◆ことばの話2130「被疑者死亡のまま」

以前から、
「被疑者死亡のまま」
という表現について、
「死んだ者は生き返らないのだから、『死亡のまま』という表現はおかしいのではないか?」
という疑問の声をよく耳にしました。その解決案を思いつきました。六本木の回転ドアによる子どもの死亡事故に関して、ビルの所有者が、
「在宅のまま起訴された」
という記事を見たときです。
つまり、「死亡のまま」の「まま」は、この「在宅のまま起訴」と同じ「まま」。ということは、本来、起訴は生きた身柄を押さえてするもので、その例外として「在宅のまま」「死亡のまま」がある。例外だから、わざわざそのことを言う。その状態に手を加えないから「まま」だが、死亡に関しては手を加えて別の状態、つまり生きた状態に戻すことはできないので、「まま」に違和感を覚える、ということではないかと考えたのです。
いかがでしょうか?
このややこしい表現を避けるにはどうすれば良いか?
「被疑者は死亡していますが、起訴しました」
としたらどうでしょうか。こちらの方がわかりやすいとは思います。

2005/4/1


◆ことばの話2129「きっと大丈夫」

3月の中旬から下旬、受験発表の季節に集中的に流れた予備校のコマーシャル。そこに使われていた、子どもたちがリレーで、
「♪君は大丈夫 きっと大丈夫 僕はここにいるから」
と歌っている曲は、非常に印象的でした。元気が出ますよね。「頑張れ!」と応援を送りたくなります。元の歌はウルフルズの「大丈夫」という曲です。今流れているバージョンでは、そのウルフルズの歌っているものが放送されています。ちょっと聞いただけで、すぐ口を突いて出てくる曲で、しかもとても良い印象があるために、このCMが流れるたびにアナウンス部内でも、
「いい曲ですよねー」
なんて声が漏れていました。
ところがネットで検索してみると、いろんな意見があるものなのですね。と言うのも、中には、
「この曲は無神経だ。一体何を根拠に、『君は大丈夫』と言えるのか。無責任に声をかけるだけというのは迷惑だ。」
というような記述も見られたのです。そう言えば阪神大震災の際も、被災者の方から、
「ほかの人から『大丈夫?頑張って!』と聞かれるのが一番つらい。大丈夫なわけ、ないやないか。見たらわかるやろ。もう十分頑張ってんねん。これ以上、どう頑張れと言うのか。無神経な励ましなら、ない方がましだ。」
というような声が聞かれたことを思い出しました。当事者であるのか、そうでないかということによって、同じ言葉を聞いても感じ方は変わってくるということを、改めて感じました。
ちなみにこの「大丈夫」という曲、同じシングルCDにカップリングで入っているのは、
「暴れだす」
という曲。こちらが1曲目で、2曲目が「大丈夫」。その「暴れだす」の方でリフレインされるフレーズに、
「♪あぁ 胸が 暴れだす 暴れだす 誰かそばにいて」
「♪あぁ 胸が 暴れだす 暴れだす どうかそばにいて」

という歌詞があります。もしかしたら、この「大丈夫」という曲の
「君は大丈夫 きっと大丈夫 僕はここににいるから」
というのは、この「暴れだす」の歌詞の「誰かそばにいて」「どうかそばにいて」に呼応したものではないか?と思いました。それだとなんだか納得がいきます。そう考えると、予備校のCMでの「大丈夫」の歌詞の使われ方は、断片を非常にうまく切り取って使っているということになるのですが。

