◆ことばの話1390「数の論理」

朝日新聞大阪本社のMさんという記者の方から、質問のメールをいただきました。

『初めてメールを差し上げます。「数の論理」という言葉について、気になって調べておりましたところ、道浦様のホームページ「平成ことば事情・ことばの話105自公保」で、私が日ごろ思い込んでおりましたのとは少し違った使い方をなさっているのを発見いたしました。そこでは、
――この略称は、所属する国会議員の数の順番で決まっていて、そういう意味では「数の論理」、「民主主義」といった感じがします。――
とあり「多数決による抑圧」というよりは「民主主義」と同義の平和的な「多数決」という意味で「数の論理」を使っていらっしゃるように思えました。
新聞紙上では、政治的な意味の「数の論理」という言葉がひんぱんに登場します。他紙も含め電子データの新聞で探しますと、「数の論理」は1980年には、既に注釈などがつかないまま政治用語として使われていました。ほとんどの場合は「多数決」と置き換えて読むことができます。@「数の論理」は「多数決」と同義なのでしょうか。それならば、A「多数決」の方がわかりやすいのに、なぜ辞書にも載っていない、含みのある言葉が多用されるのでしょうか。
また、用例としては「数の論理で押し切る」「数の論理なので仕方がない」といった、良いことではないという意味を言外ににじませる表現として使われているのが目立ちます。
B「数の論理」には「多数決」に加えて「少数の抑圧」といった意味があるのでしょうか。
暗示したいものがあるなら、それをわかりやすく伝えるのがメディアの努めであるのに、Cなぜこのような「暗示的」な言葉が、なんの説明もつけずに使われているのでしょう。
Dこうした事情は、放送でも同様なのでしょうか。
E「数の論理」が使われるようになった事情やいつごろから使われているかなど、ご存知でしたらお教えいただきたく、お願い申し上げます。』

(○の中の数字と下線は道浦が引きました。)
ふ−む、何気なく私も使ってしまったようです。すみません。そういう意味では"ご存知"ありません・・・。Mさんに指摘されて初めて、「数の論理」という言葉が永田町独特の「政治業界用語」だということに気づきました。このM記者も、相当調べられた上でこうして質問をされているのでしょうから、これから私がある程度調べてお返事しても
「ああ、それはもう調べています」
と言われそうですが、まあ、それは恐れずに書いてみましょう。
とりあえずいつものようにGoogle検索で「数の論理」を引いてみると、3000件ありました。(8月20日)ついでにキーワードを増やして、「数の論理・政治」で引くと1210件。中を見ると、国内の政治、いわゆる「永田町」という言葉も目立ったのです。そこで、「永田町の論理」で引くと897件ありました。さらに、「の論理・永田町」だと2600件「の論理・政治」だと3万6200件でした。どういう「の論理」があるか、見てみると、
「ネオコンの論理」「行革の論理」「政治の論理」「ジャーナリズムの論理」「供給の論理」「需要の論理」「国会議員だけの論理」「戦争と平和の論理」「『備え』の論理」「国会の論理」「反逆の論理」などなど。
いっぱいありましたが、ここでの「論理」というのは、英語で言うと「Logic」です。「論理」という訳語のほかに、
「思考形式・法則」「比喩的に事物用の法則的なつながり」「必然」「道理」「理屈」「良識」「論法」
というような訳語があてられています。政治には論理がつきものですね。
その検索の中で目に付いた「数の論理」の使用実例、ピックアップしました。

「『最大派閥』というもの」 岩見隆夫
(毎日新聞2000年12月5日東京本社版朝刊から)
 何か異変が起きると、田中角栄という近来の天才政治家のところに立ち戻って考える癖がついている。(中略)田中は抜きんでた最大派閥が政界を制することを、実証してみせた。抜きんでなければならない。この単純な<数の論理>を信奉することが呪縛である。
 田中派(当時、木曜クラブと言った)が結成されたのは、田中が政権を取った1972年で、次第に数を増やし、85年2月、脳こうそくで倒れる前ごろは、所属衆参議員がピークの123人にふくれあがった。当時、野党第1党の社会党が158人で、それに次ぐ大集団だった。
一方でロッキード裁判が進行しているのに、派閥が膨張をつづけるのはおかしい、とマスコミが批判した。ある日、長女の真紀子が、膨張の理由をたずねると、田中は厳しい口調で、 「マスコミはとやかく言うが、お前までが間違えんでくれ。こっちが肩をたたいて誘ったことなど一度もない。向こうの都合でやってくるんだ。向こうから!」
 と言ったと、真紀子は著書『時の過ぎゆくままに』のなかで記している。
 刑事被告人の身であっても、集まってくる。田中の魅力もあったが、向こうの都合で、というのは、寄らば大樹、<角栄呪縛>の威力を物語るものだった。
 まもなく、竹下登元首相のグループが田中に反逆し、新派閥の旗揚げとなる。真紀子は、 <かねてから父は質の高い国会議員づくりを口にしていた。父が希求し続けた諸々の課題の解決と政策実現のためにつくられた木曜クラブという戦後最大の派閥は、その集団自体の重さに耐えかねて、潰れてしまう結果になった。なんとも皮肉な話ではある>
 と同書に書いた。
 だが、田中派は消えたが、最大派閥こそ、の<角栄呪縛>は、田中の息がかかった面々によって経世会(竹下派)、平成研究会(小渕派・橋本派)と名称を変えながら、15年余たったいまも生き続けている。93年、竹下派の分裂で第4派閥に転落を余儀なくされた一時期を除いて、<最大>の地位をほかに譲ることはなかった。

