◆ことばの話2510「一月はいぬ、二月は逃げる、三月は去る」

いやあ〜こないだ2006年になったと思ったら、もう3月。そうこうするうちに「ひな祭り」も終わっちゃって、今日(3月6日)は二十四節季の「啓蟄」。虫が穴から這い出してくると。もう春なんですねえ。でも今日はあいにくの雨です。
「早いなあ、もう三月かア・・・」
とボヤくと、3年目のAアナウンサーが、
「一月はいく、二月は逃げる、三月は去る、ですよね。」
と得意そうに言うではありませんか。
「ほう、そういった言い方を、キミもようやくも覚えたか。でも、ちょっと違うんじゃない?一月は『去(い)ぬ』じゃないのか?」
「え?イヌ(犬)ですかあ?」
「違うよ、いくら3月が『去る(サル)』だからって、1月の『去(い)ぬ』は『イヌ(犬)』じゃないよ。古語では『去る』ことを『去(い)ぬ』と言うんだよ。知らないかい?」
「はあ、そうですか。」
一応念のためにGoogle検索をしました。(3月7日)
「一月はいぬ」= 74
「一月は去ぬ」= 20
1月はいぬ」= 286
1月は去ぬ」= 39

「一月はいく」= 115
「一月は行く」= 10900
1月はいく」= 459
1月は行く」= 38300
ということで、なんと「いぬ」「去ぬ」よりも、「いく」「行く」の方が多かったのです。ショック・・・。もしかしたら、「いぬ」「去ぬ」は関西方言なのかな?ちょっと、くやしいです・・・。
2006/3/7


◆ことばの話2509「貶めようという意図」

堀江メール問題は、「偽物だった」ということで一件落着・・したようなしないような。まだ尾を引いています。その当事者、民主党の永田議員の2月28日の会見をテレビで見ていたら、発言の中に次のような一説がありました。
「(情報提供者のフリーの記者は)私を貶(おとし)めようという意図はまったく感じられなかった」
と。それを聞いて「おや?」と思ったのです。これは「貶める」ではなく、
「陥れる」
と言おうとしたのではないのでしょうか?
うーん、ああいう公の席では(しかも「おわび会見」だし)緊張して、ついつい間違っちゃったのかなあ。結果として「貶められた」のは間違いないのですが、どちらかと言うと自爆に近い。貶めようという意図が、果たして情報提供者にあったのか、なかったのか。あったとしたら、そいつは、
「刺客」
ですよね。
2006/3/7


◆ことばの話2508「ゲシュタルト崩壊」

「松」
という漢字をジーーーーッと見つめていると、なんだか「木」と「ハ」と「ム」がバラバラに見えてくる現象を、
「ゲシュタルト崩壊」
と言うそうです。早稲田大学の飯間浩明さん2月23日の「今日のことばメモ」で書いていらっしゃいました。
そうそう、そういうこと、あるよねーと話していたのですが、それから10日ほど経った3月7日のお昼のニュース(ニュースD)を見ていたら、日本テレビのKキャスターが、
「鳥インフルエンザ」
が、なぜか言えずに3回もトチっていました。実は言い間違っていない、ちゃんと言えていたのに、なぜか3回も繰り返していたのですが。
「彼は時々、こんな感じになるよね。」
と私が言うと、
「なぜか自分が言っていることが、間違っているような気に陥ることがあるんですよね」
と隣の席のHアナ。
「それって、耳における『ゲシュタルト崩壊』なんじゃないかな。」
と私が言うと、Hアナは、
「ああ、なるほど。そういうことがあるかもしれませんね。」
と答えてきたのですが、本当にそんなことはあるんでしょうかね?
2006/3/7
(追記)
夏目漱石の『門』を読んでいたら最初の方(新潮文庫の昭和55年版の6〜7ページ)に、「近」という字と「今」という字に関して、主人公の宗介が、
「こりゃ変だと思って、疑りだすとわからなくなる」
と言う場面が出てきました。おお、これはまさに「ゲシュタルト崩壊」ではないか!漱石の時代からあったのですね!
え?なぜ今頃『門』を読んでいるかって?『崖の上のポニョ』の主人公の「宗介」は、漱石の『門』から取ったと、スタジオ・ジブリの鈴木プロデューサーがその著『仕事道楽』(岩波新書)の中で書いているのを読んだからです。『門』の宗介は「崖の下」の家に住んでいるのですが、そこもちょっといじって、ポニョでは「崖の上」にしたんだそうです。ふーん。宮崎駿監督は常に、
「ネタは3メートル以内に落ちている」
と言っているそうですが、たしかにそうなんですよね。
2008/9/2



