◆ことばの話2700「履修漏れか?必修の逃れか?」

高校で世界史などの必修科目の履修がされていなかった問題は、発覚から1週間以上経ちました。この問題の表現について新聞各紙の表現が違います。11月2日の朝刊を見ると、
<見出し>    <本文>
(読売)必修逃れ 高校の必修逃れ問題
(日経)履修漏れ 高校必修科目の履修漏れ問題
(朝日)必修漏れ 高校必修科目の履修漏れ問題
(毎日)履修不足 高校の履修単位不足問題
(産経)未履修    全国の高校で必修科目の未履修が発覚した問題
となっています。読売新聞は11月2日の「編集手帳」で、受験校のこういった体制について厳しく書いていて、そういう意味でも5紙の中で一番厳しい視点で、
「必修逃れ」
という言葉を使っています。学校側が「指導要領に違反すると知りながらあえてやっていた」ことに対する厳しい批判の気持ちを込めたこの表現は、実は生徒に対しても向けられているように感じます。この「逃れ」という言葉は、
「税金逃れ」
を想像させ、言い換えると「脱税」ならぬ、
「脱教(育)」
ですね。「税金の節約」「節税」と言って「脱税」しているようなものです。「脱法ドラッグ」に倣って言うと、
「脱法教育」
です。
毎日の「履修不足」と産経の「未履修」という見出しの言葉は、そういった背景に評価を下さずに、「現象面を中立的に表現」していると言えるでしょう。
そして朝日の「必修漏れ」(本文では「履修漏れ」)と日経「履修漏れ」は、何も知らなかった(とされる)生徒の立場からの表現でしょう。
大局的に見るならば、「ゆとり教育」を採用したことによって、やらなければいけない教育ができなくなって、学校側が一番の目的とする「受験合格」のためにごまかしていたということで、「そんな無理な教育指導要領を決めた国の責任」も当然あると思いますが、
「悪法でも、法は法」
ということを教えるのもまた教育ですし、真面目に取り組んだ残り9割の高校生対する責任もあり、何より「受験に必要のない科目は切り捨てる」という「合理性」(?)が、
「人間としてゆとりや幅が狭く、教養がないけれども偏差値の高い人間」
を生み出すことに繋がったのではないか。それを先導したのは、間違いなくそういった一部受験校の教師たちであるのは、言うまでもありません。
しかし実は、つかまったホリエモンに代表されるような「六本木ヒルズ」的人間を生んだのは、
「目的のためなら手段は選ばない。最先端を走っている私たちは法を犯しているのではなく、法が時代に追いついていないのだ」
というような”論理”を「教育」した教師の側に、大きな問題があるのではないでしょうか?つまり生徒の補習を行なうと同時に、「教育とは何か」ということと学校運営に関する「教師の再教育」
も、70時間どころじゃない、もっと行なう必要があるのではないでしょうか。
生徒を前にした朝礼で、
「悪いのは我々ではなく、ゆとり教育なんてものを押し付けた国だ」
というようなことを演説した静岡の高校の校長は、そういった自覚はまったくない分、教育者としての”罪”は、より重く、1000時間ぐらい補習を受けて欲しい。また、「命の大切さ」を、ことあるごとに教えているはずの学校の校長が、
「死んでお詫び」
をするのも「言動不一致」で、亡くなった先生には申しわけありませんが、そこまでの覚悟があるのなら、問題に立ち向かうのが「教育」ではないか、と疑問を持たざるをえません。
2006/11/3
(追記)

履修不足そのものも問題ですが、私は最近の若い人を見て(なんて言うようになったら、年寄りだ!)思うのはその姿勢です。履修不足で習っていない「常識」に関して、平然と、
「それは習いませんでした。」
とか、
「私、文系(理系)なんでわかりません。」
とか、
「それって、私が生まれる前の話ですよね。」
というふうに、
「自分が知らないことを正当化しようとする傾向がある」
ことの方が問題だと思います。たとえどんな理由があろうとも、知らないことは恥なのです。そして知らないことに対して「謙虚に学ぼうという姿勢」を持たないこともまた、恥なのです。そう考えられるような頭脳を育てることが「教育」なのではないでしょうか?小手先の受験技術を教えることは、教育のごくごく一部分に過ぎません。
2006/11/6
(追記2)

