◆ことばの話2385「OVA」

小学2年生の子どもが、今一番ハマっているのは、
「テニスの王子様」
というマンガです。アニメの放送(テレビ東京系)は今年の春に終わったのですが、その後も、ビデオを借りて来ては見ています。最近はマンガ本も買って読んでいます。そのマンガの最新刊に、こんなことが書いてありました。
「『テニスの王子様』が、OVAでアニメになります。」
え?「OVA」って何なの?英和辞典を引くと、
「OVA」=OVUMの複数
と出ていました。今度は「OVUM」がわかりません。また引いてみます。
「OVUM」=[生]卵子、卵
だそうです。「なまたまご」ではありません。「生物」関連用語で「卵子(らんし)」です。でもこれは、どう考えても関係なさそうですねえ。
インターネットで調べてみると、
「オリジナル・ビデオ・アニメーション」
というものが「OVA」なんだそうです。なんじゃ、その「オリジナルビデオアニメーション」って?
ネットのフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』をひいた(検索した)ところ、こう出ていました。
『OVA(オーブイエー)は、オリジナルビデオの内、アニメ作品であるものを指す語であり、テレビ放送や劇場公開を目的とせず、専らビデオ・DVDでの発売、もしくはレンタルを目的に制作されている。もともとは、
「オリジナル・ビデオ・アニメーション」(Original Video Animation)
の略であるとされたが、後に
「オリジナル・ヴィジュアル・アニメーション」(Original Visual Animation)
の略ともされるようになった。人気が出れば後にテレビ放送・劇場公開される場合もあるし、テレビアニメの続編をOVAで制作する事もある。OVA初期には「OAV(オリジナル・アニメーション・ビデオ)」という表現もよくなされたが、アダルトビデオや家電製品の略称と間違えやすいため、徐々に廃れていった。』

この「テレビアニメの続編をOVAで制作することもある」というのが、今回の「テニスの王子様」にあてはまるのですね。
OVAの歴史は意外と古く、1983年に始まったとのことです。ただ、2004年現在、そのリリース状況は鈍化しているとのこと。これは、かつてOVAとしてリリースされたような作品が、現在はスカパーやケーブルテレビ局の目玉商品として先行放送されたり、独立UHF局で放送されることが、しばしば行われるようになったためで、OVAの定義にも合致しなくなってきたそうです。
ついでに・・・・「テニスの王子様」はなんだか人気があって、この年末にはなんと東京と大阪でミュージカルまで開催されるのですが、そのチケットは即日完売。1枚5600円のチケットが、ネットでは数万円で販売されているほどです。
2005/12/2
(追記)

OVA「テニスの王子様」は2006年3月24日リリース、つまり発売だそうです。マンガ本最新刊の第31巻の帯に、そう書いてありました。また、劇場実写映画も2006年公開予定だそうです。ちなみに「テニスの王子様」は略すと「テニプリ」です。(王子様=プリンス)
2005/12/8


◆ことばの話2384「泣ける映画」

日経新聞の土曜日の別刷り、「日経プラス1」の11月19日号に、
「働く人のストレス解消法」
が載っていました。総合順位と男女別の順位が記載されていたのですが、それによると、総合1位は、
「百貨店などで買い物をする」
でした。これは女性で1位、男性でも5位とともに上位でした。
一方、男女で随分順位が違うものもありました。たとえば、全体で14位の、
「甘いものを食べる」
ですが、女性は8位だけれども、男性は32位。女性の方が「甘いもの」でストレスを発散することが多そうです。同じく総合第13位で、女性では9位、男性では28位と男女差があった、
「大泣きする」
を見て、アッと思いました。そうか「泣く」ことでストレスを発散するんだ!最近、
「泣ける映画」「泣ける小説」
の人気があるのは、主に女性のストレス解消法として人気があったんだ!そうすると、さらにここ数年の「感動」を求めるのも、
「感動」→「泣く」→スッキリ、ストレス発散
という流れの中での動きなのではないか?と思えてきました。そうすると昨今の「感動」を求める風潮も納得できます。感動して涙を流すことで、ストレス解消。涙がストレスを洗い流してくれるのでしょう。涙は心の汗さ!(どこかで聞いた、青い三角定規か?)みんな、思いっきり泣こうよ!・・・しかしちょっと涙を安易に使いすぎでは?と思うのは、古いのでしょうかねえ・・・。Google検索(12月2日)では、
「泣ける映画」= 12万7000件
「泣ける作品」= 1万4800件
「泣ける台詞」= 1030件
「泣けるセリフ」= 119件
「泣けるせりふ」= 24件
「泣けるフレーズ」= 174件
「泣けるマンガ」= 701件
「泣ける漫画」= 453件
「泣ける小説」= 492件
「泣ける音楽」= 227件
「泣ける絵画」= 1件

