◆ことばの話1905「仲人」

仲人を立てるカップルはなくなる寸前!リクルートが9月13日に発表したアンケート調査が、9月14日朝刊の産経新聞に載っていました。リクルートの結婚情報誌(ゼクシイ)の読者を対象に行ったアンケートで、新婚カップル4790組が回答したところによると、仲人を立てた人は、首都圏でなんと1,0%、一番多い九州でも10.8%だったそうです。以前は上司に頼むことが多かった「仲人」は、終身雇用制の崩壊とともに崩れ去ったのでしょうか?
朝日新聞の9月14日のウエブ記事によると、1994年には、60%を超える人が仲人を立てていたそうですから、この10年で急減ですね。
今回(2004年)の調査では、仲人を立てたのは4.6%で、2001年の18.2%から3年連続の減少。地域別では九州の10.8%が最高で、その他12地域は1割を下回り、首都圏が最低だったとのことです。
まあ仲人がなくなると、私なども時々やる結婚披露宴の「司会者」の仕事が増えますね。新郎新婦の紹介文を作って読まなければならないですから。以前は「人前結婚式」の時ぐらいでしたからね。その分、司会者は面倒ですが、一方で「乾杯」の前にムチャクチャ長い祝辞で客がイライラするというケースが減るので、それは良い面かもしれません。アナウンス部で、
「ここ3、4年に司会をした結婚披露宴で、仲人がいたケースはあるか?」
と聞いたところ、驚いたことに仲人がいた例は「ゼロ」でした。それを聞いたI部長が、
「仲人が居ない方が、別れやすいんだよ。それに披露宴の出席者が多い方が、別れにくいんだよ。だから、仲人を立てることが多い地方は離婚率が低く、仲人を立てない都会の方が、離婚率が高いはずだぜ」
と、実体験に基づいた(?)貴重なコメントを。実際にそうかどうかはわかりませんが、たしかに披露宴も「ジミ婚」になってきたり「レストラン披露宴」になったのも、いろんな人(招待客)との個人的な関わりをわずらわしいと思う人が増えたことの表れでしょうね。
厚生労働省のホームページで「都道府県別にみた離婚・都道府県別離婚率(人口千対)」というのを見つけて見てみると、平成10年(1998年)で離婚率が高い上位5県は、
(1)沖縄、(2)大阪、(3)北海道、(4)福岡、(5)東京
逆に、低い5県は、
(1)島根、(2)新潟、(3)山形、(4)富山、(5)福井
でした。その23年前、昭和50年(1975年)の離婚率の上位は、
(1)北海道、(2)高知、(3)青森、(4)福岡、(5)沖縄
下位は、
(1)滋賀、(2)島根、(3)新潟、(4)山形、(5)長野
でした。こう見ると、23年で大阪、沖縄、東京そして滋賀の離婚率が上がったことが見て取れます。離婚率下位の「島根・新潟・山形トリオ」は、1975年の1位・滋賀が抜けたことで、セットで繰り下がってますね。
さらに昔、昭和25年(1950年)の離婚率は、上位が、
(1)高知、(2)長崎、(3)愛媛、(4)福岡、(5)秋田
離婚率下位は、
(1)茨城、(2)長野、(3)滋賀、(4)山梨、(5)埼玉
でした。
このリポートによると、離婚率は全ての都道府県で上昇しており、特に滋賀県、熊本県、6、三重県は大きく上昇しているとのことです。
1950年→1975年→1998年と上位と下位5県を見ると、高知の離婚率の順位が下がっていったこと、福岡が常に離婚率4位だということ、秋田、長崎が離婚率上位から消えたことなどが見て取れますね。
全体としては、都市部(都会)で離婚率が上り、郊外(田舎)では離婚率は低いという傾向があるのではないでしょうか。また、田舎が都市化する過程で離婚率が上がって行っているようです。「離婚」とは「家族の崩壊」ですから、大家族から核家族への移行によって、家庭の崩壊も促進されているとも言えるのではないでしょうか。それだけ、いい意味でも悪い意味でも、家族の絆=家族を保つ強制力が弱くなっていると言えるでしょう。
話が随分それて、「仲人」から「離婚」「家族の崩壊」の話になってしまいましたが、元に戻って「仲人」について考えると、この分だと間違いなく「仲人」は、「ベア」と同じように死語になってしまうのでしょう。もう、なっているかも。もしかしたら「仲人」というのは「団塊の世代」の用語だったのかもしれません。「団塊の世代」と言えば2007年の大量定年問題がありますね。これに関しては、9月16日の毎日新聞に「団塊世代の07年問題」という記事が載っていました。それによると、1947年から49年に生まれたいわゆる「団塊の世代」が、2007年から定年を次々と迎えると。その数なんと700万人!給料の高いその世代がいなくなると、企業の人件費負担は減りますが、退職金の問題がありますし、定年後のその世代の購買行動は、日本の景気にも大きな影響を与えるそうです。
毎日、黙々と過ごしていて毎日変わらない生活のように見えて、やはり時代は動いているのですねえ。

