◆ことばの話1740「言語道断」

「言語道断」
と書いてどう読みますか?
「ごんご・どうだん」
正解です。この言葉は、
「勝手に人のものを奪っておいて、『返せというならその代金を払え』などというのは言語道断だ!」
というようなケースに使われますね。
ところがこの前、『都市と日本人』(上田篤著、岩波新書)という本を読んでいたら、こんな表現が出てきたのです。(120n)

「言語道断面白き有様」(太田和泉守牛一『信長(しんちょう)公記』)。

つまりこの「言語道断」は、強調表現として使われているのです。
以前、梅花女子大学の米川明彦先生にお話を伺った際に、
「強調表現は、使われすぎると手垢が付いて、違う表現に取って代わられる。『メッチャ』とか『超』『バリ』などもそういった流れの中にある強調表現だ。」
ということをおっしゃっていたので、もしかしたら、中世においてはこの「言語道断」も、強調表現としてポピュラーだったのかな?と思い、ファックスで質問してみたところ、すぐに返事が返ってきました。それによると、
「『言語道断』は感動詞的に使う例が中世からあります。『とてつもなく』の意味で驚きを伴っています。同じ『信長公記』(1598年)には『言語道断面白き地景申すに計りなし』や、『謡曲・花月』(1423年)には『言語道断おもしろきことを仰せられ候』という例があります。」
ということで、強調表現の「言語道断」は中世には使われているようです。ここに出てきた3例(私のと米川先生の例)は、いずれも「面白き」の強調になっていますね。それにしても米川先生は、最近、東京堂出版から『日本俗語大事典』という大作・労作を出されているだけに(←ここ、ちょっと宣伝です)、さすがによくご存知でした。言語道断、驚きまして候。

2004/6/1


◆ことばの話1739「マサチューセッツ州知事」

アナウンサーでも言いにくい言葉はあります。個人的に苦手なものもあれば、みんなに共通して言いにくい言葉もあります。そんな中で「これは言いにくい」と昔思ったものに、
「マサチューセッツ州知事」
という言葉がありました。最近の「貨客船マンギョンボン号」も言いにくいけどさ。
マサチューセッツ州知事というのは、今から十数年前の大統領候補に、デュカキスさんというマサチューセッツ州知事がいて、それがとても言いにくかったので覚えているのです。
ところが、この言いにくい「マサチューセッツ州知事」、カタカナ部分を当て字の漢字で
「正中摂津州知事」
にすると、あら不思議、とても簡単に言えるようになるのです。どうですか、皆さん、簡単に言えるでしょう?この事実を前にして私が考えたことは、
「人間(日本人)の脳は、目で見た文字情報を口に伝達する時に、表音文字のカタカナを扱う部分と表意文字の漢字を扱うところは違うのではないか?」
ということです。その話を、昨日(5月28日)、山形で行われた新聞用語懇談会の総会でお会いした産経新聞の校閲部長の塩原さんに、懇親会の席で話したところ、
「それはおもしろい!道浦さん、それ、もうどこかに書いた?わたしが書いてもいいかな?」
とおっしゃっていたので、「いいですよ」と言ったものの、これはボクも書いておこう!と思ってパソコンに向かっているのです。
そう思って本を読んでいたら、
「あっ!」
というものにぶつかりました。「読書日記60」にちょびっとだけ書いたのですが、古舘伊知郎さんと養老孟司さんの対談集『記憶がウソをいつく!』(扶桑社)の232ページの養老先生の発言です。ちょっと長いですが引用しますね。
「日本語って特殊でね。日本語の読みの場合に脳の二か所の領域を使っているんです。これはたぶん間違いない。なぜかというと、日本人がなんらかの脳の障害によって失語症になった場合、かなが読めなくなる症例と漢字だけが読めなくなる症例と、別々のケースがあるんです。こういう分離は外国語にはあり得ない。なぜなら、まず普通は単一文字ですからね、かなと漢字が交ざっているようなことはない。(中略)『美しい』の『美』を『ビ』と読むのなら韓国も同じですが、『しい』と送りがなをして、『ウツク』と読むっていうのは、ある意味でむちゃくちゃでしょう。それができるのは日本語だけなんです。で、日本人の脳の中でそれをやる場所というのが、じつは万国共通で普通に文字を読む場合に使われる場所と違う場所なんです。ですから日本語の場合、普通の言語に比べて、読みの部分を倍使っていることは間違いない。」
おお!ということはやっぱり、同じ発音をするものでも、カタカナを読む場合と漢字を読む場合でも「言いやすい・言いにくい」が出てきてもおかしくないわけですよね!私の仮説を養老先生が裏付けてくれたようで、「よしよし」という気分です。
ということは、今度から言いにくい言葉は漢字の当て字をすればいいかな。
あ、もう一つ、思い出した!
「シミュレーション」
って、よく「シュミレーション」と間違って言う人がいますよね。覚え間違えているのですが、じゃあ、ちゃんと「シミュレーション」と言ってごらんと言われても、実は「シュミレーション」の方が言いやすいんです。「シミュ」って言いにくいんですね。ところが、これを英語のアルファベットで、
「simulation」
と書かれたものは、おそらく何の抵抗もなく「シミュレーション」と読めるんです。つまり、カタカナと漢字で脳の違う部分が使われているのと同じように、カタカナと英語(アルファベット)もおそらく脳の違う場所が動いているのではないでしょうか?
いいにくいな・・・と思ったら、漢字の当て字にしたり、言語のアルファベットに戻したりすれば、いえ、紙に書かなくても、頭の中でそう思い浮かべるだけで、言いにくさが解消されるのです!一度、お試しあれ!
2004/5/30

