◆ことばの話1785「痴呆症の言い換え」
「痴呆症」
という呼び名をやめることを厚生労働省では考えているという記事が出たのは、今年の4月でした。NHKの「暮らしの中のニュース解説」でも4月28日に紹介されました。(「『痴呆症』の名前、変えます」 解説委員・小宮英美)
それによると、患者の差別につながるから、厚生労働省が検討を始めるとのこと。「痴呆症」は85歳以上では4人に1人がかかる病気ですが、「痴呆」というのは「おろかであること」「ぼんやりしてること」の意味なので、以前から「問題視されていたということです。というのも「痴呆症」というのはさまざまな病気(認知障害)の総称で、本人は何もわからなく気楽と思われていますが、「愚か」になったわけではなく、適切な介護を受ければ穏やかに生活ができるのです。そういったことを客観的に説明できる名前をつけることが必要ということです。そういう意味では「精神分裂病」を「統合失調症」としたネーミングは、社会の理解を得られて比較的スムーズに移行できたのではないかと思います。この小宮解説委員は以前から、
「器質性認知障害症候群(Organic Cognitive Disorder Syndrome)」
という名前を提案しており、その略称か英語の頭文字を取るのがいいのではないかと考えているそうです。厚労省は有識者による検討会議で秋までに決める予定だということです(以上、飯間弘明さんのメモを参考にしました)。
先月末、山形で開かれた新聞用語懇談会の総会でも、新聞用語懇談会としてこの「痴呆症」の言い換え問題について、何か具体的に動きを見せている社はあるか?という質問が出ましたが、各社「厚生省の動きを見てから対応する」といった感じでした。
そもそもこの「痴呆症」という呼び名も、「ボケ」「ぼけ」あるいは「ボケ(ぼけ)老人」の言い換えとして出てきた言葉のようですが、結局名前が定着することで、その名前に「蔑視されていたりする実態」がベッタリとかぶさってきて、その名前についた"手垢"が忌み嫌われ、時々、服を着替えるように「呼び名の変更」が提案される、ということのようにも少し思います。しかし、服を着替えることで気持ちよくなるのなら、それも良いのかな、とも思いました。
秋に向けて、動きが出てくることでしょう。

2004/6/17

(追記)

『週刊文春』の最新号(7月22日号)の、高島俊男さんの連載コラム「お言葉ですが・・・」で「ボケの神秘」という題で、高島さんが「痴呆」の言い換えについて考える厚生労働省老健局の検討会に委員として呼ばれたということで、その検討会の内容が記されていました。がんばれ、高島さん!

2004/7/16

(追記2)

高島さん、応援したから・・・ではないでしょうが、次の週の『週刊文春』でも「痴呆の言い換え」について書いてらっしゃいました。

2004/7/27

(追記3)

11月20日の日経新聞はじめ各紙朝刊に、
「痴呆症が認知症へ」
という記事が出ました。検討委員会ではアンケートなども元に検討した結果、今後「痴呆症」の言い換え語として、
「認知症」
を採用する方針を決めたとのこと。
これは11月25日に大分で行われた日本新聞協会新聞用語懇談会・秋季合同総会の席でも、新聞社はどう対応するか?という話題に上りましたが、その席では「とりあえず『認知症(痴呆症)』とすることにした」という社(共同通信、日経新聞)がありましたが、ともに、
「12月24日の厚生労働省での検討会での決定を見てから正式に対応する」
ということでした。
それにしても、「痴呆症」→「認知症」となったら、
「老人性痴呆症」は「老人性認知症」
になるのでしょうかね?
「痴呆老人」は「認知症老人」?
認知できないことが症状なのだから、それを表すためには
「不認痴症」
の方が妥当な気もします。しかし、そもそも「痴呆症」という言葉が持つマイナスのイメージを払拭しようということが名称変更の動機なのですから、「不」が付いた形の言葉(「不認知症」に代えても、マイナスイメージは払拭されないという考えも頷けます。でも、言葉は実態と表裏一体ですから、新しい「認知症」という名称もそのうち手垢がついて、きっとまた「名称変更」を求められることでしょう。

2004/12/8

(追記4)