*また、「数の論理」をやった田中角栄については、政治評論家で白鴎大学教授の福岡政行先生のホームページには、こんな一文がありました。
<福岡政行先生のHP>
現在の橋本派は田中、金丸、竹下からつらなる田中角栄の後継者達。そのことに対する真紀子さん自身の反発もあるし長老達の反発も逆にある。真紀子さんが小泉さんに協力するのは、橋本派がずっと戦ってきたYKKへの協力。永田町の数の論理、ある意味では真紀子さんの数の暴力と言っても過言ではない、一番大きな勢力と行動に対する抵抗だった。
かつて真紀子さんと話をしたとき、真紀子さんは「派閥はいけないのよ。無派閥なのよ」と言った。そこで「だけども派閥政治をやり、数の論理をやったのはあなたのお父さんの田中角栄さんでしょ。自民党を歪めたのは田中さんじゃないのか?」と聞いたことがある。その時の彼女の答えは「私は高校生の時から父を反面教師としてきた」だった。確かに角栄さんも「家の中に怖い野党がいる」と語っていたものだ。そういう部分が彼女の政治信条にーの原点にあることは間違いない。少しくらいのアゲインストがあっても、真紀子さんは、元気な真紀子ぶしで戦っていく人。

*ここまでを、まとめてみましょう。つまり、「派閥の人数の多寡」というのが、自民党内における「数の論理」であり、「自民党=政府=日本の政治」という、55年体制が続く中においては、「自民党の論理」は「日本政府の論理」として通用したのでしょうね。
そしてどうやら、田中角栄元総理の支配する「田中派」が巨大化して、田中角栄がキングメーカーとして力をふるい出した頃から「数の論理」という言葉は使われ出したようですね。その頃は、決してマイナスのイメージとして使われたのではなく、田中派が、非田中派や角栄に批判的な人たちを説得する(黙らせる)ための言葉として、民主主義の原則の一つである「多数決の原理」=「最大多数の最大幸福」をもとに「数の論理」というものを振りかざしたのではないでしょうか。実際、国会での議決は多数決なのですから、意見が分かれて調整がつかない時には、「多数派」が勝ってしまします。本来「政治」とは、単純な採決=多数決に至るまでに、「十分な話し合いと説得」(いわゆる『根回し』も、その方法の一つではあるでしょうが)を行う「過程」に、大きな比重を持つものだと思うのですが、その手順をすっ飛ばして、民主主義の大原則の一つを逆手に取った「多いもの勝ち」的な手順を田中派はとり出した。それに対して、非(反)田中派・角栄批判者は、文句を言おうにも聞く耳持たん田中派に、負け惜しみ的に、
「また、『数の論理』を持ち出してるよ」
というふうに、この言葉を使ったのではないでしょうか。すなわち、マイナス用法としての「数の論理」は「田中角栄的手法批判の言葉」として使われる機会が多かったので、そのうちに「マイナスの用法」が定着してしまったのではないでしょうか。あくまで推論ですが。
そして、田中派が生み出して、田中派は肯定的に、非(反)田中派は否定的な意味で使った「数の論理」は、その後田中派から生まれた竹下派、橋本派にも受け継がれたのです。
その「橋本派」に関するホームページの記述です。

橋本派(「平成研究会」)
他の派閥と違い、明確な理念を打ち出さないことで「数」を増やす特色がある。自民党の「数の論理」を地で行く派閥。
竹下氏から小渕氏へ移行する過程で小沢・羽田グループが離反したが、自民党に復党したメンバーなどを取り込み、いつの間にか最大派閥に返り咲き。
選挙に関わる幹事長ポストを握ることで、党の運営全般を握る傾向がある。常に主流派。

*派内の人数が多い限り「数の論理」は続きます。今後、橋本派の人数が減ってきた場合に、この言葉は使われなくなるかもしれません。しかしその時はまた別の派閥が、同じ手法を取るかもしれません。
小泉総理は、田中派的手法を取らなかった(取れなかった)訳ですが、それに対する「アンチテーゼ」として「守旧派」と呼ばれた人たちが、「数の論理」を「守る」人達だったわけです。つまり現在は「数の論理」は「守旧」の「旧」に当たるわけですね。
私は「民主主義」が、何の欠陥もない最善の政治形態であるとは思っていません。単純に「民主主義=善」ではないと思います。民主主義は、うまくバランスを取らないと衆愚政治に陥る危険性をはらんだ政治形態だと思います。
その民主主義の一大原則である「多数決(=数の論理)」が「イコール善」とも思いませんから、「数の論理」にこびりついた「マイナスのイメージ」に違和感を覚えるということもありません。民主主義における「多数決」のマイナス面は、「少数意見の尊重」で補うことによって、より「最善」に近づくように機能するのだと思います。最近、それが忘れられているように思います。
さて、おそらくMさんも調べられたと思いますが、日経テレコンで、読売、朝日、毎日、産経、日経関連の新聞で、「数の論理」をキーワード検索してみました。日経テレコンは1975年からの新聞記事が収録されています。その結果、「数の論理」は、1103件ありました。新聞別には、
(読売)266件
(朝日)333件
(毎日)212件
(産経) 69件
(日経)223件

で、朝日新聞が一番よく「数の論理」という言葉を使っていました。
データにある1975年以降の「数の論理」の「初出」は、
「1977年7月15日の日経新聞」
で、その言葉を含む見出しは、
「均衡の政治潮流
=伯仲"本番"の国会〜数の論理は通じぬ、野党は政権能力試す好機。」

というものでした。
この時の内閣は、福田赳夫内閣です。そしてその後も日経新聞は「数の論理」を時々使っていますが、それ以外の新聞が初めて「数の論理」を使ったのは、ずいぶん後(8年後)になってからの、
「1985年10月26日の朝日新聞」
で、見出しは、
「最後は数の論理も 竹下氏 中曽根後で表明、田中は結束に自信示す」
というものでした。中曽根内閣の時代です。「田中曽根」とも言われて、その年の2月に脳梗塞で倒れた田中角栄・元総理がまだ力を持っていた時代ですね。本文は、こう記しています。

『竹下蔵相は25日、東京・内幸町の日本記者クラブで講演し、質疑応答の中で、来年秋に予定される次の自民党総裁選への対応について「来夏までには(出馬するかどうか)決めたい」との考えを改めて示すとともに、「中曽根後」をどういう形で争うかについて「基本的には、話し合いができるものならやってもいいが、最後は党則があるので数の論理が成り立つ。ただ、数の論理が先にありき、という考えにはまだいたっていない」と述べた。(中略)これは、竹下氏が、話し合い調整が難航して本選挙で決着が図られるケースを想定、その際には衆参両院で約120人を擁する党内最大派閥である田中派の力を背景に、他の候補者に対して優位に立てる、との考えをにじませたと見られる。』