「泣ける映画」って、需要が多いのでしょうかね。「泣ける作品」も。これに比べると「泣ける小説」が少ないのが気になります。
オマケ。
「泣ける目薬」= 4件
「泣ける胡椒」= 0件
「泣けるトウガラシ」= 0件
でした。
2005/12/2
(追記)

朝日新聞の新年(2006年)1月3日の特集コラム「鑑賞してますか」の1回目が、目を引きました。見出しタイトルは、
『泣きたがるニッポン人』
サブタイトルは
「感動症候群」
「『純愛感触』求める大打算社会」

本文の中では、三菱総研が2003年に行った「感動に関するアンケート」(そんなアンケートがあるんだ!)で、10・20代は約5人に1人が週に1回以上感動し、3人に1人以上が、もっと感動するために意識的に映画を見るなどの行動を取っていて、その上全体の89%が「来年はもっと感動したい」と思っているそうです。いわば、
「ニッポン人総感動したい症候群」
と朝日は書いています。これは言い換えれば、
「一億総感動社会」
とも。
日大の法学部のゼミで「泣きたがる社会」をテーマに共同研究した学生さん(森路歩さん・・・ペンネームかなあ?)の話とか、『「感動」禁止!「涙」を消費する人びと』という本を2005年12月に出版した作家の八柏龍紀さんという人のコメントも載っていました。
『「感動をありがとう」「勇気をもらいました」などという物言いに対し、「感動は餌付けのように与えられるものではなく、内に抱くもの。だからこそ価値があったはず。」と指摘する。』
まさにその通り、全面的に賛成です。この本、取り寄せてみようっと。
なお、「平成ことば事情」では、再三にわたってこのネタを取り扱っています。以下の分も併せてお読みください。
「 183 感動をありがとう」
「 353 感動した!!」
「 431 感動ファクトリー」
「 551 泣ける」
「1863 勇気をもらいました」

あ、「泣ける映画」と同じようなタイトル「泣ける」で「泣ける1本」(ビデオ)の話をもう既に4年前、2002年の1月に書いていました!
2006/1/10
(追記2)

新聞スクラップを整理していたら、2005年11月21日の読売新聞の記事が出てきました。見出しは、
「売れてます 泣ける!『涙本』」
「自分の体験重ね共感」「手軽な感動グッズ」
出版界は「涙本」がブームなんだそうです。「静かなブーム」ではなく「ブーム」ですからホンモノなのでしょう。書店の担当者はお客さんから、
「泣ける本はどれか」
と聞かれることも多いのだとか。それで書店では「涙本」=「泣ける本」の専用コーナーを設けたところもあるそうです。
感動の仕組みを研究している(そんな人がいるんだ!)広島大学大学院助教授(感情心理)の戸梶亜紀彦(とかじ・あきひこ)さんは、
「本は持ち歩いて好きな時間に読める。時間や場所の制約なく、手軽な感動グッズとしての魅力があるのでしょう」
と話しているそうですが、それは別に専門家に聞かなくても・・・そのとおりでしょうね。
2006/3/2
(追記3)