2004/9/29

(追記)

急激に減って絶滅の危機に瀕している「仲人」ですが、同じように最近あまり見かけなくなったものを見つけました。昨日、読売テレビ社長記者会見の司会をしていて気づいたのですが、20年前に入社した頃はみんながスーツの左胸の「孔」につけていた、
「社章」
です。私もここ数年つけていませんでしたが、社長記者会見の司会だから・・・と思って久々に社章をつけていったところ、なんと当の社長が社章をつけていません。私が数えたところ、そこに出席していたエライさんで社章をつけていた方は、たった2人しかいませんでした(13人中)。
最近、電車の中などでも、若い人はほとんど社章つけてませんよね。ただ某M電器の人は、よくつけているように電車の中では見受けますが。それだけ会社への帰属意識が強いのでしょうね。
『希望格差社会』(筑摩書房)という本の中で、東京学芸大学教授の山田昌弘さんが、昔は、家族・企業あるいは宗教団体、地域の組織といったものがショック・アブソーバーとしていろんな衝撃から守ってくれたから、個人はそれぞれの組織・団体に「帰属」していたが、最近は拘束を嫌う傾向が強まったことから、家族や企業に「帰属」する意識が薄まっていると。家族・企業も、拘束しない代わりにショック・アブソーバーとして機能しないようになっているのですが、それが「ニート」や「フリーター」「パラサイト・シングル」を大量に生み出す一因になっている、というようなことが書かれていたように思います。
社章のないスーツの上着(背広)を見て、そんなことを思い出していました。