◆ことばの話2507「はいちず」

先日、子供の保育所のイベントに行ったら、模造紙に描かれた地図の上に、
「はいちず」
と書かれていました。てっきり
「はい、地図!」
かと思ったら、実は、
「配置図」
でした。「配置」なんて漢語を「平仮名」で書かれると漢語は思いつかないなあ。せめて、
「ならびかた」
ぐらいにしてくれれば、間違わないと思うけど、いかがでしょうか?
一瞬、写真を撮るのかと思いましたよ。
「ハイ、チーズ」
2005/11/29


◆ことばの話2506「雑誌のスタイル」

報道局のマガジンラックに置いてあった雑誌を見ていて、「ゲツキン!」スタッフのH君と立ち話をしました。
「『週刊朝日』って、篠山紀信が女子大生の写真を撮ったのが表紙になっていた頃はおもしろかったけど、それから随分長い間、全然おもしろくなくなってたんだけど、こないだ久々に見たら、驚いたね、おもしろくなっているの。でもレイアウトなんかが、『週刊文春』にソックリなんだよね。」
と言うと、H君が、
「そういうのって、ありますよね。『YOMIURIウィークリー』も『AERA』を意識した作りになっているでしょ。」
「『AERA』は、今や女性誌だからね。『YOMIURI』も、働く女性をターゲットにしているということかな。」
と言いながら、マガジンラックにあった『サンデー毎日』を見てみると、驚いたことに『サンデー毎日』のレイアウトの印象は、『週刊新潮』にソックリではないですか!いつからこんなあことになっていたんだ!?
随分前から、週刊誌は『文春』と『新潮』ぐらいしか読んでなかったんですけど、世の中のほかの週刊誌も、そちらの方向に動き始めていたのですね。
そんなことがあって数日後、3月1日の読売新聞1面下の書籍広告の欄を見て「あっ!」と驚きました。あのインテリア月刊誌『室内』が3月号で休刊すると言うのです。知らなかったあ、そうなのかぁ・・・と思って、先輩のSキャスターにメールすると、
「そんな雑誌、知らん!」
という返事が。そこで、
「山本夏彦、知りませんか?」
と返すと、
「もう死んだやろ」
と、すげない返事。
「その山本夏彦が50年近くにわたって編集発行人を務めてきたのが、『室内』なんですよ!山本夏彦はその著書の中で、『木工界』から『室内』と名称は変わったが、大看板の雑誌が次々潰れていく中で、こんな弱小雑誌が50年近くも続いたのは、『室内』にはピークがなかったから。絶頂期があると、あとは下るだけだというようなことを何度も書いていたんですが、それでもやはり本人が亡くなると、その雑誌にも終わりが来るときがあるんだなあと、感慨深いんです。」
と長いメールを送ると、
「ふーん」
とまた短い返事が。
「感動が薄いな」
と返すと、今度は、
ギョエーッ!!と驚くほどのネタではないやろ」
と言うので、
「それはそうですけど・・・。夏彦の亡くなった後は、息子の山本伊吾が継いでいたんですが、この人は新潮社の『FOCUS』の最後の編集長も務めた人で、その意味では幕引人ですねえ。」
と返事しておきました。広告を見てすぐに『室内』の最終号を買い求めました。この雑誌で夏彦に見出された人に、作家の阿部譲二さんがいますが、最終号の真ん中あたりのカラーページで、伊吾と対談していました。
最終号に寄せては、安藤忠雄のほか川上弘美や藤森照信、出久根達郎、黒田清太郎といった錚々たる面々も文章を書いていました。
ちょっとおもしろかったのは、平成7年3月号の「人物登場」というコーナーでインタビューに答えた木村俊彦さんという構造設計家の人。タイトルは、
「地震で倒れない建物はない」
阪神大震災のすぐ後に発行されているんです。当たり前だけど、とっても挑戦的なタイトルです。あの時期にこんな”真実”を突きつけたタイトルは、なかなか付けられるものではないのではないかと。
その中で木村さんは、
「今回崩壊した高速道路の鉄筋の熔接などにしても、要は人と人の信用問題なんです。ですからもし疑ってかかるなら、熔接工一人につき検査官一人がついてなきゃならない(笑)。そんな監督はできないですからね。それこそ昔は現場の世話役が、500袋セメント練る分の20や30袋を浮かせて、それで飲んじゃう。それが甲斐性というか人を集める腕力になってましたが・・・・これよりももっと工事金額を増やした方がいい、ということになった(笑)。」
「一級建築士は構造計算できることになっているんですが、できない。それで我々がお金をもらって構造計算をしていますから、つぶれた時に知らん顔はできない。」
ふーん、そういうものですか。
さて『室内』を買った日、帰りにまた本屋で、新潮社の雑誌(おまけでくれる、本当は一冊税込100円・)『波』の2006年3月号をもらって読んだら、
「『週刊新潮』創刊五十周年記念特別対談・『週刊新潮』の五十年を貫くもの」
として、『週刊新潮』の減編集長・早川清氏(1978年入社)と評論家の福田和也氏が対談していました。写真を見ると二人とも年恰好がとってもよく似ていて、兄弟じゃないか、もしかしたら二卵性の双子では?と思うくらいです。髪の七三分けの向きが逆なので、ちょうど鏡に映った姿のようです。
『週刊新潮』は50年、『室内』と一緒なんですねえ。そういえば今、創刊50周年記念で、表紙が懐かしい谷内六郎さんのものになっていますね。
その『波』の中で早川編集長は、「週刊新潮』は『週刊文春』がライバルとみられがちだが、早川編集長が入社した当時は『新潮』の方が勢いがあったので、「え?あそこがライバルなの?」と歯牙にも掛けない感じだったと。そのうちいつの間にか部数も追いつかれ、抜かれてしまい、今ではむこうが「え?『週刊新潮』がライバルなの?と思っているのではないか」と話していました。「週刊新潮」は50年の歴史の中で、編集長は5人しかいないんですって。それもすごい。
50年で驚いていてはいけない!というような記事が3月2日の読売新聞に載っていました。食や栄養に関する月刊情報誌『食生活』が、今年で創刊100年目を迎えたそうです。1907年(明治40年)に『食養』という名前でスタートして、戦中には『国民食』、戦後まもなく『食生活』になったそうです。現在発行部数は5万部で、社団法人「全国地区衛生組織連合会」というところが出しているとのこと。大したものですね。
また、雑誌ではありませんが、シリーズで640万部を売ったベストセラー『間違いだらけのクルマ選び』(徳大寺有恒、草思社)が1月末に発行の最終版で30年の歴史を終えたそうです。こちらは同じ3月2日の朝日新聞に載っていました。徳大寺さんは、
「この30年で日本車は良くなった。僕の本の目的はとっくに達成しています。」
とコメントしています。
往く本、来る本・・・・ですか。
2006/3/3
(追記)