『他人を見下す若者たち』(速水敏彦、講談社現代新書)の中に、
『ある会社の送別会で、上司と別れるのがつらいと言って、泣いてくれた若い部下たちに、その後その上司が、「一度会おう」ともちかけたら、「私たち忙しいですから」とそっけなく断られたというような話を新聞か何かで読んだことがある。』(187ページ)
と書いてありました。そして、香山リカ『若者の法則』(岩波新書)からの、ちょっと長い引用ですが、
「『また泣いちゃったよ』と照れずに語る若者を見ていると、そうやって泣けるような状況に自分がいるということで、何かを確認しているのではないかとも思える。つまり、自分はその他大勢としてぼんやりと生きているわけではない、泣けるような特別なできごとを経験しながら生きている、ということだ。逆に言えば、そうでもしなければ自分の日常はあっという間に退屈なものとなり、毎日の記憶も薄れていくのかもしれない。昔の人間は、生命の危機を回避するためにストレス反応を身につけた。今の若者は、自分喪失の危機から脱出するために"泣きの反応"を身につけた。ただ、その傾向は大人にも確実に広がっており、だれもが『泣ける物語』を求めて本を読み、映画を見るようになってきている。『泣かなければ自分が何者かわからなくなってしまう』という危機感が、世の中全体に広がっているのだろうか。(※下線は、道浦による)
現代の若者にとって悲しみは、自己を確認するための一種の自己調節の道具として使われているのだろうか。しかし、これが「悲しみ」といえるだろうか。
と速水氏は、香山リカ氏の分析をベースに、今の若者が「泣く」のは、「悲しみ」のために泣くのではなく、「自己の精神的ストレス発散」のために泣いている、涙さえも感情の発露ではない使われ方をしている状況に、疑問を呈していました。
特に、私が下線を引いた部分が問題ではないのかなあ。若者ならともかく大の「おとな」まで、というところがです。
2006/4/11
(追記4)

5月23日の朝日新聞「週刊アジア」という紙面の「亜州見聞」というコーナーに、
『疲れたら「泣きバー」』
という見出しの記事が載っていました。中国・山東省青島に「泣きバー」なるものが登場したそうです。入場料は100元(約1400円)で、
「個室の中で好きなだけ泣くことができる」
そうです・・・家で泣けばいいんじゃないの?そんなスペースがないのか?それとも近所迷惑になるほどの大声を上げて泣くということかな?
この店、最初の3日間は、
「一人の来店もなかった」
そうですが、
「心地よく泣いて、泣いて楽になり、泣いた後、笑って人生に向かってください」
などと呼びかけた広告の効果で徐々に客が増え始め、市外から訪れる人も珍しくなくなったと言うのですが・・・私は青島ビールでも飲んでストレスを発散する方が、好き、かな。
2006/5/23
(追記5)

「もしも昨日が選べたら」という映画の宣伝を見ていたら、
「この秋 最初の涙になる」
という宣伝文句が。「最初の」涙、それも「この秋」という限定付き。
この秋以降も、ようけ涙流さはる人、いらっしゃるんでしょうねえ。
2006/9/20
(追記6)

真山 仁『虚像(メディア)の砦』(講談社文庫)という小説を読んでいたら、152ページに、「感動というのは、やさしさと同じだ。内側から溢れ出すもので、主張するものじゃない」
というセリフが出てきて、おそらくこれは著者の気持ちを表したものだろうけど、「その通りだなあ」と思いました。でも北京五輪でも、テレビは感動の安売りをしていましたねえ・・と自戒の念を込めて・・・。

2008/9/8
(追記7)

『カーヴの隅の本棚』(鴻巣友季子、文藝春秋:2008、10、30)を読んでいたら、34ー35Pに、『「泣ける」小説』に対して批判的な一文に出会い、(全面的ではないですが)“わが意を得たり”と思いました。こんな文章です。
『荒川洋治氏によれば、感動とは忘れ去ることであり、感動をこえて残っていくのが感想だ、ということになる。感動が去って、感想が残らない作品には、なにが欠けているのだろう。一瞬「泣ける」小説はいまどき山ほどある。「感想の出ないワイン」というのもごろごろあり、それは一直線に味覚に訴えて感激させ、のぼせあがらせて、あっさり引いていく。BourgogneのVolneyの伝統的な生産者Hubert de Montilleの娘によれば、「そういうのは、娼婦のワインというのよ。事後の余韻もなにもあったもんじゃない」ということになる。』
ワインに関しては、「いいじゃん、安くておいしければ」と思うので完全には同意できないのですが、鴻巣さんが言いたいことはよくわかりました。
2009/5/19


◆ことばの話2383「寛美」

新人のIアナウンサーが、質問してきました。
「あのう、明日のMさんの、この『ヒロミDVDの司会』って言うのは、何時に会社を出発するんでしょうか?」
「さあ、知らないな、東京出張から帰ってきてからだから、時間は分らないね。」