2005/1/7

◆ことばの話1904「白い学校、黒い学校」

先月(8月)、夏休みで4日ほど台湾に行きました。地下鉄の駅から外に出ようとした時に見かけた広告がありました。おそらく、ガムか口内リフレッシュ用の食品、あるいは歯磨き粉の広告ですが、さわやかな緑の森の中に描かれたそれの商品名は、
「黒人」
でした。真ん中には、黒いシルクハットをかぶって黒の蝶ネクタイ姿で白い歯を二カッとむき出しにした黒人のイラストが描かれていました。シャボン玉のように浮かぶ緑の丸の中には、
「林浴般的清新口気」
という文字が。
「お口すっきり、森林浴」
てなところでしょうかね。下の方には「天然草木」という文字も。原材料のことでしょうか。
昔のカルピスの広告で、カルピスをストローで飲む黒人のイラストが問題となって、現在は使われなくなったというのを思い出しましたが、そういうことは、台湾では起きていないようです。現在アメリカでは、公の席では黒人のことを、
「アフロ・アメリカン」(アフリカ系アメリカ人)
と言うようです。その流れで、日本でも最近は「アフリカ系アメリカ人」という言葉が随分聞かれるようになってきて、「黒人」の使用頻度派減っているのではないでしょうか。
その関連で、『ヨーロッパとイスラーム〜共生は可能か〜』(内藤正典著、岩波新書)という本を読んでいると、こんな記述が出てきました。少し長いですが、引用しましょう。
『オランダでは、自分の子どもを移民と一緒に学ばせないことも個人の自由だから、移民師弟のいない学校に子どもを通わせることもまた自由であり権利となる。その結果、アムステルダムやロッテルダムでは、「白い学校」と「黒い学校」の隔離がおきてしまった。(中略)この用語は、オランダ社会や行政でも使われている。白い学校とは、白人ネイティブのオランダ人が集中する学校を意味し、黒い学校とは移民が集中する学校のことである。(中略)トルコ系やモロッコ系移民も黒人ではないが、彼らの多い学校は「黒い学校」と呼ばれる。最初にこの言葉を聞いたとき、人種差別的な表現だと感じた。もちろん、白い学校と黒い学校に分かれてしまうことは社会的な問題だという意識はオランダ社会にもある。だが、必ずしもそれは差別だとは認識されていない。経済的に底辺に集中しがちな移民たちは、家賃の安い地区に集中する。したがってその地区の学校には移民の子どもたちが集中する。そのことをわが子の教育上好ましくないと思うなら、白人オランダ人の親は、他の地区の無宗教学校や、同じ地区でもカトリックかプロテスタントの学校に通わせればよい。(中略)だから差別ではないというのである。』
しかし著者の内藤さんは、その意見には与(くみ)しません。
『結果的にそうなったとはいえ、学校を「白」と「黒」に分けてはばからない感覚には、やはり一種の危うさを感じる。白人と非白人を強制的に分けるのならオランダ社会でも差別に当たるのではないか。もし、強制的に両者を隔離すると、かつて南アフリカで行われてきたアパルトヘイトと同じ(中略)たしかに、非白人の移民を強制的に隔離したわけではない。しかし、自分の領域のなかで「見たくない人間」を見ないですますことを権利とするなら、他者を隔離することと、さほど違わない。自由意志の尊重とアパルトヘイトという強制隔離は紙一重の違いなのである。(中略)寛容の精神それ自体、リベラリズムの本質をなす「相互不干渉による自由」を他者に対して認めるところに生まれるからである。』
と批判しています。なんだか難しい話になってしまいました。
この本を読んでいる時、夏休みでハワイに行った後輩が、おみやげに買ってきたビスケットをアナウンス部に持ってきました。それは「オレオ」という名前のビスケットでした。普通の「オレオ」は、外側の2枚の黒いビスケット間に白いクリームを挟んだものですが、この「オレオ」は、白いビスケットの間に白いクリームを挟んだもので、その名も、
「ゴールデン・オレオ」
でした。新発売だそうです。それを見てまた思い出しました。以前、「若者ことばの会」に出席した時に、アメリカからの留学生が、
「アメリカのキャンパスでは、黒人なのに頭の中(考え方)が白人、という人のことを指して、ちょっと差別的に『オレオ』と言う。」
という話をしていたのです。外側のビスケットも中のクリームも白い「ゴールデン・オレオ」は、そういった差別的な比喩には使われそうもありませんが、もしかしたら、そういった差別をなくすために「ゴールデン・オレオ」は開発されたのでしょうか?そう言えば、
「黄色人種なのに頭の中(考え方)が白人、と言う人のことを指して、ちょっと差別的に『バナナ』と言う」
というのも、以前聞いたことがあるように思います。なんだかなあ・・・。
アメリカという国は差別がない・・・わけがないのですが、「自由の国・アメリカ」は、そもそも差別から始まっている国であると『銃を持つ民主主義』(松尾文夫)には記されています。
第六章『「差別」と「排除」』の最初に『「差別」で始まった建国』として、
『「アメリカという国」の建国は、黒人、インディアンに対する明白かつ徹底した差別と排除のなかで始まった。』
とあります。すなわち、1788年のアメリカ合衆国憲法制定の時に、下院議員選出の基礎となる各州の人口算定の段階で、
「各州の人口とは、自由人の総数をとり、この中には年期服役者も含ませ、納税の義務のないインディアンを除外し、それに自由人以外のすべての人数の五分の三を加えたものとする」
と定められていたと言うのです。つまり、インディアンは納税義務がないことを理由にはっきりと名指しで「自由人」から除外されています。そして黒人についても、「自由人以外のすべての人数の五分の三」という間接的な表現で、残りの五分の二が切り捨てられていたのです。
さらにこの本によると、インディアンとの戦いにおいて、1763年の「フォートピット(今のピッツバーグ)砦攻防戦」で、イギリス軍が細菌兵器(天然痘)を使用したということも記されています。
そうやって絶滅の危機に瀕した「インディアン」=「ネイティブアメリカン」たちは現在、保留地のカジノの経営で、現金収入の活路を見出そうとしているのだそうです。2003年9月現在、内務省インディアン局が把握しているアメリカ国内のインディアンの部族数は554、そのうち330の部族がカジノを所有しているというから驚きます。全国の売り上げ総額は2002年には145億ドルだということです。
また2003年2月のアメリカ合衆国軍の現役部隊全員の61.7%が白人、黒人が21.7%、ヒスパニック系が9.6%アジア・太平洋系が4.0%、専従インディアン1.2%、その他1.8%だそうです。
マイケル・ムーア監督の映画「華氏911」でも、軍のリクルーターが、黒人の低所得層の若者たちを軍に勧誘する様子が描かれていました。また、ワシントンで上院議員に、
「ご子息を軍に入れませんか?」
と突撃取材をするマイケル・ムーア監督の姿も描かれていました。「電波少年」のバウバウ松村君を彷彿させました。人口比でいくと、やはり黒人やヒスパニック系の兵士の割合が、白人に比べて高いようなのですね。
差別とは何なのか、自由とは何なのか。命とは何なのか。
ちょっと話がバラバラになりましたが、いくつもの出来事と、書物、映画で、いろいろと考えさせられました。