またスクラップなんかの資料をガサガサしていたら、『ダ・カーポ』の去年の12月21日号を見つけました。その中で、「雑誌身辺調査」というコラムを川端幹人という人が書いていました。その号のタイトルは「新聞社系週刊誌が生き残る可能性」というシビアなもので、取り上げられているのは『週刊朝日』『サンデー毎日』『ヨミウリウイークリー』。
「実は不振を極める週刊誌業界の中でももっとも深刻な危機に直面しているのが、この2誌(『サンデー毎日』と『週刊朝日』)に代表される新聞社系週刊誌だ。たとえば『週刊朝日』はこの2年で全盛期の半分以下の20万部を割り込む寸前まで部数を落としているし、『サンデー毎日』にいたっては、直近のABC調査で9万部ちょっと』
「この秋(2005年秋)は新聞社系週刊誌の編集長交代が相次いだ。新聞10月には『サンデー毎日』、11月には「週刊朝日」。しかも、いずれも前編集長が就任してから2年もたたないうちの交代劇である。」
とありました。そうか、『週刊朝日』も『サンデー毎日』も去年の秋に編集長が変わって、編集方針を変えたんだ。売れている雑誌のノウハウを取り入れて「変身」を諮っていたのか!(たぶん)なるほど、以前見たときと変わっていたのは、そういった「お家の事情」があったのですね。
ついでに、雑誌関係で、3月6日の朝日新聞に
「少年問題見続けて半世紀、月刊少年育成600号」
という記事が出ていました。社団法人大阪少年補導協会というところが1956年4月に『月刊・少年補導』として創刊、1993年に今の『少年育成』に改称。発行部数、約1万部は立派。3月6日発売の3月号で通産600号を迎えたそうです。この雑誌も50周年なんですね。そこから考えると、もしかしたら、50年前の1956年、昭和31年は、たしか、
「もはや戦後ではない」
と『経済白書』が宣言した年。経済的な自立、経済の活性化を背景に、その年にいろんな雑誌が芽をふいたのではないでしょうか。『週刊新潮』しかり、『室内』しかり、『少年補導』しかり。たった3誌でもって、そう断定するのは乱暴ですが、もしかしたら、そうなのかなあ、とちょっと思いました。
2006/3/7
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