(追記)
この項でいいのかどうかなあと思いながら、とりあえずここで。
「ハリーポッター・アズカバンの囚人」。
の電車の中吊り広告が目に入りました。DVDが出るのかな?レンタルが始まるとか、そういう広告だったと思いますが、それを見て思いました。
「『アズカバン』って、『アズバン』と、全部濁ってしまいそう。これは正しくは『アボカド』なのに『アボド』と全部濁ってしまうのと同じ理屈ではないか。」
と思いました。つまり、
「清音と濁音が交互にくる形は言いにくい。濁音は舌を動かして摩擦音を出すが、清音は摩擦させず楽。ラクな方を選びがちなので、区別をせず全部濁るほうを選んでしまう。」
のではないでしょうかね?
一応、問題提起ということで。
2004/12/24

(追記2)
2005年3月3日の産経新聞「アピール」欄の投稿記事で、日本漢字教育振興協会という会の土屋秀宇・理事長(62・東京都渋谷区)が「『配当漢字』脱却が国語力向上の鍵」という題で意見しています。「かな先習」から抜け出して漢字から教えるべきだという主張です。その中にこんな一節が。
「実際、私どもの実践によれば、低年齢児のみならず知的障害児や自閉症の子も、ほぼ例外なく漢字を好むことが分っている。これは、漢字とかなでは脳の処理領域が異なることと関係しているらしい。
やっぱりそうですか!絶対それはありますよね。私も自信を深めたのでした。
2005/3/3