2004/9/29

(追記)

大型ハリケーン「カトリーナ」に襲われてから、2006年の2月28日で半年が経ったアメリカ・ニューオーリンズ。そのリポート記事を、3月2日の毎日新聞に、ワシントン支局の及川正也記者が書いています。
その中で、被災前は人口48万4000人だったニューオーリンズ市には、まだ20万人ほどしか帰還しておらず、人口の67%が黒人、白人は28%だったのに、2月28日に発表されたCNNテレビなどの共同世論調査では、無作為抽出した回答者のうち52%が白人、37%が黒人であったそうです。これは黒人の多くが貧困層だったために家を修復できず、黒人と白人の人口比が変動するであろうという見方を裏付けているようにも見えます。
また、ニューオーリンズ市のネーギン市長(=黒人)は以前、ニューオーリンズ市を、
「チョコレートシティー(黒人の町)」
と呼んで非難されましたが、アメリカのメディアの中には、
「今後ニューオーリンズは、チョコレートからバニラ(白)に変わるのではないか」
という見方も流れているそうです。
そして4月の市長選挙には、黒人のネーギン市長に対抗して、複数の白人候補が出馬の意向を示していて、新たな人口比が市長選挙の行方を大きく左右する可能性もあると締めくくっています。
自然災害が、町に住む人たちも変えてしまうことがあるということを、いまさらながらに感じました。
2006/3/2


