言い回しは、
・「牡丹にからしし」「しし」が濁らず。
・「お/まるてぇーやつ」(「おまる」が平板アクセントですね)
・「くたぶれた」(くたびれた、の意)
・「しの、ふの、それ!」という掛け声。
・「ごっ\た・か\えしてい/ると」というアクセント。
・「高座(コ\ーザ)」は、やはり頭高アクセント。
・「8か所(はっかしょ)」
・「条件(ジョ/ーケン)」平板アクセント
・「二升から三升(さんじょう)」と濁っていた。
・「身体髪膚父母に受け、あえて毀傷せざるを孝の始めとす。」聞いたことあるなあ。
など。同じCDに入っている『百川』(モ/モカワ=平板アクセント)<昭和31年7月17日。ラジオ東京で放送>でも、「ヒ→シ」は、
「しおどしのよろい(緋おどしの鎧)」。
「しとつ(一つ)」
「しきあげた(引き上げた)」
と出てきました。気になった表現には、
「四神旗(しじんき)」(「シシン」ではなく濁る)
「四神剣(しじんけん)」
「四神」(セ\イリュウ、ビャッ/コ、ゲ\ンブ:スザクは聞き漏らした)。
「なすった」(「なさった」ではなく)
「奉公ずれしている」(「世間ずれ」のような意味でしょう)
「いけえ」(=でけえ)
「隣町(となりチョー)」(「マチ」ではなく)
「鶏卵(けいらん)」
「卵を(タ/マゴヲ」=平板アクセント
さらに、『豊竹屋(トヨダケヤ=濁る)』<昭和39年1月1日。TBSラジオで放送>でも、「ヒ→シ」は、
「しっこし」(引っ越し)
がありました。
また気になった表現は、
「大阪(おおざか)」=濁る
「洗濯(せんだく)」=濁る
「手数(てすう)をかけずに」
義太夫のうなりも、豊竹屋節右衛門の大阪弁も、江戸弁との使い分けも見事です!!ただ、客席の前の方で笑いすぎる若い男がうるさい!落ちはやや弱いですね。

◆ことばの話2269「ひちや」、平成ことば事情2701「したむきなコメント」もお読み下さい。
2009/2/24


◆ことばの話3522「肝臓がんか肝がんか」

キャスターの鳥越俊太郎さんが、原発が「大腸がん」で、今度「肝臓」に転移したので手術するというニュースを読みました。彼の説明によると、
「『肝臓がん』と『肝臓への転移』は違う」
のだそうです。そして「〇〇がん」という場合に、「〇〇」は「原発部位」を言うようになっているようです。
そうなのか。知らなかった。そこで友人の内科医O君に質問したところ、次のような返事が返ってきました。
「まず『がん』には、原発性と、どこかから飛んできた転移性があります。肝臓もそうですが、肺や脳、腎も原発性と転移性があります。でも例えば、胃のがんにまず転移性はなく、ほとんどが原発性です。つまり、他の臓器で発生したがんが胃に飛んでくることはまずありません。でも、胃がん(胃から発生したがん)は転移しやすく、肝や膵に転移し、それらは転移性肝がんや転移性膵がんと呼ばれることになります。
さて、肝臓原発のがんは『肝細胞がん』と『胆管がん』に分かれますが、大半は前者で、C型肝炎から肝硬変になって発症するものが多く、一般に『肝がん』と言えばこの『肝細胞がん』を指します。
大腸がん(腺がん)は肝臓への転移が多いですね。それは大腸からの血液は門脈を通って肝臓へ流れるからです。肝臓に行き着き、定着した大腸がん(転移性肝がん)の組織は、大腸にいた時と同じ腺がんであって、細胞の型が『肝細胞ガン』に変化することはありません。」
大変詳しい説明をありがとうございます。
ところで、もう一つ質問が。
「『肝臓がん』は、そのほかに『肝がん』とも呼ばれますよね?これって違う病気なんでしょうか?同じなら、なぜ2通りの呼び方があるのでしょうか?」

「同じ病気ですが、医療の場では、臓器については『臓』を付けずに『肝、膵、腎』ということが多いです。心臓も『心(しん)』と言います。たいがいの教科書は『臓』なしですね。」

ついでに、もうちょっと。
「『肺がん』は『肺臓がん』とは言わないし、『胃がん』は『胃臓がん』とは言いませんが、『すい臓がん』『臓がん』などは『〇臓がん』という形ですよね、この違いはなぜ?」

「専門用語(解剖学用語?)としては『臓』を付けないんじゃないかなぁ、確証はありませんが。だから、ある臓器を原発とするがんの場合も『○○がん』となって、『臓』を付けないんじゃないんでしょうか。」

ということで、何となく理解できた気がします。O君、ありがとうございました!
2009/2/24


◆ことばの話3521「自覚は高める?深める?」

先日、知り合いから質問の電話がかかってきました。
「『自覚』は『高める』でしょうか?それとも『深める』でしょうか?」
うーん・・・と考えて出た正解は、
「意識を高める」
「理解を深める」
というふうに「高める」「深める」は使う。「自覚」には使わない。「自覚」は、
「自覚が足りない」
「自覚を促す」
のような使い方をする、というものです。その「自覚」を「高めるか?深めるか?」というのは、実は
「意識を高める」「理解を深める」
「意識」「理解」と「自覚」の「混交表現」ではないか?もっと言えば、
「意識を高め、理解を深めるための自覚」
ということを言いたいのではないか?と思いました。
ちなみに質問をしてきたのは、ある中学校の校長先生です。生徒を前にした朝礼か何かでの「おはなし」に使おうとしたのでしょうね。
いかにも教育的な言語でした。
2009/2/24
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スープのさめない距離