前の「追記3」から2年4か月、すっかり「認知症」も認知されたようです。旅行先で読んだ「南日本新聞」の4月1日朝刊1面の端に載っていた記事は、
「認知症迷わぬ町整備」
という見出しで、本文でも、
「認知症高齢者の増加など社会の変化に対応するため」
と、「いわゆる痴呆症」のような「いわゆる」書きはされていませんでした。それだけ「認知症」が認知されたということでしょうね。

2007/4/9

(追記5)

スクラップを整理していたら、2004年9月2日の日経新聞が出てきました。まだ「痴呆症」の言いかえが「認知症」に決定する前の記事です。その時点では、
「『痴呆』を代替する呼称 『認知症』など6案〜厚労省、11月末までに決定」
という見出しです。その6案とは、
「認知症」「認知障害」「もの忘れ症」「記憶症」「記憶障害」「アルツハイマー」
の6つだそうです。(記事の中にある表には、この並び順で、数字が1から6まで振ってありました。)
一応、記録として。



2010/7/25


◆ことばの話1784「ハーフ・アメラジアン・国際児」
京都市に住む9歳の小学4年生の少年が、世界最年少のプロのアルゼンチン・タンゴのダンサーだという話題を6月14日の「ニューススクランブル」で紹介し、そのナレーションを担当しました。
その中で、こんな文章が原稿に出てきました。
「彼のお父さんはチリ人、お母さんは日本とチリのハーフです」
最近は「混血児」と言う言葉は差別的だということで、さすがに使われません。この「ハーフ」という表現についても、使わない動きが出てきているようで、先日の用語懇談会でも取り上げられました。
日本テレビの『日テレ放送用語ガイド』(2003)の58ページには、「あいのこ」(=使用しない)が取り上げられていますが、その中に「ハーフ」についても、
「言い換え語としては『ハーフ』があるが、『半分しかない・欠けている』などとマイナスイメージで使われることもあり、侮蔑的表現ととらえらる人も多く、文脈に注意のこと。」
とあります。
「ハーフ」と呼ばれることを不快に思っている人たちもいるということで、たとえば、「国際児」とか「アメラジアン」という表現も使われているようですし、6年前に私が取材をしたヴィッセル神戸の通訳をしていた「ハーフ」の男性は、
「『半分』の意味の『ハーフ』ではなく、『2倍』の意味の『ダブル』と呼んで欲しい」
と言っていました。いい言葉だなと思いましたが、残念ながらまだ定着しているとは言いがたい。「アメラジアン」というのは私も初めて知りましたが、「アメリカン」と「アジアン」からの造語のようで、「沖縄などで、アメリカ人軍属と、日本人の女性の間に生まれた子どもたち」のことを言うようです。ということは、一般的に「ハーフ」に置き換えられるというわけではないですね。
この場合は子どもの「お母さん」が「ハーフ」なので、「国際児」と置き換えることは難しい。「児童」じゃないですから。それに「国際児」という言葉も、児童以外には使えないということは、すなわち「国際混血児」の「混血」を抜いただけで「国際(混血)児」ということではないのか。じゃあ、あまり望ましい言葉ではないような気がします。
結局、このケースは、
「彼のお父さんはチリ人、お母さんは日本人とチリ人の間に生まれました。」
としました。でもこれは実は、彼のことを直接説明してないんですよね。文章の構成としては、少しねじれているように見えるのですが。どうなんでしょうか。
「ハーフ」に代わる良い言葉は、何かないのでしょうかね。
もっとも、彼のお母さんは「ハーフ」という言葉をご自分でも使っていたそうですし、特にこだわりは持ってらっしゃらなかったと取材したカメラマンは話していましたが。


2004/6/14
(追記)