NHKの11月7日午前1時のニュースでは、
「必修科目を教えていなかった問題で」
と言っていました。そのとおりです。
11月4日の『ズームインサタデー』で紹介していた東京新聞の見出しは、
「必修漏れ」
でした。また同じく11月4日の読売テレビ「ウェークアップぷらす」では、
「履修不足」
を使っていましたが、1か所だけ
「履修漏れ」
も出てきました。チェック漏れ?
Google検索(11月7日)では、
「履修漏れ」= 139万
「履修不足」= 265万
「必修漏れ」= 70万 3000件
「必修逃れ」= 43万 1000件
でした。また、読売テレビの報道原稿で10月20日から11月7日まで検索してみたら、
「履修漏れ」=10件
「履修不足」= 8件
「必修漏れ」「必修逃れ」は0件でした。
また日本テレビの報道原稿もチェックしたところ、ほとんどが、
「履修不足」
を使っていて、時々「履修不足問題」という表現も使われていました。特にNNN系列で統一はされていないようです。
2006/11/7
(追記3)

2006年9月13日の日経新聞のコラム「旅の途中」で、神戸女学院大学教授の内田 樹教授が、こう書いています。
「『それは何の役に立つんですか?』という問いをよく学生から差し向けられる。『文学作品を読むことにどんな意味があるんですか?』『哲学を勉強すると、どんないいことがあるんですか?』この問いを向けられるたびに私は少し憂鬱になる。」
そうなんです。まずそれを聞いてからでないと物事に取り組まない学生・若い人たち。内田教授は、
「この問いは致命的な欠陥を含んでいる」
と述べています。その欠陥とは、
「この問いを教育の場で許した場合に、子どもを学びに動機づけることがたいへん困難になるということである。」
と指摘しています。そしてこの問いに対する答えは、
「『その問いそのものの無意味さをいつか君に気づかせてくれる役に立つだろう』と回答するのが『正解』である。(中略)子どもが理解できない言葉を告げることをためらったら、教育はもう成り立たない。」
だとしています。
このエッセイが書かれたのは、「履修漏れ」が明らかになるより前のことですが、合理的に「受験の役に立つ」ものだけを選択して、それ以外は排除する考え方を徹底したことが、今回のような事態を招いたのでしょうが、その前触れはいくらでも見て取ることができた、ということですかね。
2006/11/30


◆ことばの話2699「番号ポータビリティー」


10月24日からスタートした「番号ポータービリティー制度」。今までの携帯電話番号のままで、他のキャリア(携帯電話会社)に移ることができるというもの。ただ、携帯電話番号は同じでも、ケータイメールアドレスは変わるとか、いろいろややこしいことはあるようです。そのほかソフトバンクが申し込み殺到で受付がパンクしてしまったり、「\0」という範囲に関して説明不足だとクレームを付けられたりで、これも問題になっています。
Google検索(10月24日)では、
「番号ポータビリティ」=149万件
「番号持ち運び」=3万5900件
でした。当日(10月24日)私が見たところ、関西テレビ日本テレビ系列は「番号ポータビリティー」、読売新聞「番号持ち運び制」でした。
10月24日の夕刊で各新聞の表記を見てみると、
(日経)「番号継続制度」
(読売)「番号持ち運び制度(MNP)」、見出しは「携帯番号持ち運び」(この記事は3版のみ。4版にはない)
(朝日)「番号ポータビリティー(持ち運び制)」、見出しは「番号持ち運び」
(産経)「番号ポータビリティー」(番号継続制)、見出しは「番号ポータビリティー」
(毎日)「番号継続(ポータビリティー)制度」
しかし実施から1週間経って、各紙の表記が微妙に変わっています。
この土・日(10月28、29日)に、変更の申し込みが多すぎて、ソフトバンクが手続きを2日連続で中止した問題が出たことを報じた10月31日の朝刊での表記は次のとおり。(★が10月24日と変わった表記)
(日経)「番号継続制度」
(読売)「番号持ち運び制度」★
(朝日)「番号持ち運び制」★
(産経)「番号ポータビリティー(MNP)制度」★
(毎日)「番号継続(ポータビリティー)制」★
日経だけそのままですが、読売は(MNP)というのが消えました。朝日は「ポータビリティー」が消え、( )の中にあった「持ち運び制」が全面に出てきました。産経は(番号継続制)が消え、代わりに(MNP)が入りました。そして毎日は、最後の「制度」が「制」に変わっています。みんな、なんで変えたんでしょうね?しかも各社、大変微妙な変更です。
また、10月29日の読売新聞に載った「au」の広告には、
「MNP?まないケット代の略という説あり」
こみちのくもりレゼントの略という説もあり」(太字の部分に傍点あり)
とあって、今、流行の「検索」のスペースに「もこダウン」という文字が出ています。
読売テレビはどうか?実は、アナウンス部にはお触れは回ってこなかったのですが、報道フロアに行くと、10月24日日本テレビNNNセンターから回ってきたお触れの紙が。そこには、
『「番号ポータビリティー」で名称統一』
と書かれていました。そうだったのか。
ところが10月30日の「ニュースゼロ」小林キャスターは、
「番号持ち運び制度」
と言っていました。統一されていないんかい!それとも「ニュースゼロ」は「番外地」か?
うーん、わからん!