と答えて、勤務を管理している私は、大変なことに気づきました。そのDVDは、
「ヒロミ」
さんのものではないのです。
「カンビ」
さんのDVDなのです。十七回忌ということで松竹から発売される、
「藤山寛美」
さんのDVDなのです・・・。I君・・・いくら関西出身ではないとはいえ、これはないんじゃないか!とも思いました。学校では教えてくれないけどさ・・・。
しかし、気を取り直しました・・・留学生に教えているつもりで話してると思えば。彼が小学校に入学した頃に寛美さんは亡くなっていたんだからね、しょうがない・・・かなあ・・・。そういえば寛美さんの争議のとき「2時のワイドショー」の中継に行ったな。あれがもう16、17年前なのか。月日が経つのは早いなあ。
その後I君は、こう言ってました。
「いやあ、まさかこれを『カンビ』と読むとは思いませんでした。」
そこで私も、
「いやあ、まさかこれを『ヒロミ』と読むとは思わなかったよ。」
ただ、寛美(かんび)さんの娘は、直美(ちょくび)さんではなく、直美(なおみ)さんだから、「ひろみ」と間違えて読んでしまう可能性は、ないことは、ないですかね。
2005/11/30


◆ことばの話2382「フアン・カルロス・ピサロ・ヤギ」

広島の小学生女児殺害事件で、ペルー人の容疑者が11月30日未明に逮捕されました。この容疑者の名前が、新聞によって微妙に違います。
毎日・産経    =「フアン・カルロス・ピサロ・ヤギ」
読売・朝日・日経=「ピサロ・ヤギ・フアン・カルロス」

なぜか語順が違います。
私も論文を載せてもらった『事典・日本の多言語社会』(岩波書店、2005)を開いてみると、134ページ〜137ページに「外国人名」というタイトルで、リリアン・テルミ・ハタノさんが書いています。
それによると、ブラジルやスペイン語圏では個人の名前が名(個人名)と姓(家族名)を合わせて3つまたは4つの単語から成り立っているのが一般的で、ポルトガル語圏であれば、姓が2つある場合、パスポート記載の正しい名前の配列で最初に来る姓は「母方の姓」であり、後に来るのが「父方の姓」。スペイン語圏の場合は「父方の姓―母方の姓」となり、配列がポルトガル語圏と逆になります。外国人登録証明書では、ポルトガル語圏の名前は最後の名前を先頭に移動し、その他の名前はたいていそのままの順。スペイン語圏の名前では、最期の2つ、父方の姓と母方の姓を前へ移動するため、名は3番目または4番目となるとのことです。
つまり語順が違うのは、スペイン語圏では姓は「父方の姓、母方の姓」の順(ポルトガル語圏では逆に「母方の姓、父方の姓」の順になる)で、「ファン・カルロス」という名前が先に来ているのが現地の言い方なので「パスポート」掲載の氏名の順、「ピサロ・ヤギ」が先に来ているのは、日本の「外国人登録証明書」の氏名の順に従ったためと見られます。
この本に「外国人登録証明書の記載例」として載っている「スペイン語圏」の姓名は、
「Jose   Hiroshi Fernandez    Sato」
(ホセ   ヒロシ  フェルナンデス  サトー)
(非日系名 日系名  父方の姓     母方の姓)