『実例・差別表現〜糾弾理由から後始末まで、情報発信者のためのケーススタディ』(堀田貢得、大村書店:2003,7)という本をパラパラ見ていると、
「あいのこ(混血児)、ハーフ」
という項目が目に入ってきました。それによると、
「つい最近まで『あいのこ』は混血児を指す言葉で、侮蔑性が強いとして、『混血児』と言い換えられるべきだとされてきた。または『ハーフ』と場合によっては呼称すべきとされていた。ところが二00一年一月、NHKが放映したドキュメンタリー『アジア発見・日比混血児』という番組に対し、放映後、『コムスタカ』(移住労働者と連帯する会)という市民団体から、NHKに対して抗議がされたのである。『混血児という言葉は「純潔」との比で差別性がある。混血児は「国際児」とするべきである。「ハーフ」という表現もイギリスにおいては差別表現、よって、「ハーフ」は「ダブル」とするべきである。』
外国人との共生を標榜する人権団体『在日コリアン人権協会』や『全国朝鮮人(外国人)教育研究協議会』もこの主張を支持。すでに『国際児』『ダブル』という表現を使っている。国際化時代の新たな差別表現として配慮を必要とする言葉である。」(162〜163n)

と結んでいます。
やはり「ハーフ」は気になる表現の一つなのですね。ただ、つい先日も日本テレビ系の深夜番組『サバコン』で、ドイツ人と日本人の間に生まれた女性が自分のことを指して、
「ドイツ人とのハーフでぇーす」
と自己紹介していました。絶対使ってはいけない言葉かと言うと、今はまだ、
「そのあたりは状況に応じて」
ということになるのかも知れません。


2004/6/18
(追記2)

6月22日の「なるトモ!」でスポーツ紙の芸能欄を紹介したコーナーで、MSアナウンサーがスポーツ紙をそのまま読んで、
「メキシコ人と日本人のハーフ」
と言っていました・・・。そのほかにも「入籍」「美人アナ」など、スポーツ紙には、テレビでは「ちょっとどうかな」と今、問題視されているような言葉がいっぱい出てきて、それを紹介する時にはどうすればいいのか、という問題に、今テレビのワイドショーは直面していると思います。


2004/6/22


◆ことばの話1783「書き込みとチャット」
6月2日に長崎県佐世保市の小学校で起きた、同級生殺害事件。犯行の動機は、その友達に、悪口をインターネットのホームページの掲示板に書かれたとか、チャットで悪口を言われたからと報道されています。しかしここに出て来る「掲示板の書き込み」と「チャット」は違うものなのではないでしょうか?どうなんでしょうか?
インターネットの「掲示板」、「ことば会議室」に、この質問を「書き込み」をしたところ、Yeemarさんから次のような「書き込み」をしていただきました。

「掲示板への書き込みとチャットは別物ですね。原理は同じかもしれませんが、使われ方が違います。掲示板は、駅の掲示板と同じで、書き込みがずっとあとまで残る。したがって、甲が書き込む時間と、乙が読む時間がずれていてもよい。この『ことばについての会議室』(掲示板)では、実に7年前とか6年前とかいう書き込みも読むことができます(旧会議室も含めれば)。
チャットは、甲乙丙丁が同じ時間にコンピュータに向かって、速射砲のようにキーボードを打ちながら文字で会話する。次々に新しい発言が書き込まれるものだから、さっきの発言は下へ下へと押しやられて、古いものから消去される。あとで見ようと思っても、保存されていないのがふつう、といったところでしょうか。」

また、畠中敏彦さんからも「書き込み」をいただきました。

「メカニックなことは説明できませんが、『書き込み』は文字どおり、書き込んで完結。『チャット』は画面上で相手方と文字で会話する方式です。従って、キーボード操作がある程度早くないと、煩わしい面もありますね。わたくし事ですが、外国(タイ)の娘と時々『会話』してますが、私がトロイため最近はごぶさたが多いです。」