◆ことばの話1903「歴史と伝統」

読売テレビ事業局主催のイベントのPRコマーシャルを録音するときのこと。原稿の中に、
「歴史と伝統がある」
という言葉が出てきました。ちょっとここで、つまづきました。この場合、
「歴史と伝統は、同じことではないか?」
という疑問を持ったためです。このフレーズ、これまでにもよく出てきましたが、何の疑問もなく見ていましたが、なんとなく引っかかってしまったのです。
結局、原稿の「歴史」を落として「伝統ある」だけにして読んだのですが、よかったのかな。『新明解国語辞典』を引いてみました。
「伝統」=前代までの当事者がして来た事を後継者が自覚と誇りをもって受け継ぐ所のもの。(例)「伝統を離れては言語は有り得ない」「五十年の伝統(=栄光の歴史)を有する本会」「古来の伝統(=しきたり)を守る」「伝統的に(=代代ほとんど例外無しに)野球が強い」「伝統が薄れる」

うわー、随分たくさん例文があるなあ。いかにも『新明解』らしい例文ですよね。
で、この場合の「伝統」は、「五十年の伝統を有する本会」という例文の「伝統」ですから、例文の中に(  )で記されているように、
「伝統=栄光ある歴史」
という意味なのです。だから「歴史と伝統」の「伝統」を置き換えてみると、
「歴史と、栄光ある歴史」
となって、意味が重なっていますね。だから片方(「伝統」)だけで十分なんですね。
Googleで検索してみました(9月29日)
「歴史と伝統」=5万3800件
「伝統と歴史」=  6400件

どちらもよく使われています。
思うに「伝統」だけだと、何か口調が軽すぎるために、意味を強調することで「重み」を出そうとするところから、あえて(意味の重複を省みずに)、「歴史と伝統」と言うようになったのではないでしょうか。これで文句言う人もあまりいないでしょうからね。おそらく、このフレーズにはそんな「歴史と伝統」があったのでしょう。

2004/9/29


◆ことばの話1902「くわんくわん」

平成ことば事情1853「妙てけれん」でもご紹介した日経新聞・日曜日の川上弘美さんのコラム「此処彼処(ここかしこ)」。9月5日のコラムで、今度はこんな言葉が登場しました。
「くわんくわん」
どんな文脈かと言うと、
「妹の方の口のまわりが食べくずでくわんくわんになっているのを見て、姉が笑う」
というもの。マダガスカルに行った時に現地の子供の様子を見た川上さんの描写です。
「くわんくわん」という表現は見たことはあるかもしれないけど使ったことはないなあ。
これは「関西学院大学」の「関西」を、
「くわんせい」(KWANSEI)
と言うのと同じなのでしょうか?そうだとすると、今だと表記は「くわん」だけど読む時『新明解国語辞典』『広辞苑』『日本国語大辞典』にも「くわんくわん」は載っていません。
ネットのGOOGLEで検索すると、
「くわんくわん」=630件
ありました。しかし、その中にはこういった意味での「くわんくわん」ではなく、「耳がくわんくわんする」とか、「九州ラーメンのお店の名前」も含まれていて、純粋に川上弘美さんの使った意味での「くわんくわん」は少ないみたい。そんな中で、川上さんふうの「くわんくわん」は神奈川県高座郡の方言という記述がありました。高座郡というのは、海老名市の南で、茅ヶ崎市の北、平塚市と藤沢市に囲まれたというロケーションです。

『くわんくわん:口の回りに食べ物がべっちゃりと着いていて、食べたのか食べていない(食わん)のかどうなのよ!という意味らしい。使用例:「なによ、くわんくわんじゃんかよ」』

また、「おにゃんこBBS」というネコ愛好家の掲示板では、

『ちびちゃん達は離乳ですか。(中略)お顔が、くわんくわんになるだけじゃなくて、全身ドロドロとはまた威勢のいい子達ですね。』

この「くわんくわん」について「自分は使うが周りの人は使わない。これは方言なのか?」と疑問を持った東京の人もいます。

『主に小さい子供に対して言ったりするのですが、アイスなどを食べた後、口のまわりがべちゃべちゃな状態を「ほおら、お口のまわりが"くわんくわん"よ」なんて言いませんか?私はいつの頃からか何の違和感も無く使っていたのですが、先日、職場で意味の通じない人に遭遇し「へ?」と思い、まわりの席の人にリサーチしたところ半分くらいの人が知らないのです。焦って国語辞典をひいても載っていない。古語辞典にも無い。もしかしてこれは方言なのでしょうか?』

