◆ことばの話1700「ながら」

今日は「ながら」という言葉のアクセントについて考えます。
「A(し)ながらBする」
という言葉の場合、具体的にはたとえば、
「ラジオを聞き(=A)ながら勉強(=B)する」
という文章の場合に、もし「ながら」が「平板アクセント《「ながら(LHH)」》」ならば、Bの行為、すなわち「勉強する」という行為をを重視しており、「頭高アクセント《「ながら(HLL)」》」ならば、Aの行為(=ラジオを聞く)を重視しているというふうに、アクセントによって意味の軽重を区別できると私は思うのです。(Lは低く、Hは高く発音します)
しかし、なかなか「そのとおり」と言ってくれる人ばかりではないので、どうなのかなあと思っているところです。
この例文の場合には、Aという行為と同時に平行してBという行為を行っている場合の「ながら」ですが、もう一つ別の意味に使われる「ながら」もあります。つまり、Aという行為がBの行為をするための障害になる、というケースです。
具体的な例文としては、
「彼は十八歳(=A)ながら、最難関のその試験に合格(=B)した。」
というような場合。Aの「若すぎる年齢」という障害にもかかわらず、合格したということですね。この場合は「頭高アクセント」ならば、その障害を強調し「にもかかわらず合格」という事実を強調しているように聞こえますし、「平板アクセント」でも意味は変わりませんが、それほど若い年齢が強調されたようには聞こえません。
で、実際のアクセントはどちらが正しいのか?NHKのアクセント辞典を引いてみたところ、実はこの「ながら」は載っていなかったのです。何でだろう?
不思議に思い「ながら」、アクセント辞典を閉じたのでした。

2004/5/7



◆ことばの話1699「空き缶」

缶コーヒーを飲み終わってふと、気になったのは、
「なぜ『空き缶』と言うのか?『缶』という体言にかかるのに、どうして『空く』の連体形の『空く』ではなく、連用形の『空き』が使われるのか?用言につながるから『連用形』と言うのではないか?」
という疑問です。不思議です。
でもさらに考えると、たとえば「歩き、しゃべり、働き、甘え、飛び、輝き」など、連用形がそのまま名詞になっているものがあります。(連用形ではなく、連用形の名詞化。平成ことば事情1676「歩き電話」も、この「空き缶」と同じ形だった!)。だからその、
「連用形が名詞になったもの+名詞=複合名詞」
という考え方だと「空き缶」は「体言+名詞で複合名詞」になるのではないか?と考えました。
その上でインターネットの掲示板「ことば会議室」にその疑問を書き込んだところ、大阪大学の岡島昭浩先生から回答をいただきました。それによると、
松下(大三郎)文法によると「第二活段中程形」というのがあって、それによると、
「花が咲き、鳥が鳴く」の「花が咲き」は事件の一部であって叙述の中程なので、この活段を「中程形」と名づけ、「斬り殺す」「打ち敗る(ママ)」の「斬り」「打ち」なども同様に「中程形」。(例文が「斬り殺す」というのもスゴイが。)この「中程形」では、
「『笑ひ』『喜び』などの如く名詞になる場合もあるが、それは中程形の利用であって叙述の中程を一實質として取り扱ふからそうなるのである。叙述が完結すれば動詞であって名詞にはならないが、中程であるから名詞にすることが出来る。『笑ひ顔』『流れ水』などの如く名詞と共に熟語を成す場合もあるが、その『笑ひ』『流れ』もやはり叙述の中程の利用である。(中略)従来この段を連用形と名づけたが此の名称は第二活段の眞意義が○(門がまえに単)明されなかった時代の名称である。用法の末を捉へたもので本を捉へて居ない。連用とは用言に連る意である。『斬り殺す』の『斬り』などには適当であるが、『笑ひ顔』の『笑ひ』は決して連用ではない。されば此の段には従来、中止形、名詞形、熟語形など種々の名称が有って研究家の煩悶の跡を現わしてゐる。第二活段の根本義が判った以上は中程形と名づけるのが最も適当であらうと思ふ。第二活段の凡ゆる用法は叙述の中程の利用である。」(松下大三郎『標準日本口語法』)(注・「叙述」「適当」「名称」など一部、ワープロで出ない旧字体を新字体に変えています。下線は道浦による。)
とのこと。
学校ではこういうこと、習わなかったよなあ。「連用形」なんて書いてあるから、体言に連なるのはおかしくないか?という疑問が出るのです。そういう意味では下線部の記述は私が思ったとおりのことなので、胸がスッとしました。
さらに岡島先生が紹介してくれた、橋本(進吉)文法によると、
「複合して名詞となるものは、非常に多いのですが、本書には各四・五例を挙げて、主な種類を示しました。引例は説明する必要を認めませんから、左に補充の例を記しておきませう。
川底、鳥籠、石橋、煙草屋、マッチ箱、縞ズボン、一本松(名詞と名詞)
花見、日照《ひでり》、火消《ひけし》、神参《まゐり》、煉瓦造、インキ消《けし》、
カルタ遊(名詞と動詞)
建物《たてもの》、釣橋、煮《にえ》湯、負軍《まけいくさ》、貸金《かしきん》、冷やしコーヒー(動詞と名詞)
やりばなし、書置、割合、立話(動詞と名詞)
たヾ事、また従兄弟《いとこ》、ぼんやり者(副詞と名詞)
山々、木々、月々、ひとりひとり、一日一日(同じ名詞と名詞)
右のとおり、動詞が複合語を造るには、連用形を用いるのが原則ですが、形容詞はその語幹を用ひて、
浅瀬、近目、薄墨、廣縁《えん》、夜寒、丈《たけ》長〔女見の髪飾〕、古着、長生、高笑、遅蒔、嬉し泣、悔し涙
のやうになるのが普通であります。ですから語幹のまヽでは直ちに単語と見ることは出来ませんが、この場合は単語と同様に取り扱はなければなりません。」(橋本進吉『改正 新文典別記 口語篇』)
(下線は道浦による。)
とのことで、こういった形で動詞が名詞を作るときには連用形(中程形)が用いられるのが原則、とまで書いてあるではありませんか。確かに現実はそうです。それならば、用言に連なる「連用形」という名前は、やはり松下文法が言うようにおかしいことになりますよねえ。文法は難しくてよくわからないのですが、今、学校の国語の文法では、どういうふうに教えているのでしょうか。このあたり、ちょっとまた勉強しなくてはいけませんね。
と、思っていたら「ことば会議室」にYeemarさんが、こんな書き込みをしてくれました。

