◆ことばの話1600「ふくら雀」

おだやかな日差しが指した先週の金曜日(2月13日)、昼ごはんを食べに、ちょっと離れたお店まで、アナウンス部の同僚と会社から第二寝屋川沿いを歩いてブラブラ行きました。
その際に、すごくプーッと脹れたスズメを見つけたMアナウンサーが、
「あ!ずいぶん太ったスズメですね」
というと、Sアナウンサーが、
「あれは太ってるんじゃなくて、寒さを防ぐために体を膨らませているんじゃないの?」
「へー、そうなんですかあ。」
「たしか『ふくらスズメ』と読んで、季語にもなってるはずだよ。」

なかなか物識りのSアナウンサーです。
会社に帰って調べてみると、たしかに「ふくら雀」は季語になっていました。「新春」の季語ということで、冬でもあり春でもあり。ちょうど今の時期にぴったりかもしれませんね。
「ふくら雀」
GOOGLE検索では、
「ふくら雀」  =1450件
「ふくらスズメ」=  27件
「ふくらすずめ」= 487件

です。また一つ、優雅な言葉を覚えました。

2004/2/15




◆ことばの話1599「あっし」

2月10日、街中で20代前半と思しき女性が、自分のことをさして、
「あっし」
と言っているのを耳にしました。もちろん、
「あたし」
という意味の一人称です。しかし私が「あっし」で思い出すのは、中村敦夫演じる「木枯紋次郎」ですね。
「あっしにはかかわりのないことでござんす」
というセリフは、流行語になりました。
若い女の子が使う「あっし」は以前にも耳にしたことがありましたが、あんまり品がいいようには感じませんでした。
で、なぜ「あっし」と言うようになるのか、考えてみました。
「あたし」は「ATASHI」というふうに「あ」「た」と、「A」の母音が二つ続きます。このため、口の形は基本的に同じながら「T」の音を舌で出さないと「た」が出ません。それが面倒なので、「T」を出さずに次の母音変化の「し」、「I」の母音につなげると、
「あ・し」
となりますが、「た」の分の音の長さを何かで埋めないと、
「あし=足」
になってしまいます。それで「し」の準備を少し早く始めると、「S」の音が残って、
「ASSI」=「あっし」
になるのではないか。つまり同じ母音の続く音を、面倒だから省略しているのではないか?と考えました。
そんなことを考えながら読んでいた多田道太郎『日本語の作法』(朝日文庫)に、似たような例が書かれていました。
「小生の小学校時代の女友だちが『わたし』−正確に言うとwatasと発音しているのにおどろいた覚えがある。watasiのi が落ちているのである。ペラペラしゃべりだすとta もおちる。『わし』ときこえそうなところをi がないからwas となる。モダンな女性なので、なるほどモダンとは自分のことをwas というのか、と感じいったことがある。もし『わたし』がすりへって、男はwasi 女はwas というようになれば、これは大きに西欧ふうといえるかもしれない。」
と書いているのです。
つまり早口になると音が抜けることになり、その結果「わたし」が、
「わたし」→「わたす」→「わし」→「わす」
となると。(「わす」の「す」は子音だけ。無声化)そうすると「わたし」の「わ」から「w」が落ちて「あ」になっている「あたし」も同じような道をたどると、
「あたし」→「あたす」→「あし」→「あす」
となるのかなあ。(「あす」の「す」は無声化。子音だけ。)「あっし」は、「あたす」と「あし」の間に位置するのですかね?
どうなんでしょうか?
え?「あっしにはかかわりのないことでござんす」って?そりゃないよ・・・。