そのほか語源については、関東地方の人が、

お坊さんが小僧さんに「ボタモチを食べてはイケナイよ」ときつく言って出掛けました。でも小僧さんはついつい食べてしまいました。「怒られたらどうしよう」と思った小僧さんは、お皿に残ったアンコを仏さまの口の周りになすりつけました。お坊さんが帰って来て「ボタモチを食べたな!」と怒ると、小僧さんは「私ではありません!仏さまがお食べになりました!ほら、口のまわりにアンコが!」と言い逃れました。お坊さんは「それは、いけない仏様だ!」と言って、手に持った杖で仏像の頭を叩きました。すると仏像が「食わん食わん」(擬音語)。これが転じて、口のまわりに食べ物を食べた証拠が歴然としている場合に、擬態語として「くわんくわんだよ」「くわんくわんになってる」などと使う。

というようなことを改訂増す。

それにしても、川上弘美さんの擬態語・擬音語は、詩人の言葉のようですね。この「くわんくわん」でおもいだしたのは、中原中也の「空中ブランコ」の詩に出てくる
「ゆあーん ゆよーん」
という、空中ブランコが揺れる様子を表した擬態語・擬音語です。この表現は、西原理恵子のマンガの中で山海塾の舞踏と結び付いて、
「ゆやーん ゆよーん」
という形で出てくるようですが。このほか、マンガで言うと20年ぐらい前に流行った、「伊賀のカバ丸」
というマンガで、
「ぐあんばります(頑張ります)」
というような表記がよく出ていたのを思い出しました。
BBS「ことば会議室」に書き込んだところ、岡島昭浩さんから、「旧会議室で話題になっています」と教えてもらいました。見てみるとたしかに2年前、「辞書にない言葉」で話題になっていました。しかも驚いたことに、私も書き込みをしているではありませんか!

道浦俊彦 さんからのコメント
(Date:2002年 11月 23日 土曜日)
「くわんくわん」初耳です。発音は「かんかん」ではないのですね?


なんだよ、全然進歩してないじゃない・・・ガックリ。ほかの方の書き込みによると、
「くわんくわん」
両親が千葉・東京出身で、ご自身東京育ちの方からのメールで「口の周りを汚して食べると『お口、くわんくわんにしちゃ、だめよ』といわれた。しかし、辞書にはない」とのこと。「くわんくわん」は私自身は使いませんが、特にあんこなどを口の周りにつけているときに言うのではないでしょうか。(それは「く餡く餡」かもしれませんが。)「くわんくわん」の話、どこかで読んだか聞いたかしたと思うのですが、忘れてしまいました。くわしいことをご存じの方はいられませんか。
という質問に対して、Yeemarさんが、「朝日新聞」2000.11.05日曜版 p.5、大森美紀子「気分は大家族」に出てくる「くわんくわん」を紹介しています。

『「くわんくわん」とは何か?とろろを食べる時、うまく食べられなくて口の周りにとろろが付いてかゆくなってしまう状態のことです。「くわんくわんにならないように気をつけなさい」とか、「あ〜、くわんくわんになっちゃった〜」とか。なぜか、とろろの時にしか使いません。』と。大森さんは東京のご出身のようです。その後の編集部の補足によれば、「納豆、あんこがついた時」「黄な粉、お汁粉などを食べた後」にも使うとの投書があった由。特に東京出身の方が多かったそうで、「東京の「方言」なのかも知れませんね」とまとめています(2000.11.12)。また、語源についても投書が寄せられ、〈小坊主が、仏像の口の周りに餡こをつけて、ぼたもちの盗み食いを逃れようとしたが、和尚が仏像をたたくと『くわーん、くわーん』と音がした〉という話からではないか、という説が「ほとんど」(2000.11.19)。私もそれを連想したのでした。民間語源?

