◆ことばの話2150「尼僧」

「ズームイン!!SUPER」の中で、体験リポートを担当している小林杏奈アナウンサー、その取材予定を、アナウンス部のスケジュール担当デスクである私のところに担当ディレクターが持って相談に来ました。
「今回はですね、小林さんに一日『アマソウ』体験をしてもらおうと思うんですけど・・・。」
「ちょっと待った!それって、尼寺(アマデラ)に行くんでしょ?」
「そうですけど・・・」
「じゃあ、それ、『アマソウ』じゃなくて『ニソウ』と読むんだよ。たしかに『尼崎の尼』に『僧侶の僧』と書くけど、音読みで『ニソウ』。『アマソウ』ではないですよ。」

と言いながら辞書を引いて、
「ホラ・・・ここに書いてある。『尼僧(ニソウ)』でしょ!?」
「あ!本当だ。」

という話がありました。大丈夫かなぁ、このリポート取材。ちょっと心配になって来ました。詰めが「アマソウ」。
まっ、事前に間違いを指摘できたので、後日のリポートは何とかちゃんとできたようでしたが。
 
2005/4/15
 


◆ことばの話2149「ワンクリ詐欺」

クリック1回で入会、あわてて退会しようとすると自分の電話番号が知られてしまい、「登録料と解約手数料を振り込め」と脅される。そういった、
「ワンクリック詐欺団」
が、4月13日、大阪府警に摘発されました。このニュースを伝えた翌日、4月14日の新聞見出しは、産経・毎日が、
「ワンクリ詐欺」
読売が、
「ワンクリ事件」
なんか、「ワンクリ」って「なんとなくクリスタル」を略して
「なんクリ」
というような感じで、なんとなくヘンな感じ。
朝日は省略せずに、
「ワンクリック詐欺」
でした。但し、ネットの朝日新聞は、
「ワンクリ詐欺」
という見出しでした。GOOGLE検索だと(4月14日)、
「ワンクリ詐欺」=7060件
「ワンクリ事件」=0件
「ワンクリック詐欺」=3件
「ワン・クリック詐欺」=4件

でした。
 
2005/4/14
 


◆ことばの話2148「故障中2」

4月11日の読売新聞夕刊(大阪版)の「ことばのこばこ」で、梅花女子大学教授の米川明彦先生が、
「故障中」
について書いていました。それによると、この「〜中」の使い方は明らかに間違っているのだそうです。というのも、
「何かをしている間・状態であることを表す『〜中』は、行為・動作・動きの意味を持つ言葉に付く。たとえば、『話し中』『工事中』『会議中』など。問題の『故障』は作動していないので、『〜中』を使うことはおかしいのだ。『死亡中』といえないのも同様。」
とのこと。そして、同じく「故障中」に違和感を感じる仲間を見つけたとして、作家の東野圭吾さんのミステリー小説『探偵ガリレオ』(1998)の中で、登場人物が、
「故障中という言葉はあるのか?故障で十分意味は通じる」
と呟いたことを記しています。
私も以前、「故障中」について書いたことがあります。(平成ことば事情569)。
そこでは、このコラム「ことばのこばこ」のもう一人の執筆者である、武庫川女子大学教授の佐竹秀雄先生が、著書「サタケさんの日本語教室」(角川ソフィア文庫2000・3・25)の中で「”〜中“というのは人間が主体となって”〜している“ときに使える表現」だから「”故障中“の張り紙の場合は、機械がまるで人間のように意志を持って”故障している“みたいで不自然になる」
と書いていたことを紹介した上で、私は、
『販売機なり機械を取り仕切っているのは、紛れもなく“人間”だから、その人間の意志を反映したと考えれば「故障中」でもおかしくない気がする。逆に「中」をつけなくて「故障」とだけ記されていたとしたら、それを見た人はきっと「この販売機の持ち主は商売をする気がないのか!」と、腹が立つのではないか?「商売する気がないのなら、目障りだから壊れたものをいつまでもこんなところに置いておくな!」と思うのではないか。(2002、2、16)』
と書いています。私はそれほど違和感を覚えない方なのです。
今回、米川先生の文章を読んで私が感じたのは、この「故障中」は、
「故障(に付き、現在修理の準備)中」
あるいは、
「故障(に付き、現在メーカー修理の問い合わせ中で返事待ち)中」
の(  )を省略した形と考えられないか?、ということです。どうでしょうかね?
 
