◆ことばの話2010「至上命題」

産経新聞の校閲部長で特別記者という肩書きを持つ塩原経央さんという人がいます。日本新聞協会の用語懇談会で長らく委員をされていて、私も総会の席でお会いすることがあります。その塩原さんが、産経新聞紙上で年に何回か連載されている「国語断想」というコラム。それをまとめた単行本も出ています。その第6回、「六たび国語断想」が9月27日から10回にわたって連載されました。
その連載2回目の「世論調査〜表外字の使用にも積極的」を読んでいて「おや?」と思う表現がありました。
「さて、その節、筆者に言わせれば占領政策の円滑な施行が目的としか考えられない戦後国語政策を無批判に奉じて、常用漢字を墨守することを至上命題に頑として自社の交ぜ書きを続行することに固執した社は・・・・」
おや?この「至上命題」って、本来は「至上命令」なのではないか?以前、
「間違った意味で『至上命題』を使うことが増えている」
というのをどこかで読んだ覚えがあったので、気になりました。調べてみると、2002年10月26日の読売新聞「日めくり」に載っていました。

『命題〜「命令」「課題」とは違う』
判断を言葉や記号で表したもの。つまり、「人間は考える葦(あし)である」や、「1+1=2」などを指す。「命」の字に引かれてか、「命じられた課題」という意味で使われることがあるが、実現や達成を求められていることは「命題」ではない。岩波国語辞典は「誤って俗に、題目・課題の意にも使う」と注記している。
 「与えられた問題」といった意味を認める辞書もないわけではないが、少数派だ。「景気回復は至上命題」といった言い方は、本来の意味からすれば誤用だろう。


そうこうしていると、今日(12月7日)の読売新聞スポーツ欄、サッカー・ドイツ代表のGKカーン選手に関する記事の中で、
「上位進出が至上命題となる自国開催の06年大会に向けて」
という文章がありました。これは明らかに、正しくは「至上命令」でしょうね。
ネット上では、GOOGLE検索(12月7日)してみると、
「至上命題」=2万4900件(日本語のページ)
もありました。その中では、「誤字等の館」というページで取り上げていて、「至上命題」は、今年5月18日の時点でのGOOGLE検索で、1万0600件あったそうです。それから半年余りで、倍増ですね。
そのほか、『もてない男』の著者でもある小谷野敦さんも「誤用日本語」としてこの「至上命題」を取り上げていました。(『比較文学研究』79号、2002、および『月刊言語』2002年8月号を再構成、加筆したものだそうです。)それによると、

『しかし、ひどい蔓延の仕方を呈しているのが、「命題」という言葉だ。これは論理学の用語で、「文」と同じ意味であり、何かを述定している一文のことであり、それに対して「この命題は真である/偽である」といった判定ができる。』

と規定した上で、まずその意味から外れた「命題」の用例として、本来「設問」という言葉を使うべきところに「命題」を使っているとして、

「猫が飛び降りる時、安全に着地出来るのは、どのくらいの高さが限度なのだろう。/という命題は・・・」(山田詠美の『姫君(文藝春秋)』に収められた「シャンプー」)

「『文学とは何か』という命題」(中島梓『文学の構造(講談社文庫)』)

「知識人と大衆という古典的な命題」(斎藤美奈子の『文壇アイドル論(岩波書店)』)

を挙げています。さらに肝心の「至上命題」に関しても、

『しかし、最近多いのはこの用法ではなく、「−−を至上命題として努力した」のように、「達成すべき目標」のような意味での誤用である。恐らく「至上命令」のつもりで、「命題」のほうが高級なように思って間違えるのだろうが、中学校の数学でも命題という言葉は教わるはずなのに、こういう誤用をするというのは、基礎教育が定着していないさまを現している。(中略)これは前から二度ほど雑誌で指摘したのだが、一向になくならない。「至上命題」となると、至るところで使われているが、新聞紙上でも盛んに使われている。その意味はたいてい「至上命令」である。ほんらい「命題」に「至上」がつくわけがない。』

