◆ことばの話2531「文化住宅と共同住宅とアパート」
先日、報道の記者から、
「『文化住宅』という呼び方は使わない方向だ。『文化住宅』という呼び方は、関西のみだから、全国ニュースなどだと通じないケースもあるし。『共同住宅』『集合住宅』というふうに言い換える。」
という話を聞きました。
子供の頃、よく友だちのうちに遊びに行きましたが、その大半は「文化住宅」だったことを覚えています。あれから40年近く、あの頃よりは減ったとは言え、いまだに電車の車窓から、
「○○文化」
と書かれた「集合住宅」を見かけますから、「文化住宅」自体がなくなったわけではありません。
そもそも「文化住宅」というのは、いつ頃生まれたのでしょうか?また、関西に特有のものなのでしょうか?
そんな疑問を胸に本棚を眺めていたら、三省堂が出している「一語の辞典」というシリーズの『文化』(柳父 章、1995)という本が目に留まり、それを引っ張り出してきて読んでみたら、『大正の「文化」』という項に「文化住宅の流行」という項目がありました。それによると、
『「文化」という言葉は、大正時代、ジャーナリズムや政治家から一般民衆の生活の中にも、「文化」生活、「文化」学院、「文化」鍋、「文化」饅頭などと広がっていく。その中で、「文化」住宅について調べてみよう。』
という書き出しです。「文化包丁」もありますね。「万能包丁」という意味で。「文化」は大正デモクラシーの時代に流行ったんですね。「文化○○」というふうに、何の上にでも「文化」を付けたのが、流行だったのでしょう。その少し前には、たぶん「電気○○」の時代があったのではないでしょうか?「電気ブラン」や「電気あめ」の名前に、かろうじて残されていますが。もう少し先を読んでみましょう。
「建築学者 西山卯三(うぞう、一九一一〜九四)の『日本のすまい』(頸草書房、一九七六)によると、一九二0(大正九)年、第一次大戦終了を記念した博覧会が東京で開かれたとき、建築学者がモデル・ハウスを並べて「文化村」と名付けた。赤い瓦、ガラス窓、白いカーテンの、洋風を取り入れた和洋折衷の家は大変任期を呼び、「文化住宅」と呼ぶようになったという。」
なるほど、「文化住宅」の起源は1920年だったんですね!その後おそらく、昭和30年代に大変流行って、次々と建てられたのではないでしょうか。それからでも50年、起源からだと、もう86年。ある意味では「死語」となりかかっているものですね。
『「文化」住宅は、当時の中流、インテリ階級の憧れであった。洋館というのは一時代前の明治の、いわば上流階級の住居のことだが、「文化」住宅というのは、洋館よりはもっと小さく、だが応接間があり、広い居間や個室があって、家長だけでなく家族みんなの生活を大事にする西洋風で近代的な住居のことである。この住宅は時代の風潮に乗って、東京から大阪や神戸へ広がり、やがて日本中の都市に普及していった。』
もともとは東京からで、大阪・神戸をはじめ、全国に広がったのかぁ。さらに読み進むと、
『そして、一九二五(大正一四)年、神田御茶の水に洋風の「文化アパートメント」が建てられた。アメリカ渡来の「文化」だったわけだが、やはり、「文化」と呼ばれている。』
『やがて第二次大戦後、敗戦で貧しくなった日本において、都市での建築はアパートから始まったわけだが、これを阪神地区では「文化住宅」と言った。戦前の呼び名を受け継いだわけだが、経済成長とともにアパートの価値は急速に低下し、低所得者向きの住宅と言うことになっていく。そのうちに「アパート」と「文化」の呼び名が分化し、アパートは設備共用で木賃(きちん)アパートとも言われ、他方「文化」は「ブンカ」とも書いて各戸に便所と炊事場のある一段だけランクが上のアパートを指して呼ぶようになっている。』
あ、これだ!今、かろうじて「文化住宅」と呼ばれている物は。戦後、関西で広がったんだ!そう言う意味では「関西特有」と言えるのかもしれませんね。
『日本国語大辞典』を引くと、
「文化住宅」=(1)大正から昭和にかけて流行した洋風を採り入れた住宅。和風住宅の玄関脇に洋風の応接間をつけたものが多い。
として谷崎潤一郎の『痴人の愛』(1924−25)、内田魯庵『読書放浪』(1933)、向田邦子『父の詫び状』(1978)から用例が引かれています。
そう言えば、やはり子供の頃、大阪の堺に住んでいた頃の友だちの家で、和風住宅の玄関脇に洋風の応接間が付いた家がありました!