となるそうです。(「Jose」の「e」の上と「Fernandez」の「a」の上には、ダッシュのようなアクセントの記号がついています)
ただし、外国人登録証明書には、非漢字圏出身者の名前はローマ字表記されていて読み方は記載されていないとのことです。つまり、読み方がわからない、間違われるおそれがあるわけで、実際ポルトガル語では「マリーニョ」と読むはずの「Marinho」「マリンホ」とされてしまうケースがあるそうです。
また、ペルーでは、容疑者の男は本当に日系人なのか?という声を出ているそうですが、たしかに母方の苗字には日系らしい「ヤギ」というのがありますが、「名前」は「フアン・カルロス」と、日系らしいものが見当たりません。
これで少しわかったことがあります。平成ことば事情2189「ナイジェリア人の苗字」で書いたナイジェリア人の容疑者・アナシ・パキ・オディ容疑者の名前が、逮捕当時は、
「オディ容疑者」となっていたのに、3か月後の初公判の時には、「アナシ被告」に変ったということがあったのですが、これももしかしたら、パスポートの表記と外国人登録証明書の表記の違いから来たのではないか、ということです。同じく平成ことば事情2204「セルビア・モンテネグロ人の名前」で書いた、セルビア・モンテネグロ国籍の男女の氏名が新聞によって違って、男が「ラソビッチ・ジョルジェ」(読売・朝日・毎日)と「ジョルジェ・ラソビッチ」(産経・日経)、女が「パナヨトビッチ・スネザナ」(読売・朝日・毎日)と「スネザナ・パナヨトビッチ」(産経・日経)で「苗字と名前」あるいは「名前と苗字」の順が違ったのも、おそらくこれと同じですね。
その後、12月1日付けでNNN系列(日本テレビ系列)に用語の通達が来ました。それによると、容疑者のペルー人のフルネームは、
「ピサロ・ヤギ・フアン・カルロス」
で、昨日(11月30日)の段階では、
「ヤギ・カルロス容疑者」
という表現がありましたが、今後は、
「ピサロ・ヤギ容疑者」
で統一するとのことです。昨日って言ってますが、今朝の早朝まで「ヤギ・カルロス」でやっていたぞ。『ズームイン!!SUPER』の中でも、途中まで日本テレビは「ヤギ・カルロス」と言い、中継先の広島テレビは「ピサロ・ヤギ」と言っていたように思います。
よく聞いてみると、変更は8時から放送の「情報ツウ」からだそうです。12月2日の「情報ツウ」では、
「ピサロ容疑者」
と言っていました。
ちなみに「フアン」の「ア」は大きくていいです。だから読みは「ファ・ン」と2拍ではなく、「フ・ア・ン」と3拍です。
12月1日の他局のお昼のニュースを見ていたら、テレビ朝日は、
「ヤギ・カルロス容疑者」
でやっていました。NHKは、最初に正式名称を言う際には、
「ピサロ・ヤギ・フアン・カルロス容疑者」
で、短く言う時には、
「ピサロ・ヤギ容疑者」
でした。
12月2日のフジテレビの「特ダネ!」の字幕と読みは、
「フアン・カルロス・ピサロ・ヤギ容疑者」
で省略した字幕スーパーは、
「ピサロ容疑者」
でした。
同じく12月2日のテレビ朝日の朝のワイドショーでは、広島の系列局のリポーターは、
「ピサロ・ヤギ容疑者」
と言ってました。変更したのでしょうか。字幕は、
「ヤギ・カルロス容疑者」
のままでしたが。
TBSとフジテレビのお昼のニュースは、ともに、
「ピサロ容疑者」
でした。
なお12月1日の新聞各紙は、短く書く時の言い方は、
読売・朝日・毎日・産経=「ピサロ・ヤギ容疑者」
日系、いや日経    =「ピサロ容疑者」

でした。
また、フジテレビの放送を見ていたら、実は容疑者の名前は、
「ホセ・マヌエル・トレス・ヤキ」
だという話も出てきました。日本テレビのお昼のニュース(12月2日)では、読売テレビの山根順記者が、
「ホセ・マニエル・トーレス・ヤケ」
だと伝えていましたし、その後のNHKのニュースでは、
「トーレス・ヤギ」
だと言っていました。ヤキか?ヤケか??ヤギか???一体どれが本当やら・・・。
2005/12/2
(追記)

『週刊新潮』の12月8日号(12月1日発売)では、
「ヤギ・カルロス」
でした。
朝日新聞は12月2日の夕刊一面に「おことわり」を出しました。
「広島市の女児殺害事件で逮捕された容疑者のフルネームについて、ペルーでの氏名表記に従い、今後は名・姓の順とします」
ということです。
読売新聞も12月3日の一面で「おことわり」を出しました。それによると、
『広島市の女児殺害事件で逮捕された容疑者のフルネームを、今後は
「フアンカルロス・ピサロ・ヤギ」
とします。ペルーでの氏名表記に合わせて名、姓ピサロ・ヤギの順にしました。』

とのことです。「フアンンカルロス」というふうに、名前の間に「・」はありません。名前はひとつながりという認識なのでしょうね。
12月5日のお昼のニュースでテレビ朝日は、
「ピサロ・ヤギ容疑者」
となっていたので、やはり12月2日から変更したのでしょう。
12月3日のお昼のニュースでは、
(NHK)ピサロ・ヤギ容疑者
(TBS)ピサロ・ヤギ・フアン・カルロス容疑者、ピサロ容疑者
(テレビ朝日)ピサロ・ヤギ容疑者
(フジテレビ)フアン・カルロス・ピサロ・ヤギ容疑者、ピサロ容疑者