2005/4/4


◆ことばの話2128「イスラムとムスリム」

「Yomiuri Weekly」の2004年9月12日号、「世界時計」という連載コラムの118回目で、元読売新聞記者で中東ジャーナリストの藤原和彦さんという人が、
『イスラム国家』『ムスリム国家』
という文を書いています。それによると、
「ムスリム・ウラマー協会」
のことを日本のメディアは、
「イスラム聖職者協会」
と訳している。英訳の「アソシエーション・オブ・ムスリム・クレリクス」を日本語訳したものらしいが、「ムスリム」を「イスラム」と訳す点で、この表記は大問題を孕んでいて、特にこの言葉が「国家」という言葉の前に付く時に、問題はもっとも大きくなる指摘しています。
というのも、「イスラム」は「イスラム教」の意味、「ムスリム」は「イスラム教徒」の意味なので、「国家」が付いた「ムスリム国家」は「イスラム教徒が国民の大半を占める国家」のこと。そして「イスラム国家」は厳密な意味で使われた場合は「カリフ制国家」となり、「イスラム教徒の中でも原理主義勢力が理想とし、テロを行使してまでも実現を目指す国家」という意味になるからだということです。つまり、原語あるいは英語の「ムスリム国家」を「イスラム国家」と置き換えると、まったく違うニュアンスを孕んでしまうということのようです。
日頃、イスラム教から縁遠い生活をしている多くの日本人にとってはなかなか気づかないことです。
さらに藤原さんは、「イスラム聖職者協会」の表記には、ほかにも問題があると指摘しています。というのも、ここでは「聖職者」という言葉を使っていますが、「イスラム教にはキリスト教と同様の聖職者は存在しない」のだそうです。藤原さんは、一見しただけではわかりにくいとは言え、「ムスリム・ウラマー協会」という表記をメディアは取るべきではないか、と提案しています。
ちなみにGOOGLE検索では(4月4日)、
「イスラム聖職者協会」=846件
「ムスリム・ウラマー協会」=9000件
でした。藤原さんの思いが届いたのか(?)、ネット上では「ムスリム・ウラマー協会」が10倍以上使われているようです。
昨日(4月3日)の「ローマ法王、死去」のニュースを見た時に、
「ああ、日本と欧米では、キリスト教の存在がこんなに違うんだな。」
ということを感じましたが、それ以上にイスラム教に関してわれわれは縁遠い生活をしているのだなということを感じます。それとともに、21世紀初頭は「宗教の世紀」になるかもしれないという気が、少し、しました。

2005/4/4
(追記)

内藤陽介さん『これが戦争だ!』(ちくま新書)を読んでいたら、179ページに、
『日本のマスコミなどで「聖職者」と呼ばれているのは、実際にはイスラム法学者のことである。』
と書いていましたが、これは上の文章で藤原和彦さんが、
『イスラム聖職者協会という表記で「聖職者」という言葉を使っているが、イスラム教にはキリスト教と同様の聖職者は存在しない。』
と書いているのと同じですね。専門家の間でのこういった認識が、マスコミには伝わっていないということでしょうか。
2006/3/31


◆ことばの話2127「勝ち点・負け点」

3月30日、サッカーワールドカップ・アジア最終予選のバーレーン戦、相手の幸運なオウン・ゴールで勝ちを拾った日本。関東ではこの放送の視聴率が40%!関西でも32%と多くの人々がサッカー日本代表に注目しました。
その試合の数時間前の30日午後、試合を中継放送するテレビ朝日のお昼の番組で、前景気をあおっていました。その中でパネリストの映画監督の山本晋也さんが、司会の大下アナウンサーに向かって、こう言ったのです。
「きょうはいくつぐらいと思う?・・・・勝ち点・・・・負け点。」
ま、負け点???しかし大下アナは何事もなかったかのように答えていわく、
「そりゃあもちろん、勝ち点3…」
と言うと、山本カントクは、
「いやそれは置いといてさ、1点?2点?ぼくは1対0だと思う。」
・・・スコア予想は結果として当たったのですが、それより何よりビックリするのは、この山本カントクは、勝ち点制とスコアの違いを理解していないということです。そんな人がサッカーについてテレビで語っている。おそらく山本カントク野球は知っていてもサッカーはほとんど知らないばかりか興味もないのでしょうね。それにしてもカントク、「負け点」って・・・そりゃないよ・・・。
「勝ち点」と言えば、ご存知の方も多いと思いますが、古舘伊知郎さん。2月の北朝鮮戦の直後の「報道ステーション」で、ゲストに呼んだ、試合が終わったばかりの宮本キャプテンとのトークの中でこんな発言をしていました。

宮本「ともかく勝ち点3を取るんだと・・・(中略)」
古館「その勝ち点3で言うと、惜しかったですけどねぇ。」
宮本「えっ!?・・・フフッ(鼻で笑う)」
古館「ねぇ……。もうちょっと、もっとみんな行きたいと思ってたと思うんですけれども、予想外に北朝鮮が強かったと・・・。」