として新聞での「至上命題」の使用例を調べたところ、朝日新聞で1985年から700件以上、読売・毎日もほぼ同数、1975年以降の雑誌記事索引で検索したら、「社共の統一戦線は至上命題に非ず」(安東仁兵衛)などというのが1975年にあったそうです。いつ頃から使われているかを調べるためにさらにさかのぼって、1947年以降の「国会の議事録」を調べたら、1948年に既に使われていたとのこと。しかし辞書を調べたら、『広辞苑』『岩波国語辞典』『新明解国語辞典』『日本国語大辞典』には「至上命令」はあっても「至上命題」はなかったと。ただ『新明解国語辞典』第五版で「命題」を見ると(二)として「課せられた(自らに課した)問題」とあって「−−の解明に当たる」という用例があげられている。とのことでした。小谷野さんは、

『「命令」というと何やら上から指図されているようなのが嫌で忌避した結果か、あるいはやはり「命題」が高級表現だと思っての結果だろう。』

と書いています。そうそう、なんとなく「命令」より「命題」の方が、わかりにくい分だけ「高級感」が漂ってますもんね。私の手元にある辞書で、小谷野さんが調べていない辞書も調べてみましょう。

*『新潮現代国語辞典』=「至上命題」は載っていない。「至上」の項に「至上命令」は載っていた。

*『三省堂国語辞典』=「至上命題」は載っていない。「至上」の項に「至上命令」は載っていた。

*『デイリーコンサイス国語辞典』=「至上命題」は載っていない。「至上」の項に「至上命令」は載っていた。

*『日本語大辞典』=「至上命題」は載っていない。「至上命令」は見出しが立ててあり意味も書いてあった。

*『日本語新辞典』=「至上命題」は載っていない。「至上命令」は見出しが立ててあり意味も書いてあるし、「至上」の中の作例で出てくる。


ということでした。もう一つ、「命題」も調べましょう。

*『新潮現代国語辞典』=(三)解決することを課せられた、または自ら課した問題。

*『明鏡国語辞典』=(3)課せられた問題。「人生をいかに生きるかという命題」

*『三省堂国語辞典』・・・(上のような意味での記述はない)

*『デイリーコンサイス国語辞典』・・・(上のような意味での記述はない)

*『日本語大辞典』=(三)与えられた問題。(用例)命題を解明する。

*『日本語新辞典』=(1)課せられた問題(例)命題を解く。


「課題」という意味での「命題」も、私が調べた6冊の辞書のうち4冊には載っていましたが、そのうち3冊は「3番目の意味」として載っていました。つまり本来の意味では無い問いことですね。ただ、2005年1月1日発行と奥付に書いてある、私も買ったばかりの小学館『日本語新辞典』だけは、「命題」の1番目の意味に「課題」の意味を載せていた点は注目でしょう。専門用語としての「命題」ではなく、一般に使われている意味(たとえそれが誤用であっても)を最初に持ってきたというのは、かなり勇気のいる判断だったのではないでしょうか。

そして、私も「日経テレコム21」で新聞記事検索をして見ました(12月7日)。期間を、半年・1年・3年・全期間の4種類で検索しました。
              
 
(半年)
(1年)
(3年)
(全期間)
日経
29
58
166
1028
朝日
51
84
279
965
毎日
64
102
321
1002
読売
39
68
226
982
産経
29
48
125
434

という結果でした。各社「至上命題」を使っていますね。全体を通しても、毎日新聞がやや多いですかね。で、1年、3年、全期間に関しては「至上命題」の関連語として上っていたのは、「参院選」「民主」「自民」「社長」「共産」「顔ぶれ」「職員」「J1」「年度」といった言葉でした。どうも政治がらみとスポーツ(サッカー)で出てくる感じですね。これがここ「半年」になると、関連語は「ファンド」「シニア層」「選挙区」「自民」「公明党」「サルコジ」「シラク」「選手」と、ちょっと変わったもの(経済、国際、金融関係とおぼしき言葉)に変わりました。