ここでは「数の論理」は、竹下氏の言葉として伝えられています。
また、田中角栄が総理大臣になった1972年の時代に雰囲気は、ちょうど先日読み終わった坪内祐三の『一九七二』(文藝春秋、2003,4,25)の第32回「田中角栄が『今太閤』として支持されていた頃」あたりに詳しいです。
1975年から2003年の8月までに「数の論理」が使われた回数の、年ごとの回数と新聞別の回数を記します。(Y=読売、A=朝日、M=毎日、S=産経、N=日経)
1975年− 0
76年− 0
77年− 1(N−1)
78年− 0
79年− 0
80年− 2(N−2)
81年− 0
82年− 2(N−2)
83年− 2(N−2)
84年− 6(N−6)
85年− 8(N−6、A−2)
86年− 14(N−4、A−8、Y−2)
87年−102(N−35、A−18、M−6、Y−43)
88年− 19(N−11、A−5、M−1、Y−2)
89年− 44(N−15、A−13、M−10、Y−6)
90年− 27(N−6、A−6、M−9、Y−6)
91年− 63(N−13、A−18、M−22、Y−10)
92年− 59(N−14、A−22、M−15、Y−8)
93年− 55(N−11、A−19、M−9、Y−10、S−6)
94年−117(N−15、A−33、M−33、Y−25、S−11)
95年− 54(N−8、A−18、M−15、Y−7、S−6)
96年− 46(N−4、A−9、M−17、Y−8、S−8)
97年− 33(N−5、A−11、M−9、Y−5、S−3)
98年− 52(N−12、A−16、M−15、Y−3、S−6)
99年−114(N−12、A−35、M−43、Y−13、S−11)
2000年−108(N−11、A−43、M−33、Y−14、S−7)
01年− 82(N−18、A−29、M−14、Y−19、S−2)
02年− 55(N−6、A−22、M−10、Y−13、S−4)
03年− 38(N−4、A−6、M−5、Y−18、S−5)

※2003年は8月20日まで

ちなみに、この間の総理大臣は、
1974年12月〜76年 12月 三木
76年12月〜78年 12月 福田
78年12月〜80年 7月 大平
80年 7月〜82年 11月 鈴木
82年11月〜87年 11月 中曽根
87年11月〜89年 6月 竹下
89年 6月〜89年 8月 宇野
89年 8月〜91年 11月 海部
91年11月〜93年 8月 宮沢
93年 8月〜94年 4月 細川
94年 4月〜94年 6月 羽田
94年 6月〜96年 1月 村山
96年 1月〜98年 7月 橋本
98年 7月〜2000年 4月 小渕
00年 4月〜01年 4月 森
01年 4月〜 小泉

ということです。上の「数の論理」の年別の登場回数と照らし合わせてみて下さい。

そして、この「数の論理」が各紙合計で、1年に100回以上使われている年は、実は4回しかありません。
1987年(102回)、1994年(117回)、1999年(114回)、2000年(108回)
の4回です。このうちの1987年はどういった年だったのでしょうか。ネット検索した中にそれに触れたものがありました。ちょっと長いですが、引用します。

一九八七年の情勢
 一九八七年は「売上税」の年であった。
 一月十六日、社・公・民・社民連四党は「売上税等粉砕闘争協議会」を結成。一月十九日には野党党首と労働五団体の首脳が会談、売上税等税制改革案反対で一致した。
 ところが中曽根首相は、施政方針演説の中で「売上税」導入の説明をしなかった。野党は補充説明を要求して代表質問を拒否した。
 三月の売上税反対の国民集会は各地で延べ二十三万人が参加した。岩手県の参院補欠選挙で、売上税反対一本に政策を絞った社会党の小川仁一候補が、自民党候補を破り圧勝した。公・民・社民連の応援も息が合っていた。売上税反対の声は、統一地方選候補者によってより一層拡げられた。(中略)
しかし、政府・自民党は衆院予算委員会で六二年度予算案を強行採決。野党は反発し、四月二十一日の衆院本会議では、野党は不信任案を連発、十八年ぶりの牛歩戦術で抵抗した。
 四月二十三日、売上税法案を事実上廃案とする原衆議院議長の斡旋で、与野党は合意、予算案は衆議院を通過した。
 少数の野党が結束して、絶対多数の自民党を押し切ったのである。久しぶりに野党に自信が甦った瞬間であった。

*そういう年でしたか。ちなみに1994年は、前年に宮沢内閣が倒れて細川連立政権が成立、55年体制が終わったのですが、その細川総理が突然辞職したあとに、羽田(短命)内閣、そして村山内閣と連立政権が続き、政党間での「数の論理」が政局を激しく動かした年でした。
また1999年は、自民党、自由党、公明党の3党による「自自公」連立が出来た年。やはり「数の論理」=「数合わせの論理」がさかんに口にされた年ですね。この数合わせは、

自民+A党+B党 > 野党

という数合わせです。
2000年は、4月に小渕総理が病に倒れて、"密室で"森内閣が誕生した年です。やはり「数の論理」が働いたのでしょう。
先ほどのホームページに戻って、もう少し1987年の情況を見てみましょう。

 売上税のゴリ押しによって統一地方選で敗退したにもかかわらず、中曽根首相の自民党内での力は衰えなかった。そのわけは、竹下・安倍・宮沢の三人のニューリーダーを中曽根が巧みに分割統治したからであった。二人ではなく、三人というところがみそだった。順ぐりに一人だけを敵役にして、忠誠心を競わせた。
 数の論理を知り尽くしている中曽根は、当初から指名するのは竹下と決めていた。が、それを最後までおくびにも出さなかった。しかも、一年間の分割統治の間に、竹下は田中から、安倍は福田から、宮沢は鈴木から完全に独立する道を敷いてやっている。指名に漏れた二人からも怨まれぬ布石はちゃんと打ってあったのである。
 十月二十日、中曽根首相は竹下登を次期総裁に指名。十月三十一日、自民党大会は竹下新総裁を選出した。