2005/4/13
 


◆ことばの話2147「義理の父」

4月11日の「きょうの出来事」のニュース原稿で、大阪府高石市で去年10月、「義理の父親」が当時2歳の息子を虐待死させた事件の裁判のニュースが出てきました。
それを下読みしていて「おや?」と思ったのは、
「義理の父」
という表現です。この場合、亡くなった2歳の男の子にとって、被告は本当のお父さんではなく、いわゆる母親の方の「連れ子」だったのですが、その父と母親は再婚していたために、この子はその父の戸籍に入っていたのです。そうするとこれは「義理の父」で良いのか?という疑問が出てきました。普通、「義理の父」と言って思い浮かぶのは、
「妻(あるいは夫)の父」
あるいは、「養父」ですね。これは「義父」「義理の父」と言います。今回のように婚姻届を出していた場合も「義理の父」になるのでしょうか?
『広辞苑』「義父」を引くと、こう書いてありました。

「義父」=義理ある父。継父・養父、および配偶者の父

そうなのか!「義父」には3種類の父があるのか!反対語は「実父」だったので、これも引いてみました。
「実父」=血を分けた本当の父。実の父。
なるほど、血を分けた生物学上の父が「実父」。戸籍上とか人間関係の中で結んだ「父」は「義父」「義理の父」となるわけですね。
これが母親でも同じように「継母」「養母」および「配偶者の母」が「義母」「義理の母」になるのですが、一つ違うのは、母親の場合は父親と違って、子供を「生む(産む)」という行為ができますので、
「生母」
という表現がありますが、父はタネは提供するものの「生まない」ので、
「生父」
という表現はないというところでしょうか。(『広辞苑』にはありませんでした。)
奥が深いですね、血縁関係は。

 
2005/4/11
 


◆ことばの話2146「仰げば尊しのアクセント」

3月の中旬、卒業式のニュースを読んでいたYアナが、♪「仰げば尊し」のことを、

「あおげば(LHLL)、とうとし(LHHL)」(Lは低く、Hは高く発音する)

2つに区切って読みました。曲名の中にアクセントの山が2つあることになります。これには私は、強い違和感を覚えました。私の世代だとこの曲の名前の読み方は当然、

「あおげばとうとし(LHHH・HHHL)」

とコンパウンドして、アクセントの山は1つです。
そこでハタと思いついたのは、おそらくYアナはこの歌を歌ったことがないのではないか?という疑問です。よく使う言葉はコンパウンドすることが知られています。だから「仰げば尊し」になじみのある我々の世代はコンパウンドするのに対して、Yアナのように歌ったことがない、知らない世代にとっては、この曲名も「単なる文章」に見えて、2つに区切って読んだのではないか?ということです。
ニュースから帰ってきたYアナに聞いてみると、
「もちろん、曲は知っていますが、卒業式などで歌ったことはない」
とのことでした。やっぱりね!なんだかさびしい気持ちがしましたね。
アナウンス部内で何人か聞いてみると、
「コンパウンド派」=4人
「2つに切る派」=3人
と、ほぼ2分されました。(聞いた人数が少ないけど。)
仰いだり尊く思う先生がいなくなったから、歌わなくなったのでしょうか?
でも、歌うか歌わないかを学校で決めたのは先生方ではないですか?子供たちに歌わせるのは偽善的だとか、「そんなに歌ってもらうほどのことはしていないよ」という謙遜なのでしょうか?子供たちが自発的に歌いたくなるような先生になって欲しいなあ・・・。

 
2005/4/11
 
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