「課題」の意味での「至上命題」は、『日本語新辞典』が1番目の意味にもってきたように、今後一般的にはもっと使われてしまうような気がします。しかし私は、「至上命題」ではなく、「至上命令」を使うようにしたいと思いますね。

2004/12/7

(追記)

平成ことば事情863で「命題」について書いているのをコロッと忘れていました。柳美里さんの時でしたね。『日本国語大辞典』によると、「命題」は西周(にし・あまね)の考案による訳語で、「百学連環」では、「proposition」が「命題」、「syllogism」は「演題」と約しているそうです。さらにその863」を調べた時に、私は「至上命令」と「使命」と「課題」が混用された形で、これまで書いてきたような、誤った「至上命題」の意味が生まれたのではないかと考えました。

2004/12/10

(追記2)

2005年9月23日の日経新聞スポーツ欄のコラム「タイムアウト」で、島田健記者が「KK移籍なら球界変わる」というタイトルのコラムを書いています。その中に、

「ただ、優勝が至上命題の巨人にとって桑田が来季も働ける場所があるかどうか。」

と記して「至上命題」を使っていました。書いていました。


2005/9/23


◆ことばの話2009「防犯カメラと街頭カメラ」

奈良の小学一年生の女児誘拐殺人事件で、街頭に設置されたカメラにこの女の子の姿が映っていることがわかったと、12月3日の日本テレビ系「ザ・ワイド」で草野キャスターが話していました。その際に草野さんは、
「女の子の姿が、防犯カメラに映っていることがわかりました。」
と言ったのですが、この「防犯カメラ」という表現、犯人が映っていた場合には違和感ないのですが、被害者の女の子が映っていたという場合に、「防犯カメラに映っていた」というと、なんだか少し違和感があります。この場合は、
「街頭カメラ」
と言った方が、違和感なく受け入れられる気がします。
「防犯カメラ」は、その名前に「防犯」という「カメラの目的」をうたった名称です。これに対して「街頭カメラ」だと、「設置場所を示しているだけ」で、そこに目的は明示されていません。そのために客観的な印象を受けるのです。「防犯カメラ」はその目的が示されているために、被害者の姿が映っているといった場合に、「防犯」という言葉と被害者の手がかりというのが、うまく結びつかないような気がするのです。
こういったカメラは今、いたるところに設置されて急増していますが、名称に「防犯」とうたいながら、それ以外の目的にも使用されかねないという危険性をはらんでおり、プライバシーの保護との関係では「短所」もはらんでいます。
長所と短所は背中合わせなので、長所だけ、というわけには行きません。短所も理解しながら、うまくバランスを取って活用していくことが大切です。一日も早く、女の子を殺害した犯人が逮捕されることを、願わざるを得ません。

2004/12/3
(追記)

埼玉県内のディスカウント・スーパー「ドン・キホーテ」で放火事件が相次ぎました。その際に「防犯カメラ」に不審な女性の姿が映っていたということです。
その「防犯カメラ」の表記が、12月16日の各新聞、微妙に違います。
(読売)防犯カメラ
(朝日)防犯カメラ
(毎日)防犯ビデオ
(産経)防犯カメラ
(日経)監視カメラ

毎日新聞の「防犯ビデオ」というのは、
「防犯ビデオ(カメラ)」
の後ろの「カメラ」を省略したのか、それとも、
「防犯ビデオ(カメラで撮影したものを録画したビデオテープ)」
の後半を省略したものか、はたまた、
「防犯(ビデオカメラで撮影したものを録画した)ビデオ(テープ)」
という( )内を省略したものなのか、どうなんでしょうか?
それはさておき、「防犯カメラ」か「監視カメラ」か。
「防犯カメラ」というのはそのカメラがあることで「犯罪を抑止できる」というものであれば「防犯」と言えると思いますが、抑止力がなくなった場合に、果たして「防犯」と呼べるかどうか。
また「監視カメラ」も、カメラの先の「中央監視室」か何かで、常にガードマンなり警備員なりが生で監視をしているのなら「監視カメラ」と言えるでしょうが、単に録画されているだけで、人は見ていないのなら「監視カメラ」と言えるのかどうか。
いろいろ疑問が出てきたのでした。
2004/12/16
(追記2)