*その竹下さんも、当然「数の論理」を継承しました。「田中学校」の生徒ですから当然です。竹下さんに関する「数の論理」を記述したホームページです。

▼「熟柿主義」と語っていた。常に「果実」が熟すのを待っていたわけではない。権力の頂点に登る道は、田中角栄元首相と対決してつかんだ。修羅場の経験が、竹下氏の政治力の源泉になったといわれる▼とはいえ竹下さんの党内支配の手法は、決別した田中元首相とそっくりの「数の論理」だった。リクルート事件で退陣すると、派閥の数の力を背景に自分たちに都合のよい政権を次々につくった。当然のように首相が軽量化する中で、一九九〇年代の混迷が続いた。

*そして、年間114回も「数の論理」が使われた1999年に関連した記述のネットからの引用です。

1999年9月21日
 自民党総裁選 「究極の数」で何をする 七井辰男(政治部) 
次世紀への哲学示せ

 (前略)テレビ出演した16日夜の討論番組で加藤紘一・前自民党幹事長は「7割を超す与党は不安定だ」と批判した。首相は「じゃあ(与野党逆転の)参院はどうするのか」と反論、加藤氏は「参院は(政策ごとの)部分連合で対応すればいい」と切り返した。「数は力」の現実主義に立つ首相と、「国民の意思」に基づく国会の役割を重視する加藤氏の見解の違いが浮き彫りになった場面だった。小渕首相がこれほど数の論理にこだわるのは、昨年10月、額賀福志郎防衛庁長官に対する野党の問責決議案が参院を通過し、辞任に追い込まれたためだ。その反省を踏まえて発足させたのが、自由党との連立政権だったが、自自では参院は過半数に満たない。公明党との連携は、首相にとって必然的な選択だった。
*ここで小渕首相(当時)がこだわった「数の論理」は「数合わせ」、つまり「足し算での、相対的な『数の優位』」というイメージがあります。それに対して、田中派がとった「数の論理」と言うのは、「相手を圧倒しようとする、絶対的な『数の優位』」というイメージがあります。田中派の方が力強い。ネットからの引用を続けます。
「数の論理」にはもう一つの底流がある。首相は自民党の最大派閥・小渕派(旧・経世会、94人)のオーナーを兼ねる。この派閥は1976年のロッキード事件以来、田中角栄、竹下登の両元首相、さらに金丸信・元自民党副総裁らが、数の力をバックに政権の主導権をとり続けてきた。小渕政権はこれに連なる「保守本流」政権であり、自自公は、こうした「数の論理」を突き詰めた究極のシステムといっていい。しかし、小渕首相の話をいくら聞いても、自自公の圧倒的与党がいったい何をやろうとしているのかわからない。
*ここまで、メインの陽の当たる道を歩んできた「数の論理」ですが、小泉総理の登場で、小泉のアンチテーゼとしての「守旧派」というレッテルを貼られ、その意味で脚光を浴びるようになりました。ベビーフェイスの主役から、「ヒール(悪役)への転向」を余儀なくされたのです。それによって「数の論理」という言葉は、より「マイナスのイメージ」を固定化されることになります。それに関する記述の引用です。

2001年12月26日 東奥日報
わき役に回った最大派閥/栄光復活は若手次第

年頭には予想もしなかった「小泉旋風」が吹き荒れた二○○一年が間もなく終わる。政局の見通しが外れるのは毎度のこととはいえ、予想と結果との落差がこれほど大きかった年はあまり経験がない。とりわけ想定外だったのは長く政権の中枢を占めてきた最大派閥の橋本派がわき役に回ったことである。
 苦戦が伝えられた七月の参院選を何とか乗り切り、所属議員数では今も百二人という圧倒的な勢力を誇る橋本派。ところが、小泉純一郎政権の誕生で「数の論理」は無視され、不遇の日々が続く。(中略)
 田中角栄元首相が旧田中派を結成して約三十年。旧竹下派、旧小渕派を経て橋本派に至るまで、この系譜からは、田中角栄、竹下登、橋本龍太郎、小渕恵三という四人の総理総裁を輩出した。
 副総裁経験者は二階堂進、金丸信、小渕恵三の三氏。幹事長経験者に至っては橋本登美三郎、二階堂進、金丸信、竹下登、橋本龍太郎、小沢一郎(現自由党党首)、小渕恵三、綿貫民輔(現衆院議長)、梶山静六、野中広務の十氏にのぼる。

 だが栄光は過去のものとなり、今や「抵抗勢力」のレッテルを張られるという屈辱を受ける。参院自民党幹事長で橋本派幹部の青木幹雄氏が強く求めてきた内閣改造についても首相は歯牙(しが)にもかけない。それどころかブレーンの一人にこう漏らしたという。
 「もう一度、百二人の派閥(橋本派)を無視するような人事ができますか。できるはずないじゃないですか。だから今がベストなんです」

*次は、神戸新聞の記事からの抜粋です。
代表質問/首相は初志を貫けるか (2001,5,12、神戸新聞)
平成に入ってから十人の首相は、そのほとんどが「数の論理」に支配されたパペット政権であったと言っても過言ではない。その系譜は田中角栄元首相による数の支配にさかのぼるといっていい。
 国民の見えないところで、首相が決められ、閣僚の任命権は大派閥が握り、政策は族議員や派閥に振り回されてきた。伝家の宝刀とされる首相の衆院解散権さえ、封じられたこともあった。森喜朗前政権が密室で誕生したことは、その象徴といえる。
 これでは首相に、統治能力やリーダーシップを求めるのは無理である。それが政治の閉そく状態を生み、国民の政治への信頼を極度に低下させてきた。最近の首相公選論の高まりは、こうした政治不信の増大と無関係ではあるまい。
 小泉首相も加わるYKKグループは、数の政治への抵抗から発足した。首相は初志を貫徹したことになるのだろうか。