とのこと。また、コンピューターに詳しい脇浜紀子アナウンサーに聞いてみても「書き込みとチャットは違う」ということでした。やはり「書き込み」と「チャット」は違うと考えて良いようです。新聞でも事件当初は「チャット」という文字が出ましたが、その後は「書き込み」に変わって行ったようです。
事件後すぐに出た号の週刊誌『AERA』の特集でも、「チャット」が使われていました。
その後の新聞では「チャット」という言葉が姿を消し、
「掲示板」「ネットで書き込み」「ホームページに書き込み」
といった表現になってきていました。
6月18日の読売新聞の「ことばのファイル」では、「掲示板」が取り上げられていて、
「長崎県佐世保市の小六女児殺害事件は、ホームページの掲示板への書き込みが事件の引き金の一つになったようだという」
という書き出しで記されています。
また『週刊ポスト』の6月25日号の「ニュースメーカーズ・日本の新聞を読む」というコラム欄では、戯作者の松崎菊也氏が、
「相変わらず新聞社は独善、蔑視、時代錯誤!説明されなくともチャットぐらい知っとるわい」
という見出しで、今回の事件の報道に関して書いています。
ホームページの掲示板への書き込みでもリアルタイムにできれば「擬似チャット」状態となるかもしれませんが、そもそも「チャット」と「書き込み」はやはり違います。その性格も、しゃべり言葉に限りなく近いチャットと書き言葉に近い掲示板との違いがあるのではないでしょうか。もちろん掲示板BBSでも「あらし」にやってきてチャットみたいに書く人もいますが。
ちなみに、「電子掲示板」=BBSは、
「Bullentin  Board(掲示板) System」
の頭文字を取ったものだそうです。
今回の事件で、小学校の高学年の児童が、インターネットを使うことができるコンピューター・リテラシーを持っていることはわかりましたが、便利さと危険性は背中合わせだということと、そういった新しいコミュニケーション・ツールの操作方法だけを教えるのではなく、それを使うことによって生じる危うい面も合わせて教えていくことが必要ではないか、ということを感じました。「ネットが原因で事件が起きたからインターネットやパソコンを教えるのはいけない」というふうな議論は不毛だと思います。



2004/6/18


◆ことばの話1782「ら抜き言葉の現在」

先日、神戸の女子短大で2回ほど、「日本語入門」という講座で講義を担当させていただきました。その時に、「放送で気になる言葉」として「ら抜き言葉」を紹介しました。
カ行変格活用、上一段活用、下一段活用の動詞に「可能」の意味の助動詞を付ける場合には、「られる」をつけるのが文法的には正しいのだが、最近は「ら」を落とした「れる」をつけるケースがほとんどで、これを「ら抜き言葉」と呼ぶわけです。
当然7,8割の学生は「ら抜き言葉」を知っていると思って、念のために、
「『ら抜き言葉』というのを聞いたことがある人?」
と聞いたところ、なんと45人いるクラスの中で、4,5人しか手が上がらなかったのです!これには担当のM先生も驚いていました。ということは、どういうことかというと、もう「食べれる」「着れる」「見れる」という「ら抜き言葉」は彼女たちにとっては当たり前になってしまっていて、まったく疑問すら持っていないと。疑問を持っていないので、世間で言われる「ら抜き言葉」という言葉を聞いたところで、関心がないものだから右の耳から左の耳に通り抜けて行って頭に残っていない。だから、改めて「『ら抜き言葉』とはどう言うものを言うのか」を今回初めて詳しく聞いたことで、「そうだったのか!」と認識したということではないでしょうか。
そもそも関西では、もともと「ら抜き言葉」が使われていたということも聞いたことがあります。今に始まった話ではないのかもしれません。『週刊金曜日』の2004年2月6日号本多勝一は「貧困なる精神200」で「『ら入り』の殺意(下)」というのを書いています。そこには、信州弁では「ら抜き」は当たり前なので、「ら抜き」という感覚がおかしい。むしろ「ら抜き」を非難する人たちが使う言葉を「ら入り言葉」と呼びたい。というようなことが書いてあります。また、
「『ら抜き』が気になる文章家はかなりいるらしく、非難めいた随筆をしばしば見かけます。」
として、「ら抜き」を題材にした永井愛氏の芝居『ら抜きの殺意』の存在を(今頃)知って驚いています。そして、島田荘司氏の推理小説『ら抜き言葉殺人事件』についてもふれ、
「この作品には『ら抜き』嫌いの度が異常に強い特殊な人物が登場するのですが、それはあくまで強弱の程度にすぎず、『ら入り』を"標準"とする価値観が前提になっている点では『ら抜きの殺意』と変わりません。その意味で、信州弁地域の者としてはやはり抵抗を感じるのです。」
と書いています。このエッセイの「上」を読んでいないので、なんともいえませんが大体言いたいことはわかりました。方言に「ら抜き言葉」はあるのだから、それを標準語を基準にして責め立てるな、というような感じだと思いました。
まあ、そういった方言も含めて考えて、もう既に、「ら抜き言葉はだめ」とこだわっているのは、アナウンサーと国語の教師ぐらいしかいないのかもしれませんねえ・・・。あ、それも危ないか。先日、子どもの小学校の授業参観に行ったら、私よりも年配の、担任の女の先生が、
「見れますか?」
「自分で服、着れますか?」