◆ことばの話1738「ミズ」

5月20日のスポーツ新聞各紙に
「ミズリリーに、常盤貴子」
という記事が出ているのを、「あさイチ!」で取り上げました。
この中に出て来る「ミズ」、もちろん、未婚女性の「ミス」、既婚女性の「ミセス」ではなく、未婚既婚問わずに女性に付けるという時に「ミズ」になります。この原稿を読んでいた女性のNアナ(1972年生まれ、未婚=ミス)は、この言葉を知りませんでした。
また、番組が終わった後、アナウンス部で1980年生まれで入社2年目のKアナ(未婚=ミス)に聞いたところ、やはり知りませんでした。
そういうものなのかなあ。
つまり「ミズ」も、日本では(アメリカではわかりませんが)一過性の流行語だったのか?ということです。私などは(自分で使う、使わないは別にして)もう定着しているものとばかり思っていましたが、どうも周囲は「ミズ知らず」の人が多いようなのです。
この賞は、未婚・既婚を問わずに百合(ユリ)の似合う美しい女性に、ということですから、やはり「ミズ」でないといけないのでしょう。
常盤貴子さんは未婚なので「ミス」でも間違いではないのですが、この賞の第1回受賞者の黒木瞳さんは既婚だったので、その際は「ミス」ではまずい、ということもありますね。同じ日に放送された「なるトモ!」という番組では、女性のYアナウンサー(未婚=ミス)が同じニュースで、
「ミス」
と読んだのです。これは読み手のミスか、原稿の書き手のミスか?Yアナに聞いてみると、
「原稿はミス・リリーでした。ミズの意は、既婚未婚の女性を区別しないでいう場合ですよね?」
という返事が戻ってきたので、彼女は「ミズ」については知っていたようです。しかし、こういった賞は、たいてい「ミス○○」なので、特に疑問を抱くことなく原稿を読んでしまったのでしょう。もし、もとの新聞をチェックするぐらいの気持ちでいたら、「ミス」と読む「ミス」は防げたのですがね。それがないと、みすみすミスを犯してしまうと。記事はスミズミまで読みましょう。

2004/5/28



◆ことばの話1737「到着をされました」

5月25日の日本テレビ「情報ツウ」の番組の中で、皇太子様の例の発言に関して伝えていました。その中で、女性芸能レポーターがこう言いました。
「羽田空港に到着されました皇太子さまは・・・。」
この「を」、いらない!
「到着された皇太子様は・・・」
で良いではないか!
最近、この手の例をよく目にします。つまり、
「二文字の漢語+する」
という言葉(例・到着する、完成する、感激する、傍聴するなど)の、漢字とひらがなの「する」の間に「を」を入れて、
「二文字の漢語+を+する」
という物言いです。(例・到着をする、完成をする、感激をする、傍聴をする)
たしかに、もともとは「漢語+を+する」の形であったのかもしれない。しかしその後、日本語として使われていく中で、「を」を省略して「漢語+する」で定着しているものを、わざわざ「を」を付けて元に戻すのはいかがなものか、と思うわけです。
これは、こと漢語に限らず、カタカナ表記の外来語にも同じ傾向が見られるように思います。(例・オープンをする、リサーチをする、リザーブをするなど)
こういった物言いをする心理的背景は?と言うと、おそらく、「を」をつけて、やや回りくどくすることで、「丁寧なことば遣い」という雰囲気を醸し出そうとしているのではないでしょうか?たった一文字の「を」ですが、それがあるかないかで、たしかに耳で聞いたときには違って感じるから不思議です。
できればシンプルな「到着しました」という表現を使った方が、私は気持ちがいいです。

2004/5/27



◆ことばの話1736「なくしよう」

たまーに耳にする言葉で、
「なくしよう」
というのがあります。意味は、
「ない状態にしよう」
ということです。だから、もし、切るとすれば、
「なく、しよう」
ということです。「ない」という形容詞に「しよう」という動詞(細かく分けると「する」の連用形の「し」+意志を表わす助動詞「よう」)をくっつけたような言葉です。「赤くしよう」「冷たくしよう」「やさしくしよう」などと同じような形と考えられます。
でも普通、そういう意味で使う言葉は、
「なくそう」
ですよね。この「なくそう」は、「なくす」という他動詞に、意志を示す助動詞「う」をくっつけたものですね。
どちらも「あり」かなあと思う一方で、「なくしよう」の方は、なんとなく方言の香りもします。どうなんでしょうか?ご存知の方、ご一報を、お待ちしていまーす。

2004/5/27
 
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