また、UEJさんからは、

「くわんくわん」は小さい頃に何かの絵本で読んだ記憶があった。googleで「絵本 くわんくわん」を検索したらあっさり見つかった。「ふんふんなんだかいいにおい」という絵本で、
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Kenji/3977/2000_ehon_jha.html#ha_funfun この場合、口のまわりにつけているのは「たまごの黄身」。作者の西巻茅子さんは東京出身。http://www.ehon.info/whoswho/KayakoNishimaki.html


とのことです。

2004/9/23


◆ことばの話1901「ロジャー」

平成ことば事情257で書いた「マイクからミチウラ」の続報です。以前、旅行会社に申し込みに行った時に、旅行会社の人が電話で、
「マイクからミチウラ」
と言っていたことから、人の名前を確認する時に、アルファベットにそれぞれ決められた呼び方がある、ということをご紹介しました。ここでもう一度おさらいしましょう。
A=Able(エイブル) N=Nancy(ナンシー)
B=Baker(ベーカー) O=Over(オーバー)
C=Charlie(チャーリー) P=Peter(ペーター)
D=Dog(ドッグ) Q =Queen(クイーン)
E=Easy(イージー) R=Roger(ロジャー)
F=Fox(フォックス) S=Sugar(シュガー)
G=George(ジョージ) T=Tiger(タイガー)
H=How(ハウ) U=Uncle(アンクル)
I=Item(アイテム) V=Victory(ヴィクトリー)
J=Jack(ジャック) W=Whisky(ウイスキー)
K=King(キング) X=X-ray(エックスレー)
L=Love(ラブ) Y=York(ヨーク)
M=Mike(マイク) Z=Zebra(ゼブラ)

と、アルファベット26文字にそれぞれ愛称のような呼び方がついているのです。
そのうちの「R」=「ロジャー」についての新情報です。
『週刊新潮』の2004年9月30日号の高山正之・帝京大学教授のコラム「変見自在」の連載第119回「公が下僕」によると、アポロ11号の月面着陸の様子をNHKが中継した時、アームストロング船長が、
「ロジャー(Roger)君」
と呼びかけるのに、ヒューストンのロジャー君が一向に返事をしない。そのうちヒューストンから逆に「ロジャー君」と呼びかけるが、月に「ロジャー君」はいなかった。しかしNHKは何も解説しないからわからない。高山さん(当時は新聞記者か放送記者だったらしい)は後日、羽田(空港)の記者クラブに入ってNHKが大いなる誤訳をしていたことが分かったという。つまり、
『航空業界には日本語でリンゴのリというようなアルファベットの字解きがあって「Roger」はまさに「R」を示す言葉だった。その後Rogerには別の指名が与えられた。すなわち通信用語で、
「受信し内容を了解した(Received and Understood)」
という言い方があって、これが長たらしいから最初の文字の「R」つまり「Roger」だけで「了解した」
の意にすることになった。RogerはNHKが約した人名の「ロジャー君」ではなく「了解」の意味だった。ちなみに今、字解き語はRomeoに変わった。』

つまり、ここで言われている「ロジャー君」に当たる「Roger」は、私たちが子供の頃から見ている子供向けドラマの中の「科学捜査隊」とか「地球防衛軍」のようにかっこい軍隊のような組織で、隊長から命令を受けて隊員が敬礼した時に発する声、
「ラジャー」
だったのです!中学や高校で英語を習っても、「ラジャー」が出てこなかったのは「ロジャー」と「ラジャー」の発音の谷間だったからなのか・・・。
『デイリーコンサイス英和辞典』でRogerを引くと
「よしわかった!、了解」
と出ていました。なんでそういう意味になるのかは、今、「ラジャー」。

2004/9/23
 
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