というふうに「ら抜き言葉」を連発していましたから。先生が使ったら、子どももマネするしなア。子どもの連絡帳に、
「『ら抜き言葉』はできたらやめて欲しい」
と書いて翌日出したら、先生から、
「以後、気をつけます。アナウンサーのお父さんが来られてたので、(言葉使いなど)緊張しました。」
と書いてありました。別にいいんだけどさ・・・。


2004/6/18


◆ことばの話1781「五月晴れ」
「ズームイン!!SUPER」「なるトモ」を担当している三浦アナウンサーからの質問です。
「いま、サツキバレって言うのは、使ってもいいんですかね?」
梅雨に入ってからこのところ晴れる日が続いていますから、使いたいですよね。本来は陰暦の五月だから梅雨の頃の、雨が続いた日の合間の晴れ間を「五月晴れ」と書いて「サツキバレ」と言ったのですが、この「陰暦の」の部分が忘れられて、今の(太陽暦の)五月の晴れた日を「サツキバレ」といったりする傾向が続いたことから、
「本来の意味で使うべきだ」
という声も高まりました。それによって、5月と6月の両方で「サツキバレ」が使われているのが現状だと思います。
「ニュース・スクランブル」のお天気おじさん・小谷純久さんは、
「5月の晴れは『ゴガツバレ』、6月の梅雨の晴れ間は『サツキバレ』と使い分けている」
そうです。さらに、
「本来、梅雨の晴れ間を『サツキバレ』と言うんですが、まさにその『サツキバレ』ですね。」
というふうに説明もつけるようにしていると、以前聞いた事があります。なんだか面倒ではありますが、わかりやすくは、あります。
『広辞苑』では、
「さつきばれ(五月晴れ)」
(1)さみだれの晴れ間。梅雨の晴れ間。
(2)5月の空の晴れ渡ること。

とあります。「さみだれ」は(用例は省略しました)、
「さみだれ(五月雨)」=(サはサツキ(五月)のサと同じ、ミダレは水垂(みだれ)の意という)(1)陰暦5月頃に降る長雨。また、その時期。つゆ。梅雨。さつきあめ。
梅雨の話題だけに、なにやら、うっとうしくなりました。(2)(1のように)途切れがちに繰り返すこと。

とありました。やはり「さつきばれ」は、「梅雨の時期の晴れ間」が本来の意味なんですね。でも(2)として「5月の晴れ」も『広辞苑』は認めています。両方認めるから、余計ややこしくなるんですが、おそらく認めざるを得ないくらい普及していた、という実態が先にあるのでしょうね。
『つかいこなせば豊かな日本語』(NHK放送文化研究所日本語プロジェクト、NHK出版:2003、3)にも「五月晴れと五月雨」が取り上げられていました。それによると、「五月(さつき)」は旧暦・陰暦の呼称で、「旧暦五月(今の六月ごろ)」が梅雨にあたるところから、もともと「五月晴れ」は梅雨の晴れ間、梅雨の合間の晴天を意味したのですが、時が経つにつれて誤って「新暦の五月の晴れ間」の意味でも使われるようになり、「この誤用が定着しました」と書いてあります。そして、「五月雨」は旧暦五月に降る雨のことで、新暦では六月の梅雨のことを指します、と書いてあり、最後に、
「『五月雨』は六月で、『五月晴れ』は五、六月では変ではないかと思うかもしれません。しかしことばは常に変化するものですから、本来の意味を知っておくことはとても重要なことです。」
とまとめています。


2004/6/17
 
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