そうなんです、あれだけいろんなスポーツ実況をやってきている古舘さんも、サッカーの「勝ち点制」と「スコア」の区別が付いていないのです!ある意味これは、北朝鮮戦の大黒選手のゴールやイラン戦の敗戦、バーレ−ン戦のオウン・ゴールよりも衝撃的な事実ですよ、これは。
それにしても疑問なのは、W杯最終予選独占放送権を持っているテレ朝は、なぜ古舘アナといい山本カントクといい、サッカーを知らない、勉強もしていない、興味もない人にサッカーを語らすのか?不思議です。

(追記)

4月8日の朝日新聞によると、「報道ステーション」が放送開始から丸1年、3月末にテレビ朝日の「社長賞」が送られたそうです。 テレビ朝日の広瀬社長は、この1年間の「報道ステーション」を100点満点で言うと「85点」と評価。 これに対してメーンキャスターの古舘伊知郎さんは「65点」と答えたそうです。というのも、
「まだまだできていないことが多い。自分の中での及第点は60点だから。それは少し超えたかなと。」
とのこと。できていない残りの35点の中に、
「サッカーの、勝ち点と得点の区別」
という課題が残っているのでしょうね。
2005/4/08


◆ことばの話2126「量と質」

先日、消費者金融の武富士の会長が、息子に財産を譲るに当たって相続税を免れようとしていたニュースを聞いて、その金額に「ホーッ」と驚かれた方も多いと思います。なんとその額は1600億円。1等前後賞合わせて3億円の宝くじが年間5回当たり続けたとしても、100年以上かけないと手に入らない額です。
その一方で、ライブドアがニッポン放送の株買収にかけたお金が800億円。これもすごい額です。
この2つの数字を見て私が思った事は、こうです。
「この800億円とか1600億円とかいうお金は、私たち(あえて私たちと複数形で言いますが)が考えている『お金』とは別のものだ。本を買ったり、食事をしたり、旅行に行ったり、はたまた車を買ったりマンションを買ったりする『お金』と同じもののように見えるけれども、実は延長線上にあるように見えて、これはつながっていないのではないか。つまり量を重ねることで、ある時点からそれは別のものに変化する。『量の増大は質の変化を伴う』のではないか?」
ということでした。なんだか真理のように聞こえますよね。
この話を「あさイチ!」のKプロデューサーにしたところ、
「ほお、弁証法ですね。ヘーゲルですか。」
と言われました。ヘ?ヘーゲル?べんしょうほう?なんか、大学の時にチラッっと聞いた事があるような。あの唯物史観とかアウフヘーベンとか言うヤツ?そ、そんな大それたものなのか、これは!ちょっとビックリしてしまいました。Kプロデューサーによると、
「ヘーゲルは水が凍るのを見て、量から質への変化を悟った。」
そうです。
「量と質」と言うと、普通は座標軸の「X軸とY軸」のように、まったく違うものの軸のように考えられています。たしかに、ふだんはそうなのですが、ある限界を超えると、実はその先は、今までの常識が通用しないような世界になるのではないか、というのが私の考えです。つまり量の増大は一直線に増え続けるのではなく、ある時点で変化するということですかね。
ネット検索したら、たしかにヘーゲルの弁証法というのは、量の増大がある限界を超えると質的な変化を生じるというようなものらしい。ス、スゴイな、オレ。ヘーゲル知らずにに「思いつき」で弁証法に達しちゃったよ。これもいろんな本を乱読したという量が、質に変化したということなのか?うーん、わからん。みんな実はこんなことは、肌で気づいているのではないか?
そんなことを考えていた今日、日本テレビの社報(3月28日号)を読んでいたら、「第12回汐留懇話会」という社内外のからコメンテーターを招いて話を聞く会の様子が載っていました。今回のゲストは読売新聞の「編集手帳」を担当する論説委員の竹内政明さん。そこで、話された内容というのが、まさに「量と質」についてで、
「立川談志は自著『現代落語論』の中で量が質を保存すると述べている。視聴率と言う量を求める行為は悪者とされ、視聴の質こそが重要という論議がされているが、多くの番組の量こそ質を支えるのではないか」
と語ったそうです。私が考えたこととは、ちょっと違うのですが、量と質の関係について考えた点は同じなんですね。やはりこういったことに関心を持っている人はいるんですね。
なんか哲学的ですね、この話。
やっぱり、いろいろ考えてるのよ、不惑を過ぎるとさ。

2005/3/29