ということで、姓だけを言う場合にTBSとフジテレビは父方の姓「ピサロ」だけを使っているようです。
また偽名の関連でNHKは、ピサロ・ヤギ容疑者がこの名前に変える前は、
「ホセ・マヌエル・トーレス・ヤケ」
だと報じていました。アルフアベット表示では「YAKE」、変えた後は「YAGI」でした。
新聞は12月5日の朝刊での表記を確認すると、
(朝日・毎日・産経)=「フアン・カルロス・ピサロ・ヤギ」
(読売)      =「フアンカルロス・ピサロ・ヤギ」
(日経)      =「ピサロ・ヤギ・フアン・カルロス」

朝日・毎日・産経・読売は、短く言うときには「ピサロ・ヤギ容疑者」ですが、日経は「ピサロ容疑者」でした。朝日は12月5日の見出しは「ヤギ容疑者」となっていました。
また12月5日の朝刊各紙によると、このピサロ・ヤギ容疑者の名前はやはり偽名で、本名は、
「ホセ・マヌエル・トレス・ヤギ」(朝日、毎日、産経)
だと話しているということですが、読売は名前の表記はひとつながりで、
「ホセマヌエル・トレス・ヤギ」
また日経だけは姓名が逆で、
「トレス・ヤギ・ホセ・マヌエル」
となっていました。偽名と同じ順番に従ったのでしょうね。
朝日新聞では「外国人登録証がピサロ・ヤギ名義」とありました。また、1993年にペルーで暴行未遂事件を起こした容疑者の名前は、
「ホセ・マヌエル・トーレス・ヤケ」
で、それについて「ピサロ・ヤギ」容疑者は、
「トーレスは異母兄で、別人」
と話していると書いてありました。
2005/12/5
(追記2)

12月6日の読売新聞社会面にまた「おことわり」が出ていました。
『広島女児殺害事件で逮捕された容疑者が偽名を使ったことを認めましたが、広島県警が本名を確認するまでは従来通り、「フアンカルロス・ピサロ・ヤギ」と表記します。』
とのことです。
また、12月7日のNHKお昼のニュースでは、
「自称、フアン・カルロス・ピサロ・ヤギ容疑者」
として、偽名とされる名前の上に、
「自称」
を付けていました。読売テレビも12月7日の「ニューススクランブル」では、
「自称」
を付けてました。
2005/12/7
(追記3)

結局、広島県警がピサロ・ヤギ容疑者の氏名は偽名であることを確認、本名は、
「トレス・ヤケ」
であることがわかり、各社、本名に変更しました。
NNN(日本テレビ系列)では12月9日に用語通達が届き、
『これまで、「ピサロ・ヤギ容疑者(30)」と報道してきましたが、今後は、
「トレス・ヤケ容疑者(33)」
に変更となります。年齢も、30歳から33歳に変更です。これは、広島県警がペルー政府に問い合わせを行ない、正式な照合結果の回答を得て、訂正発表したことに伴うものです。なお、フルネームは「トレス・ヤケ・ホせ・マヌエル」です。』

となりました。
2005/12/22


◆ことばの話2381「遠逝」

先週末、京都に紅葉狩りに行ってきました。南禅寺から永観堂へ。地下鉄・蹴上駅を降りたら、まあ、すごい人。今年はあまり、色の抜けが良くないように感じましたが、まあ、季節のものですから。
その紅葉狩りの途中、トイレに行きたくなって駆け込んだのが「野村美術館」。
野村美術館は、野村證券・野村銀行などの金融財閥を一代にして築き上げた野村徳七のコレクションをもとに、昭和59年(1984)に開設。コレクションは、茶の湯と能に関するものが主体となっているそうです。初めて中に入りました。(トイレが目的で・・すみません・・・)入館料700円。
徳七翁は、昭和20年(1945年)に66歳で、
「遠逝」
したと書いてありました。「エンセイ」と読むのでしょうね。この「遠逝」という言葉、初めて知りました。「亡くなった」ということは分りますが。
GOOGLE検索では(11月29日)、
「遠逝」=243件
偉い人が亡くなったときにしか使わないみたいですね。『日本国語大辞典』によると、
「えんせい(遠逝)」=(1)遠方の地へ立ち去ること。(2)(遠方に行って帰らないことの意から)死ぬこと。長逝。
用例はなんと17世紀初頭の「鹿苑日録」ですよ。歴史のある言葉のようですね。
「遠逝」は遠くなりにけり、ですか・・・。
2005/11/29
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