*そしてこの「数の論理」という言葉を、野党の「この人」が使って、当時の小渕首相を批判した時の議事録です。

第1号 平成12年2月23日(水曜日)    午後三時開会
   〔小里貞利君会長席に着く〕
会長(小里貞利君) これより国家基本政策委員会合同審査会を開きます。
 協議によりまして本日第一回目の合同審査会の会長を務めることになりました衆議院国家基本政策委員長の小里貞利でございます。よろしくお願い申し上げます。(拍手)
土井たか子君 小渕総理は、民主主義は「数の論理」だというふうに思っていらっしゃるようです。実は十一月十七日のクエスチョンタイムのときに、私の意見は国会では少数意見ということをおっしゃった。それはそういう面もあるでしょう。
 では、議会にいる少数派は何のためにいるというふうにお考えですか。
会長(小里貞利君) どうぞお座りください。
内閣総理大臣(小渕恵三君) 少数といえども、それぞれの議員が立派なお考えを持ち、そのことを国会で……
会長(小里貞利君) 土井議員、お座りいただいてもよろしゅうございますが。
内閣総理大臣(小渕恵三君) 御発言されることによりましてそうした意見を酌み取ることを国民のサイドからも御判断をされることだろうと思いますけれども、与党としても少数意見を尊重するということがなければならないというふうに考えております。
土井たか子君 最後に言われたところ、大事ですね。与党として少数意見を尊重する。そうでないと議会制民主主義は成り立たぬと私は思っております。
 小渕総理にとっては自民党の先輩、私にとっては議長としての先輩、数々の名言を残しておられますけれども、河野謙三、ここは参議院ですから参議院議長、当時は、少数派に六分、多数派に四分と、こう言われたんです。これは議会運営の上のコツですよ、大事な。それから、衆議院では前尾衆議院議長が、多数党は常に少数党を説得できる理論を持っていなければならないと言われた。これも大事なことだと思いますよ。
 
*この辺りは参考になりますね、おたかさん。引用の最後に、「数の論理」に関係する文章をいくつか引っ張っておきましょう。
◎「幻影からの逃避」
小泉首相は二重の幻影に惑わされている。一つは洞窟に写る影、つまり真実(光源)を見ることができず、影を現実と見誤っていること。もう一つは世論調査に映る人気という幻影に悩まされ押し潰されそうになっている。
就任当初は「自民党を変える」という信念のもと、田中角栄以来続く「数の論理」を打破してくれるものと期待された。しかし昨年の靖国参拝前倒しに象徴されるように、「信念」があるに拘わらず周囲の圧力に屈して曲げた。
◎自民党新総裁は小泉純一郎氏でほぼ確定。誰がこんな結末を予想しただろうか?(中略)
これほど予想を裏切り、これほど民意が反映された総裁選がかつてあっただろうか?
延々と続いてきた自民党の「数の論理」が、こんな短期間で目に見えて崩壊していくとは。「派閥に押されなかった人物」が総理になるのは実に30年振りのことらしい。
 この結果に野党(特に民主党)はさぞやガッカリしていることだろう。「橋本氏が数の論理で総裁に選出→国民はますます自民党に嫌気が差す→参院選で無党派層が自分たちの党に流れてくる」というシナリオが崩れてしまったのだから。
◎Mint/札幌/中山正志
村山から橋本、小渕へと首相は変わるが選挙は無い。国民の政治参加の機会を無くして一端選ばれた政治家だけで政治ゲームを行っている。「国民主権」なんて言葉が消えて無くなっている。
重要法案の一部は国民に信を問うレベルのものもあったが、テンポラリーな政治家によって決められている。「数の論理」の問題点は「国会議員の中でのやりくり」なことである。国民の真意なんてのはどこかに言ってしまって、「国会議員の頭数の論理」になってしまっているのだ。鳩山由起夫のブレインが頭悪いのは、スローガンを決めて魂を入れないからだ。「数の論理」古くは「排除の論理」どれも電通とかシマクリのコピーライターの発言に騙されて、国民に伝えたいことが隠れている。考えてもみなさい、広告代理店ってのは良くても悪くても商品を売る機能でしか無いのだよ。政治が広告代理店に頼るのは故・田中角栄と電通の枢密関係で解るとおり失敗するのだよ。
*といったところです。さて、そろそろ、冒頭の「Mさんの7つの質問」にお答えしなくてはなりますまい。
@「数の論理」は「多数決」と同義か?→ まったくの同義ではない。田中角栄の存在によって生み出された、自民党の派閥抗争の歴史を背負った言葉である。
Aなぜ辞書にも載っていない、含みある言葉が多用されるのか?→日本の政治の歴史というものは本来含みのあるもので、まさにその「歴史」を背負った言葉であるゆえに、政治の解説などには多用される。
B「数の論理」には「多数決」に加えて「少数の抑圧」という意味があるのか?→当初、田中派にはなかったが、非(反)田中派にはあった。どちら(多数派か、少数派か)の立場に立って使うかによって変わる。
Cなぜこのような「暗示的」な言葉が、なんの説明も付けずに使われているのか?→使い手である政治家や、政治担当の記者、デスクにとって「自明の理」であったから。しかし、時代を経て「自明」ではなくなってきている。それは記者の勉強不足と言うよりは、「数の論理」というものが表す実態が、以前ほど多くなくなったため、歴史的用語になりつつあるからではないか。今後は意味の分化も考え合わせつつ、説明を付けた上で「数の論理」を使った方が良いかもしれない。
Dこうした事情は放送でも同じか?→放送でも、政治関連の記事を政治担当記者が書き、リポートするのであるから、事情・状況は同じ。
E「数の論理」が使われるようになった事情は?→私が調べた限りでは、田中角栄・元総理がキングメーカーとして「院政」を敷き出してから。自民党内の派閥争い、つまり総裁選出の力としての派閥構成人数が、派閥の力のバロメーターとして機能していたから。その後、1993年以降の連立の時代からは、政党間の力のバロメーター、国会で法律を成立させるための(政策を実行するための)力を表すものとなっている面もあるのではないか。
Fいつ頃から使われ出したのか?→1977年に日経新聞が使っているが、もしかしたらこの頃は、外国語の訳語か何かだったのかもしれない。よく使われるようになったのは、やはり1987年の竹下内閣成立の頃から。


といったところです。やはり言葉には、その時代と使われる背景が、ピッタリくっついているものなのですね。こんなところでいかがでしょうか?