「『標準日本口語法』(1930)では松下は「中程形」と言っていますが、松下『改撰 標準日本文法』(1928初版、1930年版〔昭和五年訂正版〕)では「中止格」と言っています。意味は一緒でしょう。
要するに、連用形といわれる「歩き」「飛び」「飲み」などは、動詞・形容詞等(用言)へ連なるためにこの形が用意されたわけではない。原因と結果が逆である。そもそも、「歩き」「飛び」「飲み」などは動作を言い切る力をもたない形である。言い切る役割は、そのあとに続くことばに任せる。たとえば、「歩き」に「始める」を続けて「歩き始める」、「飛び」に「たい」を続けて「飛びたい」などとする。結果的に用言がくっついて使われているだけのこと。「酒を飲み、かつ歌う」の「飲み」も言い切っていない。したがって、これを「連用形」というよりも「中止形」(松下の言い方では「――格」)と言ったほうがよい――松下説をとりこんで乱暴に言い直すとざっとこうなるでしょうか。
渡辺実『国語構文論』(1971)では、いわゆる「連用形」をさらに3つに分けています。
 1. 連用形 (例、「本を読み、理解する」の「読み」)
 2. 誘導形 (例、「父に似てがんこだ」の「似て」)
 3. 並列形 (例、「よく遊び、よく学ぶ」の「遊び」)
 *例は私(=Yeemarさん)が加えたもの
連用形がひとつの機能だけを果たしているわけではないのですね。」


ありがとうございます。「中止形」という呼び方もあるようですね。で、「空き缶」は、この渡辺実が分けた3つには含まれないようなので、4つ目ということになるのでしょうか。
どうも日本語の文法の考え方は、まだまだ確定していない・・・というか、「最初に文法ありき」ではなく「最初に日本語ありき」で、それに当てはまる「文法」を、あとから考えているという気がしますね。

2004/5/7



◆ことばの話1698「番号ポータビリティ」

2月27日の各紙朝刊に、異なる携帯電話会社のケータイに変えるときに、今は電話番号も変わってしまうのですが、同じ番号のままで会社を変える事ができるというサービスが、早ければ2年後にも実現するという記事が載っていました。
こういうふうにできることを、
「番号ポータビリティ」
と言うそうなのですが、なんじゃ、そりゃ!そのポータビリティっちゅうのは!!わけのわからんカタカナ語、使わんといて!「ポータブル」と言うと「持ち運び」ができることだというのはわかります。「ポータブル・テレビ」「ポータブル・カセットデッキ」そして「ポータブル便器(おまる)」などは、割となじみがあると思います。しかし「ポータビリティ」となると、英語で書いていたらまだ「ポータブル」と似ているとわかるかも知れませんが、一旦カタカナにしてしまうと、もういけません。こんな言葉は使わないで欲しいなあ。
新聞はこれをどう書いているか。見てみると、
(日経)「番号継続制」
(朝日)「番号持ち運び」(番号ポータビリティー)
(産経)「携帯番号『そのまま』制度」(「番号ポータビリティ(持ち運び)制度」)
でした。(読売、毎日は記事見当たらず。)