2006/10/31

(追記)

家の近くのauのお店の前に張ってあったポスターでは、
MNP
と表示してあって、訳語らしき日本語は記されていませんでした。
2006/11/20


◆ことばの話2698「国論を二分」

先日の関西地区の用語懇談会で、
「国論を二(2)分する」
に関して、「二分」と「2分」の使い分け(漢数字か洋数字か)について幹事社の産経新聞から質問を受けました。うーん、と考えて答えたのが、これ。
「まったく同じ大きさのものに二つに分ける場合は『二分』を使い、単に二つに分ける場合には『2分』も使えるのではないか」
まとめると、「分」(=助数詞)の前に入る数字が何でもよい場合には「洋数字」が入るが、数字とその後の言葉(助数詞など)が一体化して一つの意味を持つ場合には、洋数字は使わずに漢数字を使う、ということになります。この原則が分っていれば、漢数字か洋数字kaで悩むことは、そんなにないと思うのですが・・・でもたとえば、
「『第二次世界大戦』か?『第2次世界大戦』か?』
「『三塁二塁』か?『3塁2塁』か?」
と聞かれると、けっこう悩むでしょ。数字の問題は難しいですよねえ・・・。

2006/10/31


◆ことばの話2697「一分」

「大阪ほんわかテレビ」のナレーションを録音している、先輩の森たけしアナウンサーから問い合わせの電話がありました。
「映画『武士の一分』の『一分(イチブン)』のアクセントは?」
という問い合わせです。
「平板アクセントで『イチブン(LHHH)』と言うと、『一文』と同じになっちゃうから、中高アクセントで『イチブン(LHLL)』じゃYないかなと思うんだけど」
とのこと。NHKのアクセント辞典には載ってないだろうなと思って『新明解国語辞典』を引くと、「0」つまり「平板アクセント」で載っていましたので、そう伝えた後、ふと心配になり、念のため『NHK日本語発音アクセント辞典』を引いてみると、なんと載っているではないですか!しかもアクセントは「中高」が先で「平板」は2番目。もちろん「一文」は「平板」のみです。引いてみるものですね。結局、
「たしか映画『武士の一分』のCMでは『平板アクセント』で読んでいた」
という萩原アナウンサーの証言を元に、「平板アクセント」で読むことになりました。
『新明解国語辞典』によると「一分」とは、
「一人前の存在として傷つけられてはならない、最小限の威厳。(例)男の一分が立たない」
だということですが、「最小限」ではなく「最低限」じゃないのかな?ま、それはさておき「男の一分」「立つ・立たない」というふうに表現されるのですね。「面子」と同じだな。

2006/10/31

(追記)