2003/8/22


(追記)

9月3日の読売新聞では、橋本派が総裁選挙で分裂投票になることを受けて、

「橋本派 緩む結束」


という大見出しの記事が載っています。その中で、派閥が政治資金分配や、選挙での集票などで実質的な力を失って求心力が衰えた原因として「衆議院選挙への小選挙区比例代表並立制導入などの政治改革によって、政党中心の党運営が強まったこと」「小泉総理が『脱派閥』を貫いていること」を挙げ、小泉総理の言葉、「もう派閥単位でやる時代ではないでしょう。個人の自主的判断に任せるのがいいんじゃないですか」でまとめています。

また橋本派については、「数を背景に常勝の歴史」と題して、

「旧田中―竹下派の流れをくむ自民党橋本派は長年、数の力を背景に、総裁選びの主導権を握り、党の中枢を占めてきた。」


「幹部の決定に派全体が従って数のメリットを生かすことは、かつてはこの最大派閥の『常識』だった」


と結んでいます。ここに、「数」に関する言葉として、「数の力」「数のメリット」が出てきていますが、これは「数の論理」に置き換えても通じますね。

また、9月4日の毎日新聞「余録」「派閥」について書いています。

「派閥は55年体制下の自民党長期政権が生み出した歴史の産物にほかならない。その起源へさかのぼっても、保守合同の翌年の自民党総裁選に行き着いてしまう。55年体制が終わって10年がたつ今、派閥にとっての最重要イベントである自民党総裁選に最大派閥の橋本派が"分裂選挙"で臨むことになったという。ようやく『派閥の終わり』を見通す声もあれば、むしろ逆にどんな手を使っても生き残る『派閥の生命力』をキョウチョウする見方もある。ただ、かつてのようなカネとポストの配分機構としての派閥は、すでに歴史的命脈が尽きつつあることは明らかだ。」

この最後の部分、「派閥の歴史的命脈が、尽きつつある」というところに注目です。「派閥」の命脈を保つ手段が「数の論理」だったわけですから、派閥の消滅と「数の論理」の消滅は軌を一にするのではないでしょうか。総裁選挙は9月8日に告示、9月20日に投票・開票されます。

自民党内部の派閥同士の抗争の論理であった「数の論理」が、今後は異なる政党間つまり与党と野党の、あるいは連立与党の政党間での駆け引きの中で使われるようになるのではないでしょうか。既にその傾向は見えていますね。

2003/9/7

(追記2)

いよいよ自民党総裁選挙が始まりました。野中さんが引退表明したかと思うと、石原慎太郎・東京都知事が、亀井さんの応援演説でまた舌禍を起こすなど「場外乱闘」気味ですが、再選を目指す小泉純一郎総裁のほか、橋本派から藤井孝男・元運輸大臣、亀井静香・前政調会長、高村正彦・元外務大臣の計4人が立候補しました。

9月14日号の『サンデー毎日』では、細川・元総理の政務秘書官だった成田憲彦氏が、

「キングメーカーによる派閥政治は終焉した」

と話していますし、9月11日の産経新聞朝刊では、小泉総理がインタビューに答えて、

「派閥は壊れた」

と語ったことをトップ記事で伝え、読売新聞も同じく小泉総理のインタビュー記事の見出しで、

「派閥機能、ほとんど壊れた」

と記しています。ています。また最大派閥・橋本派領袖(=親分)の橋本龍一郎・元総理大臣が10日、自嘲気味に、

「とっくに派閥は分裂状態だった。壊れた茶わんを両手で押さえながら、取り繕ってきただけだ。」


と周囲に漏らしたことを伝えています。「割れた茶わん」ではなく「壊れた茶わん」という表現の「壊れた」が、奇しくも小泉総理の言う「派閥は壊れた」とオーバーラップします。

「派閥=茶わん」


そうか、派閥は、「ごはんをよそうもの」、「メシのタネ」だったのですね。

2003/9/1

◆ことばの話1389「小泉総理のメルマガの文体」

インターネットの掲示板「ことば会議室」を見ていると、Yeemarさんが「小泉総理のメールマガジンの文体が、1年前に比べてずいぶん変わっている(おもしろくなくなっている)」ことを指摘されていました。「もしかしたら、ゴーストライターが書くようになったのかも」とも指摘されています。最近、全然見てなかったので、ちっとも気づきませんでした。Yeemarさんが指摘された分、去年の8月と今年の7月の分を、ちょっと見比べてみましょうか。
<2002、8、1>
「通常国会を終えて」
 小泉純一郎です。
 先日、セミの脱皮を見た。子供の時以来、50年ぶりだ。執務を終えて、公邸の庭を散策していると、セミの幼虫が地中から木の幹にはい上がっているところを見つけた。夕食から帰って、戻ってみると、ちょうど脱皮の最中。背中がわれて中から立派な羽のセミがでてくる。葉のうらにしがみついて、グッとうしろに反りかえり、また元にもどる。風が吹いて、葉はゆらゆらゆれても、決して落ちることはない。神秘的で美しい光景。何千世代にもわたって続いている自然の営みだ。

<2003、7、31>
「通常国会終了」
 小泉純一郎です。
 宮城県北部でおきた震度6強の地震は、たび重なる余震もあって、多くの被害がでました。負傷された方々、家が損壊してしまった方々、避難生活を続けている方々には、ご苦労も多いと思います。心からお見舞い申し上げます。
 地震発生後すぐに、官邸対策室を設置し、自衛隊の災害派遣や警察の広域緊急救助隊の出動など、自治体とも協力して、一日も早い復旧に向けて全力をあげて努力しております。
 28日(月曜日)で、190日間の通常国会が終了しました。1月20日
から始まったこの国会を振り返ると、まず、構造改革を着実に進めるためにムダを徹底的に省き、雇用や福祉、環境や科学技術に重点配分した平成15年度予算を年度内に成立させることができました。経済活性化のために一兆八千億円を先行的に減税する税制改革法案も成立して、今年1月にさかのぼって減税がはじまっています。