そして2つ目の意味として、
(2)多く関西地方にある木造二階建ての棟割アパートをいう俗称。
とありました。やはり関西特有ですね。しかも俗称。俗称としては「文化住宅」ではなく省略した形の「文化」「ブンカ」だと思いますが。
今後は、ニュースではあまり耳にしなくなっていくのでしょうかねえ。 |
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2006/3/30 |
(追記)
ニューススクランブルの特集で、文豪・谷崎潤一郎の住んでいた洋館を紹介しました。その際に『痴人の愛』の中の一節を朗読していたら、「文化住宅」が出てきました。(1)の意味の「文化住宅」です。
『結局私たちが借りることになったのは、大森の駅から十二三町行ったところの省線電車の線路に近い、とある一軒の甚だお粗末な洋館でした。所謂(いわゆる)「文化住宅」と云う奴(やつ)、―――まだあの時分はそれがそんなに流行(はや)ってはいませんでしたが、近頃の言葉で云えばさしずめそう云ったものだったでしょう。』
と言うことで、戦後の関西の「文化住宅」ではなく、「洋館」の「文化住宅」。あ、なんだこれは『日本国語大辞典』の用例に出ていたものじゃないか!ついでにその「文化住宅」がどんな感じだったかを記した一節を抜き書きします。
「赤いスレートで葺(ふ)いた屋根。マッチの箱のように白い壁で包んだ外側。ところどころに切ってある長方形のガラス窓。そして正面のポーチの前に、庭と云うよりは寧(むし)ろちょっとした空地がある。」
そんな家が「文化住宅」だったのですね。この本の巻末に「文化住宅」の説明がありました。
「関東大震災(大正十二年)の後、私鉄資本などによって、文化住宅と称する住宅が、東京郊外に多数建てられるようになった。その主な特徴は、玄関脇の洋風応接間、玄関から奥へ向けて廊下を通し、その両側に部屋を配置して部屋の独立性を高めること、赤や青の屋根瓦など概観の洋風化であった。ここで出る洋館は、画家のアトリエであって、厳密には別のものである。」
そうですか。ご丁寧に。私鉄資本によって東京郊外に建てられたのが「文化住宅」だったのですね。わかりました!それにしてもこの新潮文庫版の『痴人の愛』、すごいですよ、昭和22年11月に第1版が出て、平成17年6月に出たこの本は、なんと118刷!ロングセラーなんですねえ・・・。 |
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2006/4/6 |
(追記2)
「語源探偵団」というサイトに「文化住宅」が載っていました。それによると、「さばの文化干し」というのがあるそうで、それ以外にも頭に「文化」が付くものには、
「文化住宅」「文化鍋」「文化包丁」
などいくつかあります。なぜ「文化」なのか?そのネーミングについては、「文化住宅」は1950年代以降、日本の高度成長期における関西発信の<文化>であった、と。そして、
『「文化干し」「文化住宅」「文化鍋」といった「文化商品」における「文化」とは、ぜいぜい「新しい生活」という程度の意味しかない。似たような用語はいくらでもある。最近でも「コンピュータ○○○○」「エコ○○○○」「構造改革○○○○」「○○○○のカリスマ」など本来の意味を失っている(真空化した)名称が跡を絶たない。文化本来の意味はともかく、よくもわるくも、その軽さこそ日本的なのであり、文化といえば文化なのだろう。』
と記しています。確かに「文化」が流行る前には「電気」が流行ったのでしょう。浅草の神谷バーのカクテル「電気ブラン」は、別に電気が流れているわけではないですし、今では「綿菓子」「綿あめ」と呼ばれるお菓子も、当時は「電気あめ」と呼ばれたそうですし。
「文化」という名前を掲げることが、「文明」の象徴であったということでしょうか。 |
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2006/4/6 |