『武士の一分』、今日から全国一斉公開です!
2006/12/1


◆ことばの話2696「語れやしないと語れはしない」


京阪電車の車内広告で、
「こんな小さなスペースで比叡山は語れやしない
というのを見かけました。この「語れやしない」は、「語れはしない」は、どう違うのでしょうか?
私は「や」の方が口語的で愚痴っぽく、「は」は断定的・書き言葉的だと感じます。
「や」も「は」も強調語です。「〜やする」「〜はする」という形でしょうか。そう言えば堀口大学訳の『月下の一群』の中の「秋の歌」の中に出て来る、
「身をばやる」
の「ば」も強調の形ですね。似てるかな。
「〜はする」「〜やする」という強調形の否定形が「〜やしない」「〜はしない」かなあ。平叙文だと「語れない」。古文は「語れはせぬ」だけで「語れやせぬ」の形はないように思うんですが、どうなんでしょう?
小料理屋の「おかみ」や、落語に出てくる長屋の住人のカカアなんかが、
「やだよおまいさん、こんな格好で行けやしない」
などと言いそうです。というこたあ「〜やしない」は、古文の「〜はせぬ」と、現代文の「はしない」を結ぶ中間の形か?いや、ちょっと待った!
「決して忘れはしない」
のように「〜はしない」は、「決して(けして)」を伴うことができるので「意志」の表れだけど「〜やしない」は「自発」ではないかな?
ここまで考えて、古語にも現の野言葉にも詳しい早稲田大学非常勤講師の飯間浩明さんにお聞きしました。それによると(要約)、
『「〜やしない」と「〜はしない」と語法には、たしかに、ニュアンスの違いがある。『広辞苑』『日本国語大辞典』には、この語法について何も書いてない。『大辞林』は第2版から「や(係助)」の項目を立て、
「口頭語で、係助詞「は」がなまったもの。」
としてある。この説明は、おそらく正しいと思う。
「語れはしない」のような「可能動詞+否定」の形を、会話で感情をこめて言うと、「愚痴っぽい感じ」になるだろうと思う。これは、「不可能」の気持ちが強調されるからだろう。実際、「可能+や+否定」の例を見てみると、愚痴っぽいというか、いやな気分を込めて言っている例は多い。
〈何だか二階の楷子段の下の暗い部屋へ案内した。熱くって居られやしない。
(夏目漱石「坊っちゃん」)
これが相手や第三者に使われると、見くびったような感じが出る。
〈常識と言う眼鏡で 僕たちの世界は/のぞけやしないのさ 夢を忘れた 古い地球人よ〉(秋元康作詞「アニメじゃない―夢を忘れた古い地球人よ―」1986年)
一方、「(ら)れる」に続かない「やしない」は、必ずしも愚痴っぽい感じはない
〈「今の若いのは、したい、やりたいと言うだけで何も始めやしない。まずは第一歩を踏みだせ」と中高年先輩は言う。「甘い、甘えだ」と一笑に付される。が、「今にみておれ!」と叫ぶ精神は、あなたたちより強い。我々は負けやしない。〉(「朝日新聞」1986.03.11p.5「声」)
1番目の「始めやしない」は愚痴っぽい(というより非難の)気持ちがある、2番目の「負けやしない」は自信の気持ちが表れている。べつに「負けなくて困っちゃうよ」と愚痴を言っているのではない。この場合、「決して我々は負けやしない」と「決して」をつけることもできる。
歴史的には、「負けはせず」の連体形から「負けはせぬ」「負けはせん」ができたもので、「負けやせぬ」「負けやせん」はその訛りだろう。関西の場合、遅くとも江戸時代には「〜やせぬ」の形がある。関東では、「負けやしない」は「負けはしない」の訛りの形だろう。「やしない」は、「はせぬ」と「はしない」を結ぶというわけではない。』(下線は道浦)
ということでした。
なるほど。私は、朝日新聞の「声」の投書の例に関しては、ちょっと感じ方が違います。
「我々は負けやしない」
の部分の言い方は私なら、
「我々は(決して)負けはしない」
「〜はしない」を使うと思います。「〜やしない」は「〜はしない」よりも気持ちが弱いと思います。このあたりは感覚の問題なんでしょうかねえ・・。
いずれにせよ、飯間さん、どうもありがとうございました!

2006/10/30
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