たしかに文体が違います。去年の8月は「だ、である体」なのに、今年は「です、ます体」になっています。いつから変わったのでしょうか?
小泉メルマガは、創刊準備号が2001年5月29日、最新が2003年8月28日までに107号を数えています。一つ一つは短いので、ざっとチェックしてみました。その上で、「だ、である体」と「です、ます体」、それにその「混在」したものと3つに分類してみました。結果は、

*「です・ます体」・・・71回
(=創刊準備号、創刊号、2、13、25、26、28〜34、37、38、40〜47、55、56、58〜107号
*「だ、である体」・・・23回
(=9〜12、15〜24、27、35、39、49〜53、57号)
*「だ、です体混在」・・・9回
(=3〜8、14、36、48、54号)

ということでした。
Yeemarさんがピックアップしたのは、57号(2002年8月1日)と105号(2003年7月31日)ですが、まさにその57号を最後に、最新の107号まで、「だ、である体」は1回も出てきません。文体を変えたのかどうかということですが、もしかしたら、それまでは口述筆記だったとか、そういう事かも知れません。いずれにせよ、何らかの要因が働いているのでしょう。
また、重要な事柄に関して述べている回は、Yeemarさんご指摘のように、どうも小泉総理が書いていない感じがします。官僚の作文のような文体なのです。誰かが書いたものを、一応小泉さんが目を通して「OK」と言っているのではないでしょうか。真相はいかに??

2003/8/31

(追記)

その後、8月28日の小泉総理のメルマガ107号の「らいおんはーと」「6者協議」について触れていました。タイトルは、「欧州出張と6者協議」です。
*******************************
 小泉内閣メールマガジン 第107号 ========================== 2003/08/28
[らいおんはーと 〜 小泉総理のメッセージ]
小泉純一郎です。
 夏休みも残すところあと数日になりました。あわてて宿題をしている子どもたちもいるのではないでしょうか。今年は梅雨が長く、冷夏で農作物にも影響がでているようで心配しています。
(中略) 
 北京では、昨日から6者協議が始まりました。協議の場では、日本の立場、日本の考え方をはっきり主張して、各国と協調しながら、拉致の問題、核の問題、ミサイルの問題の包括的な解決に向けて努力していきたいと思います。
基本は、日朝平壌宣言、この方針に変わりありません。

*******************************
ところが、「小泉内閣メールマガジン」の翌週の108号(9月4日発行)の「らいおんはーと」を見ると、
「6カ国協議」
という言葉が2か所あり、「6者協議」は使われていません。
*******************************
小泉内閣メールマガジン 第108号 ========================== 2003/09/04
[らいおんはーと 〜 小泉総理のメッセージ]
● 歳出改革
 小泉純一郎です。
 9月にはいって、霞ヶ関の各省が財務省に予算要求をして、いよいよ来年
度の予算案づくりに向けた折衝が始まりました。これから12月まで折衝を
重ねて、政府案を作っていくことになります。
(中略)
 先週北京で行われた日本、アメリカ、韓国、中国、ロシア、北朝鮮の代表
による6カ国協議では、日本は、「拉致の問題、核やミサイルの問題を包括的、総合的に解決していかなければならない。」という日本の立場をはっきりと主張しました。
 6カ国協議の合間に日本と北朝鮮の代表の間で何度か話し合いました。日本の主張に対して、北朝鮮側は、「日朝間には日朝平壌宣言というしっかりした基礎がある。拉致問題を含めた日朝間の問題は、宣言にそって一つひとつ解決していきたい。双方が日朝平壌宣言を履行していくことが重要だ。」
とこたえています。(後略)
*******************************
本当にこれは、小泉総理が書いているのでしょうか?一週間違うだけで、国の考え方を示すような言葉、「6者協議」か「6カ国協議」かが変わってしまうものなのでしょうかね。
そういう意味でも、もしかしたら毎回、書き手が変わっているのかもしれません。

※「平成ことば事情1313・6者協議」もご覧ください。

2003/9/7



◆ことばの話1388「クロスゲーム」

マジック6となって、もう18年ぶりの優勝まで「秒読み」の阪神タイガース。
このところ接戦をものにしています。その「接戦」のことを、
「クロスゲーム」
と言いますよね。あれって、私、ついさっきまで、
「逆転に次ぐ逆転で、どっちのチームがリードしているかがクロス(cross)するから『クロスゲーム』と言う」
のだと思っていましたが、ふと、違う考えが頭をよぎりました。
「クロスゲームの『クロス』は『cross』ではなく、『接近している』という意味の『close』ではないか?」
もし、そうなら「逆転」がなくても、1対0でずーっと進んでいるゲームでも「クロスゲーム」と呼んでよいことになる。そう思って国語辞典(『広辞苑』)を引いてみたところ、直感は当たっていました。

「クロスゲーム」(close game)
競技における接戦。互角の試合。

やーっぱりー!
なんと42年間も信じ続けてきたものが崩壊した瞬間でした。「バカの壁」が崩れたと言うか・・・。
まだまだ知らないことは多いですねえ。でも、知ることって楽しいなあ。

2003/9/6


◆ことばの話1387「負けては、しまった」

8月上旬、ビーチバレーの大会が大阪府の泉南で行われました。そこに出場した佐伯美香・浦田聖子ペア、期待されてはいたものの、残念ながら勝てませんでした。しかし、アテネオリンピック出場に向けて手応えをつかんだようです。その際、浦田ペアに「おひおるバン」という番組でゲスト出演してもらいました。森若アナウンサーがバレーボールの川合俊一さんとやっている土曜日のお昼の番組です。
その際に佐伯選手が口にした言葉が、
「負けてはしまったんですけど・・・」
というものでした。これを聞いて、私はなんとなく違和感を覚えたのです。