さすがに「ポータビリティ」のままではまずい、ということでしょうね。これはその計画を進めているお役所(総務省=元の郵政省)に、問題があるのではないでしょうか。


2004/2/27

(追記)

5月10日の読売新聞・社説で、
「携帯電話、競争加速する『番号持ち運び』」
というタイトルで、また本文の中では、
「番号ポータビリティー(持ち運び)制度」
という表記で記していました。

2004/5/17



◆ことばの話1697「高校野球放映中」
最近見なくなったもの。
「喫茶店などの入り口に貼られた『高校野球放映中』という貼り紙」
という話が、泉麻人の本に出ていました。その本をちょうどセンバツ高校野球をやっていた時期だったので、
「そういえば最近、見ないなあ。」
と思っていました。高校野球熱が一時ほど高くなくなってきてるのは、もちろん感じていました。11年前に始まったサッカーのプロリーグJリーグの影響もあるでしょうし、子どもの数が減っていることや、地元・郷土愛というものが薄くなっていることなども影響しているかもしれません。
でも2年前の2002ワールドカップ日韓大会の時は、
「ワールドカップ放映中」
という貼り紙をよく目にしました。ずいぶん前の話ですが、マイク・タイソンのボクシング中継の時にも、貼り紙をした喫茶店に入った覚えがあります。
昨日(5月2日)の朝日新聞夕刊に、視聴率30%の番組が昔に比べて激減しているという記事が載っていました。具体的に言うと、1979年には視聴率30%超えた番組は年間1860回もあったのに、2003年には10回しかなく過去最少だったというのです。
1860回もあったことにまず驚きますが、おそらくそのうちの多くは、NHKの朝のドラマだったのではないでしょうか。月曜から土曜日まで週6回、年間300回は30%を取っていたのではないでしょうかね。それが朝の時間帯の民放の多様化と生活リズムと嗜好の変化などによって、30%は取れなくなったのではないでしょうか。それにしても朝日のこの記事は、何が言いたいんだ?あ、
「お茶の間、様変わり」
という見出しもあるので、視聴者の視聴習慣多様になってきているということを言いたいようですね。そう!そうなんです。だからこそ「高校野球放映中」が見られなくなった。もし、そんな貼り紙があったとしてもプラスの吸引力を持たなくなったということなんですね。
ということは商売のやり方も、ポーンと放り込めば誰もが買う(番組だと見る)ということではなくて、ターゲットを絞り込んだ商売の仕方をしなければならない。そういった世の中になったということかな。ガッポガッポとは儲からないけど、確実に稼げるようなターゲットに絞り込む。そういうことかもしれません。この「平成ことば事情」はターゲットを絞り込んで・・・いるんでしょうかねえ?
「平成ことば事情、掲載中」
とでも貼り紙出すか。あ、もう出してるね、ホームページのトップに。


2004/5/4



◆ことばの話1696「謝意」

北朝鮮の代表が、先日の列車爆発事故への援助に謝意を述べたというニュースを見ていたOアナウンサーがこんな言葉を口にしました。
「お詫びでも、ありがとうの感謝の気持ちでも、どちらも『謝意』なんですね。」
言われてみればそうですね。辞書にはどう書かれているのかと『新明解国語辞典』を引いてみると、
「お礼やおわびの気持ち」
とありました。あ、やっぱり。『新潮現代国語辞典』はその二つを分けて書いてあります。
(1)感謝の心。礼の気持ち。
(2)謝罪の心。わびの気持ち。

ふーむ。感謝と謝罪。ともに「謝」の漢字が含まれていますし、どちらも頭を下げますね。
でもその心のうちは、ずいぶん違うように感じますね。
「謝る」のと「礼を言う」のは、やはり違う行動です。ただ、さっきも書いたように「謝る=謝罪」と「礼を言う=感謝」の両方に「謝」の文字があるために、それぞれの「気持ち」という漢語が「謝意」となってしまい、違う意味なのに同じ文字の漢語で表現されているせいで、Oアナウンサーが抱いたような違和感が生じているようですね。もちろんどちらの「謝意」かは、文脈から判断するので、まず間違うことはないかと思いますが。ただ、英語の
「シャイ」
も参戦すると、A君に急に石を投げつけたB君が、A君の反撃を受けてタジタジとなっているところをC君に助けてもらったという場面など、B君は、A君に謝ることも、C君にお礼を言うこともできなかったとしたら、
「B君はシャイなので謝意も謝意も表せなかった。」
という状況はありえますな。では、シャイナラー。

2004/5/4
 
Copyright (C) YOMIURI TELECASTING CORPORATION. All rights reserved