2004/2/16



◆ことばの話1598「ぬめるとのめる」

スーパーでレジに並んでいる時に、横の棚にひっかけてあったのは、
「ぬめり取り」
それを見てふと思ったのは、
「『ぬめる』と『のめる』は、なんとなく似てるけど、どう違うんだろうか?」
ということ。考えました。
「ぬめる」は、そのもの自体のぬるぬるする表面の状態を、外から触って感じた"様子"を表したもの。一方「のめる」は、あることにその人が没頭し深みに入り込んでいる"動作"を指すのではないでしょうか。
「ぬめる」という状態を名詞にしたものが「ぬめり」。「のめる」という動作を名詞にしたら・・・・「のめり」とは言わないんじゃないでしょうかね。どういでしょうか?
『新明解国語辞典』で「ぬめり」を引くと、
「ぬめり=「(動詞「ぬめる」の連用形の名詞的用法)ぬるぬるしための。粘液。」
と書いてあるにもかかわらず、なんと「ぬめる」という動詞を載せていない!こりゃ、あかん。それはそうとして、横にある「ぬめぬめ」も気になる。さらにその横の方には「ぬらぬら」も。「ぬめぬめ」と「ぬらぬら」の違いは?
「ぬめぬめ」は「触覚」、触ってぬるぬるして湿り気がある感じで、「ぬらぬら」は触覚ではなく「視覚」。見ると濡れていて、しかも、てかてか光っている。わあー、なんか、やらしい!!
・・・失礼しました。
『新潮現代国語辞典』には「ぬめる」載っていました。
「ぬめる」=ぬらぬらする。ぬらぬらすべる。(例)「道がぬめる」「蛞蝓(ナメクジ)(略)納戸にぬめって」
そうか、泥んこ道で水気の多い、昔はやった「泥レス」に使ったような泥だと「ぬめる」かもしれません。ナメクジの通ったあとも「ぬめって」ますね。でも表現に「ぬらぬら」という視覚による評価をまず持ってきているけど、台所の「ぬめり」は「ぬらぬら」はしていないんですよね。だからこの表現だと、ちょっと不十分な感じがします。
「のめる」はというと、
「のめる」=体が前の方へ倒れそうになる。よろよろと前へ傾く。(例)「道が悪いからのめった」「女のからだは前へのめって了ひました」

ということで、「ぬめる」とはまったく関係ない・・おっと、ちょっと関係はあるかな。
「道がぬめるので体がのめった」
ということはあるのかもしれませんからね。

2004/2/15



◆ことばの話1597「ひんがらめ」

去年の10月下旬の話。やしきたかじんさんがメイン司会を務める「たかじんのそこまで言って委員会」という番組(毎週日曜昼2時〜3時放送)のプロデューサーのK君から電話がかかってきました。
「あのー、『ひんがらめ』という言葉は使っちゃいけないんでしょうか?」
そういえば最近、あまり耳にしない言葉ですね。
「どういう文脈で使っているの?」
と聞くと、
「たかじんが、自分のことを『俺は、ひんがらめやし・・・』というような感じで使っているんですが・・・」
とのことです。
自分のことを言っているのか。
他人のことをそう呼べば、明らかに差別的な使い方でしょうが、こういう場合は判断が難しい。特に体に関する言葉は注意が必要です。読売テレビの「放送用語ガイドライン」には、「吃り(どもり)」「ロンパリ」「やぶにらみ」「色盲」に関しては、
「こうした表現は重度の障害を意味するものではなく、つい口から出てしまいがちな言葉です。しかし、障害を持つ人が不快を感じ、侮蔑ととらえるケースが多々あることを認識すべきです。場合によっては配慮が必要な表現といえます。以下のような、章意外の状態を客観的に示す表現もあるので、参考にしてください。
どもり→吃音(きつおん)、吃音症
ロンパリ、やぶにらみ→斜視
色盲→色覚障害    」

とあります。
「ひんがらめ」はここには記されていませんが、これに準じる扱いになるでしょう、としてプロデューサーの判断に任せました。結局、そのまま放送されたようです。
ちなみに『日本国語大辞典』によると「ひんがらめ」は
「ひんがらめ(?眼)」=「ひがらめ(?眼)」の変化した語。
とあり、「ひがらめ」を引くと、
「ひがらめ」=双方の黒眼の方向が一致しない眼。斜視。あるいは白く濁った眼。また、その人。ひがら。すがめ。
とありました。