と、ここまで書いて、「なぜ、違和感を覚えるのか?」がわからないまま数週間が過ぎました。そして今度は似たような例を、9月6日、優勝に向けてひた走る阪神タイガースと、横浜ベイスターズの一戦を伝える、わが読売テレビのプロ野球中継の中で耳にしました。ベンチリポーターのOアナウンサーが、こう言ったのです。
「逆転されてはしまいましたが」
これを聞いて、また違和感を覚えたのです。そしてなぜこれがおかしく感じるか考えました。この「逆転されてはしまいましたが」は、本来こう言うべきところでしょう。
「逆転されはしたものの」
しかし、これだと完全に「文語」ですよね。それで、もうちょっと「しゃべり言葉」「口語」にしようとしたところ、「逆転されてはしまいましたが」となるのではないでしょうか。
スポーツ中継などで、アナウンサーは結構、文語的表現を使います。簡潔にしてかっこいい歯切れの良さがあるからです。その文語的表現を取り入れようとして失敗している例ではないのかなと思うのです。口語的に、この言いたいことをきっちりと言うと、
「逆転はされてしまいましたが」
とするのが言いのでしょうが、ちょっとかっこつけようとすると、「文語と口語の混交表現」になってしまうのですよね。
それと、さらに違和感を覚える原因について思い当たりました。
「されてしまいました」の「されてしまった」という言葉は、
「されて」+「しまった」
という二つの部分に分けることが出きるように思います。がしかし、この「されて」の部分は独り立ちできる「自立語」ですが、この場合の「しまった」は、自立語ではなく「付属語」なのではないでしょうか。だから「されて」「しまった」と二つに分けて、その間に助詞の「は」を入れると、助詞の後に来る「しまった」が、本来自立できないはずなので 違和感を覚えるのではないでしょうか。
これに対して、「行って来た」という言葉、「行って」+「来た」に分けた場合、間に「は」を入れると「行っては、来た」になりますが、これは使えると思います。違和感はありません。その差は何かと言うと、後ろの「きた」が、この場合は「自立語」だからではないでしょうか。この「行っては来た」の後には、本来行ったことによって何らかの成果が期待されて当然のものが、なんら成果がなかったという事実が続くと思います。つまり、
(1)「プラスの期待(を背負った行動)」→「マイナスの結果」
という内容を、「は」という逆説の意味合いの助詞でつないでいるのです。
ところが、この場合の「逆転されてはしまいましたが」と、佐伯選手の「負けてはしまった」の場合は、
(2)「マイナスの結果」→「プラスの希望」
というものが表されていて、(1)とベクトルの向きがまったく逆なのです。
そこにも違和感を感じるのではないでしょうか。
あ、もうひとつ、原因が見えてきた「負けてはしまった」「逆転されてはしまいましたが」の共通点は、「は」のあとに「しまった」というマイナスのイメージの完了の意味を持つ言葉がくっついている点ですね。これも、「は」がは入り込むには適さない条件なのではないでしょうかね。
さらにもう一つは、「逆転されてはしまいましたが」の違和感は、「逆転されてしまいました」という言葉の一体感。つまり、間に何か助詞を挟み込む隙間がないと感じるところにもあるのではないでしょうか。
まだあります。この「逆転されて」の「て」です。「は」の前に「完了」の意味を持つ「て」が来て、「は」の後の部分にも「しまいました」の「た」と「完了」が来る。「は」の前後に「完了」の意味を持つ言葉が分断されるところにも違和感があるのではないでしょうかね。
ただ、「されて」の部分を「する」という動詞に置き換えてみると、「してしまった」になりますが、この場合「して」と「しまった」の間に「は」が入って、
「してはしまった」

でも違和感はありませんね。なぜか?・・・・わかりません。
結局、何か原因らしきものはいくつか挙げられたのですが、「なぜおかしいのか?」という「決定的な原因」は、つかめませんでした。そもそも、
「何もおかしく感じない」
という人も多いのではないかという気さえしてきました。
どうでしょう?「負けてはしまった」「逆転されてはしまった」はおかしいのか、おかしくないのか?皆さん、ご意見お聞かせ下さい。

(追記)

そうそう、そもそもこの文章の最初の方に、私は、
「期待されてはいたものの」
という「は」の入った文を書いていますが、これはどうでしょうか?「されて」と「いた」の間に「は」が入っているのですが。この場合は、後ろの「いた」が自立語ですから大丈夫ですよね。しかも(1)の「プラスの期待」→「マイナスの結果」にも当てはまるし。よしよし 。

2003/9/6


◆ことばの話1386「晩年は・・・」

いやあ、強いですね タイガース!ついにマジック5です。
その9月7日の対横浜ベイスターズ戦の試合を見ていたところ、実況アナウンサーが解説の福本豊さんとの話の中で、こんな事を口にしました。
福本「全盛期を過ぎた大ベテラン選手の処遇というのはなかなかむずかしいものですからね。」
アナ「福本さんも晩年は、そういうことがありましたね。」
福本「・・・・・・」

このあと10秒近く、解説者からもアナウンサーからも、声が聞こえず、甲子園球場のノイズだけが聞こえてきました。
アチャー・・・という感じでしょうか。
アナウンサーとしては 「選手生活の最後の方」という意味で「晩年」という言葉を使ったのだと思いますが、やはり適当な言葉とは思えません。聞いていて、
「無神経で失礼なことを言うなあ・・・」
と思いました。視聴者にそう思わせてはダメでしょう。
その空白の10秒の後に口を開いたのは、当のアナウンサー。
アナ「まあ、打順を1番から9番に落されるというようなこともありましたね。」
これを受けて、ようやく福本さんも口を開いていましたが、やはり気まずい空気が画面にも漂っていました。
アナウンサーと解説者は気心が知れた仲間だと思いますが、やはり「親しき仲にも礼儀あり」、という言葉を忘れないようにしたいものです。

2003/9/7

(追記)

こう書いてから、「もしや・・・」と思ってインターネットで、
「選手生活、晩年」
の2つをキーワードで検索してみたところ、なんと、5720件も出てきました。つまり、
「選手生活の晩年」
という言葉、使い方は定着していると見てもよいのです。
しかしそれはあくまでもインターネット上で、文章として使われるケースであり(もちろん本人に対して伝える文章ではなくて)、本人を前にした話し言葉で使うかどうか、というのは別の話だと思います。

2003/9/10
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