実はこれについて書こうと思った最初のきっかけは、めったに読まない雑誌である『世界』の2004年7月号を本屋さんの店頭で見かけ、その特集「犯罪不安社会ニッポン」に気を引かれたことからでした。その特集では、
「監視社会をいかに生き抜くか」
というテーマで、上智大学の田島泰彦教授と目白大学の江下雅之助教授が対談していました。それによると、以前から着々と進みつつあった監視社会化が「9・11」のテロ以降、一気に加速したとのこと。田島教授は、
「監視カメラをどうして多くの人たちが受容するかというと、まず運用実態のデータがまったく公開されていないからだと思います。(中略)加えて、『防犯カメラ』という呼び方自体に表れているように、自分とは無関係の悪い人間たちに向けられているのだからいいのではないかという気分が働いているようにみえる。しかし、時々は犯罪に関る人や行動も引っかかりますが、映っているのはほぼ100%が善良な市民。つまり、どの地域にいてどこに行き、何をしたのか、現在の自動化されたテクノロジーを使えば、我々自身が日常的にチェックされ、記録され、場合によってはその記録が濫用されてしまうかもしれないということへの自覚がないんです。」
と述べています。また、監視社会化の暴走を少しでも食い止めようという問題意識から制定された東京都杉並区の「防犯カメラ条例」は、「監視カメラを監視する」という日本で初めて、監視カメラを法の根拠やコントロールの下に置こうというもので、一定の意義は認められると評価しています。
「防犯カメラ」は、防犯のためだけに使われているとは限らないのです。

2005/2/24


◆ことばの話2008「駅近」

後輩のMアナウンサーが何気なく口にした言葉が耳に止まりました。
「エキチカ」
これ聞いて、2つの意味が頭の中を巡りました。
(1)駅の地下
(2)駅に近い(場所)

もう定着してしまった、デパートの地下食品売り場の「デパ地下」や、「梅田地下街」「三宮地下街」の略称が「うめ地下」(今は「ホワイティうめだ」とおしゃれ?な名前に変わっていますが。)「サンチカ」というところから考えると、(1)の「駅地下」の意味かなあと思うのですが、どうも文脈から考えると、(2)の「駅近」ではないかと。
本人に確認すると、やはり、
「駅に近い物件、という意味です。引越しをする時に不動産屋さんなんかにいくと普通に使っていますよ。」
とのことで、ほかの後輩に聞いても、
「駅近、言いますね。駅から近いということですね。」
ということでした。GOOGLE検索(12月7日)では、
「駅近」=18万7000件
けっこうありますね。で、「駅近」にはどういう種類のものがあるか、見てみると、
「駅近物件」「駅近マンション」「駅近スキー場」「駅近病院」「駅近温泉」
など、「駅近」満載です。スキー場や温泉まであるとは!駅近、侮れんな!
というか、それはスキー場や温泉がもともとあるところに駅が出来たんだろうね。普通の「駅近」は、駅のあるところに物件(一軒家やマンション)が建つだろうから、そういう意味では、成り立ちは逆のような気はしますがね。細かく検索しなおすと、
「駅近物件」=3770件
「駅近マンション」=3120件
「駅近病院」=8件
「駅近スキー場」=33件
「駅近温泉」=752件

もありました。ちなみに「駅近スキー場」は、一体どこの名前が上っているのか?と言うと、
「ガーラ湯沢」「安比高原スキー場」「札幌藻岩市民スキー場」「上越国際スキー場」「越後中里スキー場」「手稲スキー場」「アルファ・トマムスキー場」「三井野原スキー場」「軽井沢プリンススキー場」「戸狩スキー場」「ヤナバスキー場」
といったところでした。首都圏から近いこともあって、「ガーラ湯沢」というのが目立ちました。
念のために、「駅地下」検索すると(12月7日)、
「駅地下」=1万3700件
あらあ、「駅地下」も多いじゃない!「駅の地下」の意味の「駅地下」という言葉も流通しているようです。どういうものがあるか、見てみると、
「池袋の駅地下」「駅地下のトイレ」「駅地下駐車場」「駅地下コンコース」「駅地下通路」
などなど。
今後しばらくは「駅近」と「駅地下」が混在するのではないでしょうかね。