2004/2/15



◆ことばの話1596「江戸前」

おとといの火曜日(2月10日)、休みなので家で昼ニュースを見たあとに、引き続き「3分クッキング」を見ていました。担当してもう大分経つと思いますが、男性アナウンサー(高橋雄一アナウンサー)がアシスタントをやっていました。
この日は「小松菜と高野豆腐」に「ちりめんじゃこ」をまぶしたメニューでした。この小松菜に関して高橋アナが、

「小松菜って意外と東京でも作られている江戸前の野菜なんですね」

というようなコメントをしました。へえ、そうなんだ、と私も「トリビア」気分を味わえてよかったのですが、ちょっと待てよ、と。「江戸前」という言葉は、「江戸前寿司」などでおなじみですが、本来は「江戸の前の海」を指す言葉であって、畑の作物である小松菜に使うのはどうかな、と思ったのです。おそらく高橋アナは、

「江戸(=東京という都市)で栽培された自前の」

という意味で「江戸前」を使ったと思うのですが、やはり本来のこの言葉の使い方から言えば、海産物に限られるのではないかと思います。
で、この料理の作り方、大変参考になりまして、さっそくスーパーに走り、夕食は私の手作りの「小松菜と高野豆腐とちりめんじゃこ」の煮物(?)を家族で食べました。
「小松菜」は『広辞苑』によると
「江戸川区小松川付近で多く産出したことからいう」
とのこと。また、三省堂の『新明解国語辞典』によると、
「江戸前」=(江戸の前の海、の意。西は品川から羽田、東は深川の海を指した)
(1)東京湾産の(新鮮な)魚介類。(例)「江戸前のハゼ(すし)」(2)(人の気風や食物の風味などについて)かつて江戸っ子の持っていた、いなせな気っぷや、特有の粋(イキ)な好みが端的にうかがわれるやり方。

とあります。「小松菜」のふるさと「小松川」は「江戸川区」のようですから、もしかしたら、江戸時代に小松川はまだ「海」で、その後埋め立てられたというようなことがあれば、小松菜の「江戸前」は、ギリギリ比喩的に許容範囲なのかもしれませんね。
ということで。

2004/2/15

(追記)

藤井克彦『江戸前の素顔〜遊んだ・食べた・つりをした』(つり人社、2004,2,20)という本を読んでいます。
「私にとっては、心のふるさとである江戸前の海」
で始まるこの本に「第8章『江戸前』という言葉を検証する」という章がありました。詳しくは本を読んでもらえばいいですが、著者の「私見」によると、「江戸前」とは「今の東京都内湾」と書いています。また時代とともに「江戸前」の定義する範囲は広がってきたのではないか、とも書いています。なかなかおもしろい本です。
2004/3/5
(追記2)

7月17日の日経新聞のコラム「食語のひととき」に、食品総合研究所主任研究官の早川文代さんという人が「江戸前」について書いています。
それによると、やはり「江戸前」は「江戸の前の海」=「江戸湾」を指し、転じて「江戸湾で取れる魚」のことを指す、とあります。そしてとれとれの「鮮度の良さ」も、この言葉には含まれているようです。

2004/7/27
(追記3)

幸田文の『回転どあ・東京と大阪と』という本を読んでいたら、P68に、
「系図や血が江戸前であろうとなかろうと」
と出てきました。人間にも「江戸前」とそうでないものがあるようです。これは昭和33年(1958年)に書かれたものです。
2006/10/31
(追記4)
『オリンピックの身代金』(奥田英朗(=おくだひでお)、角川書店:2008、11、30初版発行)を読んでいたら、
「穴子もカンパチも、江戸前はもうすぐ食べられなくなるよ。それから海苔も。」(117ページ)
という表現が出てきました。舞台は昭和39(1964)年の東京でした。あきらかにここでの「江戸前」は、
「東京湾の魚介類(海苔も含む)」
を示していますね。
2009/1/7

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