2004/12/7


◆ことばの話2007「おぼろ昆布ととろろ昆布」

Sアナウンサーが話しかけてきました。
「道浦さん、『おぼろ昆布』と『とろろ昆布』の違い、知ってますか?」
「??商品名か一般名かの違いじゃないの?」

と答えたら、
「私もこないだ北海道の礼文島を旅行した時に、初めて知ったんですけどね・・・」
と前置きをしてから、こんな話をしてくれました。
「『おぼろ昆布』というのは1枚の昆布の表面を紙のように削って、剥いで作るもので、寿司などに巻いたりするものです。これに対して『とろろ昆布』というのは、何枚もの昆布を重ねてその側面を削っていくものなんですって。だから『とろろ昆布』の方がほぐれやすいので、汁物の中に入れたりして食べるんですって。知ってました?」
北海道出身の君でも知らんことを、三重県生まれで大阪育ちのおれが、知るわけないやんか。
それにしても、世の中、知らんことが多いですねえ。だからこそ、同じような毎日なのに、その日その日に「へえー」って思うことがあって、だから新鮮なんですよね。
ちなみに、GOOGL検索(12月7日)では、
「おぼろ昆布」=  6870件
「とろろ昆布」=2万2500件

で、「とろろ」が4倍近く使われていました。その中で、京都の乾物屋さん「山城屋」のホームページの「お客様相談室〜乾物Q&A」には、こう書いてありました。

「昆布の表面部分を薄く削って作られるのがおぼろ昆布です。それに対し、とろろ昆布は、昆布を何枚も重ねて(100トンの)プレス機械で昆布を圧縮してブロック(塊)を作り、その昆布ブロックの側面を削って作られます。一般的にとろろ昆布よりおぼろ昆布のほうが甘味があります。また、おぼろ昆布の中でも、手すきおぼろ昆布の方が機械のおぼろ昆布よりもしっとりとして甘味があると言われます。」

味わいも微妙に違うのですね。今度、食べ比べてみます。

2004/12/6


◆ことばの話2006「待ち伏せて」

お昼のニュースを見ていたら、Sアナウンサーが、
「待ち伏せて・・・・」
とつぶやきました。ニュースの原稿の中で出てきた言葉です。ピンときました。
「『待ち伏せして』と言うべきではないか?ということやね?」
と言うと、
「そういうことです。」
たしかに、
「待ち伏せて」
「待ち伏せして」

と口に出して言ってみると、
「待ち伏せして」
の方が自然な感じがします。終止形で言うと、
「待ち伏せる」
なのか、それともサ変の、
「待ち伏せする」
なのか?そこで辞書を引いてみると、辞書によっては、
「待ち伏せる」
という形も載っていました。なーんだ、じゃあ、どっちも許容ということかな。
ネットでGOOGLE検索してみると(12月1日)、
「待ち伏せて」= 1万0500件
「待ち伏せして」=2万4300件

と、やはり「待ち伏せして」の方が多かったです。こちらが元の形なんですかね。そもそも「待ち伏せ」自体が、「待つ」と「伏せる」の複合動詞の語幹が名詞化したものです。(だと思います。)それが「再動詞化」する時に「名詞(「待ち伏せ」」+「する」というサ変動詞だったものが、言葉はだんだん短くなる傾向があるので、
「待ち伏せる」
となったのではないでしょうか?
でも、最初に複合動詞としての「待ち伏せる」があって、その語幹の名詞化で「待ち伏せ」ができて、それに「する」がついてサ変動詞が出来たと考える方が自然だという気もします。いずれにせよ、使われているというのは間違いないのですが、「待ち伏せる」に感じた違和感というのは、一体なんだったのでしょうかね?

2004/12/6
 
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